連日のように桁外れの集中豪雨が続いています。7月23日には、世田谷区も1時間に100ミリもの雨に襲われ、床上浸水や路上冠水等の被害が出ました。この時、私は視察中の宮城県気仙沼市内にいて、被害状況の把握のために区役所とやりとりをしていました。ところが、その4日後には、気仙沼市内も豪雨に見舞われて、住宅などの浸水被害や道路冠水が起きました。
震災のとき、気仙沼市役所は少しだけ坂道を登る高台にあって、津波を免れたそうです。市役所の分庁舎として使われているのが築100年という、かつての女子校の木造校舎で、地震にも耐えたと聞いて驚きました。
世田谷区からは4人の職員が気仙沼市に、5人が南三陸町に長期滞在して、復興支援に当たっています。
気仙沼市では警察署があったところに職員寮がつくられ、職員たちはこの春から町中に住めるようになったそうです。4人は固定資産税評価、防災集団移転、環境評価、企画などの分野で働いていました。漁港の水揚げ量は、震災前に及ばないものの回復傾向で、新鮮なカツオやマヅロ等が市場に入るようになったそうで、明るい兆しもかすかにのぞいているようです。
南三陸町では、世田谷区からの派遣職員は20キロ離れた内陸部から車で通勤しています。この春交替した1人を除く4人が2年目に入り、総務、観光、建築、土木とそれぞれの仕事も蓄積しているようです。初めて「高台移転」のプランを見せてもらい、もうすぐ造成工事の着工式が始まるとも聞きました。
福島にはじまり、気仙沼市、岩手県陸前高田市、南三陸町とめぐった被災地訪問の最後は宮城県東松島市。驚いたのは、97%という同市の「がれきリサイクル率」です。
「10年前の宮城県連続地震の経験があったので、すぐに分別をすることにしました」
阿部秀保市長によると、なんと19種類に徹底して分別し、再資源化することによって売却した収入は4億円を超えたとのことでした。
東松島市では、外部からの力も積極的に受けいれて復旧から復興に向かう道筋を描こうとしているのも特色です。
たとえば、震災直後に車に物資を満載して駆けつけた、世田谷区出身の中村健司さん(34)。津波による犠牲者を出した野蒜(のびる)小学校をボランティアの受け入れ拠点として市から借りうけて、3回目の夏を迎えています。
たとえば、作家のC・W・ニコルさん。山の中にツリーハウスを建てるなど、「森の学校」をつくるプロジェクトを進めています。
たとえば、震災直後に支援を表明したというデンマークのフレデリック皇太子。実際に現地に足を運んだ後も、国をあげて支援を続けているそうです。
そして、世田谷区在住の歌手、石川さゆりさん。震災直後にスタッフと共に被災地を巡り、この東松島市で漁師たちに歌い継がれてきた「浜甚句(はまじんく)」が消滅の危機にあることを知ったそうです。歌える人が何人も亡くなるなどしたため、古老の歌を採譜して保存し、伝承するために動き出しました。
7月24日に開かれた「復興支援シンポジウム」(大塩市民センター)で、石川さんは「浜甚句」を織り込んで生まれた「浜唄」を歌ってくれました。その歌声は、いまも仮設住宅などで暮らす大曲浜の人たちの胸に届いたことでしょう。私の胸にも強く響きました。
会場となった大塩市民センターは海岸から離れていたため津波の被害を免れたものの、震災直後は避難所となりました。会場に集まってくれた人たちの中には、避難所での日々を思い起こした方も少なくなかったようです。
世田谷区では、「東日本大震災復興支援金」を発足させて2年がたちました。支援のあり方も被災地の実情にあったかたちを考えていきたいと思っています。あの震災はまだ、終わっていないのです。
1955年、宮城県仙台市生まれ。世田谷区長。高校進学時の内申書をめぐり、16年間の「内申書裁判」をたたかう。教育ジャーナリストを経て、1996年より2009年まで衆議院議員を3期11年(03〜05年除く)務める。2011年4月より現職。『闘う区長』(集英社新書)ほか著書多数。
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