姿位の整体ノート《姿位、手技研、半覚醒、錐体外路系》

                                                                                                                                                                                                 

このノートは今から20年ほど前に書き始め、その当初は手を加えていたのですが、今はまったくありません。

オステオパイシーの間接法と神経反射を主軸としたものです。半覚醒状態にもち込んでいくことだけがミソの論旨です。あとは身体がかってに治してくれるという乱暴なものです。手技研を身につける前にやっていたものです。今でもこの主張は変わりません。私の手技研はこのベースがあったからこそ身につけられたと思っています。

最近はこの延長線上に感情の発露をともなわないS.E.Rを使っています。矯正と組織の弛緩に役立てています。しかし今となれば言い回しもチョッと大仰で気恥ずかしく、解剖的内容も杜撰というよりほとんどフイクションに近く、親父ギャグふんぷんの代物です。しかし定型となった手技を身につける以前に、思いつきであれこれやっていたことが、くしくも定型化につながっていった、つまり定型とは自然発生的なものであるということを知っていただきたいために、物笑いを覚悟で掲載しました。当分、改稿はありません。スミマセン。手技療法に全く無関心だった人が、興味をもたれる一助にでもなれば幸いです。m(><;)m

なお、第二章は、マニュアルに触れる部分を一部削除しました。なお、このHPを利用することにより生じたいかなる結果につきましても、著者は、一切の責任を負わないことをご了承願います。

 

 

 

手技療法家をめざすための心得と基本テクニック

ノート目次                                            

第一章 これまでの手技療法との違い

■オステオパシー間接法が闢(ひら)くもの ■頭蓋仙骨治療が闢(ひら)くもの 身体が自ずと整体される光景  ■この整体の優れた点 ■手技療法は、慢性疾患を原則として施療する ■どんな手技療法も骨格修復をメインとする  ■体表に刺激を与える手技療法は、習慣性を生む 身体に良い手技療法は、自然治癒力の誘い水  ■改めて手技療法の原点を問う

 

第二章 テクニックとは何か

―テクニックとそれを生み出すテクニック以前―

居眠り中の骨格修復の誘発、実験前半 いよいよ実験開始である 実験後半 実験の型は、症状の軽い人におこなう 居眠りを誘発させるための基本 実際の臨床は、猫背修復から始めよう 胸椎~後頭を支えて骨格修復を誘発しょう 実際の臨床は教科書通りに行かないことが多い 後頭骨を支えて硬膜管を開放させよう  補足操作、頚椎一番の回旋偏向修復の必要性 頚椎二番の位置を知ろう 頚椎二番の回旋偏向の判別法 頚椎一番の回旋偏向の修復法1 『間接法』

 

第三章  テクニックに必要な概念

―身体をイメージ化する―

頚椎一番の回旋偏向の修復法2 『頚椎全体の偏向を深めることによるバリエーション』 『操体法』と『体性感情解放』 と『活元運動』 腰痛を考える イメージとしての硬膜管 気か気功か 呼吸に合わせた手の触れ方 居眠り誘発のための、幾つかの心得 どうしても居眠りに入らない場合 再度、居眠りのために 居眠りを誘うために、体のゆがみを検査しよう 居眠りに入らない最大の原因 半覚醒状態を見分ける方法 半覚醒時における操作の心得 深い半覚醒状態に入っている時の操作法 脳脊髄液流出のリズムとは こんな人には、お酒を飲んでもらって居眠りしてもらおう。 姿位の整体適応症状 身体の捻れと痛み 居眠りの復権 脊柱が捩れると、身体は歪む 仙腸関節の捻挫 身体の重心移行と仙腸関節の捻挫 硬膜管の捩れと環椎後頭関節

 

                                                             

         第一章  これまでの手技療法との違い          

 

           オステオパシー間接法が闢(ひら)くもの

空前の癒しブームである。しかし、私たちの本音は癒されたいのではない。この身体を治してほしいのだ。しかし治せる者がいない。よって、やむなく癒しに甘んじているだけなのだ。基本的におかしくなった身体を疲労回復のテクニックでお茶を濁されているのが昨今の癒しブームである。場違いの技術を施された身体はますますおかしくなってくる。それはますます癒しを求めることになる。いわゆる『癖、中毒』と称せられるものである。そういう状態に陥った身体は三日と空けず、身体を揉んでもらいたくなる。三日と空けずそんなことをやっておれば、皮膚は、揉みで肥厚し、揉みの圧痛を緩衝するために皮下脂肪が付き、精彩のない身体になってしまう。

身体が基本的におかしくなるとは、骨格がゆがむということである。このゆがみを取るテクニックを持たない技術にかかると、身体は新たなゆがみを上乗せされることになる。先述の『癖、中毒』の要因でもある。

整体とは、本来、このゆがみを取る技術をさす。(ボキボキと骨を鳴らすことだけが整体ではない、それは整体の一派(カイロプラクティック等)であって、骨を鳴らさないで身体の歪みをとる整体術は、古くから多く存在する)。しかし、昨今の整体に、この本来のものをさすのは少ない。現在、整体という用語は、無免許マッサージの総称として使われているのがほとんどである。『マッサージ』という語は医事用語であるため、国家資格を有する者しか、この用語を使っての開業、施療行為をしてはいけないと法に定められてある。無資格で、この用語を使って開業、施療すれば医事法違反である。

国家資格を取得するには、高等学校卒業後、三年間、専門学校に通わなければならない。この三年間の学業、時間、費用を省いて、一足飛びにマッサージの開業、施療をしたい者が、この整体という語を使うのである。マッサージではない、整体だと言い逃れができるため、違法とはならない。この言い逃れができるのは、整体とマッサージのテクニック上の違いが法的に整備されていないからである。それをいいことにして、『マッサージ』という医事用語を使わずに整体だと言って、『マッサージ』ができるのである。この法的整備の問題については、後で述べる。

マッサージテクニック向けの整体の専門学校がある。期間は長くて半年から一年である。三ヶ月のところもあれば、一ヶ月のところもある。整体は医事用語でないため、整体と称してマッサージテクニックを業としても、文句の言われる筋合いはない。しかもテクニックは、3年間みっちり学業とテクニックを学んだ正規のマッサージ師らと何ら遜色はないときている。マッサージというテクニックは本来素人でもできるものであるため、現場で鍛え上げることによってしか高度な技術は身につかない。学校で学んだことは、三年間も三ヶ月もたいした違いはない。よって整体の専門学校は大繁盛し、無資格のマッサージテクニックを持った整体師が粗製乱造されるのである。昨今の癒しブームは、これら無資格の整体師らによって支えられているといってよい。

私が、ここで問題にしたいのはマッサージテクニックの資格、無資格のことではない。マッサージテクニックしか持たない無資格者が、整体師と名乗ることにより、本来の整体が貶められていることである。

『整体』という呼び名には、マッサージとかの揉み療治とは一線を画する意味合いがあった。マッサージよりワンランク上のものとして扱われてきた経緯がある。日本には、古くから整体術と称せられる骨格矯正術があったのであり、その技術分野は今も、素人には近寄りがたいものとして一目置かれてあり、その諸氏方は、伝統の灯を消すこと無く、技術の研鑽にいそしみ、活躍されているのである。にもかかわらずその分野が、骨格矯正術も知らない無資格マッサージ師の跋扈する分野として凋落しつつある。

『整体』と標榜されれば、それを享受する者は、襟を正すものを感じた。ところが現実は何と、稚拙な無資格マッサージだったとは。噴飯ものとはこのことである。

しかし、いかに噴飯ものといわれようと、羊頭狗肉呼ばわりされようと、無資格マッサージ師が整体師として跋扈するかぎり、整体ないし整体師は、本来の治療系からはずされ、癒し系とみなされ軽んぜられてゆく。手技療法に有資格制度を持ち込んだとき、整体は蚊帳の外に置かれたといってよい。整体を有資格制度から除外したのは、結果的に西洋医療の牙城を守るためだったのである。往年、整体は西洋医療と互角に渡り合える治療技術だったのである。無資格マッサージ師は、虎の衣を借る狐のごとく、整体師の呼び名を利用して跋扈している。

このノートは、本来の整体は何を目指しているものなのかを、一つの整体術をとおして知ってもらい、手技療法に携わる方々の技術向上に寄与しようと思うものである。特に無資格マッサージ師でありながら整体師という肩書きで、マッサージを行っている方々にそれを強く望む。何の免許も要らない整体師という肩書きで、免許が必要なマッサージをやることは違法である。しかし、これは本人が悪いのではない。質の高い整体を教えてくれるところがないことに問題があるのである。整体の専門学校とはいえ、実技内容はマッサージだと聞く。また、整体そのものを教えるところであっても法外な費用がかかると聞く。

しかしやがて、無資格整体師が、これまでのようには、マッサージができない日が必ず来る。それは、整体師がこれまで、そういうことができたのは、マッサージテクニックと整体テクニックとの違いが法的に整備されていなかったからである。がしかし、昨今は自治体ごとにその違いを法的に整備し、整体師がマッサージ行為を行ったとして検挙し始めている。そのうち国レベルでの法の整備が行われ、整体師を名乗るものが、マッサージを全くできなくする日が来る。では、整体とマッサージは何が違うのか、そのことも、このノートから汲み取ってもらいたいと思っている。

 

すぐれた手技療法家が身につけているテクニックは、ただ一つの原理に基づいている。それは、オステオパシーの間接法に基づく原理である。この原理だけが身体を弛緩させ毀損することがない。

関節の矯正法には、直接法と間接法とがある。直接法とは、関節の一端が、右から左に変位しておれば、矯正は、その一端に左から右への衝撃(アジャスト、スラスト)ないし持続圧を加えることによって元通りに修復させる。これは、誰でも思いつく発想である。カイロプラクティックは、その系列に位置する。

間接法とは、その逆であり、関節の一端が右から左に変位しておれば、その変位がさらに深まる方向、つまり、さらに右から左にその一端を緩やかに推し進める方法である。推し進められた一端は、正常位に向かってぶり返してくる。つまり、変位が限界まで推し進められたとき、その一端は逆モーションを起こすのである。これは、素人には発想できない。身体の生理的動きを熟知したものでないと及ばない考えである。

すぐれた手技療法家のみが、この原理とこの原理を敷衍したものを使っている。橋本敬三博士の『操体法』しかり、ジョン・E・アプレジャーの『頭蓋仙骨治療』『』しかり、Dr. L.H. Jonesの『スレーン&カウンターストレーン』しかりである。

今ここで、敷衍云々と言ったのは、オステオパシーでいう間接法は、一関節のみに照準をあて、なされる矯正法である、が、上記三氏のテクニックは、一関節のみにねらいを定めるのではなく、それに隣接した関節、及び連続した関節を一括して照準領域に入れ、行うからである。

間接法の名人は、一関節の矯正のみで、症状を取り除くことができる。たとえば、腕の挙上がままならなくなった時、肩鎖関節の矯正のみで、肩の正常な動きを回復しうる。また肩の挙上がままならなくなった原因に、肩鎖関節の変位、頚椎一番の変位、頚椎五番の変位等が関与していた場合 、それらの関節を、一つ一つ逐一、矯正することによって肩の動きを正常に復せしめる。

オステオパシーの間接法は、あくまでも一つ一つの関節にねらいをさだめると言っても過言ではない。それは症状の原因を明白化することでもあり、治療時間の短縮化でもある。三つの関節を逐一矯正したところで、ものの十分とかからない。

しかし、この名人芸は、一朝一夕で獲得できるものではない。

目的とする関節のみをシビアにねらうのではなく、その関節を、隣接した関節及び連続した関節として一括して照準をあわせ、行う方法はアバウトなやり方だと言える。アバウトなぶん、治療時間は長くかかるが、それほど力量のない者でも、遜色のない治療効果を上げることができる。この手技療法は、そういうところに成り立っている。

 

オステオパシーの間接法を敷衍したところにジョン・E・アプレジャーの『頭蓋仙骨治療』『体性感情解放』、Dr. L.H. Jonesの『ストレーン&カウンターストレーン』等のテクニックがあると先述したが、そのアプレジャーのテクニックを、敷衍というか脇道にそれたところに以下、このノートに記したテクニックがある。ベースはあくまでオステオパシーの間接法であるが、そのベースに半覚醒意識と身体のパルス的動きがキーワードとして加わる。

半覚醒意識とは、読んで字のとおり、眠気の混じった意識状態というか、瞑想に入っているような意識状態である。居眠りに近い意識状態といっていい。最近流行のスピリチュアルで言う、変性意識に近い。この意識状態のとき、全身の筋肉の基本的緊張(筋トーヌス)は解けている。ここで述べる手技が功を奏するには、必須な意識状態であり、この意識状態をつくりだすのが一つのテクニックでもある。

パルス的動きとは、ピクピク、カクカクとした身体の自動的動きである。それは、あたかも自己自身で一つ一つの関節をアジャストメントしているかのような動きである。半覚醒意識のとき、何もしなくても、ほとんどの者に僅少ではあるが、現れる。この誰でも、持っている動きを、より振幅の大きいものに出現させるのがこのテクニックのねらいである。これがこの手技の特記すべき2点である。

この半覚醒意識とパルス的動きの出現によって、アバウトな間接法も功を奏する。アバウトな間接法もこの半覚醒意識とパルス的動きによって確実な骨格矯正が行われる。この2点の出現ということは、このテクニック独自のものか否か、何ともいえない。あまりにも明白な事実のため、誰も何も言わないだけなのかもしれない。が、あえて白日のもとにさらしてみた。これまで、オステオパシーのセミナーには十数回受講したが、半覚醒意識とパルス的動きについては、ついぞ聞いたことがない。しかし、『操体法』を新しくバリエーション化したものを紹介している書物に、私がここで述べているのと同種の意識、動きが出現することが述べられてあった。すぐれた手技療法の極まりは、同一次元に達するということであろう。しかし、そこにもこの意識と動きの因果関係について明確なことは記されてはいなかった。あまりにも自明なことなのであえて記さなかったのかもしれない。

また、整体の草分け的存在である野口晴哉(のぐちはるちか)は、弟子の、『治療中、体が動くのはなぜですか』という質問に、彼は、それは悪いところが動くのだと答えている。悪いところとは、関節の変位しているところであろう。いずれの例も、自動的骨格矯正(セルフコントロール)という因果関係がそこに展開していると言えよう。そしてこの2例からも、私のこの療法が、ごくありふれた生理現象を手がかりに組み立てられていると認識できよう。

                                                                           ノート目次        

 

頭蓋仙骨治療が闢(ひら)くもの

 

曲がりなりにも、20年間、頭蓋骨と仙骨をメインとした手技療法をやってきた。頭蓋仙骨治療をやってきたとは、おこがましくて言えない。それは、頭蓋骨と仙骨を治療すれば『頭蓋仙骨治療』だ、というわけにはいかないからだ。

アプレジャーの提唱する頭蓋仙骨治療には、二方向ある。一つはCST(CrenioSacralTherapy)いわゆる、頭蓋仙骨治療、もう一つはCSF(CerebroSpinalFluid )すなわち脳脊髄液の流出リズムを感知しながら行う療法である。CSTは従来の頭蓋仙骨治療をアプレジャー的にアレンジして行うテクニックであり、彼独自のものではない。それに比し、CSFを感知しながら行うテクニックこそ、彼の独創といえよう。

20年間やってきたものは、形こそ頭蓋仙骨治療に似ているが、内実は、似て非なるものである。つまり、CSTでもなければ、CSFでもないというわけである。頭蓋仙骨治療もどきとでも言うべきかもしれない。

しかし、この似て非なるものには自負がある。正真正銘の頭蓋仙骨治療には、勝るとは言わないまでも劣るとは思わない。それは、治験例もさることながら、形こそ異なるとはいえ、奇しくも同一方向に向かっているであろうという自負である。同一方向とは、CSFリズムの正常化である。

ジョン・E・アプレジャー博士がどういう方かも知らず、ジョン・E・アプレジャー著、目崎勝一訳の『頭蓋仙骨治療』を読み、感銘した。未知との遭遇…という思いであった。幸運にもアプレジャー来日のセミナーに参加することができ、実際に博士から治療の手ほどきまで受けさせていただいた。それは、本を読んだ感銘どおりのものであった。爾来、頭蓋仙骨治療を手さぐりで追いかけてきた。生来の狷介ゆえ、考究の徒も作らず、独断と偏見のなかで掴んだものは、CSFのリズムならぬ、半覚醒意識と姿位との連携ということであった。そしてこの連携がもっとも功を奏するのは、仰臥で後頭骨を支えた姿位を設定するときであった。手技療法が対象とするほとんどの症状は、ただこれだけで緩解できるという自信がある。ただ、この設定にいたるまでには幾ばくかの時間を要し、その時間の中で、半覚醒意識に導く何がしかの余分な手技を施す必要があるということである。必要とする最少の治療時間に比し、時間的ロスは否めない。それが、このテクニックの唯一のウイークポイントといえる。

なお、その余分な手技にはなんら目新しいものはない。ただ、可能なかぎり無刺激なものであるほど、功を奏する。(無刺激なものとは、押す、揉む、伸ばす、アジャストメント等以外の軽微な外的刺激をさす)。

したがって(この余分な手技は無刺激であるがゆえ)、この余分な手技が本当に必要かと問われれば、否と答える。なぜなら、患者がこの療法を一二度受けた後、次回、余分な手技を加えず、いきなり後頭骨の姿位設定から始めても、治療効果は成り立ち、しかも前回以上のものになるからである。余分な手技は、可能な限り使用しないほうが、本来のものが際立つ。

この療法には、このような、いま少しの峡雑物があるといわねばならない。この峡雑物が取除かれるのは、CSFを直ちに実行することにおいてしかないであろう。

つまり、CSFの正常化にいたる手順には、CSFの感知を筆頭にいくつかの方法があり、この手技でいう姿位の設定もそのひとつに挙げられるということである。 

この手技において、この余分な手技を削ぎ落としてゆくことが、CSFの感知をより直近なものにするであろう。しかし、CSFの感知でもって臨床を終始することは、人口に膾炙されているほど容易ではない。その証拠にCSFの感知を自認する者の多くが、癒し系の域を出ないか、または、カイロプラクティク、鍼、指圧、整体等の手技の付け足しに使っているのがほとんどであることからもうかがえる。つまり、多くの者は、それを治療の『技』として使えないのである。教科書と臨床の間には大きな隔たりがある。

長年追い求めてきたCSFの感知は、目睫の間に広がっている感がする。『この感触がCSFなのでは…』と。しかし、いかんせん、その感触から、頭蓋仙骨治療(CSF)を行うことができなかった。その感触を確かなものにしようとしているうちに、手がおのずと姿位設定に引きづり込まれ、パルス運動を惹起するに至ったのが、この療法である。完璧な姿位設定とCSF停止との感触とは、同一硬貨の表と裏である。にもかかわらず、停止どころか、この動きは…。

それはこの療法が、まだまだアバウトで、アプレジャーの言う、頭蓋仙骨治療ほどの深みに至っていないのかもしれない。つまり、超一流の治療法ではないということであろう。それは、考えようによれば、超一流の道に向かっているともいえる。

この療法は、アプローチの仕方が異なるとはいえ、アプレジャーの頭蓋仙骨治療を基幹に据えているものである。アプレジャーの頭蓋仙骨治療のもっとも大きな特色は、筋・骨格系の開放のみならず、脊柱を貫く硬膜管の開放により、脳・脊髄神経の開放にある。頭蓋骨と仙骨に触れるのは、その手段である。しかし、この療法のように、必ずしもそれらに触れなければ硬膜が開放されないというものでもない。

 

このノートの読み方には二通りある。一つは、CSFの感知を臨床的に把握するとはどういうことなのか、そのヒントをえるために。もう一つは私のように姿位設定だけの臨床家になるために。いずれも硬膜を開放する。

この療法の独自性を主張するつもりはないが、論を進める上での煩雑をさけるため、便宜上、この技法に名称をつけることにした。このノートのみに使われる呼称である。『姿位の整体』である。

                                                                       ノート目次                            

            身体が自ずと整体される光景

 

電車の中で、こんな光景を見たことがあるだろうか。

座席にすわり、鞄を膝の上に載せ、両手で押さえたまま居眠りしている乗客。その乗客がどうかしたはずみに、ビクッと肩をゆすったかと思うと、その弾みで、思わず鞄を床に放り投げてしまっているのを。

 なぜ、居眠り中、肩がビクッと揺すれたり、腕がポーンと挙がったりするのであろうか。首をこっくりこっくりと、前後に船をこいでいるのとは、まったく違う。首をこっくりこっくりと船をこぐのは、『姿勢反射』といって、身体が起立姿勢を保とうと、無意識のうちにも錐体外路系運動神経が働いているという、生理現象である。

『姿勢反射』は、どこか反復的である。身体ないし首が倒れ込もうとして、限界まで行ってひょいと起き上がる、その繰り返しである。ところが、私がここで指摘している居眠り中の、素早い小刻みな、そして時折り大振りな動きには、反復性はない。思わず、ビクビクと腕が振動したり、子どもがまるで、嫌々と駄々をこねているかのように肩が激しく揺すれたり、時折、断続的に現れる『パルス運動』なのである。明らかに『姿勢反射』とは違う。

 電車の中では、他の静止した場面での居眠りと違って、電車の揺れがこういった動きを、殊に惹起しているであろうことは否定できない。

 がしかし、それにしてもである。こういった生理現象は、何も電車の中だけとは限らない。授業中や、会議中の居眠りでもこういったことはよく起こる。時、所を選ばず、居眠り中に起こる、この共通した生理現象。これらはいったい何を意味しているのであろうか。

 この手技療法の発見は、これらの生理現象が何を意味しているか、その意味を知ったことから始まった。その意味とは、『身体は、居眠り中に、自己の諸関節、脊椎の偏向(変位)等を自動的に修復させる』ということなのである。特に電車の中では、電車の揺れによる手足の動きが、偶然にも、骨格の偏向を修復させやすくなるような関節の『姿位』を定め、それが他の居眠り条件のときよりも、椎骨や諸関節の修復をより大きく誘発しているのではないかと思われる。居眠りで、疲れが取れるのは、居眠り中、骨格の変位の自動修復が行われるからに他ならない。しかし、それだけでは身体の痛みは取れない。なぜなら、居眠り中の骨格修復は、深度が浅いからだ。身体の痛みを取るためには、居眠り中の骨格修復を人為的により深いものにする必要がある。ここに、『姿位』の設定が必要とされる。これがこの療法のねらいである。

 

 

この光景において、キーワードは、3点である。一つは、深い睡眠中ではなく、浅い眠り、つまり居眠り中であるということ。一つは、手足の動きにより、修復されやすい姿位の設定。最後はパルス運動である。終わりの二点については、今後、順を追って論を進めてゆくことになるが、今はともかく、居眠り中における身体の動きは、骨格修復なのだという大前提の提示である。

 

提示とはおこがましい、と一蹴されそうである。しかしここには身体の、のっぴきならない問題が潜んでいる。

いかに取るに足らない現象であれ、その背景には理論化されてしかるべき体系がある。骨格の歪みは、万病を引き起こすという指摘は、遠の昔から、心ある西洋医学者によって指摘されている。

この提示は、新たなる治癒系を発掘するはずである。

 

 

現在、多くの手技療法がある。技術の進展は、かってのものに比べ、さほど差違があるとは思われない。しかもどこか、小手先だけの枝葉末節に偏している感は否定できない。技術の根幹を糾すようなものが顕れていない。

  居眠り中のこの生理現象は、骨格の修復であると直観して以来、この現象を治療の中で再現することができないものかと考えた。人為的に患者を居眠り(半覚醒意識)状態に誘導してゆき、人為的に身体をピクピク、ガクガクと動かせたらと考えたのである。 この生理現象を手技療法として生かせたら、これまでにない、まったく新しい手技療法が成立するのではないか。これまでの手技療法とは、身体を揉む、押す、骨をボキッと鳴らす。手足を屈伸させる。おおかたこういったところである。これらのものに比し、今ここで述べようとしていることは、全く次元を異にする。その岐路となるキーワードは、半覚醒意識と姿位の設定である

先に、深い睡眠ではなく浅い眠りであることが重要であると述べたが、浅い眠りとは半覚醒意識のことである。居眠りといい、まどろみといい、それらは半覚醒意識というグラウンドに生起する生理現象である。それは、傾眠と言ったほうが生理学的には正しいのであろうが。

このノートでは、半覚醒意識と居眠りとにはさしたる区別はつけていない。文脈の状況に応じ、使い分けてある。

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この整体の優れた点

 

痛み、凝り、しびれを伴う身体のトラブルのほとんどは、骨格変位に由来する。したがって、これまでの手技療法は、患者の体表に外圧を加えることによって、その変位を正そうと試みてきた。しかしその試みには、身体を毀損させるかもしれぬという危惧が常に付きまとっていた。だから、その技術の習得にはかなりの年月を要した。一朝一夕では習得できないのである。また、もし仮に習得したとしても、身体を毀損させるかもしれぬという、万が一の危険はぬぐえない。それは、外から体表に外圧を加えるという療法の宿命でもある。

 

 もし、この生理現象を治療として生かすことができれば、患者の体表に、外から椎骨や諸関節の修復を施すという骨格修復術はいらないことになる。しかもとびっきり、安全で正確無比ときている。

 なぜ安全かといえば、体表に外部から外力を加えない。

 なぜ正確無比かというと、骨格の正位置を寸分の狂いもなく把握しているのは、当の身体だけだからである。本人ではない、身体なのだ。本人と身体、この微妙なニュアンスの違い。本人さえも気づかない身体のトラブル。それは身体だけが知っている。そいつが骨格のアライメントの狂いを正してくれるのだから、こんな凄いことはない。どんな名人がやって来たって、足元にも及ばない。

 

 体表に何らかの刺激、加圧を与えることによって成り立っている手技療法は、身体を毀損させるかもしれぬという、万が一の危険から逃れることはできない。患者もまた、その恐怖を心底に抱いて施療を受けることになる。それは、心を全開にしてリラックスすることがない。リラックスせずして施療を受けることは、施療効果の寡少は免れない。

 その種の手技療法師が、技を磨くということは、相当な努力が必要となってくる。しかも、名人といわれるまでに、一体何人の患者を、人体実験のごとく犠牲にすれば、ことが済むのだろう。整形外科では、その種の手技療法に身体を毀損された患者が多く外来するという。

 もともと基本設計が不完全な療法なのだから、そんな欠陥設計の技を磨いてもあまり得るところがないと思われる。

 

 手前味噌であるが、この療法は、基本設計そのものが、ほぼ完成の域に達していると思っている。極端な話、運転席に座るだけで、勝手に車が目的地まで行ってくれる、そういう近未来の車を想像していただけたらいい。 そういう車は、運転の技術を磨く必要がないわけだ。そのように、この手技療法は、さほど技を磨く必要がない。患者の半覚醒意識を呼び起こし、後は、軽く腕を動かすだけで、身体のほうで勝手に、骨格を自動修復してくれるのである。

 腕を動かすのすら、面倒くさいというのなら、動かさなくたっていい。後頭骨を支えているだけでいい。

 しかし、それすらも面倒くさいというのなら、以下の説明はいかがだろう。

 コンピュータは、使い慣れるに従い、使用者の意思をくみとって、意思に沿うように手順をおのずと設定し、目的を創出しやすくしてくれる。そのように、この療法にあっては、受療者は、施療者の意思を非意識のなかで察知し、汲み取る。そしてその意思に順応しようとする。具体的に言うと、受療者が数回この療法を受けると、施療者が、横たわっている受療者のそばに近づいてくるだけで、受療者は、なぜか眠たくなって来、身体がひとりでにピクン、ピクンと動き出すようになる。断っておくが、何か言葉で暗示をかけているわけでは決してない。

このことを皆さんはどう思うであろう。これは、この療法の優れている点である。しかし、この療法独自のものではない。優れた療法に付きものの現象である。先述した『操体法』の新ヴァリエーションもその類である。実は、私も施療者が近づいてくるだけで、上記のような動きが勝手に出る。しかし、私の場合、施療者は、この姿位の整体をやるものではない。このホームページの最初の項に紹介した『手技研』を施す人である。『手技研』のテクニックにもいくつかあり、顎の下に指を立てるのは、そのうちのひとつでしかない。その施療者は、腰痛を手首の矯正だけで解消させる。私は腰痛の治療と勉強のためにその人の処へ行くことがある。最初はとても不思議であったが、今は不思議でもなんでもない。なぜなら、今はその人が別にいなくても、勝手に自分のからだを無意識的、付随意的にピックン、ピックン動かすことができるからだ。話がどんどんそれて申し訳ないが、これは整体の草分けである野口晴哉(のぐちはるちか)が提唱した『活元運動に相当する(活元運動については後述する)。

 

話をもとにもどそう。以上述べたように、すべての優れた手技療法に共通する普遍性をこの療法もまた備えているのである。

この身体が勝手に動くということをもう少し説明しよう。

施療者が近づいてくるだけで、こちらが何もしないうちから、勝手に身体の方で、骨格の修復をやりはじめるのは、ものぐさ太郎にとってはもってこいではないか。感受性の強い受療者は、数回この療法を受けるだけで、まるで千載一遇のチャンスを逃すまいとするかのように治癒本能が剥き出しになるからだと思われる。それは、パブロフの犬のような条件反射にも似ていよう。

施療者の接近~条件反射~半覚醒状態~パルス的動きというコード進行が身体の中からアウトプットされるからであろう。トランス状態に入りにくい、かなり感受性の鈍い受療者でも、受療回数を重ねるごとにだんだんそんなふうになってゆく。

 これは施療者が施療のために近づくという場面設定がなされたとき、その施療をより効率のあるものにしようという身体の条件反射が働くのであって、施療者がいないと骨格の自動修復がなされないのではない。こういう条件反射が働くこと自体、骨格修復力は有り余るほど旺盛になっており、施療者がいなくても骨格の自動修復ができるのである。施療者がいるのならなおのこと、このオマケ(チャンス)を逃すまいという貪欲な本能が働くのだと思われる。

体調が良くなろうとする本能がどういう時、それが剥き出されるか。それは、この者となら気の交流が謀られると感じた瞬間である。他者との気の交流が身体の賦活には一番である。生命の賦活は他者との関係の中で最高に発揮される。しょんぼりしていたのに好きな人が目の前に現れたら、とたんに元気になる。恋愛感情と、治癒本能の剥き出しということは、同一物ではないが、同一方向にある。

この条件反射は、あくまでもオマケであって、昨今、問題になっているようなマインドコントロールなんかではない。リラックスすると、錐体外路系の運動神経が活発化し、身体が勝手に動き出すのである。身体が敏感になると誰でもそうなる。身体が敏感になるとは、身体が本来の健康を取り戻したことである。こういう条件反射が生まれるような敏感な身体になる方法は、何もこの療法だけではない、ヨガ、気功、活元運動、その他たくさんある。一度習ったものは、すぐその様態に入れるのと同じことである。一度自転車乗りをおぼえてしまうと、バランスのとり方を意識しなくても乗れる。その感覚に近い。

 

こういったことは、面倒くさがり屋にとっては、うってつけのイージーな療法ということになる。早く言えば、治療がやりやすいということだ。しかしこのことは、この療法のお徳?な一面として特筆されるだけではなく、大きなことを示唆している。つまり、健康な身体とはどういうことかということである。健康とは、身体自身の持っている骨格修復力の旺盛さをいう。施療者が何もしないのに、施療者に頼ることもなく、身体がひとりでに骨格修復をやってのけるとは、身体自身の持っている骨格修復力が、これまで以上に旺盛になったからに他ならない。これまでは、骨格修復を施療者に頼っていたのを、頼らずに自己自身で出来るようになったのである。たまたま施療者が、そばに来るとそうなるのは、有り余っている骨格修復力を試したくてしょうがない。つまり骨格修復をやりたくてたまらなくなってくるからである。そのうち、施療者がいなくても、自分ひとりで不随意運動を起こせるようになる。この動きも、はじめのうちは自分の身体が勝手に動くので、何か超能力者になった気分になって動かしていたが、だんだんあたりまえに思えてきて、以前ほど興味がなくなってくる。しかし、興味がなくなっても健康であることには変わりはない。

 

昨今流行のセラピストとスピリチュアルの関係も同じである。スピリチュアルも人間本来に備わっているものである。それは常に引き出されたがっている。セラピストが現れると猛然と、前世とか守護霊が出てくる。同じことである。そのうち、セラピストがいなくても前世を出したり引っ込めたり、守護霊を呼んだり、消したりできるようになる。そのうちつまらなくなる。

いかにも、したり顔でこんなことを書いているが、私自身は、前世療法も守護霊も信じない。少し本論からずれるが、半覚醒意識(変性意識)を手がかりに手技療法をやっている以上、これについて私の立場を明白にしておかねばなるまい。

前世療法や守護霊の表出と不随意運動の表出は、半覚醒意識(変性意識)という共通の土俵に生起する生理現象である。何が違うかといえば、一方はセラピストの言葉によって暗示され、潜在意識が表層に浮かび上がってくる過程で脚本化されるのである。深層意識は、はたして本当の深層意識かどうかわからない。ほとんどは表層意識の投影でしかない。つまり、現時点での心理状況の投影である。前世の出来事とか、亡くなった父母とか、娘が、自分を許してくれるスタンスを持つのは、恐怖に駆られた心理状態でセラピーを現時点では決して受けられないからである。つまり、恐怖に駆られた心理状態ではセラピーそのものが成り立たないのである。セラピーが成立するとは、クランケが、今、現前のセラピストのもとで、まぁまぁの事なかれ主義の心理状態にあるからである。セラピストもクランケも『甘えの構造』を共有した心理状況のもとでしかセラピーなるものは成立しない。セラピストが心弱いクランケを脅して、恐怖の心理状態に陥らせたのでは、両者のコミュニケーションそのものが成り立たず、セラピーも成立しない。コミュニケーションが成り立つということ事態、そのセラピーは、肯定的な内容とならざるを得ないのである。まぁ、それが幸せというものであろう。

 

一方は、半覚醒意識(変性意識)に浸っているとき、筋トーヌスが最も緩み、筋の緊張によって固く縛られていたような状態にあった椎骨や諸関節が一気に束縛をとかれ、バラバラと投げ出されたような状態になるのである。身体の原初的動きは生命維持のリフレッシュ、ないしリセットといわれるものである。時々、身体を言葉や理性から解き放たなければならない。その動きは、昔から、狐がついたとか、霊がついたとか、ヒステリーとか言われたが、一種のストレス発散でしかなかったのである。私は、この療法を通じて、このようなデモーニッシュな動きも、身体がしている絶え間ない生命維持のための努力の一つなのだと認めてほしいと思っている。この動きをいとおしんでほしいとさえ思っている。病める者は、自分自ら、治る力におびえているところがある。それは無知というものである。

この動きに市民権を与えようと、尽力してきた人がいる。整体の草分けである野口晴哉である。彼はこのような動きを錐体外路系の運動として理論化し、文部省推薦の体育運動として国に認定させたのである。今でもそれは認定されてあり、『整体協会』をとおして、全国のあちこちで推進されている。その体育運動は『活元運動』という。余談だが、ラジオ体操は今でも文部省推薦ではない。私は、この活元運動は、お望みとあらば、いつでも行うことができる。彼に師事したのではない。彼の本を読んで、そのとおりやってみたら、突如、尾てい骨から頭頂にかけて、くねくねと突き上げるような動きが起こったのである。一瞬恐怖を感じたが、馬の手綱を放してしまったような、思わずやばい!と感じたが、その動きに身を任せるしかなく、止まるまで任せてしまった。一時はどうなることやらと、身体がばらばらになるのではないかと思われたが無事止まった。暴走するジェットコースターに乗ってる感じであった。終わって快い疲労感と不思議な感に打たれた。自分の身体の中に潜んでいるものに畏敬の念を持った。それから、気功もチャクラも、小周天もこの半覚醒意識と錐体外路系がセットになっていると思うようになった。

私は、前世療法や守護霊を信じない。それはフィクションだからだ。フィクションでも現実に作用する。小説を読んで感動し、それがまるで人生の一大事件でもあるかのように何日も考えあぐね、それで人生が変わることだってある。それに似ている。が、昨今のそれは、強靭な思考力から見えてくるものとは思われない。憑依現象と祈祷師の延長線上にあるものだと思っている。装いが21世紀的なだけである。他人が似合う服装は、自分に似合うとは限らない。私は自分の幸せの流儀を提供するだけである。言語化しない分、万人共通だと思うのだが。

 

骨格修復力の旺盛な身体は、敏感な身体とも言える。変なものをそれと気づかず食べた場合、骨格修復力の旺盛な者は、身体が勝手に動いて、その変なものを吐き出してしまう。骨格修復力の少ない者は、その変なものに気づかず、吐く作用も起こらず、数時間後腹痛、下痢に苦しみ、食中毒と診断される。それは身体が鈍いからである。もっとも、さらに敏感なものは、それに気づいて、食べることさえしない。

 この療法を数回受けた受療者は、次のようなことを決まって言う。『家でよく眠れるようになった。そして睡眠中、身体が時々、ガクガクツと動くのを、夢の中で体験する。子供の時分、よくこんなことを体験したような記憶がある』と。

 身体自身の骨格修復力が旺盛になり、自然治癒力が盛んになれば、受療者たちは、もう、こういったセラピールームに来る必要はなくなる。

骨格修復力と自然治癒力を旺盛にする。これが、この療法のねらいである。身体を治すのは、実にこの自然治癒力以外の何物でもない。自分の身体は自分で治すものなのである。この療法は、そこに至るまでのチョットの間、お手伝いするだけなのである。

 昨今の指圧、マッサージを始めとしたセラピーブームは、施療者、受療者の供依存関係を生んでいるだけではないのか。受療者は、施療者から卒業することもなく、いつまでもパラサイト化している。それは、何回施療を受けようとも、自然治癒力がいっこうに増大しないからである。むしろ奪われていくであろうと、想像がつく。

 それに比し、この療法は画期的とは思わないだろうか。

 しかし、聞き耳を持たないかも。無刺激な療法なんて、プラトニックラブみたいでつまんないと。

 しかし、今日から、やさしい人の手に触れられながら、居眠りしたまえ。深いリラクゼーションは、一人ではなく二人の関係のなかでしか生まれないということを知るであろう。つまり、深いリラクゼーションとは、他者との気の交流のことなのである。身とは他者があってこそ成り立つ有機体である。身を任せる対象があってこそ命の躍如たるものがある。しかし、依存と任せるとは異なる、念のため。

この療法を学ぶにつれ、やがて解って来るのが『気』というものである。テクニックを行使するにつけ、テクニック以前のものが身についてくる。この療法においては、気が身につくのとテクニックが身につくのとは同時進行である。

 

話が、またまた、横道にそれてしまった。元に戻そう。身体の外から骨格修復を試みるという修復術があり、それは、身体を毀損させるかもしれないという万が一の危険は免れないということであった。それゆえ、その技術をマスターするには数年の年月を要し、並大抵の努力ではものに出来ないということであった。しかも名人になるには、一将、功成りて万骨枯る、くらいの犠牲者が累々と野に積まれたであろうってなところまで話した。話は再びここから進めよう。

 万が一の危険とその恐怖にさらされながらも、この種の名人たちは、己の自負を賭けて、カッコよく、首をボキボキっとやっている。しかし、どんなにカッコ良かろうと、やはり、首の矯正はうまくいったが、以来腕にシビレが来るようになったとかいう話は、後を絶たない。

 しかし、居眠り中のこの生理現象を利用すれば、それらのリスクから開放されるのだ。いや、それどころか、これまでの修復方法以上に、効果があることは間違いない。なぜなら身体は自分で間違ったことをしないからだ。人の身体に、外から人為的に修復を施すということは、その身体のために良かれとしていることが、大きな間違いをやっているかもしれないからである。

 

 身体のことは本人も、他人も知らない。身体だけが知っているのである。俳諧の松尾芭蕉が言ったように、松のことは松に聞くしかない。そのように、身体のことは身体に聞くしかないのである。首が曲がっているからといって、首をまっすぐにする必要はないかもしれないのである。また、必要があったとしても、今!する必要がないかもしれないのである。これらは全て身体だけが知っている。姿位の設定とは、身体に今日あたり、骨格修復はいかがですかとお伺いを立てているだけのことなのだ。人為的ではあるが、強制はしない。お伺いが時期尚早であった場合、身体は何の反応も起こさない。

身体自らが行う骨格修復は、どんな名人が行う骨格修復術よりも、正確無比である。身体に骨格修復を施す時期といい、どの骨を修復するかという骨の選択といい、骨を動かす方向といい、骨を動かす力加減といい、身体の中の指令にかなう者は、誰もいない。

 

 身体は必要としたときのみ、身体自らが、誰の指図を受けることもなく、身体の骨格修復を行っているのである。体内の治癒系が正常に働く健康人はそのつど、必要に応じ、日常生活の、とある瞬間の中で、身体内で骨格修復を行い、健康の回復を図っているのである。

 居眠りのとき、就寝中、夢をみているとき、友人と雑談をかわしているとき、庭の景色をボーっと見ながら一杯やっているとき、雑念を頭に浮かべながら実務に励んでいるとき、ラジオを聞きながらミシンを踏んでいるときなど、健康人の日常意識は、覚醒意識と半覚醒意識とが常に往来している。健康人には、骨格修復をしている瞬間は枚挙に暇はないが、治癒系の衰弱している半健康人は、その瞬間を表出できないのである。その瞬間とは、半覚醒意識の湧出である。健康人は、ある条件がそろった時、覚醒意識の中に半覚醒意識が広がる。そしてまた消えてゆく。無論、同時に不随意的パルス運動も僅少ながら惹起し消えてゆく。

覚醒と半覚醒の間を揺らぎながら生活をしているのが、健康というものだ。

病める者は、覚醒意識が冴え冴えと脳を支配し、身構え、カーと目を見開き、自己保持に余念がない。その崩れることのない頑な覚醒意識は、筋トーヌスを高め、身体をガチガチに堅くさせ、身体に骨格修復の余裕を与えない。安息のない身体は必ず、ボロボロに病む。

半健康人は、居眠りの場を与えられても居眠りできないのである。この療法は、突き詰めれば居眠りできない人を、居眠りに落とす方法だとも言える。居眠りできるようになれば、健康人として一人前である。

 身体の健康のためにどんどん居眠りしよう。くだらない会議、つまらない授業、どんどん居眠りしよう。そして、居眠りしながら、体をカクカク、ピックンピックン、パルス運動させよう。

 

  しかし、会議の議長、授業の先生には心から感謝をせねばならない。なぜならその方々は、皆さんにリラクゼーションの場を主宰したからだ。リラクゼーションの場を主宰するということは、並みの才能ではできない。特異な能力を必要とする。出席者が居眠りしてしまう会議の議長さん、生徒が居眠りしてしまう授業の先生、自分に何かが欠けているなんて自信喪失しないでください。私はあなた方に転職を勧めます。ヒーラーになりませんかと。

 

 リラックスすれば居眠りができるか。ことは簡単そうだが、いざ、その設定となると、けっこう難しい。この療法を発見して以来、約20年間、この療法をやっているが、患者さんをいかにリラックスさせるか、その難しさに出くわす。患者さんをリラックスさせることは、テクニック以前のテクニックである。しかし、それはテクニックの熟練と表裏をなす。腕一本動かすことによって、その者を眠りに導けていけたら、これぞまさしく本当のヒーラーである。アプレジャーの『体性感情解放』はそういうテクニックである。この療法はそれに近い。しかし、残念ながら、近いのであって、同じとはいえない。この療法を学ぶ中から、それをものにしてほしいものである。

 

ノート目次

 

  手技療法は、慢性疾患を原則として施療する

 

  ここで、少し、身体に手技療法を施すということと、痛みの消失ということについて話してみよう。

 身体の痛みを全く経験したことの無い人というのは、極めてまれであろう。多くの人は身体の痛みを抱えて人生を送っている。腰痛、首痛、頭痛、膝痛、股関節痛、背痛等、これらは、筋・骨格系の痛みだ。次にあるのは、胃の痛み、心臓の痛み、十二指腸の痛み、胆嚢の痛み、膵臓の痛み、他まだあろうが、これらは内臓系の痛みだ。痛みは大きく分けて、この二系統に分けられる。多くの人は、これら、二系統の痛みに苦しめられながら、人生を送ることになる。

 身体に、最初に痛みが走った時、われ関せずと、悠然としておれる者は、まず、居ないであろう。自殺志願者だって、死に場所を求めての彷徨の途中、腹痛になれば、病院へ駆け込むという。

 最初の痛みは不意にやってくる。人は、恐れと不安に駆られて、病院へ駈け込む。

 ところが、内臓系の痛みは、原因がわかる場合が多いが、筋・骨格系の痛みは、原因不明とされる場合が多い。内臓系の痛みは、胃潰瘍とか、十二指腸潰瘍とか、膵臓炎とか、狭心症とか、胆石症とか、病名が冠せられ、それに応じた薬が処方されて、通院または入院とか言われるのだが、筋・格系の痛みは、医師の方は、自信なさそうである。思うに、内臓系と違って、マニュアルがないからだと思われる。処方される薬も、痛み止めか副腎皮質ホルモン剤、筋肉弛緩剤を打たれるくらいで、対処療法でしかない。薬が体内から排出されると、また痛みがぶり返してくる。そのうち、身体がそれらの薬に対し、習慣性が出来てきて、利かなくなってくる。いきおい、それらの薬の量が増えてくる。気がつくと身体は薬漬けになり、痛みは深く進行する。関節が磨り減ってくる。

磨り減った関節軟骨は恢復しない。痛みを消す最後の砦は人工関節である。人工関節は入れ歯みたいなものである。入れ歯で林檎がかじれないように、人工関節で跳んだり、はねたりできない。すたすたどころかそろそろ歩きしかできないのである。

 なぜこうなってしまうのだろう。それは、現代の医療は、救急医療が主体であって、命に別状の無い疾患に対しては、医療ということが確立していないからである。内臓系の疾患は、筋・骨格系の疾患に較べ、命に別状を来たす場合が多い、だから、筋・骨格系の疾患よりは、ましな事をする。しかし、それも、慢性化すると、やはり命に別状はないということで、救急的医療からはずされ、確立していない医療行為を施される。

内科、外科とも、薬漬け医療の惨状が取り沙汰されているのは、慢性疾患に対する医療行為が十分確立していないからである。それだけ慢性疾患は、手ごわいといえる。

 

 手技療法は、この医療として確立していない領域、つまり、命に別状を来たさない、非救急的疾患に効力を発揮することになる。言ってみれば、慢性疾患が対象ということになる。

 

どこにでもころがっている手技療法、しかしそこには、翡翠の原石だってころがっていることもあるのだ。磨かれた手技療法だけが、人を長年の痛みから開放する。

 手技療法は、筋・骨格系、内臓系、いずれをも問わない。ただ慢性疾患を対象とすることが原則である。

慢性疾患なら何でもいいのかと聞かれそうだが、そうだと応える。腰痛から癌まで、これが手技療法の対象領域である。慢性疾患というのは、どうかした弾みに、人間本来が持っている自然治癒系が衰弱してしまった身体状態なのであるから、それを活性化させてやる必要がある。

癌とて同じである。最近は、こういった手技療法をも含めた民間療法と併用した癌治療の方が、西洋医療一辺倒よりはるかに効果があると報告されている。癌も自律神経の問題だというのが最近の免疫学のようである。

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            どんな手技療法も骨格修復をメインとする                

 

 手技療法師が、筋肉の問題意識しか持ち合わせていない限り、慢性痛に対していい結果は出せない。しかも,悪いことに、薬漬けならぬ、手技療法漬けにしてしまう。中途半端なことは、癖になる。『ここをもう少し強く揉んでくれたら、治るのだが』、そんなことを言っている間に、どんどん落とし穴にはまり込んでしまう。

 どんな種類の手技療法であれ、その本質は、身体の骨格修復にある。骨をボキボキ鳴らして治療するとか言うカイロプラクティックは、その最右翼である。しかし、他の手技療法であるマッサージ、指圧、気功、オステオパシ-、その他わけのわからない(チョット失礼な言い方だが、そう言えば、私のこの療法もそのわけのわからない部類に入る)民間手技療法も、すべからくカイロプラクティックと同じ骨格修復がメインなのである。

 マッサージ、指圧、気功も骨格修復がメインだって?と驚かれるかもしれない。しかし、人間が脊椎動物である限り、身体の治癒と骨格修復の関係は、切っても切れない関係にある。もっと言うならば、風邪薬を飲んで風邪が治ったというなら、それは風邪薬によって身体の骨格が修復されたからなのである。

 マッサージ、指圧は筋肉をほぐすことによって、骨格を修復するのであり、気功は気の流れを整えることによって骨格を修復するのであり、カイロプラクティック、オステオパシ-は、直接骨格を対象にして骨格そのものをいきなり修復するのである。

 言うなれば、身体の治癒系の活性、衰退とは、おのれ自身が持つ骨格の、修復力の活性、衰退と同義である。自己自身の変位した骨格を、どこまで自己自身、修復する力が体内に備わっているか、それが体内の治癒系が健全か否かのバロメーターである。

 骨格の修復力が無くなった時、即ち、それは自然治癒系が衰退した時であり、人は病の床から抜け出れない。健康な居眠り中の子供は、実に良く動く。ピクピク、カクカクと。それは骨格の修復力が盛んな証拠である。それは言うまでもなく自然治癒系が盛んであるということである。加齢とともに動きは少なくなってくる。ましてや、疾患に見舞われるともっと少なくなってくる。シーツの乱れひとつ無く、謹厳実直に眠ることになる。骨格の修復力が、疾患によりダメージを受けているためである。ここに骨格の修復力を回復すべく、助っ人が必要になってくる。磨かれた手技である。磨かれた手技とは、身体に可能なかぎり外的刺激を与えない療法である。

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体表に刺激を与える手技療法は、習慣性を生む

 

 マッサージ゙は、筋肉を揉む。指圧は、筋肉を押す。カイロプラクティックは、骨を鳴らす。いずれの場合も、体表に、外力を伴った感覚的刺激を与えることである。この刺激が、受け手に習慣性を生じさせるのである。体表に加えられる刺激は、快感を生じさせる。快感は一時的に苦痛を取り除く。むろん、その快感と外圧によって、一時的に骨格は修復される。しかしそれは、体内の骨格修復のT,P,Oをわきまえたものではなく、的外れなものである。それは、体内の骨格修復力を旺盛にさせることは無い。先ほど述べたように、身体がその一時凌ぎの修復術に依存してゆくがゆえに、体内の骨格修復力は、むしろ衰えて行く。そしてその療法師のしもべのような身体になってゆく。現代のシンドローム、共依存という生き方。今日のヘンなヒーリングブームは、それと軌を一にしているのかもしれない。 

以下、先述したことのくりかえしになるが。もう少し、詳細化して述べる。

  マッサージ゙、指圧、カイロプラクティック等が、患者をして、いわゆる『癖~漬け~中毒』に陥らせるのは、それらの手技が生来的に不完全な設計だからである。療法として完全なものであるならば、中毒に陥らせる前に治癒を実現しているはずである。

 どういう意味で、不完全か。一つには、骨格の修復に関し、それは絶対的に中途半端なことしか出来ないということ。二つには、体表に必要の無い、強い刺激を加えていること、この二点である。

 一つについては、骨格の正位置を完璧に把握しているのは、外部の者ではなく、身体自身である(このことも先述した)。それに比し、いかなる名人であろうとも、中途半端な骨格修復しか出来ない。患者の身体は、その中途半端を埋めようとして、癖に陥って行く。

 二つについては、一つとよく似ているのだが、体表に不必要な外圧をともなう強い刺激は、骨格を新たにゆがめる。このことにより受療者の身体は、骨格の是正を求める気分になる。つまり受療後数日もすると体調不調に陥る。そこでまた施療してもらう。つまり、受療者と施療者の関係は、マッチポンプの関係なのである。これが強い刺激は習い性に陥ってゆくという理由である。

また強い刺激は一時的に爽快でもある。かって私が、マッサージを習いたてのころ。勤め先の院長は私にこんなことを言った。『マッサージで稼ぎたかったら、肩や腰をリズミカルにグリグリ揉む技術(強揉捏)を身につけろ』と。 つまり、リピーターをあてこんだ技術なのである。リピーターの多い治療院は、治療という観点からは考えものである。

凝った肩や腰の筋肉を快い痛さで押したり揉んだり、首や腰の骨を小気味よくボキボキ鳴らしたり、そんなことを、一、二回繰り返しただけで、必ず、もう一回やって欲しいという気持ちになる。一時の快を求めてはまり込んでしまう。これは治療に名を借りたストレス解消法である。ストレス解消もソフトなものならまだしも、こうなると身体は毀されてゆく。毀されても抜け出せないから気の毒である。いかに気持ち良かろうと、そんなことを何百回繰り返そうとも体はちっともよくならない。この手の療法師が一番危険である。目の淵は黒ずみ、身体が腑抜けにされてゆく。しかも、それとも気づかず、感謝の気持ちでいっぱいになっているのだから、まるで、カルト教団の教祖様である。

外圧と強い感覚刺激、この二点に依拠した手技療法は、必ずこのような弊害を生む。

しかし、これらの種別の手技療法家であっても、名人と呼ばれるは、これらの強い刺激に依拠したテクニックを捨てて行く。どうしたら人の身体を治せるかという技術練磨の姿勢が、暗中模索の結果、羽毛で体表を撫でるような手技に行ってしまう。名称こそマッサージ゙、指圧、カイロプラクティックであるが、それは、もはや、それらの範疇を超えてしまっている。指圧の名人は、腹部に手を当て、ときおり指で押す程度だという。最近のカイロプラクティックの一派は、SOT、つまり仙骨(S)、後頭骨(O)テクニック(T)を越え、呼吸を見計らって身体のポイントに手のひらを触れる程度の操作になっている。そして自らカイロプラクティクと呼称されることを忌避している。いずれ技術は気功に近い。

 ノート目次

             身体に良い手技療法は、自然治癒力の誘い水                                      

 無知が生み出す悲惨。手技療法の愛好家は、手技が、麻薬のように、中毒になるということをほとんど知らないであろう。俗に言う、癖になるとはそのことなのである。また施す者も、一生懸命治したいと思ってやっているに違いない。しかし、結果は意に反しているのである。手技療法は、諸刃の剣である。

 手技療法で中毒になり、患者の目のふちを黒ずませたり、黄色っぽくさせたりするような手技療法はすぐに止めねばならない(目のふちが黒ずんだり、黄色っぽくなるのは、東洋医学でいう『於血』、つまり血液循環がおかしくなっている)。

昨今のヒーリングブームとは、薬漬け医療の上に、さらに手技療法漬けを重ねているのではないか。何のための手技療法なのだろう。手技療法の役目は、薬漬け医療からの脱出であるはずだ。

以前は、睡眠薬など、ほとんどの者が飲まなかったのに、今は風邪薬並みにいとも簡単に飲んでいる。最近の睡眠薬は、以前のものに比べ、副作用がなくなったと言われている。はたしてそうか、以前に比べ副作用が分かりにくくなっただけなのではないか。

 

不眠症で悩んでいる人がいる。睡眠薬を毎晩飲まないと眠れない。しかし、いくら毎晩睡眠薬を飲んでも、眠れるのはその夜限りで、不眠症そのものが治ることはない。それは、睡眠薬によって、不眠症に関連した骨格のモードが、一時的に修復されても、また元に戻ってしまうからである。毎晩、このような繰り返し― 、その繰り返しによって、睡眠薬の量が減ってゆくのなら、毎晩、その服用によって行われるその、或る種の骨格修復術は、身体自らの骨格修復力を増してきたことになるのだが、現実はその逆である。

 日増しに、睡眠薬の量が増える。それは、日増しに、骨格修復力が衰えて行くことを意味する。身体内部にある自然治癒系が、衰えて行くことを意味する。

 これと同じことは、睡眠薬のみに限らない。痛み止めと称される薬を飲むことも、降圧剤を飲むことも、およそ薬と称される物を長年服用せねばならないということは、身体内部の自然治癒系(骨格修復力)を剥奪させてゆくことである。

 同じことは、昨今の手技療法にも言える。その場しのぎの手技療法を施すことが、患者の骨格修復力(自然治癒力)を奪ってはいないだろうか。例えば、ムチウチの後遺症に苦しみ、三日と空けずマッサージを受けている人がいるとしよう。その者は、最初からそうではなかったはずである。最初は三ヶ月に2回ぐらいだったのが、一ヶ月に一回になり、一週間に一回になり、とうとう三日に一回という具合になってしまったのである。やがて一日に一回になり、それでも我慢できず、半日に一回ということになって行く。  

 骨格修復力を誘い出し得ない手技療法は、身体に強烈な物理的力を加えることとあいまって、極めて危険である。

 その場しのぎの手技療法は、自然治癒力を奪ってゆく麻薬に似ている。今、例えとして、マッサージの例を挙げたのであるが、もっとも一般的な手技療法として、挙げたまでのことであって、マッサージという手技そのものが特別に悪いと言っているのではない。このようなことは他の手技、カイロプラクティック、指圧等にも起こる。ただ気功とオステオパシ-に限って(他にもあるのだが、煩雑を避けるため、人口に膾炙されていることを考えて取り上げる)そういうことは、起こらない。この違いは非常に重要である。世に多くの種類の手技があるが、気功とオステオパシ-の両者には、他とは一線を画すものがある。それが、この手技をその場しのぎのものに堕さないのである。それは両者とも『無刺激』ということに由来する。

 マッサージ、指圧、カイロプラクティック等に共通することは、揉む、押す、矯正等、体表に何らかの強い刺激を与えることによって成り立っている手技である。それに比し、オステオパシ-、気功等は、体表に刺激を与えないで成り立っている手技といえる(ただし、オステオパシーは、直接法ではなく、間接法に限る)。

                                                                         

  昨今、水道が敷かれてから、とんと見かけなくなったが、かって、井戸水をポンプで汲み上げていた。夏の渇水期が続くと、井戸水の水位が下がって、ポンプで水を汲み上げることができないことがよく起きた。そんな時は、ポンプの上口に、ヤカン一杯の水を注いでやる。そうすると、普段どおりにポンプが働いて水を汲み上げることができた。このヤカン一杯の水のことを、誘い水と呼んでいた。骨格修復力と骨格修復術との関係は、このような誘い水のような関係である。

                                               ノート目次

 

         

改めて手技療法の原点を問う     

どんな手技も突き詰め、錬磨してゆくと、同一領域に達する。その領域とは、気に触れ、気を動かす領域である。羽毛のように感触されるもの、それは気である。

 すべての手技療法は、その本来の成り立ちにおいて、生理学的、医学的体系を持っているわけではない。したがって、それらの手技療法が、なぜ有効であるのか、医学的な証明ができるわけではない。ただ有効という事実がある。それは、医学体系を超えた、別の体系があるという証左でもある。この目にみえない体系は、時折、医学体系をほころびさせる。原因不明の背中の痛みが、例えば、後頭骨に手を当てているだけで治ったなどというのは、それである。なぜ治ったのか、理論的に説明はできない。しかし治ったという事実は否定のしようがない。

 

 手技療法の出発点は、手当てという感覚から発している。腰が痛い時、思わず『痛い!』と手を当てる。その所作の感覚が、いくつかのヴァリエーションとしての所作を産む。それが技法と呼ばれるものである。例えば、掌圧、指圧、揉捏、叩打、軽擦。しかしこれらの技法は、手当てという感覚からはあまりにも直線的、直接的である。つまり、手当てのヴァリエーションとしての技法は、その根っこにある感覚は何も変わっていないということである。

手を当てる、または手を当てたいという所作、感覚をいったん押し殺したところから見えてくる所作、感覚がある。文字通り、手を翳して看るという所作、感覚である。『看』という語の造りは、手を翳して見るという意味である。普通に言う直接的な手当てからはいったん遊離し、離切した所作、感覚である。

手技療法の出発点となる手当ての所作、感覚には、直接的なものと、いったんそれを遊離したものとの二方向があったのである。直接性から遊離性への架け橋となったのは、おそらく、按摩でいうところの、軽擦というテクニックであろう。体表を擦(さす)るという所作の繰り返しは、やがて体表を覆っているオーラをさすることになり、いやがうえにも気を感触せざるを得ない。 

現在、手技療法の専門学校では、軽擦というテクニックはないがしろにされている。上手な軽擦にかかると心身ともに陶然としてくる。ここから身体に迫る切り口に思いが至らないためだ。いきおい、卒業生は、指圧、揉捏等の強刺激に依拠したテクニックで生活の糧を得ざるをえなくなる。

 

この気に触れ、気を動かすという感覚を訓練なしで解る、それが現代人には理解できない。なぜだろう。

なぜそれがわからなくなって、訓練によって解る、という本末転倒を演じているのか。それは、この感覚は、一人で解る感覚ではなく、二人という関係性において解る感覚だからである。手をかざして見るという『看』の所作は、一人では成立できない。相手がいて(相手のハートがあって)初めて出来る所作である。二人となってはじめて成り立つ出来事である。

 現代人が見失ったものは、実は、二人という関係性なのではないか。かっては、二人で一つ。または、他者と一体になって、始めて成立する自己。二と一は、切っても切れない関係の中に一はあった。手当ての『看』、すなわち、手をかざして見るとは、そういう関係における、巧まざる優しい所作だったのである。現代人の失ったものとは、優しさである。それは、他者との生命の交流ということである。それが原始感覚の喪失につながっているのである。ジコチュウという語ももはや死語か。それすらも感じないほど、われわれは、他人から遠くへ来てしまっている。バーチャル化して行く現実。

他人との優しさの中に気は醸され、高揚してくるのである。

 

そしてこの二種の感覚は、それぞれに手技療法として、別々の方向に進むことになる。前者は、体表に刺激を与る方向、後者は、体表に刺激を与えない方向である。前者は部分的快を与える方向に行き、後者は全体の気を感じる方向に行く。そして前者の方が、お上の方から擁護され、専門学校までもでき、国家資格制度として認定されるのである。

 かっては、盛んであったであろう『看』の治療、それが今は、暗在系として葬られ、一部のものにしか省みられない。その最大の原因は、他者性を失って自己中心にしがみついているいびつな自己存在にある。相手に素直に身をゆだね、信頼することができない。短兵急に手っ取り早いことのみを求める、共依存関係の由来でもあろう。

 

 そういった時代状況の中にあっても、今日なお、『看』の立脚点に立ち、他者との気の交流を図った治療法に、野口晴哉の提唱した『愉気』がある。これは、『看』から得られる原始感覚を徹頭徹尾、素直に行使した、生命賦活の療法である。これほど素直に原始感覚に浸れる人間関係を私は知らない。ここには渾然一体となった自他があり、そして、その自他を超えた自己がある。そういう意味で、この『愉気』は、『看』としての原始感覚の極北に位置するものと思われる。

 

体表に、指圧、揉捏、矯正等の何らかの刺激を与えることによって成り立っている手技療法は、技術の低劣化を免れない。それは、刺激そのものが、疾患の治療効果とは関係なく、身体に快感と欲求不満を呼び起こすからである。この快感と欲求不満は、世間では需要となる。この快のみを求めての手技療法を受ける者もいる。また、疾患の治療を求めたにもかかわらず、その欲求は満たされずとも、強い刺激による快感が与えられれば、不満が満足に変わる。そうすれば、むげに、この手の手技をけなす気にもならない。そうやこうやで、このての手技療法は、世間の需要を満たすことになる。これが低劣化の理由である。低劣化すれば、この種の手技療法の技術は、玉石混交、ピンからキリまであることになる。ピンに遭遇すれば、もっけの幸いだが、キリに当たれば、悲惨である。快感どころか、ただの痛打感しか得られない。しかし、それでも、その痛打感が俺にはいいんだという御仁もおられるのだ。てなわけで、キリであっても需要はあるのだ。それが、身体に刺激を与えるということのお得な一面である。てなわけで、このての手技療法は、悪貨が良貨を駆逐するように、蔓延し低劣化してゆく。

 しかし、それでもまだ需要があるだけましだ。お金を払って粗悪品を与えられるならまだましである。

ところが、『看』に基づく手技療法は、お金を払っても、粗悪品どころか何もくれないという面がある。いきおい、客は怒鳴り散らすことになる。『テメエ何やってんだ。背中に手を当てているだけで、何か身体にいいことあんのか。気持ちいいってこともなければ、ただ、いらいらしてくるだけじゃねーか。悪いけど金なんか払わねーよ。当たり前だろう、背中に手を当てているだけで、ウンともスンともしねーエんだもの。お前さんみたいなのをやらずぼったくりと言うんだよ』、てなわけで、このての手技療法は、キリ(最低)であるかぎり、需要がない。それがもう一つの手技療法と違うところである。

 キリにも需要があるということが、刺激に依拠する手技療法の低劣化を招いているのだが、刺激に依拠しないこの手の手技にはそれがない。それは、無刺激な療法のキリは即、受療者から罵倒され、世間に広がる余地がないからである。ということは、世間に在る、この手の手技は、ピンしかないということになる。つまり、無刺激に依拠した手技療法は、一定のレベル以上のものしか、世間には存在しないということになる。無刺激に依拠することは、刺激に依拠することに比べ、厳しい一面がある。刺激に依拠した手技療法は、技術が劣悪でも飯は食えるが、無刺激に依拠した手技療法は、劣悪であれば、誰からもお呼びがかからない。

 刺激に依拠する手技と、無刺激に依拠する手技と、この両者の違いは、玉石混交か、オンリー玉かの違いである。前者の手技は、名人だけが、この種の手技の完成された技法を知っている。言うなれば、名人が施すものでない限り、このての手技は受けてはならないということである。下手な者にかかると、麻薬中毒者が麻薬を追い求めるように、歪んだ快感を追い求めるような身体になってしまう。

 旧いカイロプラクティックを初めとした、骨をボキボキ鳴らす療法も同じである。定期的に骨をボキボキ鳴らしてもらいたくなってくる。骨格修復は本来、身体みずからが行うことであるゆえ、それを他人に代行してもらっているかぎり、依存的習慣は生まれる。

他人に代行された骨格矯正は、どんな名人でも的を得ていない。それで、思いっきり首か腰かをガッツンと鳴らしてくれると骨がピタッと入るかのように思われてくる。いきおい矯正力は強くなり、それにより骨どうしを結び付けている靱帯の脆弱を招き、いともた易く、骨格がヘンな方向にズレ易くなる。よってまた矯正してもらいたくなる。

強い刺激を与えれば与えるほど、それは本人の骨格修復力を阻害する。治癒という標的から、ますます遠ざかる。

 本来、刺激と治癒とは、相容れないものである。それは、神経生理学者、アルント・シュルツの刺激の法則を待つまでもない。アルント・シュルツの刺激の法則には、こうある。『ごく軽い刺激は、神経機能を奮い立たせ、中程度の刺激は、これを亢進せしめ、強度の刺激は、これを抑制させ、最強度の刺激はこれを停止させる』。ごく軽い刺激とは、きわめて軽微、ソフトな触れ方をさす。それが仮死状態の神経を目覚めさせるのである。ちなみに、最強度の刺激は、痛みを無感覚のものにしてしまう。つまり神経機能を麻痺させるのである。それは、痛い箇所を、竹刀の先端などで徹底的に押し込んで行くことで生起する。

これは、手技療法の専門学校で第一に教える生理学なのであるが、この軽く触れるということが、治療の最短距離を開いているということに思いを馳せる者は少ない。

 

 本当に快い刺激とは、ほとんど無刺激に近い刺激である。犬や猫は、軽く体表を撫でられて喜ぶことはあっても、指でグイグイ揉まれて喜ぶことは無い。しかし、最初それを嫌がっていても、それに馴らされると、むしろその強い刺激を求めるようになる。身体が、本来の原始感覚を忘れて、中毒化するのだ。そして、治癒系の阻害が始まる。

 

                                                                         ノート目次              

 

 

第二章   テクニックとは何か

―テクニックとそれを生み出すテクニック以前―

 

               居眠り中の骨格修復の誘発、実験前半                

 

 

これまで長々と述べてきて何の実験かとなるが、この文章のほぼ冒頭部分『身体がおのずと整体される光景』を思い起こしてほしい。引用する。

《電車の中で、こんな光景を見たことがあるだろうか。

座席にすわり、鞄を膝の上に載せ、両手で押さえたまま居眠りしている乗客。その乗客がどうかしたはずみに、ビクッと肩をゆすったかと思うと、その弾みで、思わず鞄を床に放り投げてしまっているのを。

 なぜ、居眠り中、肩がビクッと揺すれたり、腕がポーンと挙がったりするのであろうか。首をこっくりこっくりと、前後に船をこいでいるのとは、まったく違う。首をこっくりこっくりと船をこぐのは、『姿勢反射』といって、身体が起立姿勢を保とうと、無意識のうちにも錐体外路系運動神経が働いているという、生理現象である。

『姿勢反射』は、どこか反復的である。身体ないし首が倒れ込もうとして、限界まで行ってひょいと起き上がる、その繰り返しである。ところが、私がここで指摘している居眠り中の、素早い小刻みな、そして時折り大振りな動きには、反復性はない。思わず、ビクビクと腕が振動したり、子どもがまるで、嫌々と駄々をこねているかのように肩が激しく揺すれたり、時折、断続的に現れる『パルス運動』なのである。明らかに『姿勢反射』とは違う。

 電車の中では、他の静止した場面での居眠りと違って、電車の揺れがこういった動きを、殊に惹起しているであろうことは否定できない。

 がしかし、それにしてもである。こういった生理現象は、何も電車の中だけとは限らない。授業中や、会議中の居眠りでもこういったことはよく起こる。時、所を選ばず、居眠り中に起こる、この共通した生理現象。これらはいったい何を意味しているのであろうか。

 この手技療法の発見は、これらの生理現象が何を意味しているか、その意味を知ったことから始まった。その意味とは、『身体は、居眠り中に、自己の諸関節、脊椎の偏向(変位)等を自動的に修復させる』ということなのである。特に電車の中では、電車の揺れによる手足の動きが、偶然にも、骨格の偏向を修復させやすくなるような関節の『姿位』を定め、それが他の居眠り条件のときよりも、椎骨や諸関節の修復をより大きく誘発しているのではないかと思われる。居眠りで、疲れが取れるのは、居眠り中、骨格の変位の自動修復が行われるからに他ならない。しかし、それだけでは身体の痛みは取れない。なぜなら、居眠り中の骨格修復は、深度が浅いからだ。身体の痛みを取るためには、居眠り中の骨格修復を人為的により深いものにする必要がある。ここに、『姿位』の設定が必要とされる。これがこの療法のねらいである。》(引用終わり)

実験とは、姿位の設定である。電車のゆれが、偶然にも腕を骨格修復に適宜な位置に持って来、それが骨格を大きく動かし、鞄を思いっきりほおり投げたと仮説されることである。

 

果たして本当にそうなるのかやってみよう。居眠り中にゆっくり、静かに腕を動かすと、身体が大きく動いて、身体の骨格が大きく修復されるということを。

 

 実験に先立ち、この療法でもっとも難しいことは、患者さんをリラックスさせるということである。短時間で居眠り状態にまで持っていけるほどリラックスさせるということは、やはり一種の鍛錬された技術といえよう。これのみが、この療法における唯一のハードルである。

 だからここでは、誰でもが、技術的努力をせずとも、環境そのものが、居眠りに落ちやすいという状況の中で、試してみるのが手っ取り早い。居眠りに落ちやすい環境とは、一日を終え、寝床に就いた時である。居眠りというよりも、ただ眠たくてしょうがない時間帯である。この頃合いを見計らって実験するのがよかろう。居眠りと就寝寸前とは、ちと違うが、生理現象としてはさほど変わらない。居眠りとは、仮眠状態がかなり長く続くことであり、就寝寸前とは、仮眠状態が短く、いきなり睡眠に入ってしまう頃合いである。仮眠の長短の違いがあるだけである。この短い頃合いを逃さずにやろう。ぐっすり眠ってしまうと、この療法の効果が明白ではなくなる。

 

 居眠りに落ちやすい環境は設定された。次に実験台には、誰がなってもらうかが問題だ。まさか見ず知らずの人になってもらうわけにはゆくまい。なぜ見ず知らずの人ではだめなのか、それは両者間に安心感、信頼感が生まれていないため、リラックスしてもらえないからだ。しかし、実際の臨床では、見ず知らずの人を相手にする。人をリラックスさせるということは、やはり技術によるのだ。

 

 実験台には、友人、恋人、伴侶等、一定の信頼関係のある人を選んだほうが良い。まあ、そういった関係の人達でないと、こういった変な実験の実験台になってくれそうもないのだが。選ぶというより、選ばざるをえないのだ、がんばろう。

 

 さあー、実験の環境と、実験台になる人はそろった。実験台になる人は、あなたの恋人と仮定しょう。

 

 あなたの恋人の服装は、パジャマに着替えてもらう。ブラジャーはつけていても良いが、ガードルは、取ったほうがいい。これらの指示は、恋人にリラックスしてもらうためである。恋人同士だから気持ちはいつでもリラックス状態だと言うであろうが、こと気持ちと身体とは違うのである。気持ちはいくらリラックスしていても、体が緊張状態ということはいくらでもあるのである。Gパンよりも、パジャマのほうが身体はリラックスする。ガードルとておなじことである。また、後顧のために言っておくが、ストッキングも体に緊張を強いる。なぜこんなやわらかい素材が…と思われるであろうが、体にフイットするものは、体を締め付けるもの以上に体に緊張(つまりこの場合、神経を興奮させる:アルント・シュルツの刺激の法則に則っていると思われる)を強いる。これも長年の臨床経験から得たものだ。

 あと、実験に入る前に、入浴することは控えてもらう。実験直前はもちろん、その日一日は入浴しないほうが良い。これは今回の実験のみならず、実際の臨床においても同じである。入浴すると、身体の骨格修復がそれなりに行われて、椎骨のズレや関節の骨の位置が、正常の位置に一定程度近づくためだと思われる。そしていったん、一定程度、正常位置に近づくと、その日は、もうそれっきり椎骨や関節は、その位置を動かないように思われる。関節や椎骨には、自説を曲げぬ偏屈者のハートが宿っている。これも、長年の臨床経験から知ったことである。

                                                                               ノート目次      

 

いよいよ実験開始である

 

 あなたの恋人は、パジャマに着替えて、布団の上で仰向けになっている。毛布か薄での掛け布団は、恋人の胸から足元にかけて掛けたほうが良い。なぜかというと、リラックスしてくると、皮膚の毛穴が開いて体が冷えてくるからである。冷えてくると寒気を感じ、体が緊張してきてリラックス状態が解かれるからである。すると居眠り状態に入っても、まもなく目を覚ます。部屋の温度は、平常よりも少し暖かめのほうが良い。

 

 恋人の両手は、胸の上に置く。それを恋人自身にさせよう。それをあなたが少し手直しする。どのように手直しするかというと、左右の肘の位置をそれぞれ外側に少し持ってゆき、手の指先は伸ばして、左右の中指、もしくは人差し指はお互い接するようにしよう。そうすると、左右の肘から指先にかけてのラインが、頭を頂点とした三角形の底辺となるであろう。 なぜこんなことをするかというと、操作がしやすいということと、体に少し不自然な姿勢を強いたほうが、覚醒している意識が、半覚醒状態に入りやすいからである。リラックス~半覚醒~居眠りというふうに意識は変化しやすくなるからである。

 

 姿勢は整った。恋人に目をつむってもらおう。そのほうが、やはり居眠りに入りやすいからだ。目をつむったら、恋人に何か話しかけよう。話の内容は、出来るだけたわいのないものだ。話の内容に恋人が真剣に答えてくるようなものはいけない。例えば、次のような例はいかがだろう。

 『今、目の前に羊が何匹いる?』 『いるわけないんっジャン、ばーか』 『想像力がたりねんだよ。その気になると相手もその気になる。つまり、見えるってこと。ほらほらもう来たじゃない。話にのってほしいな。少し遅いね、道草食っているんじゃない。向こうの山の麓から。』 『うーん、来た来た。三匹、思ったよりでかいな…』 『ふーん、また来たんじゃない、羊の顔を想像して数えてよ』 『う~んこの顔あなたに似て憎たらしいな、次のは純白でけっこう可愛いな、四…、五…、六…、七…』 『ふうーん、けっこう来るね、餌場に向かう途中なんかな?ところで、明日の朝食は、パンとコーヒだけだっけ?』 『そうよ、毎朝そうよ。うちら貧乏だもん。もっとおいしいもの食べたかったら、もっと稼いでよ。こんな変なことやらないで。もうー、寝るウ…、明日の朝早いんだもん.

 こんな会話を交わしている時、彼女の胸の上に置いた手に注目していてほしい。会話を進めているうち、指先が、まるでピアノ鍵でも軽く叩くかのように、かすかに動きを反復していることに気づくであろう。こういうかすかな動きが現れたらしめたものである。本人は快い居眠り状態に向かっているのである。本人はその快さを楽しむのに没頭しようとしている。そう簡単にこの居眠りモードから脱出しない。よっぽど不快な刺激、例えば、大声をあげたり、体をつねったり、叩いたりする、などの普通以上の刺激を与えなければ、この居眠りモードは解除されることがない。

 

 突然の沈黙も、普通以上の刺激である。居眠りモードは即、解除される。次の操作に移るにあたって、突然、言葉をとぎらせるのは良くない。会話を徐々に少なめにしながら、次第に沈黙に持っていこう。居眠りモードはさらに深まって行く。『今晩、一緒に寝たらよくないのかなー、ちょっと手を貸して』とか何とか言いつつ、相手の手首を、そおっと静かにつかもう。 この時点で、あなたの恋人は、居眠りの快感にどっぷり浸って、返事をする気力も失せている。もう沈黙していい。

 

 彼女の左腕から操作するのであれば、あなたは今、彼女の左側に座っていることになる。座っているとは、あぐらや、体育座りではなく。日本人の座り方、正座である。

 ならば、彼女の左側の、どのあたりか、彼女の腰か、脇腹あたりか。そしてどの方向に向かって座っているのか。彼女の脚のほうに向いてか、頭上に向かってか、真横に向かってか、斜め頭上に向かってか。

 この場合、斜め頭上に向かって、彼女の横に正座する。彼女の曲げた肘が、あなたの両膝頭の合わせ目、前方5~10センチメートルくらいの所に来るように座る。背をかがめて左手を伸ばすと、彼女の肘に届くぐらいの位置になる。この位置に座っていて、先に述べたようなたわいない話をし、彼女の胸に乗せてある手の指が動き出したら、徐々に会話を減らし、少しずつ沈黙の時間を長くする。そして、どうでもいいことを話しつつ、彼女の左手首を、あなたの右手の親指と中指、人差し指で挟むようにしてつかもう。

 

 

  

 なぜ、リラックスしないのか考えよう。リラックスするということは、頭の中がボ゙ーとして、頭の中が空っぽの状態になることである。彼女がリラックスできないとは、彼女には、何か気になることがあって頭の中が空っぽにならないのである。気になることとは何か、外的要因と内的要因とに分けよう。そして、外的要因から取り除いて行こう。外的要因は単純な要因だ。

 

 リラックスできない外的要因。例えば、室内の温度、照明、窓外の騒音、部屋に鍵をかけたかどうか、ベランダに洗濯物を干したままになっていないかどうか、あすは、生ゴミの日だったか、不燃物の日だったか。こんなことが気になる人もいれば、ならない人もいる。人、千差万別だ。彼女と協力しあって、気になる要因を取り除いてやろう。

 

 リラックスできない内的要因。例えば不眠症。睡眠薬を飲まないと眠れない。こういう人に今の実験をやってみても無理である。実験が進行しない。しかしだからと言って、睡眠薬を飲ませて、実験をやったんでは意味がない。相手が不眠症であった場合、このやり方での実験は無理である。別のやり方で行うしかない。別のやり方とは、プロが臨床で実際に行うやり方である。不眠症の者でも、強引に居眠りに落とすやり方がある。その場合は、後述の章を参照されて試していただきたい。

  

 他にも、リラックスできない内的要因がある。例えば体が常時、発痛している場合。頭痛、胃痛、腰痛,背痛、首痛etc…。これらの痛みが極度にまで達していると、この実験だけで居眠りに持ってゆくのは少し無理である。そういう方は、常時、睡眠薬のお世話になっている方であろう。しかし、痛みがそれほどでもなく、睡眠薬の世話にならず、毎日眠りについているのであれば、少々寝つきが悪くても、この実験だけで、骨格修復を起こさせることが出来る。

 

 まだ他にも、リラックスできない内的要因がある。例えば、相手があなたに対し、信頼が希薄であるとか。もしかして、希薄を通り越して不信、憎しみ。こういう関係でよく、実験を承諾してくれたと思うのだが。こういう内的要因も結果として、居眠りを誘発できない。

 

リラックスできない外的要因を取り除いて行った後に、リラックスできない内的要因が残る。実際の臨床に遭遇するのは、ほとんどこのケースである。

しかし腕一本動かすだけで、居眠りに導いて行けば、体の痛みはもちろん、心身症の分野にまで治療を効かすことが出来る。

                                                                          ノート目次           

                実験後半

 

 

                  実験の型は、症状の軽い人におこなう

 

第二章に述べた操作の型は、実験のために、特にあつらえたものではない。実際の臨床においても、これは使う。しかし、現在、この型はあまり使わない。最初の頃は良く使ったが、今は、肩関節の症状解消と、首周辺を触れられると意識が冴え緊張してくる人ら以外あまり使わない。ほとんどの場合、後頭骨の姿位設定で十分、パルス的動きを出させ全身を整えることができるからである。

しかし、この型は、私の発見した療法…腕を動かすことによって居眠りを誘い、自己矯正を誘発させる…のもっとも初歩的な型であり、エッセンスである。まずこれから覚えることが、この療法を会得する近道である。パルス的動きが生じる設定の手ごたえというものが、後頭骨の設定に比しはるかにわかりやすい。

腕の動かし方や、方向、肘の浮かす時のタイミングなどは、あくまでも、基本的な一つの形であって、この通りでなければならないということはない。腕に抵抗を感じるにつれ、臨機応変に行うべきものである。手に取った相手の腕に抵抗を感ずるか否かが、この操作の決め手になる。

 

 これまで、どういうケース時に、あの実験の型のみで臨床を終始させていたか。それは、すぐ半覚醒状態に入りやすい人である。例えば、施術者と最も親しい関係にある人、高校生以下の年齢、とても素直で疑うことを知らない人、暗示にかかりやすくトランス状態にすぐ入る人等、であろうか。こういった人達も、ケースバイケースであって、必ずしもこの型のみで終わらせることはない。比較的症状が急性の場合は、この型のみで症状は取れる。

 例えば、高校生がバレーの練習中、足首を捻挫したという場合、この型の操作のみで、その日のうちに捻挫は治る。湿布することも、固定する必要もない。足首の関節が修復されれば、靭帯や腱の炎症は速やかに消える。もちろん、捻挫による腫れも引く。

足首の関節は複雑な骨の集まりであるから、外から、関節の修復を加えても、これほど速く治すことはできない。外からの修復術は、必ず正確さを欠くからである。足首のどの骨を、どう修復すれば良いのか、知っているのは、その身体だけである。その身体内の指令に基づいて、その身体自身が足首の捻挫を自己修復するのである。この型を施すと、捻挫のある側の脚は、幾度となく、屈伸を繰り返したり、足の指がピクピク動いたりする。時折、ガクッと腰が動いたりもする。肩も動く。足首の捻挫は、全身の骨格の変位ももたらしていることが十分納得できる。

 

 実際の臨床に際しては、この型プラス、別の部位の操作をおこなう。その主たるねらいは、相手をいかに素早く、居眠り状態に陥らせるかにある。実験のようにすぐ居眠りに入るような人が、患者として目の前に現れることは、まれである。長年疾患を抱え、体に痛みを持っている人は、居眠りすべき時に、居眠りできない。言うまでもなく、そういった人達は不眠症ないし、不眠症予備軍になっているのがほとんどである。あらゆる症状の突破口は、居眠りの誘導にある。

                                                                          ノート目次       

               居眠りを誘発させるための基本

実際の臨床は、猫背修復から始めよう

 

 仰向けに寝てもらおう。両腕は、バンザーイのように頭上に挙げることになるが、すっかり伸ばしきったバンザーイではない。土俵入りの横綱のように肘を90度近く曲げよう。そういう態勢が整ったら、そこで、いきなり息を吐いてもらう。そうすれば大きく息を吸うことになるから。

 そうやって大きく息を吸ったら、ゆっくり息を吐きながら、両足の踵を両脚を伸ばしたまま、これもゆっくりと布団から約10センチメートルほど浮かそう。そしてそのまま宙に止めてこらえよう。こらえるのが苦しいからといって、そのまま天井の方に挙げていったり、すぐ下に下ろしたりしてはいけない。我慢できなくなるまで、できるだけ長くこらえよう。

 その間、普通に呼吸していなければならない、息をこらえてはならない。そして、宙に浮かせた脚がついに持ちこたえられなくなったら、一気にドスンと、音がするくらいに力を抜いて落とそう。静かにやんわり落としたのでは効果はない。

 脚を落としたら、呼吸を普通に整えるために2,3回深呼吸をしてもらおう。

 

 なぜこんなことをするのか、といえば、筋肉を弛緩させるためである。筋肉は、限界まで緊張させ、一気に脱力すると、弛緩する性質がある。今の場合、肩から首にかけての筋肉、腹筋、脚の筋肉等が弛緩する。筋肉が弛緩すると、一瞬、頭がボーとして、半覚醒状態になる。そのためにこんなことをするのである。

 

 半覚醒状態が覚めないうちに、実験の型を施そう。もう半覚醒状態に入っており、今にも居眠りモードに移行する寸前になっているのであるから、このままゆっくり腕を動かせば、すっかり居眠りモードに入り、体がビクビクガクガク動き出す。

 実験の型を施すにあたり、実験の最初にあったような、居眠りに入ってもらうためのたわいない話を、相手方にする必要がない。これまで、沈黙が続いていたのであるから、話しかけることは、沈黙を破ることになり、むしろ、居眠りモードが解除される。

 

 仰向けに寝て、脚を伸ばしたまま踵を挙げ、こらえきれなくなったら一気にドスンと落とす、その後すぐ、実験の型に入る。これで、臨床を終始できれば、毎日が楽しくてしょうがない。しかし、楽しい毎日は、そうざらにはない。多くの患者は、こんな簡単なことで、そうやすやすと、居眠りには入らないのである。お金を払って治療を受けに来る人というのは、重症患者が多いのである。藁にもすがる思いで、セラピールームへ来るのである。この操作の取り合わせは、やはり軽症の人、ないしは、2,3回通院するようになった人に適しているといえよう。

 

 仰向けに寝て、踵を挙げ、ドスンと落とす、その後実験の型に入る。しかし、実際、実験の型を行使しても居眠りには入ってくれなかった場合、どうするか。この療法は、居眠りに入らないと、まったくナンセンスな療法である。靴の上から足の裏を掻くようなものである。イライラこの上ない。

 本人は居眠りモードに移行していない。頭の中は、ボーとしているどころか、冴えわたっている。長居は無用。即、別の操作に移ろう。

 

 手前に引き寄せた相手の手を元の位置にもどし、相手の頭上真上に正座しよう。そして、右手を首の付け根に差し入れて、指先で、その付け根を軽く押してみよう(左手は後頭骨の下に敷き、後頭骨を持ち上げる準備態勢にしておく)。すると相手は、何を思ってか、たちまち起きあがろうとするであろう。多分起きあがってくださいと、指示を受けたと思って起きあがるのである(後頭骨の下に敷いた左手は起き上がりについていく)。

 なぜそう思うのか、それは、そう思うことが、今の仰向けの姿勢を変えるのに都合がいいからである。今の姿勢をなぜ変えたいのか、それは仰向いていることが潜在的に苦痛だからである。首に当てられた指の圧を、苦痛から逃れるのに、もっけの幸いとばかり、都合のいいように、その指のを解釈したのである。

 

 仰向けに寝ていることが、なぜ潜在的に苦痛なのであろうか。それは、その者は猫背だからである。背骨が前方に丸く曲がっているため、仰向けに寝ると、それが無理やり平坦にさせられるため苦痛なのである。その苦痛は、本人が意識して感じていることは少ない。だから潜在的苦痛といったのである。後で、その者に夜、どんな姿勢で寝るのか聞くと、どういうわけか、最初は仰向けで床に就いても、すぐ、横になって、丸くなって寝るか、うつ伏せになって寝るか、どちらかだと言う。やはり仰向けに寝ることを苦痛、とまでは感じていないようである。苦痛を感じて来る前に、横になるか、うつ伏せになるからであろう。そして眠りに落ちるからである。

 

猫背がある限り、仰向けでは居眠りに入れない。猫背には顕在的と潜在的がある。顕在的猫背とは一見して猫背と分かる姿勢である。

 潜在的猫背は、一見して分からない。猫背であるのに、無理して真っ直ぐな姿勢を保とうと努力して立ち居振舞いをしている人に多い。また、そっくり返って歩いている人も潜在的猫背である。猫背が極端になると額が地面に着いてしまう。そうならないように、そっくり返って歩いているのである。お年寄りに多い。

 

猫背は、背筋を真っ直ぐに伸ばすよう、努力して立ち居振舞いをしておれば治るというものではない。猫背は背中の筋肉だけの問題ではないからである。猫背は、脊椎のS字上のカーブの崩れがそうさせているのである。このカーブの崩れは、下向く、上向くの頚椎の角度、骨盤の前傾、後傾の角度が決めると思われる。

 

頚椎、骨盤の角度が変化した時、それに伴って固定された脊椎の猫背カーブは、容易に元に戻らない。頚椎、骨盤の骨格修復が必要になる。頚椎、骨盤の角度はどうして変化するのか。それは、猫背による生活習慣であろう。

痛みをこらえる。痛みをかばう、後ろ向きな思考、視線恐怖症。これらは皆、背をこごめておこなう。背中を丸くすることが、やがて脊柱の両端である、頚椎と骨盤(仙骨)の角度を変え、背中の丸さが戻らないようにロックしてしまうのではないか。

 

                                                 

 猫背について少し項を割いたのには訳がある。

 それは、治癒系の衰弱は猫背となって顕れるからである。背筋をしゃんと伸ばした病人はいない。老いることにも上手と下手があろう。下手に老いるということは、猫背になって老いてゆくことである。背骨は、その者の生命力、疾患の軽重を物語るのである。

 

 施療するにあたり、その者が猫背であるか否かを診ることは基本中の基本である。そのことに比べ、左右の脚の長さが違うなどということは枝葉末節である。この猫背を解消してやらない限り、次の治療に進めない。猫背はこの療法の突破口である。

 

 仰向けで操作して、居眠りに入らなかったら、頭上の真上に正座し、右手を、相手の首の付け根に差し入れ、指先でその付け根の部分を軽く斜め前方に押してみよう。受療者が起きあがりだしたら、左手を後頭骨に当てて支え、そのままどこまでも、どこまでも、受療者の起きあがりに従い、ついて行こう 。むろん、右手は首の付け根にあてたまま、左手は後頭骨に当てたままである。

 

(途中で止まった場合)

 途中で止まったら、左手はそのまま後頭骨にフイットさせ、右手の指先は、首の付け根から、背中のほうに移動させ、指先ではなく、手のひらで背骨の適当なあたりをフイットさせておこう。そして、しばらくじっとしていよう。

 両手はあくまでも軽く、添えているだけであって、決して、圧を加えて支えようとしてはいけない。時間にして1,2分ってところか。起きあがっている角度によっては4,5分ぐらいかかることもある。ちょっと予測がつかない。そのうち、腹筋の力で姿勢を保とうとするために体がブルブル震えてくる。

 

そうこうしているうちに、相手はゆっくりと後ろに倒れてくる。そうなったら、両方の手のひらで、頭の重さ、体の重さを感じながら、倒れるにまかせよう。この場合の両手は、先ほどと違って、ただ添えるのではなく、布団のほうに倒れてくるのを支えるようにし、そして、倒れてくるスピ-ドに合わせて手を布団のほうに下ろしてくる。表現を変えれば、倒れてくる体に抵抗を与えつつ、倒れるに任せるということになろう。

 

 倒れてくるスピードよりも早く手を降ろそうとすると、倒れかけていた体はそこで止まる。つまり、脊柱は、当てている両手を支点にして曲がったラインを伸ばそうとしているのである。手のひらに重み(抵抗)があるということは、そこが支点になっているということである。

 

 ここまで話したことは、すっかり起きあがらないで、途中で止まったケースの場合である。

 

(すっかり起き上がった場合)

 すっかり起きあがってしまった場合は、ちと違う。

 すっかり起きあがってしまった場合、起きあがった姿勢に対して、両手をフイットしていても、先ほどの例のように、倒れてくることはない。この場合、フイットしている両手で、そのまま前方に軽く圧してみよう。すると、その圧に対して、抵抗するかのように、後ろに倒れこんでくるか、そのまま前方に、前のめりになって行くかどちらかである。前者の場合、その後は、先ほどと同じである。倒れてくる体に抵抗を与えつつ、倒れるに任せて行こう。

 

 (そのまま、前方に前のめりになった場合)

そのまま、前方に前のめりになった場合、どこまでもどこまでも止まるまで、前のめりになるに任せよう。その場合、両手の前方に加える圧は、最初だけで、それがきっかけとなって、体がひとりでに前方に倒れようであったら、両手に圧は入れないで、ただ体に軽く触れているだけにしょう。しかし、体に軽く触れているだけでは、すぐとまってしまうようだったら、最初の手の圧を継続して体に加えて行こう。体がその圧に抵抗して後ろに倒れてくるまでその圧を継続して前のめりになるのを進行させよう。

 

体に加える圧は、最初だけで、あとは、ひとりでに体が前のめりになって行く場合、止まるまで、両手を体にフイットさせるだけにして、前のめりになってゆく体の動きに沿ってゆこう。そして体の動きが止まったら、両手で軽く圧を加えて、そのままじっと待っていよう。そうするとやがて後ろのほうに倒れかかって来る。その後は、先ほどと同じく、倒れてくる体に抵抗を与えつつ、倒れに任せて行こう。

 

 もうひとつ、極端な例がある。それは、布団から一旦起き上がり出したら、すっかり起きあがってもそのまま背中を直立させる(止まる)こともなく、前のめりになってうずくまってしまう場合である。無論、圧も加えないのにそうなってしまうのである。この場合、うずくまった姿勢に対して、やはり、後頭骨と、背中に軽い圧を加えてそのままじっとしていよう。やがて、後ろに倒れかかって来る。その後は、これまでとまったく同じである。

猫背は、骨格の前方偏向である。人の動きは、偏向している方向に動きやすい。例えば骨格が左回転に捻じれていれば、その者は、体をすぐ、左に回転したがり、その回転方向には特に機敏に応ずるであろう。首の付け根に指を当てただけで、抵抗なく起きあがったのは、骨格の前方偏向のためである。

     

 その者が、すぐ動きたがる動きを誘発することによって、その者の筋骨格系の偏向(ねじれ、ひずみ、ゆがみ)を瞬時に察知し、直ちにそれを修復することができる。 

 また、そのような動きを誘発することができなくても、その者の動きの前後差、左右差、上下差等を検査し、どちらが動きやすいか、その最も差異の著しい動きを他動的に行わせることによって、やはり修復がなし得る。

或る方向に『動きやすい』からこそ、その方向に『動きたがる』のである。両者の修復の原理はまったく同じである。機能的な『動きやすさ』に視点を置いた修復法に橋本啓三博士の『操体法』があり、無意識的に『動きたがる』に視点を置いているのが、現代の最も優れたオステオパス(オステオパシー医師)、ジョン・E・アプレジャーの提唱する『体性感情解放』である。前者と後者の違いは、他動的か自動的かのニュアンスの違いである。

 

 猫背解消のための幾つかのバリエーションを列挙したが、どの例にも共通した操作法があることに気づくであろう。それは、それほど大きな外力を加えることもないのに、おのずと始まった動きに対し、その動きが止まった時、軽く抵抗を与えるということである。そうすると、これまで動いてきた軌跡を、逆戻りし始めるということである。(操体法は逆戻りが始まったときを見計らって患者にポッと脱力させる。体性感情解放は、その始まった逆戻りに対してどこまでも抵抗し、阻止する。抵抗を瞬時加えて離すか、暫時加えているかの違いであるが原理は同一である)

 この原理の同一性は、偏向をさらに深めることによって、偏向を消去するということである。逆戻りに抵抗を加えるとは、偏向をさらに深めていることなのである。例えば、曲がった針金をさらに曲げることによって、もとの真っ直ぐな針金に戻すというのである。身体にとってそれは、奇異な感じがする。逆ではないかと。 そこが、物体と生身の身体との違いといえよう。 

 

 ここに、アルファベットのCの字型に曲がった、やや太目の針金があるとしよう。内から上下に伸ばそうとすると反発する。しかし、曲げを深めようと、上下に抵抗を加えると、素直に曲がってゆく。ここまでは身体も同じである。力は、偏向している方向に吸収されるのである。よって偏向は促進される。

 また、別の例をあげると、土の上に垂直に立てられた、棒の真上から、垂直の力を加えても棒は倒れない。しかし、斜めに立てられた棒の上から、垂直の力を加えれば、棒は容易に倒れる。垂直に加えられた力は動きたがる力として吸収され、動きたがる動きを促進するのである。この場合、棒の動きたがる動きとは、倒れたがっていることなのである。身体の一見、不思議に思える『動きたがる』動きも、こう考えると不思議でも何でもない。

 

 しかし、倒れた棒は、ひとりでに起きあがることはない。曲がった針金は、ひとりでに伸びることはない。ところが生身の体は、曲げられ、倒されても、そのまま抵抗を加えられていると、ひとりでに伸びて来たり、立ち上がって来たりするのである。この原理の説明は、幾つかあると思われるが、私は、橋本啓三博士の論、『抵抗を支点にして逆モーションが始まる』に与したい。そのためにも、動きの最後の停止姿勢に対し、どうしても抵抗が加えられることが必要なのだと思われる。

 

 

猫背解消のための三者三様のバリエーション、その動きの行き着くつくところは、極度の前方偏向の姿勢である。その姿勢に対し軽く抵抗を加え、その前方偏向の姿勢を、さらに一歩進めるようにじっと待っていると、これまで辿ってきた動きの軌跡を逆戻りしようとする。それに対し、抵抗を与えつつその逆戻りの動きに従う。そうすることによって骨格の前方偏向は解消し、その動きたがる動きは、とりあえず、お仕舞いになる。そして、次の操作に移行できる。

 

しかし、ここでもし、同じく抵抗を与えつつも、逆戻りに従わず、かえって逆戻りを阻止し続けていると、身体の中の、まだ他にもある、或る別の偏向(例えば、左右の捩れ等)を修復しょうという、新たな動きが現れてくる。そして、それにともない、半覚醒意識はさらに深まって来る。しかし、居眠りに移行することはない。

 深まった半覚醒意識は、潜在意識を呼び起こし、その身体の偏向の原因ともなっている心の傷を追体験させる。身体の開放が心の開放を促すのだ。その心の傷は本人も気づかないことが多い。これが、ジョン・E・アプレジャーの提唱する『体性感情解放』のテクニックである。しかし、ここではそこまで追求しない。なぜならこのノートは、初心者のために、手軽に、しかも専門家には引けを取らない、自動骨格修復術を身につけてもらうために書いたものだからである。

 

私の提唱する、居眠り時に骨格の修復を誘発させる、この療法と併用する療法のひとつに、今述べているアプレジャーの『体性感情解放』がある。しかし、それは最初の取っ掛かりだけを拝借するのであって、アプレジャーの本道に入ることは、今回は無い。今回は、入り口に入ったら、すぐ、わき道にそれる。それは、身体の偏向の動きを追いかけて行って、逆戻りし始めたら、それを阻止せず、その逆戻りに抵抗を加えつつ、その逆戻りに従うということである。それは、『体性感情開放』と橋本敬三博士の『操体法』の中間を行くやり方だともいえる。

 半覚醒意識の深まりを避けて、さっさと居眠りに入ろう。すると、まったく新しい分野が開けてくる。

 

 

仰臥で踵を上げさせドスンと落とし、全身の筋肉を弛緩させても、居眠りに移行しなかった場合、その者が猫背になっているだろうと予測しよう。この場合の猫背という意味は、かなり広い意味に使っている。腹痛をこらえると、背中を丸めてこらえる。そういう状況も、ここでは、猫背として扱う。体にストレスが加わると皆、猫背になる。ハードなデスクワーク、恐怖の対人関係、身構え、はりつめた生活をしている人、慢性痛を抱えている人、皆、猫背になる。へたに老いると猫背になる。

 猫背は、疾患を持っている者の、やむを得ない骨格偏向だと思って間違いない。これをまず解消するのが、施療の第一歩である。不眠症の人は、肩が、こんもり盛り上がって、ほとんど猫背である。そして肩こりを抱えている。猫背は体の偏向の、基本中の基本なのである。

                                                                         ノート目次 

      

                   胸椎~後頭骨を支えて骨格修復を誘発しょう。

 相手は、再び床に就いた。猫背による体の緊張は取れているはずである。快い居眠りに誘われているはずだ。先ほど、やってみてうまくゆかなかった、実験の型をやってみよう。今度はうまく行くであろう。

 

 腰が左右に大きく揺すれたり、ビンビンと脚を蹴ったり、左右の肩が前後交互に揺すれたり、首がブルブル震えるように動いたり、何か食べ物を咀嚼しているかのように、顎が動いたりするであろう。これらは皆、身体の骨格修復が始まった生理現象なのである。

 

その実験の型が終わったら、次は後頭骨を支えて、新たな修復を誘発してみよう。 後頭骨とは、頭蓋を構成している七枚の頭蓋骨の一枚である。この後頭骨を支えることによって、全身の骨格を修復させようということなのである。

                                                                        ノート目次            

 なぜ硬膜管が蛇行するのだろう。それは、硬膜管が蛇行しているからである。蛇行しているから、その蛇行をさらに深めることによって、蛇行を解消しようとしているのである。前述した、偏向を深めることによって偏向を取り除くという身体の生理現象を思い起こしてほしい。

譬えは的確ではないかもしれないが、もつれた紐を束ねて、川の流れの中で、左右に揺すり、なんべんも蛇行させると、紐のもつれが取れて、紐が一本一本まっすぐになってくる。そんなことにも似ていようか。

 

 硬膜管の蛇行が、後頭骨を支えている指先に伝ってきたら、指先をそのベクトルが伝わってくる方向に対して、カウンター(抵抗)を与えてみよう。蛇行のベクトルが左の方へ向かってきたら、右の方へカウンターを与え、右の方へ向かってきたら、左の方へカウンターを与えてみよう。そうすればそのつど、ガクッ、ガクッと椎骨が動き、脊椎関節の修復が行われる。そして、椎骨が硬膜管をロックしているところが、はずれる。カウンターといっても指先を動かすことはない。ほんのちょっと指先にカウンターの意識を込めるだけである。

 

 硬膜管が蛇行し始めると、後頭骨(この場合、頭部全体ということになる)はどうしても左右に揺すれることになる。それに対して、指先で軽く抵抗を加えて、後頭骨の揺すれを止めてみる。すると硬膜管が逆モーションの蛇行をし始め、それにより、椎骨や、関節が修復されることになる。

 後頭骨の揺すれを止めないで、動きにしたがって指を追従させると、頭部全体が左右に振り子のように動くことになる。これも硬膜管の一種の修復であるが、修復というよりも、硬膜管を弛緩させるという要素が強い。

 

両者をミックスさせた方がよいであろう。最初は。硬膜管を弛緩させるために、硬膜管の蛇行のベクトルに合わせて、指を追従させ、その動きが大きくなってきて、リズムに乗ってきたと感じられたら、ベクトルにカウンターを与えて、椎骨、関節の修復を誘発させてやる。この手順が最も効果的であろう。慣れてくると、そんなことを意識せずともおのずとそんなことをやっている。

 

 これで、居眠りしながらの、骨格修復を誘発する操作は終わった。操作により、体がどう改善したか、調べてみよう。何を物指しとして、施療前、施療後の違いを知るか。いろいろあろう。例えば、両脚の長さが揃ったとか、肩の高さが水平になったとか、脊柱の蛇行が無くなったとか、外見からその違いを検査するのも一つの方法である。しかし、ここでは、体幹の中枢がどう変化したかで、施療後の改善を知ろう。

 体幹の中枢とは、脊柱である。しかし、脊柱を外見からだけ見たって、その中がどうなっているか分からない。脊柱の中には、硬膜管が走っている。この硬膜管がどうなったかを検査することが、体幹の中枢を検分することである。

以下に述べる検査方法は、脊柱の中がどうなっているかを知るのに、最もシンプルで、正確な方法である。

 

 後頭骨を両方の手のひらで支え(手の甲は床に密着している)、頭頂から尾骨にかけて一本の、自転車のチューブが一直線に伸びていると仮想しよう。それを両の手のひらで、頭頂の方にきわめて軽く、まるで噛んだチュウインガムを、切れないように延ばすつもりで引いてみよう。

 引いてみて、頭頂から尾骨の間がまるで噛んだチュウインガムのように延びてくるような感覚を感じたら、今日の治療で、為すべき事は為した!と思って良い。患者さんがなんと言おうと、体は改善されたと胸を張って言える。硬膜管に、噛んだチュウインガムが延びるようなものを感じたということは、硬膜管のロックしていたところがはずれたということであり、今日という日の範囲内での修復は達成されたからである。

しかし、頭頂から尾骨にかけて、ところどころ、引っ掛かりを感じて伸びて来ず、手に綱引きのような抵抗感を感じたら、そこが今日の骨格修復で、すっかり修復し切れなかった脊柱の箇所だと考えよう。そして、そこを次回、修復することにねらいを定めて、やはり今日はこれで終えよう。症状の重いものは、一度に100%改善することは出来ないのである。

最初は全く、硬膜管が伸びて来なかったはずだ。その感覚の違いを施療後に知るためにも、施療に入る前に、後頭骨の下に両手を入れ、軽く、頚椎を支えて、その伸び、突っ張りの感覚を頭の中にインプットしておこう。

この検査法は、一番短時間で済み、なにより、体幹の一番深い部分の変化を知ることができる。

 

ちなみに椎骨の何番目がロックしているか、知る方法がある。操作時のように後頭骨を両手の指で支え、目をつむり、0.1.2.3…7(頸椎)。1,2,3…12(胸椎).腰椎1、2.3…5(腰椎)と順番に数えることである。するとロックしているところにガキッ、またはグッとてごたえを感じる。(0は後頭骨である)

 

                                                                           ノート目次           

        

補足操作、頚椎一番の回旋偏向修復の必要性

 

胸椎~後頭骨間の操作を終え、後頭骨を支点とした硬膜管の修復に移る直前に、頚椎一番の回旋偏向を修復した方がよい場合がある。それは、胸椎~後頭骨間の操作段階で、十分に居眠り状態に入っておれば、次の後頭骨を支点とした硬膜管の修復操作の途上で、頚椎一番の偏向は自動的に修復され、それによる硬膜管のロックが解除される場合がほとんどなのであるが、半覚醒状態が十分でなく、覚醒と半覚醒の間を行ったり来たりしているような場合、そのことを期待するには少し無理がある。つまり、この方法でもなお、半覚醒状態に入りきれないのは、頚椎一番の偏向がかなりひどいからである。そうなると、次の段階である後頭骨を支点とした、硬膜管の蛇行を修復するということも十分果たせなくなってくる。

椎骨の回旋偏向とは、簡単に言えば、捻転のことである。頚椎一番が右に回旋偏向している場合、『頚椎一番は、右に捻転している』と一般的に言う。以下、回旋偏向という七面倒くさい字面は捻転のイメージで読んでいただきたい。

  ただ、ここでなぜ、頚椎一番に限るのかという疑問が生じてくる。それは、重要である。このノートのクライマックスといってよい。この疑問が解けなかったら、焦点にすべきものがないということになり、『手技研』も『姿位の整体』も何の意味もない。

頚椎一番の偏向については、『第三章 テクニックに必要な概念』の最後の項に『硬膜管の捩れと環椎後頭関節』を設け、そこに詳細してある。そこを先に読んで、頚椎一番の修復の必要性を理解したうえで、テクニックを練習すべきであろう。

  頚椎一番は、体幹の捩じれの是正を、誰にもしられず、こっそりと実行している無表情な頚椎である。時効になっても、かっての密使を未だに遂行しているといういやな奴である。頑なに昔日の体幹の捩れの是正に固執している。その是正が身体を蝕んでいるということが彼にはわからない。やむをえまい。彼の働きで、それ以上に体幹が捩れるのを防いでいるともいえるからだ。しかし、それは、オーバリミットになったまま関節が錆び付いていることにも等しい。時々オーバホールしてやらねばならない。それが、四足歩行から二本足歩行に進化した人類に必要なメンテナンスである。おかげで、『手技研』、『姿位の整体』の存在理由ができる。車に定期点検が必要なように、頚椎一番のメンテナンスが必要なのである。

 

                                                                          ノート目次           

                         頚椎二番の位置を知ろう

 

 これから、頚椎一番の回旋偏向を修復する操作に入ってゆくのだが、その先にまず、頚椎二番がどこに位置しているか知らねばならない。というのは、頚椎の回旋偏向の概念とは、その直下の椎骨に対して言える概念だからである。頚椎一番は、頚椎二番に対して回旋偏向していることになる。というわけで、頚椎一番の位置と其の回旋方向を知るために、まず、頚椎二番の位置とその回旋方向を知らねばならない。しかし、位置はともかく、回旋方向は知る必要がないのではと言われるかもしれない。頚椎一番の回旋方向が、何か頚椎二番の回旋方向と関係あるのか?と。しかり、関係あるのである。頚椎一番は、一般的に頚椎二番に対して逆回旋しているのである(これは、頚椎一番、二番に限ったことではなく、関節というものの原理であると認識しておかねばならない。原理であるからすべてのどんな関節にも通用する。つまり関節は捻り合うようにして偏向するということである蝶番の開閉の原理である。一方が閉じれば、もう一方も閉じ、一方が開けばもう一方も開くという関係である)。

したがって、頚椎二番の回旋方向が掴めたら、頚椎一番の回旋方向が掴めたも同然なのである。(しかし、時には例外があるということはいつの場合でも忘れてはならない)

 

この二つの事柄は、いずれも触手で知らねばならない。

 受療者は仰向けになっている。操作しやすいように、受療者の背中の部分に図のようにクッションを敷いた方が良い。後頭骨を床から浮かせて操作するのに都合がいいからである。(この部分の図はない)

 施療者は、頭上に正座し、頭蓋下部を両手の手根部で支える。両手の指は伸ばす。すると、両手の指先が、首と肩の付け根あたりに触れることになる。その付け根で、ゴツッと指先に感じるのが、頚椎七番の棘突起である。頚椎七番の棘突起は、他の椎骨のそれに比べてかなり大きいため、指先にすぐそのように感ぜられるのである。棘突起に触れることにより、頚椎七番であることを知ることになる。

 そのように感じたら、今度は、そのまま指先をこごめて行こう。すると指先は自ずと、首の正中線(身体を縦に真っ二つに割って、身体の真ん中を上下に走っていると仮想できる線、解剖用語)上をなぞることになる。そのままずーっと、頭蓋方向になぞってゆくと、再びゴツッと指先に感ぜられるのがある。それが頚椎二番の棘突起である。頚椎二番も、頚椎七番と同じく棘突起が他の椎骨と比べて大きいため、指先にそのように感ぜられるのである。頚椎二番も七番と同じく、突出した棘突起に触れることにより、頚椎二番であることを知る。

 

  ここまでの手順は、頚椎二番の位置を確認してゆくまでのものである。頚椎七番とセットにして頚椎二番の位置を確認することには、それなりの意義がある。いずれも棘突起が、他の頚椎に比べて大きいということは、他の頚椎に比べて稼動域のジャンルに相関関係があるからであり、この両者を触れることにより、頚椎全体の歪みの動向を瞬時に判別することになる。

  ちなみに、頚椎は、合計七個あり、後頭骨下から数えて、順番に一番、二番…そして最後は、七番というように名称がつけられてある。

                                                                         ノート目次                    

 頚椎二番の回旋偏向の判別法

  

こごめた指先に頚椎二番の棘突起が感ぜられたら、左右の中指だけで棘突起を触れ直し、棘突起に触れている左右の中指の先端を起点にして、中指と手掌を伸ばそう。すると頭蓋下部を支えていた手根部は自ずと、尺取虫が伸びるように、頭蓋の上部の方に移動することになる。そうなると、頭蓋上部から頚椎二番辺りまで、手根、手掌、中指で安定よく支えることになる。これにより、これからの修復操作がしやすくなる。しかし、手掌部で首の皮膚を圧着しないよう、気をつけねばならない。不用意に頭蓋直下から耳の下部辺りを圧迫すると、吐き気を起こしたり、目眩を起こしたりする場合があるからである。ここは、人によっては過敏なところであるので、扱いに気を付けよう。

 伸ばした左右の中指だけで、その棘突起を支えるようにして、頭蓋を左右いずれかに回転させてみよう。しかし、その時点であっても、手根部がこれまでと同じく頭蓋を支えていることに変わりはない。

 左右の中指だけでその棘突起を支えるようにして、頭蓋を回転させるとは、顔が少しのけぞることになる。別の言い方をすれば、その棘突起を基点にして、そこから少し首を折ることになる。つまり、頚椎二番は頚椎三番を境にして後方に少し折れることになるのである。そのようにして頭蓋を回転させると、頚椎二番の左右の回転量の差が判別できる。もし仮に、右回転させると、どこまでも回転してゆくように感ぜられる場合、その逆の左回転は、あまり回転しない。この場合、頚椎二番は右方向に回旋偏向(過回旋)していると判断出来る。簡単に言えば、頚椎二番は、右方向に捻転しているのである。

 

 慣れてくるとそうでもないのだが、最初のうちは、左右の回転量の差がつかめにくい。左右とも同程度に回転しているとしか感じられない。それは、純粋に頚椎二番だけの回転領域を、技として設定できないからである。他の頚椎、例えば三番、四番も、頚椎二番の回転領域に参加させて、それを頚椎二番の回転領域と感じてしまうためである(これは、左右の中指で頚椎二番の棘突起を支えるということが、頚椎二番の固定、及び頚椎二番を基点とした頭蓋の回旋につながっていないためである)。

 この錯覚から逃れるには、頚椎二番の回旋偏向を、中指で直に触れて確かめるしかない。その判別法をこれから述べる。

 

 左右の中指だけで、頚椎二番の棘突起を支えるようにして、頭蓋を回転させるとする。まず右方向に回転させてみよう。すると左の中指の先端から側腹部にかけて、筋肉の柔らかさではなく、骨に当たるような感触を感じて来るはずである。反対に左方向に回転させてみると、同じように右中指の先端から側腹にかけて、同じような感触を感じて来る。これは、頚椎二番の横突起と呼ばれるものである。左中指に感じるものは、左横突起であり、右中指に感じるものは右横突起である。

 頚椎二番が回旋偏向しておれば、両中指に触れた左右の横突起の触感に硬軟の差が必ず生じる。一方は石ころのようなゴツッとした抵抗感(衝撃感)を示す固さ、一方は消しゴムにでも触れるようなクニャッとした抵抗感のない柔らかさ。回旋偏向しておれば、左右差がこのように感ぜられる。そして、消しゴムにでも触れるような、クニャッとした柔らかさを感じる横突起の回旋方向に、頚椎二番は回旋偏向しているのである。例えば頚椎二番を右回旋させて、左中指の先端から側腹部にかけて左横突起の感触が、消しゴムにでも触れるようなクニャッとしたものであった場合、その頚椎二番は、右方向に回旋偏向していると判断出来る。

 それはなぜかというと、例えばその頚椎二番が、右回旋偏向しているとすれば、それは普通以上に、どこまでもどこまでも右回旋したがっているのである。したがって、その頚椎二番を右回旋させて、その横突起に中指が触れたということは、その回旋偏向をさらに推し進める形で触れたことであるから、言い換えれば、行きたがっている方向に、追い風という指の当たり具合なのであるから、その横突起さんは、その中指君に抵抗することはないのである。『どこまでも追いかけて来ていいのよ、私もどんどん行きたいのだから…』ってな調子なのである。

 逆の場合を考えて見よう。

 逆の場合とは、回旋偏向している方向と反対の方向に頚椎二番を回旋させた場合である。当然その頚椎は、回旋したくない方向に、回旋させられるのであるから、『こん畜生!なんてことをしてくれるんだ、俺はもうこれ以上、回旋したくないんだ!テメエぶっ殺すぞ!』ってなわけで、その激憤が、横突起にゴツッとした石ころのような抵抗感として感ぜられるのである。偏向方向のベクトルと、中指が回旋させようとしている方向のベクトルとが正面衝突するからである。

 例えば、棘突起の両側面を左右の中指で支え、左方向に頭蓋を回転させたとき、右の中指に右の横突起が石ころのようにゴツッと感ぜられたら、その頚椎は、今、左回旋させたのとは逆の、右回旋方向に回旋偏向していると判断出来る。つまり、左回旋方向には、回旋量が少なく、右回旋方向に回旋量が多すぎるのである。

 

 回旋の偏向が指に伝わる感触は、金太郎飴の金太郎のようにワンパターンである。迷うことはない。安心だ。偏向方向に逆らう方向で指を当ててゆくと、ゴツッとした石ころに触れるように感じ、偏向方向に追従する方向で指を当てると、消しゴムにでも触れるようなクニャッとした抵抗感のない感触。

  この判別法は、頚椎二番だけでなく、全ての椎骨、すべての骨格関節(骨盤であれ、足関節であれ)に言えることである。回旋する椎骨であるなら、左右回旋させながら指で触れ、回旋しない関節なら、左右対称的に指で触れ、この硬軟の差を見定めることである。             

 石ころのようなゴツッとした固さ、消しゴムのようなクニャッとした柔らかさ、これらも、全ての椎骨、及び全ての関節の偏向を判別するための、一貫した感触である。この感触は、手技療法をする者にとっては、必須のアイテムである。

                                                                        ノート目次              

 

                    頚椎一番の回旋偏向の判別法

 

頚椎二番の回旋偏向が判別できたら、次に頚椎一番の回旋方向を判別せねばならない。

 しかし、頚椎一番は触手で確認するには、どこにあるのかほとんど分からない。 分からないのは当たり前である。なぜなら、骨格構造上、頚椎一番そのものが、頭蓋骨の縁に覆いかぶせられていて、その片鱗すら体表から触手できないからである。それは、骨格形状致し方のないことである。しかし、どういうわけか、頚椎一番が変位している者に限って、頚椎一番の横突起を仰臥姿勢のとき、その者の両耳の直下に指で触れることができる。棘突起はどうかとなるが、頚椎一番には棘突起そのものがない。つまり、頚椎二番や七番のように、ゴツッとした手応えを感じさせるものが頚椎一番にはないのである。しかし幸いにして、頚椎一番の横突起が他の頚椎に比べかなり長いため、仰臥姿勢のとき、横突起が両耳の直下、つまり乳様突起と下顎骨の間に顔を覗かせる。しかし、これも程度問題で、頚椎一番の変位の大きいものは分かりやすく、指で直接触れることができるが、そうでないものは、頭蓋骨を支える筋肉の下に隠れて、その筋肉の硬軟を通してしか感触されない。それでも、まったく触れられないよりましである。

いずれにしても頚椎一番の横突起を触手できたら、その偏向方向の判別方法は、頚椎二番のそれとほぼ同じである。ただ、二番と違うところはクニャッとゴツッとの感触を得るための両中指の位置が、二番の横突起ではなく、後頭骨下縁であるということである。つまり、後頭骨下縁に両中指の腹を当て、後頭骨をテコにして、頚椎一番を左右に回旋させ、クニャッとゴツッとの感触を得るということなのである。

こうなってくると、先ほど述べた一番の横突起が乳様突起と下顎骨の間に顔を覗かせているという情報はあまり意味をなさなくなってくる。その通りだが、それはそれで付随的情報として、ないがしろにできないものである。左右のいずれの側に頚椎一番の横突起が顔を覗かせているかということは、頚椎一番の変位の状態を知る上で大変な情報になる。

 メインは、後頭骨をテコとして、クニャッとゴツッの感触を得ることである。頚椎二番と違って、直接頚椎一番の横突起に触れることができない、ましてや、横突起の先端が耳の直下に顔をのぞかせていない場合、どこに頚椎一番の横突起があるのか皆目見当がつかない。それは、イメージでやるしかない。乳様突起のこの辺りに頚椎一番の横突起があるはずだと想像して操作を行うのだ。頚椎二番の偏向方向の感覚、クニャッと、ゴツッ。この感覚がものにできておれば、どうってことはない。少しアベレージが上がっただけだと思えばよい。

クニャッとゴツッ。この感覚は、二番のそれに比べ非常にかすかにしか感じられない。頚椎一番の横突起は、直接ではなく、頭蓋骨を通てでしか、指に感触できないからである。この時、触手感覚がものをいう。

 

 ここまで読まれて、『俺にはどだい無理だ。俺は昔から鈍感で不器用ときている』と、このノートを投げ出したくなったかも知れない。

 ところがである。頚椎一番の回旋偏向方向は、頚椎二番のそれが分れば、誰にでも分かるのである。前述したように、これは頚椎一番に限ったことではなくすべての関節にいえることであるが、すべての椎骨は、直下の椎骨に対して、逆回旋偏向するという関節の一般法則があるのである。それは前述したように、関節とは、構造上、そうならざるを得ないからである。

というわけで、もし仮に頚椎二番が右回旋偏向しておれば、頚椎一番は、左回旋偏向しているということになる。頚椎二番の回旋偏向を知れば、いちいち頚椎一番の回旋偏向を調べる必要はないわけだ。しかし、指先の感覚を磨くためにも、また、例外のない法則はないという鉄則を知るためにも、その都度、頚椎一番の位置と回旋偏向を指先で確かめる癖を身につけておいたほうがいい。そういう微妙なところを手探りすることによって、頚椎二番、頚椎一番、そして後頭骨の、この三者の捩じれの度合い、その連結状況が、目に見えるように掴めてくるからだ。

操作が終わったら、この三者の関係はどう変化したか見定める必要がある。操作がうまくいったか行かなかったかのバロメータになる。この三者は、体幹の捩じれを是正する上で非常に重要である。詳細は『第三章』を参照されたい。

                                                                           ノート目次

 

                 頚椎一番の回旋偏向の修復法1 『間接法』

 

 頚椎一番の回旋偏向が分かったら、その修復方法の手順を説明する。

 骨格修復の基本は、猫背修復の項で述べたように、偏向をさらに推し進めることにある。偏向を限界まで推し進めると、逆モーションが起こって偏向が消失するということを説明した。今の場合、頚椎一番と二番は、互いにタオルを絞るように偏向し合っているのであるから、ますますタオルを絞るように操作してゆけばよいということになる。

 

 タオルを絞る時、左右の手のうち、どちら側が、手前に来るであろうか。右利き、左利きによっても違うし、右ひねり、左ひねりによっても違うはずである。そういった事を勘案し、タオルを絞る時、前方に行く手の親指と中指とで、頚椎二番の左右の横突起(頚椎二番の棘突起の1横指頭蓋骨寄り辺りになる)を包み込み、手前に来る方の手で頭蓋骨を支えることをするのである。頭蓋骨を支えながら頭蓋骨を回旋させることによって頚椎一番を回旋させるのである。直接頚椎一番に触手して回旋させるのではない(それは骨格形状の上でできない)。頭蓋骨をテコとして使うのである。そうすることによって、頚椎一番の回旋偏向をいっそう進めることを図るのである。右ひねり、左ひねりによっても、得て不得手が生じるから、やりやすい手の使い方で行った方がいい。

 前方に行く手の親指と中指とで包み込んだ頚椎二番の左右の横突起は、動かさない。つまり、実際のタオルを絞る時は、左右の手が同時に正反対の回旋を行うが、この場合は、前方に行く手が動かずに、手前に来る手だけが回旋の動きをすることになる。頚椎一番は、頚椎二番の上で、回旋偏向を深めることになる。頚椎二番はあくまでも頚椎一番の支点なのである。

 

頚椎二番の左右の横突起を包み込む親指と中指は、軽く皮膚にフィットするようなかたちで包み込む。ぎゅうっと首を掴むようにはしない。軽く皮膚に指をフィットさせるだけで、頚椎二番は固定される。つまり動かなくなる。

 

 頭蓋骨を支え回旋させる時、まず最初、頚椎二番の左右の横突起が分岐点となるように首を後方に少し折らねばならない。つまり、首は、頚椎二番の左右の横突起を境にして少しのけぞることになる。少しのけぞらせながら、頭蓋骨を回旋させるのである。そうしないと、頚椎一番だけを回旋させようと思っているのに、頚椎二番をも回旋させることになり、頚椎一番の回旋偏向は修復されない。これと同じ要領は、頚椎二番の回旋偏向を判別する時の操作法で述べてある。先の項に戻って参照されたい。

 

頸椎二番を支点にし、頭蓋骨をテコにして、想定される頸椎一番の稼働域をしらべよう。

たとえば、やりやすさは、人によって違うが、私の場合、左手を頸椎二番の横突起を親指中指で包むのに使い、右手を後頭骨を回旋するのに使うのがやりやすい。回旋はおのずと右回旋がしやすいとなる。したがって、左回旋の場合は、手つきが逆になる。つまり、左手が頸椎二番横突起を包んでいたのを、右手にし、右手で後頭骨を回旋していたのを左手ですることになる。

この要領で、頸椎一番を限界まで回旋して、後頭骨の下縁に、クニャッかゴツッかを感じ取ることになる。

クニャッの方向に回旋させて、頸椎一番の修復を図るとする。

頭蓋骨を通して頚椎一番はどの程度まで、回旋させるのかが問題になる。軽く回旋させて首の回旋が止まるところまでである。限界まで一度にぎゅうと回旋させるのだと思ってはいけない。実際は限界まで回旋させるのであるが、最初からいきなりそうするのではなく、筋肉が緩むのに応じて徐々に限界まで回旋してゆくことになる(最初から筋肉のゆるんでいる者は、二段構えの必要はない。ここはケースバイケースということになる)。具合のいい水道の蛇口は、軽く捻るだけで水が止まる。最初、回旋した首が止まる位置もそういう感覚である。

 

 回旋した首が止まる位置まで来たら、そのまましばらくじっとしていよう。しかしただじっとしているのではない。首の回旋方向にほんのわずかな回旋力を、頭蓋骨を支えている手で加えておかなければならない。わずかな回旋力とはどのくらいの力かというと、約1グラム、つまり一円玉ぐらいの重さの力である。しかし、これでは何も力を加えないのに等しい。そうだ、そのとおりなのである。たてまえは、ほんの少し力をくわえることになるのだが、実際は加えようという意思だけで十分なのである。下手に1グラムの力を加えようと思ったら、大変なことになる。名人以外1グラムの力を加えることはできない。たいていは20~40グラムぐらい加えてしまう。頚椎に痛みを起こす。私もこんなことは書かなければ良かったと思っている。しかし、間接法の原理は伝えねばならない。問題は意思だけなのである。加えようという意思だけで十分、1グラムの力は加わるのである。これがオステオパシーの間接法の極意である。

回旋した首が止まる位置まで来たら、そのまましばらくじっとしていなければならない。これは鉄則である。ゆめゆめ、ここで1グラムの力を加えて修復を成功させようと思ってはいけない。

確かに、動きが止まったところで、さらに1グラムの圧をくわえ、つまりそのことによって回旋偏向をさらに深めることによって逆モーションを起こさせ、それにより偏向の修復を成させるのであるが、これはあくまでも理論である。特に頚椎の場合は気をつけなければならない。1グラムの力は加えようと思うだけで実際に加えなくても加わるのである。

猫背修復の項でも、1グラムの力を加えると述べてあるが、それも1グラムの力を加えるという意思だけなのである。ただ、その場面では特にそれにこだわらなかったのは、猫背修復の場合、少々力が余計に加わっても痛みが来ないからであり、少々力が加わったほうが、猫背修復の場合、逆モーションが起きやすいからである。しかし、動きが止まったところから1グラムの加圧は間接法の基本概念として頭に入れておいてほしい。ケースバイケースで、意思だけの場合もあれば、実際に1グラムを目論むこともある。くどいかも知れぬが、意思だけでその意思が手のひらと指先に伝わり、そこに約1グラムの圧が生じるのである。

 

 首の回旋が止まったところで、さらに回旋させようという意思を起こしたまま、じっとしていると、筋肉が緩んでくるに従い、首が新たに回旋をし始める。それに追従するようなかたちで、頭蓋骨を回旋させてゆこう。すると限界にたどり着き、首の回旋は止まる。ここをもって頚椎一番の姿位設定は完了することになる。

 そのまま頭蓋を回旋させようという意思を持ちこたえたままじっとしていると、その間、約90秒。頚椎二番の左右の横突起の少し後頭骨寄り辺りに、ドドドドドド…という血流の拍動が感じられるはずだ。頚椎一番に限らず、関節が正しい位置に収まった時、毛細血管に多量の血液が運ばれ、それが拍動となって現れるのだと思われる。これは、目的の関節が、正しい位置に収まったぞというシグナルなのである。このシグナルをもって、頚椎一番の修復操作は成功したことになる。

 ドドドドド…という拍動が始まったら、その拍動を静かに感じていよう。そしてその拍動が終わったら、頭蓋の回旋を元に戻し、顔を真正面の位置にし、後頭骨に左右の指先を鼎のようにして当て、肘か手の甲を床に着けて、頭蓋骨を支えよう。そして次の操作に移ろう。

 

 この頚椎一番の修復法こそ、オステオパシーでいう『間接法』のテクニックである。しかし、このテクニックは穏やかな方法だからと言って侮れない。手指感覚の敏感さが要求されるのであって、設定の照準をピタッと合わせられるまでになるには、それなりの訓練が必要である。ピタッと合った時のみ、拍動がやってくる。それは短兵急にやってくる。拍動が来なかったからと言って、やり直すのは無駄である。チャレンジ精神は買うが、熱意だけでは、相手は振り向いてくれない。やはり切れのいい技が物を言うのだ。

 なぜやり直すのが無駄かというと、一旦動いた骨は、当分の間動かないという頑固親父のハートが頭をもたげ、その椎骨は不機嫌になる。そして、自ら修復の動きを止めるからである。

                                                                ノート目次  

 

第三章  テクニックに必要な概念

            ―身体のメージ化―

 

 

                 頚椎一番の回旋偏向の修復法2

『頚椎全体の偏向を深めることによるバリエーション』

 

オステオパシーの間接法は凄いが、初心者向きではない。そうやすやすとこの神秘にも似た拍動を呼び寄せることはできない。神秘の拍動がなかった時、あなたのバツの悪さを救ってくれるのがこの手技における独自の姿位設定である。これは、この神秘を会得するまでの臨床的つなぎとも言える。

 

  頚椎一番が正しい位置に入ったぞというシグナル、つまり、頚椎一番の偏向が消失したぞというシグナルが感ぜられるのは、頚椎一番の姿位設定を終えてから、最低約90秒経過後である。これは、頚椎一番の姿位設定が非常にうまくいった場合である。この約90秒は、関節が正しい位置に入るための最低必要な時間といわれている。骨がA点からB点に移行するのに約90秒の生理時間を必要とするというわけである。

 しかし、これは姿位設定がドンピシャリと、うまくいった場合のことであって、マイナーな姿位設定の場合、こんなドラマチックなことは起こらない。この後、何分待とうと、ドドドドド…という拍動はやってこない。ウンともスンとも言わないのである。しかし、ここで早まってはいけない。あなたはまだ見捨てられていないのである。

 

 拍動がやってこなくても、受療者が苦痛を催さない限り、頚椎一番の回旋偏向は、修復の経過中にあると考えてよい。しかし、その修復の経過とは、オステオパシーの『間接法』とは違う要素に移行している最中のものであると理解して欲しい。拍動がやって来なかったかぎりにおいて、間接法は水泡として消えたのである。無念かも知れぬ。しかし、これまでの操作は無駄骨ではないのだ。平泉に消えた義経は、蒙古で、ジンギス汗となって蘇る?

  マイナーな設定により、受療者が苦痛を催しているか否かを見定めることは、これからのこの操作において非常に重要である。

 もし仮に、顔をしかめているような場合、腕にしびれが来ると言うような場合、頭蓋が意図する方向に回旋してくれないような場合等、何か違和を感じたら、即、操作を中断し、頭蓋を仰向け状態にもどそう。そのまま操作を続けるのは絶対にいけない。症状をより悪化せることにもなりかねない。

 頚椎一番の姿位設定を、全く逆の設定にしているか、ぞんざいな扱いのため、重要なポイントを外しているか、力を入れすぎていないか、それらのことが考えられる。頚椎二番の回旋偏向をもう一度確認し直してから、再度、頚椎一番の姿位設定をやろう。

 

 しかし、90秒経過して、拍動がやって来ずとも、受療者が心地よさそうであったら、頚椎一番の回旋偏向を更に深める意思をもったまま頭蓋を支えていよう。姿位設定はピタッと照準が合っていなくとも、大筋の方向としては、身体に良い作用をもたらしている。そのまま2、3分経過してもよい。その間、頚椎一番は、どんどん修復されてゆくはずだからである。もちろん『間接法』とは違う別の要素によってである。

 修復されているのになぜ、拍動がやって来ないのかと疑問が生じるが、それは、頚椎一番と二番との姿位設定がドンピシャリといかず、別の要素によって修復が行われているため、修復が緩慢にしか行われないからである。そのため、毛細血管にやってくる血流も緩慢なため、拍動をおびないのだと考えられる。逆に考えれば、オステオパシーの『間接法』はそれだけ凄いのだといえる。

 

  拍動がやって来ずとも、頭蓋を回旋させたまま、本当に2、3分経過してもよいのか、身体に変調を来たすことはないのかと心配されるかもしれない。その心配はいらない。なぜなら受療者が心地良く感じている限り、その設定は、身体に良い作用を及ぼしていることに間違いないからである。

 

 身体の動きやすい方向、身体の動きたがる方向、それは身体の偏向している方向であり、その偏向を更に深めることによって、その偏向は消失する。その時、身体は『快』の感覚を伴う。言い換えれば、身体は、快の感覚を求めるがゆえに、動きやすい方向、動きたがる方向に動くのだと言える。

姿位設定のために頭蓋の回旋を施し始め、その回旋を遂行し停止している時、今度は、受療者の方で、自らの意思で、頭蓋の回旋を更に深めることがあるのはそのためである。頭蓋が自ら回旋を深めるかぎり、たとえその設定がマイナーなものであっても、根幹的には間違っていない。なぜならその時、快の感覚が施療部(今の場合、首)に広がっているため、受療者は、さらなる快を求めて頭蓋の回旋を深めてゆくからである。今、頚椎一番の姿位設定は、オステオパシーの間接法を離れて、その同一原理の他の様々なテクニックに移行してゆく。

 実は、この『快』の身体感覚と身体の偏向の追従(深まり)、及び偏向の消失とを結び付けて骨格の是正を図っているのが、故橋本敬三博士が提唱した『操体法』である。オステオパシーの『間接法』が操体法に移行してゆくのは、原理の同一性から当然のことである。また同じく、原理の同一性から『操体法』は、アプレジャーの『体性感情解放』に移行してゆく。

 

  拍動がやって来なかった時、オステオパシーの『間接法』は、技が成立しなかったと思って諦めよう。そしてそのまま、快の感覚に基づいた『操体法』の原理に入ってゆこう。偏向を深めることは、身体にとって快感なのである。受療者の意思に追従し、どんどん偏向を深めよう。どんどん快感に浸ろう。

 頚椎一番の修復法は、何もオステオパシーの間接法にのみ限るわけではない。操体法もあれば、体性感情解放もあれば、活元運動もあれば、なんと、我が姿位の整体もあるのだ!

 

 拍動がやって来なくても、そのまま頭蓋を支えていよう。受療者が、そうされていることに快を感じている限り、当分の間、その姿位を保っていても、身体に良い作用を及ぼすことはあっても、害を与えることはない。もし、害を及ぼすことになるとすれば、それは身体の緊張感、顔の表情の不快感、苦痛、となって現れる。実際、拍動がやってこなかった場合、『気分はどうですか』と受療者に尋ねたらいい。おうおうにして、返事をする気力もないくらい気持ちがいいことが多い。全身の筋肉の弛緩が始まっているのである。頚椎一番の設定が、オステオパシーの間接法ほどにシビアでなくてもいいという理由がここにある。

またもしくは、身体自身が新たな姿位設定を求めて、首が屈曲するか伸展するか、逆回旋を要求するか、身体が、身をくねらせるか、何らかのアクションが起こる。これは、頚椎一番の姿位設定という『快』から新たな『快』を求める動きであり(つまり最初の身体修復の快感を十分堪能し、退屈してしまったのだ)、その動きを満たしてやるかぎり、身体は新たな修復に入るのであって、一瞬の(つまり最初の身体修復の快感を十分堪能し、退屈してしまった時に生じる退屈感による)身体の緊張、不快、苦痛は、次の動きに入った瞬間、消えるものであり、身体に害を与えない。

 

 新たな動きが起こってくるとなると、『間接法』は、『操体法』を経過してアプレジャの『体性感情解放』へと移行したことになる。しかし、どちらも同一原理から成り立っているのであって、どこかで線引きをしてテクニックの独自性を争っても始まらない。奇しくも古今東西、骨格修復の同一原理に至ったという、身体の不思議なメカニズムに驚くことが何より大切である。それは身体の畏敬につながる。身体に対する畏敬を忘れて、手技療法は始まらない。

 『操体法』、『体性感情解放』、そしてここで初めて提示する、野口晴哉の『活元運動』、これらの原理について説明せねばならないのだが、その前に、実際、これらの原理に移行することによって、生起される様態を挙げてみよう。その方が具体的で分かりいいであろう。次に挙げるものは、これまでに臨んだ、その代表的なものである。

1.      頭蓋の姿位設定を終え、そのままじっと頭蓋を支えていると(もちろん回旋の意思を持ちこたえている)、突然頭蓋の回旋が始まる。それは常軌を逸している。今にも首がちぎれんばかりに頭蓋が回旋してゆく。顔が後ろの背中を見たがってているみたいである。ひきつけでも起こしたのか驚かされる。力の有らん限り、顔が後ろの背中を見ようとしている。そのため片方の肩が起き上がってくる。したいがままにさせておく。傍から見ると一見苦しそうなのであるが、苦しかったらこんなことをするわけがない。何らかの身体の欲求があってやっているのだから、『快』の一種に間違いない。頚椎一番のみならず、後頭骨から、肩にかけての骨格の偏向を修復しようとして、たぶんこうなってゆくのだろう。そんなに後ろの背中を見たけりゃ、見せてやろう。てなわけで頭蓋の回旋を更に深めるべく、回旋したがっている方向に回旋力をほんのチョット加えてやる。するとますます回旋してゆく。力の有らん限り首を捩じってそのまま微動だにしない。と、突然一気に脱力して、顔が真向かいをむいてしまった。意識はあるのだろうが正体のない感じである。そのうち寝息をたててしまった(以上は、操体法的である)。即、次の後頭骨を支点とした硬膜管の操作に入る。

2.      頭蓋を回旋し支え、しばらくしていると、突然、そう、いつだって突然なのだ。神秘にも似た拍動どころか、ゾンビのごとく、首が起き上がってくる。しかも首を捩じったまま起き上がってくるのだ。何か俺に恨みでもあるのかと、一瞬恐怖にかられる。一定程度起き上がって来ると首は真向かいにもどりはじめた。その間、ずっと後頭骨に手をあてたまま、その動作に追従してゆく。結局たどりついた姿位は、うな垂れているような、机に向かっているようなものになってしまった。一方の手を後頭骨、一方の手を肩と首の付け根に当て、その姿勢を維持してやっていると、身体がビクビクカクカク動き出した。居眠り状態に入ったようだ。肩と首が床に落ちてゆく速度に少し抵抗を加えながら、その速度に合わせるように、肩と首を床に下ろし、即、次の操作に入る。猫背修復が完全でなかったために、消去しきれなかった部分が、このチャンスをとらえて猫背退治に移行したのであろう。(以上、体性感情解放的)

3.      頭蓋を回旋させたまま、支えていると、頭蓋が、支えている手をグイグイ圧してくるではないか。首がのけぞって来るのである。顎が上にせりあがり、後頭骨が床に着いてしまった。それでもなお、グイグイのけぞってゆくのである。そして目は半眼になり、恍惚としているようでもあり、居眠りに陥っているようでもある。こういったケースの場合、瞑目しているよりも、半眼の場合のほうが多い。時折、顎が何かものを素早く咀嚼しているかのように動く。20分近くその態勢になったまま動かなくなってしまうこともあり、心配になって頭蓋を起こそうとするのだが、従ってくれない。頑としてのけぞったままである。何が楽しくてこんなことをしているのだろうと不思議になって来る。窒息しないのかと思われるくらいである。普通こういう極限の態勢になれば、顔が真っ赤になるか、額に青筋が立つか、息苦しくなって来るはずなのであるが、そういったことは何一つない。身体の欲求があってそうなっているため、普通の姿勢と同じ生理状況なのであろう。そのうち、突っ張っている感じがなくなり、頭蓋がただ後ろに垂れているだけのような感じがしたので、試みに頭蓋を起こそうとしたら、今度は素直に頭蓋が起きてきた。それで、ゆっくり静かに起こす。ただし、後頭骨から頚椎七番、即ち全頚椎にかけ、一本の棒のようになるよう、工夫しながら、実にゆっくり起こす。これは、次の操作で、骨格修復の動きを誘発させるための引き金となるからである。(以上、体性感情解放的)

4.      頭蓋を回旋させたまま支えていると、頭蓋が回旋方向に更に回旋しはじめた。頭蓋を支えている手をそのまま回旋方向に追従させてゆく。すると、今度は逆方向に回旋し出したではないか。何だかよくわからねー、仕方ないか、てな具合で素直に頭蓋を支えている手をそのまま逆方向に追従させてゆく。するとまた逆方向に回旋しだしたではないか。頭蓋が左回旋、右回旋を反復しながら、首が振り子のように動き出したのである。しかもだんだん早くなって来る。頭蓋を支えている手が追いついて行けないくらいになって来る。エエーイ勝手にやれーと手を離すと、しばらく同じ動きをやっている。そのうち遅くなってきたかなと思ったら止まってしまった。再び手を沿えると、また動き出した。始めはゆっくり、そしてだんだん早くなって来る。それで今度は、動きに対し、素直に手を追従させるのをやめ、若干、抵抗を与えつつ手を追従させることにした。すると今度は、首が振り子のように左右に動くのに合わせて腰から下肢にかけて、金魚運動のように動き出したではないか。首が右に曲がれば、腰から下肢にかけても右に曲がり、左に曲がれば左に曲がる。ゆらーり、ゆらーり、やりだしたのである。いつまでもやっている。いっこうにおさまる気配がない(以上、活元運動的)。こちらも頭蓋を支えている手がいいかげんくたびれてきたので、抵抗しつつ追従するのをやめ、逆戻りしないようにあっさり抵抗を加えてみることにした。その時、頭をよぎったのは、アプレジャーの『体性感情解放』である。頭蓋が左回旋から右回旋に移行しようとする時、逆戻りしないように抵抗を加えて動きを止め、余計なことをやらずに、さっさと任務を遂行しやがれとばかり、偏向回旋の深まりの方へと抵抗を与えてゆく。と、逆回旋しようと頭蓋がグイグイ回旋させようとする。戻してなるものかとばかり、手に力を込めて回旋を阻止していると、今度は、身をよじって頭蓋を私の手から振りほどこうとし始めた。犬の首根っこを掴まえて地面に押し付けると、振りほどこうともがく。それに似ている。本人は真剣なのであろうが、本当に真剣とも思えない。本当に真剣なのであるなら、満身の力を込めればすぐほどけるはずである。受療者は、小柄な若い女性であったが、私とて、思いっきり、力を込めて頭蓋を押さえているわけではない。車のハンドルの据えきりをやっている時の力程度である。真剣なわりには、必死の思いというものが伝わって来ないのである。首根っこを掴まえられて地面に押し付けられている犬は、必死にもがく。そういうものがないのである。もがくこと4、5分、急におとなしくなったかと思ったら、身体が、ピクピクカクカク動いている。首が一本の棒になっているのを崩さないよう、静かに頭蓋を真向かいに向け、次の操作に入る(以上、体性感情解放的)。

5.      間接法の姿位設定をしてじっと待っていても、神秘の拍動がやって来ないので、ほんのチョット頭蓋の偏向を深め、全頚椎が一本の棒のように感じられるように、首全体をほんの少し後方にやると、居眠り状態に入ったらしく、身体がピクピクカクカク動き出す。再び、一本の棒となった首全体を崩さないように、静かに頭蓋を真向かいに戻し、後頭骨を指で鼎のようにして支え、後頭骨に感ずる硬膜管の蛇行にカウンターを与えると、身体が例のごとく動き出した(以上、姿位の整体的)

 

 以上、これらの様態は、オステオパシーの『間接法』の範疇に入らない。なぜなら、間接法は、目指す特定の関節を修復するために、関節内の一方の骨を動かないように固定することが原則だからである。それゆえ間接法は、逐次、そのようにして全身の中の一つ一つの関節を修復してゆくのであって、複数の関節を同時に対象とすることはない。例えば、今挙げた様態の例では、後頭骨から全頚椎にかけ、そして胸椎、腰椎にまで作用が及び、結果的には、全身の骨格に作用が及んでいることになる。

 こういう複数の関節ないし、全身の骨格が修復の対象となるのは、今の場合、『操体法』か『体性感情解放』か『活元運動』のいずれかになってくる。

 しかし、今挙げた様態のいずれが『操体法』で、いずれが『体性感情解放』か『活元運動』か、線引きするのは非常に難しい。それは、操作する者の側で、いずれのテクニックをも明確に施す意図がないからである(ただし、4.の後半は除く、それは、明らかに『体性感情解放』を施している)。

 

 施療者の意図により、これらの様態は、『操体法』、『体性感情解放』、『活元運動』いずれにも移行しえる。そして今これらは、いずれにも線引き化されない未分化の様態なのである。それをあえて仕分けしようとすれば、いずれの方へ移行しやすいかをもとに、『操体法的』、『体性感情解放的』、『活元運動的』というふうに考えられることになる。

                                                                           ノート目次        

                          『操体法』と『体性感情解放』と『活元運動』

 

  『操体法』とは、例えばこうである。

 寝違いを起こしたらしく、首から肩甲骨の間にかけて、痛みがある。首を回すと特に痛みが走る。こういう場合、『操体法』ではこういうことをする。

 受療者を椅子に腰掛け、左右どちらの方に首を回すと痛みがあるか調べる。また左右どちらの方に首がより多く回るかをも調べる。おおむね、より多く首が回る方に痛みがないはずである。つまり、より多く首が回る方に『快』の身体感覚が伴っているわけである。操作は、次のようなことをする。

 受療者に、より多く首が回る方に首を限界まで回してもらう。可能な限り、首を限界まで回せば、より気持ちがいいというのならば、とことん限界までやってもらう。施療者は、それを追従するような格好で、頭蓋の両側に左右の手を添え、限界まで追いかけてゆく。限界まで来たら、それを更に深まるように回旋力を頭蓋に加え、受療者に回旋を元に戻すように指示する。受療者は、元に戻そうと逆回旋しょうとするが、施療者の回旋力が抵抗となって戻らない。両者の力が均衡したところで、両者同時に、例えば、イチ、ニッ、サンで、ポッと脱力する。うまく行くと、たったこの一回で、一ヶ月も苦しめられた寝違いが嘘のように消える。

 同じように腰痛の場合。

 受療者は、床に仰向けになり、膝を立てる。施療者は、両膝頭をそろえて左右に倒し、どちらの側が倒れやすいか調べる。そして受療者に倒しやすい側に限界まで倒してもらう。以下は、先述した寝違いの場合と全く同じである。

 操体法は、左右対称の動きが作れるところなら、身体のどの部分、どんな体勢でも、そこが、治療の個所となる。例えば、腰痛の原因は、何も骨盤とか、腰椎だけが原因とは限らない。肩の左右の挙上差が、腰痛を引き起こしている場合もある。そんな時は、両肩の挙上という体勢を整えることがねらいとなる。

 操体法は、身体の一部分を操作しても、全身を整えていることになる。

 

 体性感情解放とはどういうことかというと、

 例えば、交通事故でムチウチの症状で苦しんでいる人がいるとする。この人をどのように治療するかというと。

 椅子か治療ベッドに腰掛けさせ、脱力してもらう。すると姿勢は、直立不動ではなく、楽な適当な姿勢になる。施療者は、受療者の背後にまわり、一方の手を頭頂に、一方の手を背中の適当なところに当てる。そして、頭頂に当てた手から、身体内に向けて、約1グラムの圧を加える。すると後頭骨は回旋偏向している方向に回旋しはじめ、それに連動するかたちで脊柱が動き出し、体幹が動き出す。それらの動きとは、身体の偏向が顕わになる形で動き出すことであり、体幹の動きは四肢関節をも動かし、次から次ぎへと動きが繰り出され、しまいには、椅子からずり落ち、床を二転三転、転げまわることもある。施療者は、手の位置をほとんど変えることなく、ただその動きに追従してゆくだけである。新たな動きが顕現すると、一定時間、その動きは静止画のように停止する。するとまた動き出し、別の動きが顕現して来る。そしてまた一定時間停止する。

 ここで大切なことは、受療者が一度辿った動きを逆戻りしようとした時、それを絶対させないよう、抵抗を加えて、その逆戻りの動きを阻止するということである。そうすると受療者は、新たな動きを顕わにしてゆく。そして、どんどんどんどん新たな動きの顕現と停止を繰り返し、最後に動きはピタッと止む。その止んだ時の姿位こそ、これまで、様々な姿位を顕現してきて、最後に残った一枚なのである。身体内に埋もれていた、この最後の一枚の姿位こそ、交通事故の衝撃により身体がダメージを受けた時の姿位なのである。つまりこの姿勢でもって衝突したのである。

 この最後の一枚の姿位が顕にされた時、苦しんでいたムチウチ症から解放される。この時、何がしかの感情が発露される。衝撃寸前の恐怖、その時、脳裏をよぎった家族への思い等。この最後の一枚の姿位が顕にされるのと、その時の感情が発露されるのとは同時である。この時、施療者は、この感情の発露に対して、理解を示し、寛容の心と言葉で対峙することが大切である。これは私なりの『体性感情解放』理解である。もっと原典的に理解したい方は、ジョン.E.アプレジャー著『頭蓋仙骨治療』『体性感情解放』を読まれたい。

 動かない最後の一枚の姿位、これはオステオパシーの『間接法』の姿位設定と同等であると思われる。拍動の代わりに、感情の発露がやって来る。

 間接法のそれは、たった一つの関節の設定なのであるが、これは全身の関節の姿位設定なのである。これは人為的に設定できない。これこそ、身体のことを知っているのは身体だけであるということの何よりの証明になるであろう。

 最後の一枚の姿位を顕現するということが治癒に至らしめるとは、その姿位とは、身体が事故の衝撃を受けた時の姿位であり、同時に衝撃により偏向した骨格の姿位でもある。迷路の出口は、迷路の入口なのである。それは、もっとも痛い姿位であり、もっとも安らかな姿位でもある

 そこに至るまでに、経過した幾重もの姿位とは、事故以前に被っていた身体の偏向であると思われる。これらの偏向を全て解消して、最後の事故の姿位にたどりつくのであろう。新たな動きが生起するたびに、その動きの停止が起こるのは、その動きが提示し、姿位設定した骨格の偏向を間接法のように身体が修復しているからである。その修復時間が停止時間なのである。それらをすべて修復した後、最後の修復に身体は取り掛かるのだと思われる。動きが停止している時、脳脊髄液のリズムは停止している。リズムが奏し始めると同時に、身体は再び新たな動きを開始する。脳脊髄液のリズムが停止し、その間、身体が鎮まり返っているのは、その間に身体は、己の骨格修復に没頭しているからである。

 『体性感情解放』のみならず、身体が己の骨格修復に没頭している瞬間は、あたかも、昆虫がさなぎから脱皮して成虫になる瞬間に立ち会っているような気がする。鎮まりかえった動き、それに対し施療者はなす術がない。治療とは、あくまでも生みの取っ掛かりを作ってやることでしかない。人為的に何かを行使してはいけないのだと、つくづく思い知らされる。

  『間接法』で拍動がやって来る時も、脳脊髄液は停止している。

                                                                        

 

 既述したことであるが、『操体法』は動きやすい方向に、『体性感情解放』は動きたがる方向にと、それぞれ微妙に視点が異なる。動きやすいとは、意思的であり(動きやすい機能を確かめる上でも)、動きたがるとは、無意識的であり、非意思的である。

 操体法と体性感情解放との違いをあえて線引きすると、この意思的、非意思的の差違ということになろうか。

 また、いずれもそれぞれの動きに手を添えるだけであって、施療者の力で、直接患者の体を動かすことはない。ただ、どちらかというと、操体法のほうが、体性感情解放の自動性に比べると、自動性にやや欠ける。しかし、それでもその場合の施療者の力は、ただの介添え以上を出ない。そういう意味で、両者は自動運動として似通う。

 活元運動は完璧な自動運動であり、操体法や、体性感情解放のような介助者を必要としない。頭を空っぽにしてポカーンとしていると、身体の中からひとりでに沸き起こって来る自動運動である。頭を空っぽにしてポカーンとしているとは、半覚醒意識に浸ることである。半覚醒意識を意図的に引き出すことによって、錐体外路系の運動が自動的に沸き起こってくるのである。無論この錐体外路系の自動運動とは、骨格修復の運動である。

 操体法、体性感情解放、活元運動これら三者は、外見上、施療の仕方に違いはあっても、本質的に線引きは難しい。それは、三者とも錐体外路系の運動だからである。雪も氷も霰も水には代わりはないということである。

                                                                             ノート目次          

                                 腰痛を考える

 

 人はなぜ腰痛になるか

腰痛、肩こり。現代人のシックネスは、このセットになった二語に決まると言ってよい。しかし、西洋医学では、これらの症状のよってくる原因を特定できることは、まれである。体に重大な疾患が潜んでいる場合を除いて、原因が突き止められないから、治療の施しようがない。筋肉弛緩剤を打つか、痛み止めを打つか、そういった対処療法しかない。そういう療法を繰り返すうちに、だんだん体がおかしくなってきて、やがて不眠症になる。そして睡眠薬のお世話になる。

腰痛の原因は、筋、骨格系のバランスの崩れが、ほとんどである。病院で検査をしてもらって、原因がわからなければ、そう考えて間違いがない。

 腰は、月(にくづき…身体)の要と書く。腰は、筋、骨格系の要なのである。つまり、腰を支点にして体幹はバランスをとっている。このことは、諸関節(例えば、頚椎、肩関節、股関節)等、骨格のゆがみ、ねじれは、すべて腰に収斂される。それらのゆがみ等による体幹のバランスの崩れを、腰が全部引き受け持ちこたえているが、ついに持ちこたえられなくなった時、腰に痛みが発してくる。

例えば、足首の捻挫の後遺症は、やがて腰痛をひきおこす。肩関節の動きの悪さもやがて腰痛をひきおこす。首の傾きもやがて腰痛を引き起こす。これらは、腰が、体幹の要としてバランスをとっている以上、避けられない。

 

腰は、体幹のゆがみを引き受ける毎に、腰椎は前方に移動する。支点を体の中心線上に据えておくのが苦痛になってくるからであろう。腰椎が前方に移動すれば、おなかが突き出てくる。おなかが出てくるようになったら、やがて腰痛になると覚悟した方がいい。腰椎の前方変位によって、神経の圧迫、組織の圧迫が起こっているのである。それは、慢性、急性を問わない。例えヘルニアであっても、腰椎の前方変位を軽減してやるだけで、ヘルニアが神経を圧迫していることの痛みから、かなり開放される。

 なぜ、腰椎が前方へ変位してしまうのか。それは、腰椎の回転軸が、体幹の後方にあるからである。そのために、腰椎の動きは、常に後方から前方に向かって、遠心力の作用を受けている。ちなみに、胸椎の回転軸は体幹の前方にあり、胸椎の動きは常に前方から後方へ遠心力が働いており、体調が悪くなったり、老化すると、背中が猫背になったり、円背になるのはそのためである。胸椎の後方志向、腰椎の前方志向、この正反対の移行志向によって、体調の悪化が進行すると、身体が前後に極端なCの字状、または極端なS字状を呈してくる。

 

腰痛のしくみがわかってしまえば、後はかんたんである。腰椎が前方に移動しているのなら、オステオパシーの間接法の原理よろしく、前方偏移を深めて後方に再び移動し直してやればいい。

ほとんどの腰痛(急性、慢性を問わず)の原因は、腰椎の前方変位なのであるから、治療は簡単である。これから紹介するのは、きわめて手軽な腰痛弛緩法である。これは、ジョン・E・アプレジャーの頭蓋仙骨治療に倣ったものである。 

 

患者は仰向けに寝てもらう。そして、両踵の下にクッションか、毛布を丸くしたものを入れて脚を上げる。こうすると、支点がお尻の真中の骨(仙骨)に来る。次に股の間から手(右利きなら右手)を入れて、その手のひらを仙骨に当てる。仙骨が手のひらにすっぽり収まるように当てる。ただ当てるだけでよい。それ以上何もしない。すると、手のひらにすっぽり収まっていた仙骨が、だんだん手のひらの方に落ちてくる。支点が前方から後方に移動するためである。

 その時、支点の重圧が、相当、強い圧力で、手のひらを押し付けてくる。手のひらがかなり痛くなってくる。そこをグッとこらえよう。グッとこらえてから90秒ほどこらえていると、これまで、手のひらに、石ころのように固く感ぜられた仙骨が、猫の尻尾のように柔らかく感ぜられ、痛く感ぜられた重圧が無くなっている(お尻の重さだけ感じる)。支点が後方に戻ったのである。腰椎が前方変位から、後方の正常位置へもどったのである。90秒という時間はかなり厳格に守ろう。あまり長く仙骨に手を当てていると、全身にむくみが来る。それでもいつまでも重圧が消えなかったら、それは次回にまわし、やはり90秒で終えよう。

 

 この原理は簡単である。これまで述べてきた、動きたがる方向、動きやすい方向に仙骨を手のひらで押しやっただけのことである。体幹の支点が前方に移動しているということは、腰椎のみならず、仙骨も前方移動している。だから手のひらを当てるということは、手のひらの厚みの分だけ仙骨を、前方に押しあげたのである。

 これまでの理論にしたがって説明すれば、仙骨を前方に押し上げたということは、仙骨の偏向している方向すなわち、動きやすい方向に限界まで行かせたと言うことであり、そのまま、手を床に密着させたまま仙骨に当てているということは、限界に行かせたまま、後ろに戻ろうとする動きに対して抵抗を与えて、戻ろうとする動きを阻止していることなのである。戻ろうとする動きは、仙骨に当てた手のひらに圧迫する痛みとして感ぜられる。戻ろうとする動きを阻止すると、骨格の偏向は消える。古今東西変わらぬ、偏向の消える生理現象である。

 

 この方法をやっても、仙骨が手のひらの方に落ちて来ず、いつまでたっても手が痛くならなかったら、仙骨が、まだ限界まで、前方へ押しやられていないのだから、さらに前方にやるために両手を重ねて仙骨の下に当てよう。そして徐々に手のひらに仙骨の重さ(抵抗感)が感じられてきたら、一方の手を離そう。つまり仙骨が徐々に後方に下りてきたのである。そして手のひらに極度の重圧感を感じてきたら、それをしばらく堪え、重圧感がなくなった時点を待って(約90秒)、つまり手を支点にした逆モーションでの仙骨の解放を待って、仙骨から手を離そう。

仙骨に手を当てていると、患者はだんだん半覚醒状態になり、居眠りモードに入る。するとやはり、骨格が修復され、ピクピク、カクカクとした素早い、間欠的な動きが出てくる。その動きがなくとも、仙骨は後方に下りては来るが、そのようなパルス的な動きが出現したほうが効果が高い。

これで腰痛は、かなり軽減されている。しかし、正規のやり方に比べると、軽減の度合いは少し劣るし、また、もとに戻りやすい。やはり、頚椎、後頭骨を手立てとした硬膜管の解放をやったほうが、はるかにすぐれた結果が出る。

このやり方は、ジョン・E・アプレジャー著『頭蓋仙骨治療』に倣ったものであるが、操作の形はそのままであっても、狙いは別のところにある。それは、半覚醒意識の誘導と、仙骨の位置の設定である。この療法は、あくまでも一時的な急場しのぎなものである。

腰痛は、あくまでも全身の骨格の歪みの結果、そうなるのであるから、腰痛の治療は、全身の諸関節の修復が先になる。(急性の場合、『手技研』での親指を立てるのが一番効く)

 しかし、この仙骨に手を当てるという操作は、腰痛治療としては、施療順序は逆になるが、一時的に痛みは軽減する。ただそのために、施療中に、身体のあちこちの関節が痛くなってくることが多い。

 それは以前、痛かったところなのである。その痛みを逃すように腰がバランスをとって、腰椎の位置を偏向させていたのであるが、腰椎の位置が元にもどってくれば、もと痛かった関節が腰椎の位置に合わせて、正常位に入ろうと、急性的症状を現してくるのである。

 

 腰痛が、改善されてきたら、それらの痛みの施療に入る。しかし、それらのための特別な療法の型があるわけではない。この療法は、症状に応じたそれぞれの療法があるのではない。どんな症状も、これまでに説明した操作しか施さない。

 ただ、腰痛にかぎって、この療法を紹介したのは、腰痛を、数多くある痛みの一例とはみなしてはいないからである。腰痛は、すべての痛みに根を張っており、それらを束ねて引き受けている。引き受けている限り、他の痛みは、痛みとしてそれほど出現しない。腰痛の改善とともに、それらの痛みはやってくる。それは、突然でもあり、徐々にでもある。首、肩、脚、足首等のトラブルの果てに腰痛がやってくるからである。

 したがって、こういった手技療法は、ほとんど腰痛のためにあるといっても言いすぎではない。あらゆる症状の治療は、腰痛をいかに治すかという視点で施せば、ことが済むことになる。それは、先述したように、腰は骨格の要だからである。要を正す施療をして行く途中で、枝葉末節の症状は、ぶり返し、そして消えてゆく。

セットとしての肩凝りと腰痛。これが現代人の慢性的シックネスだと先述したが、もっと正確に言うと、セットとしての猫背と腰痛である。背骨が円く、Cの字、または極端なS字状の猫背になってゆくと、腰椎、仙骨は前方に移行してゆく。これまでの経験を見ると、猫背の結果、腰痛になっている例がほとんどである。諸関節の疾患のバランスを取るうちに猫背になり、そしてついに腰痛になるのではないか。脊柱は、頚椎、胸椎、腰椎から成るが、先述したように胸椎の回転軸は、体幹の前方にあり、腰椎の回転軸は、体幹の後方にある。この回転軸の位置の違いが、脊柱をCの字型の猫背にし、腰椎を前方に移行させることになるからである。人間の身体は、Cの字型にうずくまるように毀損してゆく、また老いてゆく。その過程で必然的に腰痛が惹起される。それは、脊柱の構造上、いたしかたない。腰痛を放っておくと、生命力の減退を著しく招く。それは、腰痛の放つ放散痛が、腰部にある腎臓の働きを弱めるからである。腎臓は、東洋医学では、生命力の源とされる。腰痛は生命力を枯渇させるのだ。

 かって人類が、四つ足の類人猿であったとき、脊柱はC型に円くなっていた。健康であろうとして、常に姿勢を正そうとすることは、類人猿ではなく、常に人類であろうとすることだ。老化とは、脊柱がC型になることであり、人類の先祖返りともいえる生理現象なのである。脊柱が先祖返りとしてC型になってゆくのは、仙腸関節の脆弱さと関連があるのであろう。脊柱が、人類型のS字状よりも、類人猿型のCの字状の方が仙腸関節に架かる体重の負担は軽いからである。

仙腸関節については、この後、随所で述べることになる。それらに留意し、頭の中で仙腸関節の役割、脆弱さを常に脳裏にとどめておいたほうがいい。骨格修復をねらいとする手技にあっては、最も重視される関節である。

 

身体の疾患を治す手技、それは身体の正中線をどう復元するかに尽きる。その一番いいモデルケースが腰痛である。しかし、この仙骨を後方に復帰させるやり方は、腰痛の一時的処置として使う意外ほとんど使わない。つまり、本格的腰痛治療は、検査として腰部、仙骨に手を触れることはあっても、治療として触れることはほとんどない。それは試験的なものである。

正中線を復元するように操作することが、最も大きく骨格の修復を誘発することであり、自然治癒力を増す近道である。

この腰痛弛緩法は、腰に手技を施してもらわないと腰痛治療をやってもらった気がしないという、頑迷な患者さんのための営業的療法でもある。

 

 よく症例別、施療テクニックの紹介という項目を、手技療法関係の月刊誌なんかで見かける。座骨神経痛にはこう、四十肩にはこうなどと施療の症例別やり方を書いてあるのを読むと暗澹たる思いにかられる。それが、東洋医学関係の専門誌だったら、なおのことである。こういった事と、今の腰痛治療と一緒にしないで欲しい。ここでは、腰痛を、諸例中の一症例とは見ていない。腰痛とは、身体が毀損してゆく過程での根幹的症例と位置づけているからだ。だから敢えて項を割いて、腰痛治療を取り上げたまでのことなのである。

 腰痛を一症例と見做すのなら、他の症例もどんどん挙げて、その施療法を列挙してゆかねばならない。この療法においては、一症例ということはありえない。したがってそれぞれの症例に見合った逐次的テクニックというものは、存在しない。どんな症例も身体全体を正す。これが東洋医学である。この手技療法は、東洋思想に基づく。

 全体を一と見なす。これが東洋思想である。部分はあくまでも全体の一部でしかない。だから、部分的疾患を正すには、全体を正せば事が足りるのである。

 部分はあくまでも全体の一部でしかないとは、部分は全体の結果なのである。全体は部分の原因なのである。これが感覚として分からない限り、姿位の整体のテクニックは駆使できない。

 

 西洋医学の考えでは、全体とは部分の寄せ集めだと考える。だから、平気で臓器を切ったり貼ったりする。

部分を切ったり、変換したりすると全体が別物になるという思考がない。

 西洋医学の考えでは、1という概念は例えば、03 02 0.4+01=1、のようなことなのであろう。同じ事を、東洋医学的に考えるとこうなる。3/10+2/10+4 /10+1/10=1

 東洋医学にあっては、部分は、全体の中にあって、自在に変幻する。したがって部分に手を加える必要はない。そういう事をすると、全体性が失われるのだ。う~む、デジタルとアナログのちがいかも。

                                                                           ノート目次         

 

                      イメージとしての硬膜管

 

  やっと操作は終わった、ここで一服。 疲れを取るために想像にまかせた話をしよう。

  この操作にはイメージが大切である。目では捕らえられない状況を、手で感知するには、イメージを膨らませ、それを手で追いかけることだ。そのイメージは、患者の非意識に投射され、イメージ通りに操作が相手に受け容れられていく。イメージを醸し出すものは、解剖学である。国家資格など要らなくとも、解剖学は詳しいにこしたことはなかろう。イメージにより腕が上達するはずだ。

 

硬膜管(普通は硬膜という。硬膜管という言い方は、オステオパシーである)はなぜ、体幹の中で一番深い部分なのだろう。その前に、硬膜管とはどんなものなのか、知らねばならない。

 硬膜管とは、脊柱の中にある組織である。骨、筋、靭帯、腱、骨膜。こういったものの部類に属する支持組織である。 支持組織とは器である。器に盛られたご馳走が脳、神経、内臓である。ご馳走は命のメインである。これは命そのものである。器は、命そのものではない。器はなくても命は存在する。支持組織は命にとってマイナーなものである。手技療法が対象とするのは、このマイナーな部分である。   

 脊柱をタイヤに譬えると、硬膜管は、タイヤの中にあるチュゥーブに相当する。実際、タイヤのチュゥ-ブのような感触である。しかし、タイヤのチュゥーブほど、伸縮性は無い。ほとんど伸縮しない。役目は、脳と神経の束を包んでいる箱(ケース)である。または、脳と神経の束をコーティングしているものだといってもいい。

硬膜管の中には脳と、神経の束が走っている。脳と神経、という身体のなかの司令部を、ブラックボックス化している分厚い(約1~1.2ミリメートルほどの)強靭な保護組織、それが硬膜管である。

 この強靭さは並大抵ではない。人体がすっかり白骨化する寸前までも、しぶとく残っている。硬膜管が腐食して、始めて、白骨(椎骨)はバラバラになる。硬膜管がこうまでして守らねばならない、脳、神経とは何かと、想像が沸いてくる。体の中にあって、脳と神経だけが異質だ。

 肉体には、細胞の増殖と消滅がある。細胞の生と、滅の繰り返しによって、肉体は維持されている。だからこそ肉体は、少々の傷を負っても再生してくる。しかし、脳と神経にはそれが無い。それゆえ、脳と神経は一旦損傷を受けるとその領域は再起不能に陥る。だからこそ、ブラックボックス化して、保護する必要があるのだろう。しかし、細胞の生滅が無いということは、それをブラックボックス化すれば、永遠とまでは言わなくても、人間の寿命をこえて、維持することが出来る。

 死の瞬間、脳死を待たず、このブラックボックスのみを取り出して、他の肉体に移植すれば、本人の人格は生き返ることになる。魂にとって、肉体は仮の宿りにしか過ぎないという哲学的なことを、医学的に考えれば、こういうことになろう。アメリカでは、死後、肉体をすぐ冷凍化して、手ごろな肉体が見つかったらそこに冷凍化した脳、神経を移植するというビジネスが開発中だと聞いた。……?

 

 

体内にあって、この硬膜管内の世界は、独立帝国を呈している。脳脊髄液の定期的流出によるリズムがあり、それは、肺のリズムにも心臓のリズムにも干渉されない。銀河系の遠い、或る星雲から定期的に発せられる電波のようでもある。この周波数(リズム)は、硬膜管の動きを稼動し、そのリズムは体表の至るところに感触される。神経が体を支配しているように、このリズムもまた、身体の隅々まで支配しているかのようである。なぜなら、このリズムが感知されない、もしくは乱れている身体の部位は、必ず疾患に見舞われているからだ。このリズムを呼び起こし、正常なものにするのが、CSF(CerebroSpinalFluid )すなわち脳脊髄液の流出リズムを感触しながら行う、アプレジャーの独創的テクニックである。

 硬膜管は、脳と神経のもろさを保護し、かつその司令塔的働きを助け、体内に架橋する役目を果たしている。

 

ほとんどの手技療法は、背骨がメインテーマである。私のこれとて同じである。しかし、背骨をメインにする手技療法は、大きく分けて、二方向に分かれる。背骨の蛇行、ゆがみ等の『形状』を問題にするのと、背骨の動き、固着等の『運動』を問題にするのと。

 この療法は後者の部類に属する。形状も重要であるが、それよりも正常、異常を深く決するのは、運動である。

形状がいくら整っていても、動かなければ意味がない。動いて始めて、神経が生かされている事が証明できるのである。動きこそ、生命力の証である。

 

 この療法を終えた最後に、後頭骨の下に両手を差し入れて支え、脊柱の中の硬膜管を軽く頭上の方に引く検査をするが、これは先述したように、硬膜管の固着、動きを確認しているのである。引く手に応じ、延びてくる処は、硬膜管の動きが正常であり、伸びてこない処は、ロックして動きの少ない処である。そこが疾患に見舞われているところである。

 この療法が、検査するのは、この二つの事柄のみである。他にも検査することがあろうが、これで十分である。この療法の目差すところは、脊柱の中にある硬膜管の開放なのである。硬膜管の解放は、脳、神経という司令塔の解放につながるのである。

 

 脳、神経が正常に働けば、末端の機能は回復し、疾患は消える。足首の捻挫も、その部位を司っている神経の開放により、神経伝達が正常になり治癒させられるのである。固定する必要はない。

 

  硬膜管は、なぜロックするのだろう。

 硬膜管がロックすると、そのロックした部位と神経的に関連している末端の領域が、疾患する。

 

 例えば、足首の捻挫(毎度、同例で恐縮であるが、付随意運動の出現によりピタッと復元する最も好例の疾患だからである。捻挫の治療は難しいとされている。唯一抜群なのはこの療法であると自負している)。足首を、何かの拍子にギクッとやったとしても、皆が皆、捻挫になることはない。ムチウチとて同じである。軽く追突されただけで、ムチウチ症に長年苦しむ人もおれば、フロントガラスに頭をしたたか打って、ガラスにヒビを作っても、何の症状も顕れない人もいる。何かが違うのである。それは、衝撃を受けた関節が正常な位相にあったかどうかである。正常な位相を外れていた場合、いとも簡単に捻挫する。ムチウチも捻挫の一種である。そして、こういう位相を外れた関節は、位相を外れた脊柱によると考えられる。足首の捻挫が起こるのは、足首の関節だけが位相をはずれているのではない。膝関節、股関節も同じである。つまり捩れたフレームワークの一部に衝撃を受けたのである。突きつめていけば、仙腸関節の捻挫に行き当たるが。とりあえず、脊髄神経をコーティングしている硬膜管を考える。

 

身体に衝撃を受けてダメージを受けるものもおれば、そうでないのもいるのは、体の或る部位に加えられた衝撃が、背骨を構成している椎骨を変位させ、硬膜管を締め付ける(ロックさせる)か、いなかである。ロックした場合、それによって、疾患の該当部をつかさどる神経の枝が圧迫され、神経伝達がうまくいかないからである。

しかし、 これはちょっと分かりにくいかもしれない。それは、背骨がどんなふうに構成されているかイメージされないと理解しにくい。それで、ちょっとイメージしやすいよう説明をする。

  背骨と言い、脊柱と言うが、背骨は、解剖用語ではない。『脊柱は背骨から出来ている…』、そんなふうにまず、使うなら、『脊椎は、椎骨が連なって構成されている』と言った方が正しい。基礎医学に心得のある者にこんなことを言うのは釈迦に説法だが、読者の層が、広いことを念頭におき、あえて言う次第である。

解剖学をまったく知らない読者のために、イメージしてほしいのだが、脊椎は、椎骨という骨の珠が数珠のように連なって一本の柱のようになっているのである。そう考えると、数珠の紐に相当するのが、この硬膜管という管である。数珠に穴があるように、椎骨にも穴がある。その一つ一つの穴を貫いて硬膜管が走っているのである。 その硬膜管の中には神経の幹が走っている。幹の頂上には脳がある。まとめて言えば、この脳と神経の幹を硬膜という強靭な膜が包んで、それが管となって、一つ一つの椎骨を貫き走っているということになる。 

 

 神経の幹には枝がある。この枝は、椎骨と椎骨の間に伸びている。数珠の、珠と珠との間にムカデの足のように細い糸が垂れているのを想像したら良い。

 椎骨と椎骨との間に、脊髄神経の束から神経の根(正しくは神経根)が伸びているとは、硬膜管にコーテングされた(包まれた)神経の根が、中から外に伸び出られるように椎骨に横穴があいていると言うことである。その穴のことを椎間孔という。

 硬膜管が過緊張して収縮したり、ねじれたりすれば、この椎間孔が狭まって、容易に、神経の根を圧迫することが想像出来る。神経の根の圧迫は、その神経が司っている体の部位に痛みを生じさせる。

 硬膜管の解放は脳、神経の開放を担っているのである。

そして、この硬膜管の、ねじれを作るのは、椎骨の変位なのである。

数珠の珠に譬えて考えれば、こうである。数珠の珠は、貫いている糸の周りをくるくる回るが、もしここに、糸と一つ一つの珠が固着している数珠があると仮定しょう。もし、そうであった場合、珠の一つを捻転させると、その珠を貫いている糸の、その周辺部分が、ねじれるのが想像できるであろう。そしてその捩れのトルクは、漸次その糸全体に波及し、捩れさせてゆく。

 

 椎骨と硬膜管との関係は、貫いている糸と珠とが固着している数珠のような関係である。椎骨の内壁と硬膜管の外表との間には、緩衝的組織が介在し、一部の椎骨を除き、硬膜管が直接、椎骨に附着していることはない。それで、硬膜管と椎骨は密着しているとはいわないが、椎骨の傾き、トルクが、硬膜管に伝わるように出来ている。そのため、椎骨の傾き、捩じれによるトルクは、間接的に硬膜管の捩じれを惹起させるのである。特に、後頭骨、頚椎二番、三番、仙椎二番には、硬膜管が直接付着しているため、それらの傾き、捩じれは、直接、硬膜管に影響を与え、重大な疾患を引き起こす。

 硬膜管を解放させるにあたり、まず椎骨の位置を修復せねばならない理由がここにある。

 

 居眠り時に誘発される、カクカク、ガクッ、ガクッとした動きは、椎骨どうしのロックがはずれる動きである。

これらはかなり大きな動きであり、見逃すことはないが、硬膜管のねじれ、蛇行が、正常に回復する動きは、目立たないため見逃しやすい。

 硬膜管が修復される動きは、椎骨の、素早い動きのように起伏に富んではいない。背中、もしくは胸部の体表が、大河が静かに流れているかのように、右から左、もしくは左から右へと移動する。または、静かに蛇行する。

大河の流れは、流れているのかいないのか分からない。そんな動きである。地すべりが起こる前触れのような動きでもある。硬膜の解放される動きは、体表(たとえば胸郭の)を見て、おや!何か変と一瞬気づく。しかし、体表に何も変化はみられない。おや、おかしいな―たしか体表がゆっくり回旋していたはずだが…と、もう一度よく胸郭の表面を見ると、実にゆっくりとその表面は左右いずれかに向かって回旋している。それは、動いていないと思われる雲もよく見ると静かに移動しているのが分かるのに似ている。それは実に緩慢で、よっぽど注意してみないと動いているとは視覚できない。また、蛇の動きを、茂みの中で垣間見るような動きである。あの蛇の模様は、茂みの中では、一瞬、動いているのかいないのか分からない。

 硬膜管が修復されるときの、身体の動きは、こういったところである。椎骨、骨格の動きはその逆で、視覚的にはっきりわかる。また、手を当てているところの椎骨が動くときなど、ゴクッと手ごたえを感ずる。

 

 長年この療法をやっていて、面白いことに気づいた。椎骨の動きと、硬膜管の動きとの関係である。

 一つは、椎骨や関節の動きは、覚醒時には起こらないと言うことである。しかし、硬膜管の動きは、覚醒時にも起こる。

 二つは、椎骨の動きは、硬膜管を解放するが、硬膜管の動きは必ずしも、椎骨の開放(修復)にはつながらないということである。

 そのため、硬膜管のみが、真っ直ぐになっても(背骨の蛇行がなくなっても)、疾患、痛みが消えるのは一時的にしかすぎなく、時を隔てず、また疾患状態にもどるということである。つまり、椎骨と硬膜管がロックしたまま硬膜管の蛇行が解消しても、治療の効果は少ないということである。

 椎骨の修復なくして硬膜管の解放はありえないのである。

 

 これで、ほぼ書くべきことは終わった。  これから話すことは、周辺的なことである。このことから、また本質的なことへと、立ち返っていただけたらいい。                                                         

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                         気か気功か

      

. 居眠りに落ちるということは、体が副交感神経優位になった状態のときである。人が、真剣になっている時、体は、交感神経優位になっている。例えば、商談をしている時、ストレスのたまる人間関係の中にいるときなど、そうである。交感神経は身構える神経であり、戦いの神経である。こんな神経ばかりを優位にして生活しておれば、いつか体はボロボロになってしまう。

 それに反し、副交感神経は、安らぎの神経であり、赦し合いの神経である。この神経が体の中で優位になったとき、人は眠くなってくる。リラックスするということは、体の中から鎧を脱ぐということである。

 

 どうしたら、体の中から鎧を脱がせることができるか。

 その最大の力は、施療者の人格である。絶対の信頼、絶対の安らぎを感じる者の前には、人は、身構えることはない。身を投げ出してしまう。そういう者は、何ら巧むこともなく、軽く額に手を触れるだけで、眠りにもって行くことが゙できよう。そして、修復を誘発することが出来よう。その代表者はイエス・キリストであろう。

 気功という療法がある。手から気のパワーを患部に放射することによって、治癒せしめるとかいう療法である。その療法を受けると、まず眠くなってくるようである。しかし、ここで疑問が生じてくる。果たしてそれは、気のパワーによって眠らせるのか、それとも、気功を身につけるために長年修行して培った人格が、眠らせるのかと。

 人格というものは、以心伝心的に気配として相手に感じられるものであり、それを、昨今の風潮に乗せられて気のパワーとして誤認しているだけなのではないかという気がする。動物は、物事を認識するのに暗示にかからないが、人間は、物事を認識するにあたり、常に暗示が付きまとう。

 気から気功へ、一足飛びに論議されている昨今の風潮が、手技療法に関心のある者を、安直に気功の練磨へと駆り立てている。あたかも、尋常の生理としての気以上のウルトラ的な気が、今にも放射できるかのようにである。土台をわきまえないで、付け刃的なことをやっても何の役にも立たない。

 

 気とはどこまでもメンタルなものであって、質量的なものではないと思っている。この場合のメンタルという言い方は、かなり意味が広い。精神、心理、人格、暗示そういったものを含めてメンタル的と称する。例えば、この療法を数回受けると、トランス状態に入りやすい人は、施療者が近づいて来るだけで、居眠り状態に入り、一人勝手に身体をビクビクカクカク動かすようになると、先述したが、これは単なる条件反射というメンタルなものであって気功ではない。しかし、人はこれを気功であると受け取る。私の身体から気が放射されているのだと。なんだか可笑しい。

 気功の先生が、数人の弟子を手も触れず、一瞬にして遠方に跳ね飛ばしている写真を見たことがあるが、牛や豚を一瞬にして跳ね飛ばしたと言うのなら、気の質量としてのパワーなるものを信じよう。相手が人間だからこそ、暗示にかかっているだけのことなのである。気功とはそういう意味でもメンタルなものなのである。尋常な生理的気に対する感受性が高まるか否かの相違だと思われる。気は人格の結果である。

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                     呼吸に合わせた手の触れ方

 

どうしたら、人を居眠りにもって行けるか。最終的には、施療者としての人格を身につけることであるが、初心者はとりあえず、基本的テクニックを身につけることから始めねばならない。技術は人間を創る。

 

息を吸う、息を吐くという呼吸は、二種類の自律神経が司っており、息を吸うのは、そのうちの交感神経、息を吐くは、副交感神経が司っている。副交感神経は、安らぎの神経であり、赦し合いの神経である。交感神経は、戦いの神経であり、身構える神経であると先述した。これを身体の緊張、弛緩に当てはめると、交感神経は身体に緊張を強い、副交感は身体を弛緩させるのである。これをさらに、呼吸に当てはめると、息を吸っているときは、身体が緊張している一瞬であり、息を吐いているときは、身体が弛緩している一瞬なのである。

 

 リラックスするということは、何よりも身体の緊張を無くし、弛緩させることであるから、息を吐くということが、呼吸の主体となるような呼吸にもって行けば良いのである。それには、息を吐く神経、副交感神経を高めてやれば良いということになる。

 それにはどうすれば良いかというと、身体が弛緩している時、即ち、息を吐いている時に、そおっと身体に触れてやれば良い。触れるということは、その弛緩状態を呈出させている副交感神経を奮い立たせることであり、副交感神経をさらに高揚させることになるのである。高揚した副交感神経は、身体の弛緩状態をさらに促進させるのである。

 

息を吐いている時に、身体にそっと手を触れてやれば良い。息を吐く毎に、体に触れ、離す。

吸っている間は、触れた手を決して動かさない。または体に触れてはいけない。このことを呼吸に合わせて繰り返そう。

 

 もっと実際的に言うと、まず一つのパターンは、息を吐き始めるとともに体に手を触れ、吐き終わるとともに手を離すということである。息を吸っている間は、手は体に触れていない。これを居眠りモ-ドに入るまで繰り返す。

 もう一つのパターンは、息を吐き始めるとともに、体に手を触れ、吐き終わりもそのまま体に手は触れており、次の吸っている間も、手は動かさず、そのままじっとしていて、次の吐くが、終わるとともに手を離すというものである。これを繰り返す。

 

 つまり、体に手を触れる、体から手を離す、または、体に手を触れたまま手を動かすという所作は、体に刺激を与える所作なのである。これを副交感神経優位の呼気時に行うと、副交感神経がますます奮い立ち、高揚され、増幅され、体はどんどん弛緩して行く。そしてリラックス、安らぎが体全体を覆い、眠くなってくる。

 これを逆にすると、体はますます緊張してゆき、意識が冴えてくる。

  

 心は、身体によって支配されている。意識はどんなに冴えわたり、張り詰めていても、筋肉が弛緩し始めると眠くなってくる。人心は、身体を操ることによって変えることが出来る。

 異性の手を握ったら、すぐはねのけられたという人がいたら、それはもしかしたら、相手が息を吸っているときに握ったのではないかと思われる。交感神経特有の身構える性質が奮い立ち、びっくりしたのだと思われる。これを読んだら再度挑戦してはいかがだろうか。責任はもたないが。

 

 しかしここで、非常に重要なことを書き落としている。それは、体に触れる、離す、動かすという所作は、極めて『そっと』、行うということである。それはなぜかというと、かすかな刺激だけが神経を奮い立たせる( 鼓舞する、高ぶらせる)からである。息を吐いている時、つまり副交感神経優位のときであっても、体に強く触れたのでは人を安らぎに向かわせる効果は少ない。その理由はなぜか。先述したアルント・シュルツの刺激の三原則をここでもう一度、引用しておく。肝に銘ずべきである。

『ごく軽い刺激は、神経機能を奮い立たせ、中程度の刺激は、これを亢進せしめ、強度の刺激は、これを抑制させ、最強度の刺激はこれを停止させる』。

 

按摩に、『軽擦』という、非常に重用なテクニックがある。これは、文字どおり、軽く擦るというテクニックである。が、この重要性を心得ているものは、現在、ほとんどいないであろう。この軽擦だけで、人を陶然とさせることができる。そういう重要なテクニックなのだ。かって『按摩は、軽擦に始まって軽擦に終わ』るという言葉があったくらいであるが、今日、手技業界では、この言葉は、施療の最初と最後に、5秒程度、体を軽く擦るものだとしか位置づけられていない。川釣りの奥深さをいう俚諺に『釣りは、鮒に始まって鮒に終わる』というのがあるが、その意味が全く分からないのと同じである。 

 按摩が、医療の座を失ったのは、この技術が、あまりにも難しくて、修得出来なくなったからだと先述したが、このテクニックは気功に酷似している。それに比べ、『揉捏』とか、『叩打』とかいうテクニックは浅薄としか言いようがない。

古法按摩がどういう技術であったか、今は知るすべもないが、この軽擦が重要な位置を占めていたであろうことは想像に難くない。手技療法の帰する処は、それが、どういう種類のものであれ、同じである。治癒の生理現象は一つしかないからである。

 

 人は、吐く息に合わせて、触れられると、陶然としてくる。呼吸というリズムを伴って副交感神経が高揚して来るからだ。逆に吸う息に合わせて触れられると、イライラしてくる。交感神経が高ぶってくるからだ。

 

 では、息を吐いているとき、体のどの部分に手を触れたら良いのであろうか。

 

どこでも良い、一定の順路をあらかじめ自分で想定し、それにしたがってやれば良い。あらかじめの想定が必要である。あらかじめの想定は、患者の非意識に投射されてゆくからだ。この事項は、この件に限らず、この療法のすべてにいえる。アットランダムな出た所勝負は、患者の非意識が施療者の意図を読み取れない。患者の非意識は、相手の出方を読み取る時間が必要なのだ。それには、こちらも想定する時間をもたねばならない。要は間が必要だということである。

一番良いのは、気の流れの道、即ち、経絡に沿って手を当てて行くのが一番であろうが、そのことによって、治癒せしめるのではなく、あくまでも居眠りモードにもって行くことが先決なのだから、順路は特に一定の形式を要しなくてよい。

 

 一番簡単なのは、相手にうつ伏せになってもらって、背骨を、首の付け根から順番に、お尻の真中の骨(仙骨)まで、呼気とともに、軽く手を当てて行くことである。それを23往復する。首は、左右どちらか楽な方に向いてもらったら良い。また、仰向けになって、同じように胸部、上腹部、下腹部と手を当てて行っても良い。

 

 以上は、体の正中線上に手を当てて行ったのであるが、手足の関節、筋肉上を当てていっても良い。例えば、うつ伏せになって、先ほどの背骨に当てるのが終わったら、そのまま右の、肩関節、上腕部、肘、前腕部、手首、手の甲。それが終わったら、右の脚に移ろう。右脚の臀部、大腿部、膝関節、下腿部、足首、足の裏。それが終わったら、左の肩関節に移ろう。後は同じく、左の足の裏まで行く。この操作は、仰向けの時にも行う。全コース行う必要はない。居眠りに入ったら、残りの部分は軽く端折って、次の修復操作に入ろう。こういった手順については、『手技研とは何か』でちょっと紹介した『仁神術』が非常に参考になる。

 

 重要視することは、コースをこなすことではなく、身体への手の触れ方である。呼吸に合わせて行うことはもちろん、手が身体に着地する微妙な頃合い、所作、そのことに全神経を注いで手を触れて行こう。手が身体から離脱する時も同じである。基本は、その身体をいとおしむように触れ、離れることである。

 

人の身体に触れる時、それはどんな場合でも、息を吐いている時に、触れるようにせねばならない。例えば、身体のゆがみを検査するとき、例えば、左右の骨盤の高さがどう違うか、見比べるのに、左右の腰に手を触れるが、その際でも息を吐いている時に行わねばならない。

 

 

また、刺激ということを、これまでは、触れることに限って言及してきたが、触れることのみならず、関節を動かすこと、身体を動かすこと、これらもやはり、交感、副交感神経に刺激を与え、身体の緊張、リラックス、いずれかに導いてしまうのである。

 

 肩関節の稼働域を調べようと、関節を動かす時も、息を吐いている時にせねばならない。もちろんそのために腕をつかむ時も、息を吐いているときにせねばならない。この施療を行うのであれば、万事が万事そうせねばならない。

 

このようにして、相手の呼吸を常に伺うようにして施療に臨むと、集中力が備わってき、気の入った施療が出来るようになる。この療法のみならず、何年手技療法をやってもちっとも上手くならないという人は、このことに対する認識がない人である。

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                   居眠り誘発のための、幾つかの心得 

 

最初のうちは、施療が上手くゆく。しかし途中から居眠りモードが覚めることがある。そうなると、患者の手首を動かしていても、腕の自然な重たさが感ぜられず、まるで鉛管でも引き伸ばしているような、ぎこちない不自然な動きになってくる。

 これは、患者が居眠りモードから覚めたために、患者が 施療者の意思を察知し、施療者が手首を動かす方向に出来るだけ忠実に従おうと注意を集中しているためである。こうなると万事窮すである。これ以上手首を動かしていてもあまり意味がない。両者ともくたびれるだけである。二人芝居で、一人が、もう一人の動きを瞬時にそっくり物まねするみたいな、アホなことを延々とやることになる。肩こりの患者はますます肩がこってくる。

 

なぜ、途中で居眠りから覚めたのか、考えねばならない。大きな物音がしなかったか、不用意に患者の体に触れなかったか、地震めいたものがなかったか、部屋の照明が急に明るくならなかったか。こういった外的要因がなかったら、居眠りから覚めた理由は、部屋が寒くなってきたことをも含めて、本人の体が冷えてきたためである。

 体が弛緩しリラックスしてくると、体表の毛穴が開き、体温が逃げて行く。眠りに落ちるには、適度な体温の低下が必要だと言われる。しかし、冷え症とか、自律神経失調気味の患者は、体温の低下は急降下であり、あまりの寒さに眠気が飛んでしまう。彼女らは自己矛盾を抱えている。眠るためには、適度な体温低下のためのリラックスが必要、しかし、リラックスすれば、あまりの寒気が襲ってきて、眠れないというわけである。

 リラックスせずに眠る方法、となれば、やはり睡眠薬ということになる。自律神経失調症のほとんどは、睡眠薬に依存している。睡眠薬による眠りには、眠りに落ちる、あのまどろみの気持ちよさがない。それだけでも彼らは不幸である。

 

施療を始めて、急に寒気が遅い、身体がガタガタ震えてきたら、体内の治癒系が作動を始めたと判断して間違いはない。  

 自律神経失調症とか、冷え性とか言われる人は、リラックスして体が弛緩してくれば、してくるほど、体が冷えてくる。そして、せっかく眠れるチャンスが訪れているのに、寒さのあまり、居眠りにはいれない。

 ブルブル、ガタガタ体が震えることがよくある。こうなったら、部屋の温度を思いっきり暖かくしよう。患者の満足ゆくまで温度を上げよう。それから毛布を2,3枚掛けよう。そして患者が暖かさを感じ落ち着いてきたら、操作を再開しよう。

 こういう場合、間違いなく操作が上手くゆく。少々粗雑にやっても上手くゆく。失調した自律神経は、部屋の温度を高温にしたことにより、正常に回復したがっているからだ。少々乱暴な言いかただが、何もせずただ黙って見ているだけで、かってに、体がカクカク、ピクピク矯正を始める。

この時点において、居眠りに再度入るということは、体の、かなり深い層に至るまでリラックスしていることであり、深い層における修復が始まっていると言える。

 

 部屋の温度調節という、些細なことであるが、時機を得たとき、大きく物をいう。

 言うまでもないことだが、この場合、最初から部屋の温度を高温にしておいたのでは効果はない。体が変化することに応じて、部屋の温度を上げたから効果があったのである。

 身体が変化するということは、この例に限らず、悪い症状が身体の表面上に顕現して来るということである。こり、痛み、しびれ、高血圧、動悸、寒気、ほてりなど、悪い症状が一時的に、より悪化することがある。症状の顕現化と仮に呼んでみるが、修復の過程で当然起こることである。 なぜならこの療法において、体の偏向の修復とは、オステオパシーの間接法による、さらなる偏向によって得られるものだからである。偏向がさらに深められれば症状がさらに悪化するのはあたりまえである。症状の悪化が限界まで行って、始めて正常の道に向かってぶり返してくる。

自律神経失調の場合でも、とことん交感神経一色になって、始めてチラッと副交感神経が顔をのぞかせ、それがだんだんと広がって、黒と白の色合いのバランスが取れるかのように、交感神経、副交感神経のバランスが取れてくるのである。自律神経失調の人を施療すると、平温の部屋であるにもかかわらず、急に寒気が起こってきてガタガタ震えだすのは、交感神経が極限まで緊張するからであろう。治療の過程で、一時的に症状が悪化するのを東洋医学では、瞑眩(めんげん)反応と呼んでいる。

 

操作が再開できるようになったら、施療者が息苦しくない程度にまで、部屋の温度を下げよう。このままの温度では、施療者の方が息苦しくなって、施療が出来ないからである。この温度で呼吸が出来るとは、疾患がいかに異常であったか、思い知らされる。

途中で居眠りモードが覚めた場合の対処の仕方について、自律神経失調症、冷え性を例に挙げて説明したのであるが、これと反対の意味で似ているケースに、四十肩、五十肩と呼ばれる症状の場合がある。

 

どういう意味で反対か。四十肩、五十肩の症状に自律神経失調が絡んでいる場合(それはすべてといっていいのだが)、治療の途中、寒くなってきても寒いとは言わないということである。四十肩、五十肩に特有のパターンのように思われる。前記の場合、居眠りモードの深まりが、体を寒くさせ、一時的に居眠りを覚ますのであるが、この場合、最初から居眠りモードと覚めたモードが同時進行している。狸寝入りとはこのことをいうのではないだろうか。四十肩、五十肩を施療するようになってから、狸寝入りという言葉の意味を考え直した。生活習慣として狸寝入りをせねばならない自律神経の状態があるのである。それが四十肩、五十肩という症状として現れてくるのではないか。狸寝入りとは寝たふりのことではない。実際に寝ているのである。しかし、すぐ目を覚ます。これが狸寝入りである。それは眠りが浅いのとはまた違う。なぜなら、この療法は、すべて眠りが浅い状況で行われるものだからである。治療がうまくいくと、ほとんどの者は、身に危険が及ばない限り目を覚ますことはない。相手に任せきっている。しかし、四十肩、五十肩の症例を持っている者はそうではない。ここに彼ら特有の自律神経失調があるように思える。

こういう患者は、治療を開始するやすぐ居眠りモードに入ってしまう。しかし、修復操作をしようとすると、すぐ目を覚ますか、または修復操作が、四十肩、五十肩の修復に波及しはじめてくると、目を覚ます、いずれかである。すぐ居眠りモードに入ったにもかかわらずこのギャップ。ふてぶてしいのだろうか、気が小さいのだろうか。感受性が強いのである。操作の過程で、肩に痛みが来るから目を覚ますのではない。こういうことをされると、肩に痛みが来ると思い過ごすのであろう。どんな操作もやらせてくれない。どうでもいいことをしていると、居眠りに入っているが、肝心なことをしようとすると目を覚ます。体の中にいる病魔にちょっかいを出してほしくないのである。病魔を退治されると、自分が変わらざるを得ない。それがいやなのだ。プライドが許さない。これも自律神経失調の特有性だと思われる。やっかいな受療者である。1,2回施療費を無料にしてでもとにかく最初、施療を続けさせないと、この者の持っている鎧を体内から脱がせることはできない。

 

基本的にこの者のリラックス度は浅い。眠っていても脳裏は覚めているのである。つまり身構えたまま眠っているのである。身構えているから周囲の温度に対して寒いとは感じないし、こちらが何をしようとしているかすぐに察する。治療の過程で体が冷えてきたのが分かる。それで毛布をかけようとすると、暑くて要らないと言う。どんなに寒いところでも平気なのだと、自慢そうに言う。体が丈夫なのを誇っているかのようである。身構えて生きている者の典型である。

 

 こんな場合、本人の言い分を無視して、強引に、部屋の温度を暖かくするか、毛布を一枚余計に体に掛けてやろう。今暑くても、この先、必ず体は寒くなってくるからと言えばよい。実際その通りなのであるから。

 

自律神経失調とは、体のベースが副交感神経優位ではなく、 交感神経優位になっている身体の状態である。生命本来の営みよりも人間としての活動が、優位になっている身体の状態である。生命そのものの営みは副交感神経が司り、人間としての活動は交感神経が司っている。生命の営みがあっての、人間としての活動である。したがって体のベースは副交感神経優位になっていなければいけない。

 動物は、ただ、食べて寝るだけである。それは、生命の営みに忠実なだけである。弱肉強食という動物としての活動も、おおかたは生命の営みの中にプログラミングされている。弱肉強食はさしたるストレスではないはずだ。

動物は、副交感神経優位で生活をしているのである。

 人間だけである。生命本来の営みを大きく侵犯させて、あまり意味の無い、人間としての活動を無謀にやっているのは。それをストレスという。

 自律神経を失調させているのは、実にこのストレスである。

 

感染性のもの、先天性のものを除けば、病とは、ほとんど、自律神経失調症だと言っても過言ではないらしい。こんなことはずーと以前から思っていたのだが、最近になって、このようなことを免疫学者が言うようになって、やはりそうかと思う。

多くの人は最後、三大成人病のいずれかで亡くなるそうである。癌、脳卒中、心臓病である。これらの病因も、自律神経失調症が元でこうなるといわれている。最近の免疫学の到達点が、この自律神経を最大事に考えている。自律神経失調のまま生命を営んでいると、やがてこうなるのである。可能な限り、自律神経を正常に保たねばならない。

 

様々な様態のヒーリング治療がある。それらのすべては、体を副交感神経優位にするための自律神経失調治療である。また、ヒーリングとは言えないのかも知れないが、気功も、ヨガも、そして、この姿位の整体も自律神経失調治療ということになる。

 

膝、腰、肩、背中の痛み、手足のしびれ、ほか、様々な体の痛み、これらの慢性痛がなかなか治らないのは、やはり自律神経が失調しているからである。リラックスすべき時にリラックス出来ない。それはもう自律神経失調症である。長年痛みをこらえていると、体はリラックスできなくなってくる。痛みと戦い、痛みを四六時中こらえるようになる。安らぎの神経である副交感神経の出る幕がない。体全体は、身構え戦う交感神経に覆われる。

 

体の慢性痛を取るには、何が何でもリラックスしてもらい、居眠りしてもらうしかないのである。これが姿位の整体の第一関門である。慢性痛と居眠りという、一見唐突な図式が、副交感神経の奪還という作戦で手を結ぶのである。

 

快いヒーリングミュウジック、すがすがしい部屋の空気、アロマの香り、落ち着いた照明の光、昨今流行のヒーリングの定番である。こういう部屋にこもって軽く瞑想にふける。そのことにより、心、身体が洗われたような気持ちになる。リラックスし、副交感神経が体を覆う。これも副交感神経の奪還療法だといえる。しかし、これだけでは、慢性的な体の痛みは取れない。気分が爽快になるか、軽い頭痛ぐらいは取れたとしてもだ。なぜなら、そこに骨格の修復ということが為されないからだ。

自律神経失調により、身体に痛みがある場合、早急に痛みをとるには、リラクゼーション(居眠り)の中での、骨格修復なのである。リラクゼーションだけでは、痛みは取れない。リラクゼーションの中での姿位の設定によりそれは成される。

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                               どうしても居眠りに入らない場合

 

どうしても居眠りに入らない患者はいる。睡眠薬を常用している者は、まず眠りに入らない。睡眠薬を止めてもらうしかない。止めないのなら治療する必要はない。一生飲みつづければよい。そして一生、体の痛みを抱えて生きて行けばよい。睡眠薬を飲んでいる限り、体の痛みは消えない。睡眠薬を飲んでいるものは、ほとんど痛み止めを飲んでいる。

 薬漬けになって一生を終わるのも、一生。薬を飲まずに一生を終わるのも、一生である。とやかく人の一生に文句をいうつもりはないが、どちらが健康かと言われれば、薬を飲まずに一生を終わった方が、健康な人生であったと言えるだろう。生命の在るべき姿に沿って生きたと言えるだろう。

 どんな薬であれ、薬に依存して生きている者は、体に弾力がない。ショボショボとしている。はつらつとしたものが感じられない。本当に薬を飲まねば生きて行けないという病名は、実に、数が少ないはずである。

 このノートは、薬を止めたいと思っている人のためのものである。

 たいした症状でもないのに、たまたま病院に行ったがばっかりに、それ以来、薬漬けにさせられてしまったという例は、ほとんどであろう。現代医学は、医術であるより、薬の売人である方向に比重がかかっている以上、病院へ行けば、営業の犠牲になるだけである。かくて、せっかくの命を、薬というものによって、しおれさせ、生きて行くことになる。

 

どうしても居眠りに入らないという患者は、睡眠薬をはじめ、とにかく薬というものを服用している人である。そういう者は、前日と、当日の薬の服用は止めてもらう。前日がだめなら、当日でもいい、止めてもらうことである。それだけでも、居眠りには効果があり、施療がうまくいく。

 

 薬漬けになっている者にとって、一日でも薬を止めることは、死の瀬戸際に追い詰められるかのように思うようであるが、普段の生活の中で飲んでいる薬というのは、命に別状はないであろう。

 たまたま医者に行ったから飲んでいるのであって、行かなければ、飲んでいないかも分からないものなのである。そんなものに汲汲とする謂れはないとおもうのだが。医者に行かなかったら死んでいたかも知れないと、反論される始末。薬の副作用が明るみに出され、優秀な免疫学者が、薬を飲まないほうが病気が治るとまでいっているご時勢だというのに。われわれ日本人は生命というものに対し、奇妙にもろいところがある。薬神話は、日本人独特の精神構造の表れかもしれない。

ちなみに、私はこの仕事についてから病院など行ったことがない。自分の体が今、どの程度の状態であるか、わかるつもりでいる。血圧はかなり高い。いつだったかは、210いくつであった。血糖値も高い。尿試験紙では400から500という色合いである。いずれも薬局でのサービスを受けてのことである。運動不足と焼酎の飲みすぎだとおもっている。酒を飲みすぎると翌日、左胸が少し痛い。冠状動脈に少し閉塞をきたしているのかもしれない。これは、左膝の前十字靱帯を断裂していらい、胸部にねじれを来たし、よって冠状動脈に少なからぬ影響を与えているのだと思っている。仲間に整体をやってもらうと4ヶ月ほど、左胸はすっきりしている。左膝の靱帯の復元手術をすればいいのだろうが、その気は無い。自分の体は、教科書である。左胸が痛くなるのも身体のねじれ状況を知らせてくれる貴重な情報提供である。食事と運動、活元運動、自分があみ出した、自動骨格矯正法、そういったものを総動員して健康を保つつもりである。とにかく、薬は飲まない。それは私の生き方である。この生き方が毀れたとき、私はこの仕事をやめる。なぜなら自己矛盾するからである。それに薬を飲んでこの仕事をしたって、手から気は出ない。酒も同じである。酒の量にかかわらず、酒を飲んだ翌日は、気は出ず、治療がうまくいかない。この原稿を書いている今、酒は一切やめている。昨年一年間きっぱりとやめた。今回は永久追放である。体調がおかしいのは、生活がおかしいからである。生活を改めれば、身体は正常になる。それでも治らないものがあれば、手技療法を受ければいい。それがメンテナンスというものである。

生きとし生けるものは明白でなければならない。人間以外の生き物はすべて明白である。人間だけだ、右往左往して明白さに欠けるのは。医師が患者に、馬に食わせるほど薬を渡すのは、どんな明白な意思があるのかと疑ってしまう。それを服用する患者にしても同じである。両者とも、自分の生き方に明白なものがあるか問うべきだ。余計なお世話だ、ほっといてくれか。私をも含めて、人生すべからく身から出た錆を生きる。それ以上のどんな明白さがあろうってか。まぁ、そんなもんだけど。

とにかく、この療法によって、体の痛みを取ろうと思ったのであるなら、薬に呪縛されている自分を、冷静に点検する必要がある。

 

 この療法には副作用はない。癖にもならない。体のベースを副交感神経優位にし、そのことによって、治癒系を活性化するだけのことである。ただそのことだけである。

 しかし、ただそのことだけが、どんなにか効果のあることだろう。たいていの症状は、施療の翌日からよくなる。治癒系が働くからだ。

他のたいていの療法は、その場でよくせねばならないと思っている。患者もそう思っている。それは両者とも技術が治すと思っているからだ。だから施療者は、その場で痛みを取ろうと躍起になる。それは両者とも根本的に間違っている。たとえば、慢性の痛みをその場で取るとしたら、神経を麻痺させるしかない。それには体に強い刺激を与えることである。強い刺激とは、椎骨や関節を、思いっきりバキバキ鳴らすか、悲鳴を上げるくらい揉むか押すか、ストレッチすることである。アルント.シュルツの刺激三法則によれば、最も強い刺激は神経を麻痺させるとある。こんな治療が、まかり通っている。患者も悲鳴を上げさせられて、効いた!なんて喜んでいる。体を壊してもらってお金を払っていることに気づかない

強い刺激は体をスカッとさせる。一、二回ならまだしも、四、五回もやっていると、からだの支持組織に損傷を来たし、からだの生気がなくなってくる。また、強い刺激は依存性を生み、俗に言う、癖になり。強く骨をバキッと鳴らしたり、悲鳴を上げるほど強く揉んでもらわなくては、どうもからだの調子が悪くて、やる気が出てこなくなる。

 

 身体を生気あふれるものに呼び戻す、ただそのことだけのためには、器械も道具も要らない。ただの素手で十分である。最新式の器械や道具を必要とする治療法は、何か人間の他の欲求に応えようとしているところがある。その欲求とは、自己を機械の対象物としようという欲求である。機械文明の発達とは、言い換えれば、自己を機械の対象物とすることに快感を見出し、その快感を追い求めることである。そこから機械崇拝が生まれる。精密高度な医療検査機器に裸身をさらした時、人に自慢したくなるような優越感を感じるのは、そのためである。

 この手技療法の治療室には、よく接骨院なんかにあるような、医療機器らしきものは、何一つない。来室する者の中には、時折、蔑むような目をして、治療室を俯瞰する者がいる。機械に依存しているからこそ、身体の痛みが消えないことに気がつかない。

 機械崇拝は、必ず、自己を無機的パーツの集合体として見ることに至る。その感受性が、現代西洋医療の、切った貼った、挙げ句は薬漬け、の殺伐とした医療体制を受け入れる素地になっている。

皆さんの周囲を見渡してごらん。たくさんいらっしゃるでしょう。ちょっとした身体の痛みや痺れに大それた手術をして、いっこうに症状が良くなっていないのを。手術をする前に、もっと他に試してみることがあったはず。なのに、最先端医療とかにすぐ飛びつく心情。機械文明の犠牲者である。無残な手術跡を見せつけられても、なぜか同情されない。いそいそと身命を粗末にしたと思われているからだ。

メスを入れて症状が取れなかった体は、手技による骨格修復はあまり期待できない。手術跡が周囲の組織を引っ張っていて、その部分のゆがみが元に復しないからである。手術は成功したが、症状は取れなかったという例は、多くあろう。身体は自分の力で治る能力を持っているのだということをもっと信じてもらいたいものである。

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                       再度、居眠りのために

 

これまで、多くの方々を施療してきたが、薬を飲んでいる人を除いて、居眠りにはいらなかった人は、いない。しかし、一回では、居眠りに入らなかった人は、何人かいる。

 この何人かは、この療法に立ちはだかる壁であり、無視して過ごすわけには行かない。この者達を克服することが、この療法をより完全なものにすることである。以下、重用参考人?を挙げ、コメントする。

 

1.      顎関節症の40代の女性。1回目は、猫背の矯正操作だけで、かなり口があけられるようになった。しかし、居眠りには入らない。睡眠薬を飲んでいるとのこと。二回目は、その五日後、前日睡眠薬を飲まずに施療をうけてもらう。前日は、一睡もしていないので、施療中、居眠りに入るかと思ったが、入らない。いきなり死んだように眠ってしまった。まるで睡眠薬でものんだみたいである。二時間一気に眠ってしまい、本人が目を覚ました時、本人は、あまりにも長時間眠っていたのに、たった十分間ぐらいしか経っていないような気がすると言って、驚いていた。

 このように死んだように眠ってしまった場合、修復操作を行っても骨格が動くことはない。硬膜管も動かない。この女性は、それっきり来なくなった。睡眠薬を飲んでいないのに、脳は条件反射的に睡眠薬的な作用を受けたのであろうか。それとも、睡眠薬を止めると、後遺症として、しばらくそういう眠りが続くのだろうか。

 

2. 1.の例によく似ている。慢性胃カタルの20代の男性。胃が痛くていつも薬を飲んでいるとのこと。胃の薬を飲まずに施療を受けてもらう。1回目は居眠り状態に入り、施療は成功。2週間ほど胃の痛みは消えたとのこと。また痛くなったから来室したとのこと。あれ以来、胃の薬は飲んでいない。二回目は、1回目のように居眠りには入らず、1、と同じく、いきなり死んだように眠ってしまう。これも矯正操作を行っても効果がない。骨格も、硬膜管も動かない。3回目より治療室へ遊びに来るが、治療を受けようとはしない。少し胃は痛いが、以前ほどではないとのこと。こちらとしてはもう一度施療してみたい衝動に駆られるが、受けたくないと言う。家でも、いつもいきなり死んだように寝るのだと言う、夢なんか見たことがないという。徐々に眠りに入る、徐々に眠りから覚めるという、そういうまどろみがないのだと言う。以前はそうではなかったが、そのようになってから胃が痛むようになってきたのだと言う。最初の施療の時、久しぶりに居眠りの快感を味わったと言う。

 

3. 1.2の例とも、第1回目は、上手く矯正ができたが、2回目は前後不覚のような眠りのために、修復の施しようがない。結局、身体の浅い部分での修復は行われたが、深い部分での修復は行われなかったということになる。深い眠りは骨格修復にはつながらないことを改めて認識した。浅い居眠りという生理現象の、身体に及ぼす作用というものをさらに考究する必要を感じさせられた。治癒系を賦活させる鍵が居眠りの中にあることは間違いない。それは、おそらく、夢であろう。夢を見ているとき、脳からアルファ波と呼ばれる脳波が出ている。これは体がリラックスしている時、または瞑想している時などに出る脳波であるといわれている。健康を保つには、この生理現象が睡眠中に起こることが、どうしても必要なのではないだろうか。そして、このような夢は、最近のスピリチュアルにつながる変性意識と呼ばれるものであろう。

   過度の精神的ストレス、肉体的ストレスを蒙ると、不眠症になるか、このように死んだように眠ってしまうかどちらかなのであろう。いずれの場合も夢を見ない。

   施療中、骨格修復が行われていた患者に、後で、眠っている時何か感じましたかと聞くと、たいてい、夢とまでは言えないまでの、形のない夢みたいなものを見ていると答える。

 

3. 家でも、仰向けでは寝れないのだという腰痛の三十代の女性。そういうことも知らず、仰向けに施療して、居眠りに入らず失敗。二回目は、十分間ほど横向きに寝てもらい、体が落ち着いたところで、仰向けになってもらい、施療。居眠りに入る。こういう患者は、硬膜管がねじれているのであるから、横向けに寝ることによって、そのねじれが一定程度取れる。すると、仰向けになっても苦痛ではなくなる。

 

4.  パーキンソン症状の六十代の女性。膝痛で来室。リラックスすると、震えはなくなり、修復操作に入るが、すぐ震えがきて、操作が続けられない。

   途中から、肉体的に疲れさせたほうがいいと考え、柔軟体操、ストレッチ、のようなことをさせ、腹筋運動を可能な限りやらせる。くたびれたところで、仰向けのまま、腿をおなかの方に近づけ、膝から下(下腿)を斜め上方に挙げさせ、こらえきれなくなるまで、その状態を保たたせ、こらえきれなくなったら、膝を折らせ、最後に足の裏をドスンと床に落とす。これは、高橋夫道雄正体術の骨盤矯正の一つであるが、あくまでも下半身の弛緩のために使う。上半身の緊張が下半身の方に降りて行き、スーと居眠りに入る。居眠りに入っている間、体の震えはない。矯正は非常にうまくゆき、膝の痛みは、翌日の朝、消えていた。

 

5. 4.の例に限らず、居眠り出来ないという理由には人、それぞれ様々な理由がある。一つ一つの理由を聞き、それにふさわしい対応を考えたらキリがない。人の家では眠れないとか、抱き枕がないと眠れないとか、一杯飲まないと眠れないとか、実に様々である。しかし、どういう理由であれ、眠れない理由はただ一つである。

 『上実下虚』、これである。これは漢方の言葉なのであるが、意味はこうである。上半身に力が集まりすぎて、下半身に力が不足している体の状態というわけである。病人は、ほとんど、このような体のエネルギーのアンバランスを呈しているといって過言ではない。病気になると体のエネルギーは、上半身に集まる。そうなると脳が、カーットと覚醒し切って、眠れなくなる。そのくせ、足腰が弱って立たない。

 こうなっている場合、体の力を下半身の方に下げてやる必要がある。その方法として、4.のような、下半身のストレッチ、腹筋運動、脚を高く挙げる骨盤矯正術など、ともかく、下半身を運動させて、下半身にエネルギーが流れるようにするのである。そうすると上半身に滞っていたエネルギーが下に降り、バランスが取れるというわけである。

  『上実下虚』、これは、病むとはどういうことであるかを考える上で、基本中の基本である(いや、小生はこれしか知らない)。病むということの大原則であるといってよい。このことが掴めないで、些末的なことをやっても、見当ちがいなことをやっている場合が多い。病人はこれで、バッサリ切ろう。

 バッサリ切ったら、手技は何を使ってもいい。例えば、足の指を一本一本もむことも、足の裏を青竹で踏むことも、ふくらはぎの両側のスジを揉むことも、相撲の股割をすることも、脚のストレッチも、おなかを指圧することもみな、基本的には、上半身に集まりすぎたエネルギーを下半身に降ろすテクニックと考えるべきである。それ以上にシビアな効果を挙げようと考えないことである。

 

眠れない者に対する結論を言うなら、『上実下虚』ということを知るべしである。このことを念頭におき、頭の中にあるエネルギーを下半身の方に下すことをするべきである。基本が分かれば、各自創意工夫できるであろう。

 

ただし、今の場合、『上実下虚』をすっかり正すことによって、症状を完治させるということではなく、とりあえず、『上実下虚』を正すことによって、居眠りにもって行くことなのであるから、長時間かけて手技を施しているわけには行かない。手っ取り早く、体のエネルギーを下の方に下げて、頭の中を空っぽにさせ、ボーとした半覚醒状態にもって行かなければならない。となると、4.の例でしたことが一番いいだろうという気がする。

 4.の例に挙げた高橋迪雄の『正體術矯正法』をもっと簡単にしたものが、第二章に述べた『居眠りを誘発させるための基本、実際の臨床は、猫背修復から始めよう』に使ったものである。同じく、『上実下虚』を正すことを狙ったものである。

高橋迪雄の『正體術矯正法』の一例は、手順がいくつかあるために、初診の患者には、お互い意思の疎通が出来ていないこともあって、少し面倒である。それで、第二章に使ったものは、こちらが簡単に工夫したものである。これは高橋迪雄の『正體術矯正法』には載っていない。この本を読めば、誰でも思いつくことだ。再度、紹介する。

仰向けになり、両手を万歳のように頭上方向に挙げる。しかし、すっかり両手を伸ばして挙げるのではなく、肘のところで、軽く直角程度に折る。そして、両足を揃え伸ばしたまま、爪先の方に意識を集中させながら(この部分が結構大切)、かかとを床から、3センチ程挙げる(もも、ふくらはぎが床につかない程度)。高く挙げるとあまり効果がない。腹筋が一番苦しいところ、つまり床からぎりぎりのところまで挙げ、じっとこらえる。寸分たりとも動かしてはいけない。我慢できなくなったところで、一気にドスンと落とす。ここも一気でなければならない。やんわり落としたのでは、ストレスが溜まるだけで、効果がない。これは、肩凝りに非常に有効である。肩の筋肉が、ふにゃふにゃになってしまう。しかし今は、それは、副次的なものだ。あくまでも『上実下虚』を正すためのものなのである。肩に溜まっていたエネルギーが下半身に降りれば、肩の筋肉がふにゃふにゃになるのは当然である。

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                    居眠りを誘うために、体のゆがみを検査しよう

 

  施療を進めて行っても、患者さんが、居睡りに入らないようだったら、最初に戻って体のゆがみを検査しよう。

 居睡りに入らない患者さんは、少し時間をかけて、だらだらと施療をしたほうがいい。なぜかというと、そういう患者さんは、欲求不満を抱えている場合が多いからである。もっというならば、いろんなことをしゃべりたくてしょうがないという患者さんである。そういう方は、体調不調のこと、ヤンキーな娘のだらしない生活のこと、ペットの猫が肥満だとか、実にどうでもいいことをしゃべりたがる。これも『上実下虚』の一特色である。しかし、そういう患者さんの、おしゃべりの内容には付き合ってはおれない。こちらがくたびれてしまう。そういう人は、際限なくしゃべり、とどまるところを知らない。そしてなかなか疲れない。嬉々として喋り捲り、こちらが参ってしまう。

 そうかといって、おしゃべりをやめさせて施療に入ったんでは、なかなか居睡りに入らない。そういう場合、患者さんの注意を体のゆがみに向けよう。そして、しゃべらせよう。ところが、さっきと変わって、際限なくしゃべるということがない。話の内容が体のゆがみに限定されていることもあるし、何より、体のゆがみを知るための稼働テストに患者さんが協力してもらわないと歪みの検査にはならないからである。いきおい、注意は集中されて、口数が少なくなる。話の内容も体のゆがみに限定されてくる。『先生、私の骨盤、左が少し高くないですか』等々である。口数が少なくなったことへの不満はない。歪みの検査に協力することにより気分が発散されるからであろう。そして、検査のために、息を吐く毎に、体を手で触れられるから、だんだん眠くなってくる。これが一番の味噌である。

 眠りに誘う方法の一つとして、上半身から下半身のほうへ順番に体表を手で触れて行く方法があるが、これは、患者さんがしゃべらないほうが望ましい。しかし身体の検査中は、しゃべってもかまわない。しゃべらない方が正確な検査が出来るのだが、正確な情報よりも、居睡りにもって行くことが先決なのであるから。正確よりもまあまあの情報をつかめばよい。手足の稼働域の検査のために、他人に、自分の手足を動かしてもらうのは実に気持ちがいい。人に体を預けるとリラックスしてくるということの一環であろうが。居眠りへの効果は高い。可動域の検査は、無理なく行い、手足を伸ばすにしてもストレッチの一歩手前ぐらいで止め、それ以上伸展しない心がけでしないといけない。それ以上すると体に緊張感が入って、眠気が催してこないからである。

 

どんなふうに検査をするのか

患者さんには正座をしてもらう。施療者は、その後ろにやはり正座して座る。まず、両手の指で、相手の両肩の上をなぞうろう。大きな違いは見て分かるが、微妙な違いは手でなぞったほうがはっきり分かる。それに肩の高低の差だけでなく、固さ、ふくらみ、厚み、などの左右差が瞬時に分かる。

 首筋の下辺りから、肩先を越え、肘の辺りまで、いとおしむように、軽く、肩と手との間に薄紙が一枚あるようなイメージでなぞろう。以下、どういう場合でも、体に触れ、なぞるということは、そのようにしょう。もちろん患者が息を吐いている時に体に触れるのである。常に左右の対称、非対称を忘れないように

 

次に、肩甲骨の内縁、そして下角を指でなぞり、肩甲骨の開きの違い、肩甲骨の下がり、上がりの差を知ろう。

 

次にウエストのくびれ辺りから骨盤にかけて手の平でなぞり、骨盤の左右の高低差、左右の前傾、傾後傾差、横の張り出し具合などを知ろう。

 

 次に、人差し指と中指で、背骨の真上をなぞり、背骨の蛇行の具合を知ろう。

これらの検査は、逐次、肩の高低さなどを患者に話しながら行った方がよい。肩の高低差など患者はあまり気にしていないから、こんな単調な報告を聞かされながら、体を触れられていると、眠くなってくる。会話もあまりはずまない。『フンフン、やっぱりそうか、どうりで、肩掛け鞄が左側だとずり落ちてくると思っていた』などというものである。

 

正座して背中を見たら、今度は仰向けになってもらおう。脚は伸ばして軽く開き、手は実験の型のように胸の上においてもらう。

 

次に、足先の方に立ち、背をかがめて、右手で相手の右足の踵を支えて股関節から三十度ぐらいまで脚をあげ、左手を膝の外側に当てて、そのまま脚を膝から垂直に折り曲げる。そして踵をそのままつかんで、当てていた左手を膝の真上に持ってきて、膝を外側の方に倒すように少し力を入れ、踵もそれにつれて、床から天井方向に10センチくらい上げ、膝から下を横倒しにする。踵とも床から10センチほどのところで横倒しになっているから、その踵を左膝の上に移動させ載せる。すると股関節を出発点とした、数字の4の字の形が出来る。つまり大腿部の、股関節での倒れ具合が分かるのである。以下、同じように左脚も行い、左右の股関節の、大腿部の倒れ具合の硬軟差を見比べよう。これを上手に行うと、副交感神経である骨盤神経叢を刺激し、眠くなってくる。ここで大切なコツは、膝を垂直に曲げてから、膝を静かに外側に倒すことである(このとき骨盤神経叢が刺激される)。膝を横に倒しつつ膝をまげてはいけない。それはあまり気持ちのいいものではなく、骨盤神経叢が刺激されない。

 

次に何を行うか。

患者の頭上に正座し、相手の両手首を同時に掴んで、手前に引いて来よう。引いてくる途中に、左右の腕の遅速差が現れれる。どちらが遅く手前に来るか、知ろう。遅い方の肩の動きが悪いはずである。すっかり、手前に引いてくる少し前に、引きを止めれば、肘が外側に倒れて、肩の開き具合の左右差が分かるはずである。開きの悪い方の肩が凝るのが一般的である。

 

こんなことをしているうちに、患者が眠くなってきて、手指がピクピク動いているようだったら、そのまま施療に入ろう。首の付け根に一方の手を当て、もう一方の手で後頭骨を支えて、 硬膜管を矯正するテクニックがよいかもしれない。順序通り施療をせねばいけないということはない。居睡りに入ったら、即、千載一遇の思いで、行動開始だ。一気に彼女の病魔を引き摺り出そう。

検査はこれくらいである。初心者はこれ以上細かく見なくてもよい。居睡りにもって行くのがメインと考える以上、微に入り細をうがつ必要はないのだ。

ノート目次

居眠りに入らない最大の原因

 

すべての条件が整っていながら、その患者が居睡りに入らないとすれば、その原因は施療者自身にあると断定できる。

 例えば、部屋の室温は普通の部屋よりいくぶん暖かめにしてある。騒音もない。患者がリラックスできるというヒーリングミュージックも流してある。本人は睡眠薬、その他の薬を飲んでいない。筋肉弛緩のための、高橋迪雄の『正體術矯正法』もやった。しかもこれまで、二回施療を行ったが、うまくいっている。しかし、今日に限って、なぜ上手く行かないのだろう、そう悩んだ時、己れの体調を疑って見る必要がある。

 

 寝不足していないか、風邪気味ではないか、二日酔ではないか、ちょっと疲れているのに無理して施療していないか。こういった微妙な体調の狂いは、患者の身体に伝染する。

 体調の狂いは、おのれの身体に緊張を強いる。身体の緊張は心の緊張を生む。心の緊張は、相手の心に『以心伝心』し、相手の心を緊張させる。心が緊張すれば、身体が緊張する。よって相手の身体は、リラックスすることがない。しかし、患者の意識はそれに気づいていない。身体が施療を拒否して、居眠りできない状態であるにもかかわらず、『今日は、どうして居睡りに入れないのだらうね、いつもとは、特に変わったことはしていないのに…』と言って不思議がっている。

 彼女の非意識の中にあるセンサーが、施療者の体調不良をいち早くキャッチして、『リラクゼーション、ノー』の指令を体に送っているのだと考えられる。その非意識の指令は、意識が解読することが出来ない。よって『今日は、どうして居睡りに入れないのでしょうね』と不思議がるほか、ないのである。

 

 また、こうも考えられる。体調不良の施療者の手からは、体調良好の者とは違う、微妙に活力ダウンした情報(体温、遠赤外線の波長、気の波動、熱の伝導率、デトックスや ホルモンのアンバランスetc)が、相手の皮膚に伝達し、それが脳の深い部分にあるセンサーがキャッチし、体に『リラクゼーション、ノー』の指令を送るのであると思われる。言うなれば、突然冷たい水を背中に浴びせられると『キャーッ』と叫んで身をすくめることにも似ている。この場合、水の温度とは、体感できる領域内の出来事であるため、その感覚は、意識内に昇らせることが出来、『キャーッ』と叫ばせることが出来るが、体感できない情報は、意識内に昇ることはない。それで本人は気づかない。しかしその情報は、非意識内のセンサーが処理することになり、本人が意識するしないにかかわらず、体は非意識的に行動する。それは本能的と言ってもよいだろう。

 

非意識内にあるセンサーが掴む情報は、意識内のそれが掴む情報よりも正確である。例えば、初対面で、会った瞬間、まだ一言も言葉を交わさないのに、どうも嫌な奴だと思ってしまう経験は、誰にでもあるであろう。それは、まさしくそのことを物語っているのである。非意識下で掴まれたものが、言語化されないまま意識に昇らされた時、そうなるのである。先述した『今日は、どうして居睡りに入れないのだろうね』と患者さんが不思議がるのと同じ現象が、そこでも起こったのである。

 

 くれぐれも施療者は体調を整えておかねばならい。リラックスできる部屋作りと同じように、リラックスできる体調作りを持続しておかねばならない。あなたの体は、もはやあなただけのものではないのだ。病める万人が、あなたの十全な身体なしでは、快い居睡りに入れないのだ。どんなにリラクゼーションにふさわしく、設備が整った部屋であっても、施療者が体調不良であった時、それらは何の役にも立たない。

 

 また、あなたの身体だけではなく、心も、もはやあなただけのものではない。いいかげんな心を持って施療に臨めば、その心は必ず、相手の心に以心伝心する。相手がどれだけ深く、リラクゼーションできるか、それは、あなたの心が、どれだけ優しく健全なる境地に在るかにかかっている。病めるものは皆、深いリラクゼーションを求めている。しかし、それがなかなか、かなわないのは、施設や設備があっても、健全なる心を持った施療者に出会えないからである。

 ここで一つ思い起こしてもらおう。第二章の、人を居眠りに導く、絶大なる力とは、施療者の人格であると言ったことを。そしてその端的な例が、イエス.キリストであろうと言ったことを。(私は、別にキリスト教徒ではない。イエスが、信者の額に手を当てて病気を治している宗教画を見てそう思っているだけである。イエスは頭蓋仙骨治療をやっていたのではないかとまじめに考えている)。

 言うなれば、あなたの健全なる身体、健全なる心が、人の病を癒すのである。テクニックは二の次なのである。

ノート目次

                                                           半覚醒状態を見分ける方法

 

やはり、半覚醒状態に入っていないのにもかかわらず、操作を続けることはまずい。しかし、初心者は患者が、半覚醒状態に入っているかどうか、すぐに見分けが出来ない。腕の動きだけでは見分けられない場合が多いからである。

 しかし、ここにとっておきの方法がある。誰でもすぐに、患者が半覚醒状態に入っているかどうかを見分けられる方法である。

それは、半覚醒状態にはいると、患者のつむっている目の、まぶたの下の眼球の丸みがまぶたの上にくっきり浮彫りにされて来るということである。意識が半覚醒状態に入ることにより、顔面の表情筋が弛緩するからだと思われる

まぶたの状態は患者が半覚醒状態に入っているかいなかのセンサーの役割をする。患者に軽く目をつむってもらうことの必要性がここにもある。ひとつは居眠りに導きやすいためであるが、もうひとつはこのセンサーのためである。

目を閉じている患者のまぶたの様子を伺いながら操作せねばならない。そしてほとんどの場合、そのくっきり浮き出た眼球は、ゆっくりと振り子のように左右に揺れている。覚醒時の眼球は、キョロキョロすることはあっても、振り子のようにゆっくり、左右にゆれることはない。眼球の丸みが、まぶたの上にくっきりと浮彫りにされるのとそれが振り子のようにゆっくり左右に揺れるのとは、ほとんど同時である。言い換えれば、眼球の左右の揺れによって、眼球の丸みをまぶたの上に浮彫りにされているのを知るのである。

半覚醒状態になると、眼球の丸みがまぶたの上にくっきり浮彫りにされるのは、先述の説明でうなずける。がしかし、眼球のゆっくりとした左右の揺れは、なぜそうなるのか、傾眠状態に入ると眼球が左右に動くと生理学の本に書いてあるが、その理由がわからない。生理学的に説明がついているのかもしれぬが、寡聞にして知らない。

敢えて、個人的見解を述べさせていただければ、それは、脳脊髄液の流出リズムと深くかかわっているのではないかと思っている。一致しているとまでは断言できない。深くかかわっているとまではいえるのではないか。それは脳脊髄液の流出リズムの停止とともに、眼球の揺れはなくなるからだ。

眼球の丸みがまぶたの上に浮彫りになっても、眼球が左右に揺れていないことが時々起きる。それは、脳脊髄液の流出リズムが停止したからではないのか。

 

もうひとつ、眼球の動きで半覚醒状態に入っているかどうかを見分ける方法。

それはキョロキョロ眼球が素早く動いていることである。それは、レム睡眠時のように、何か夢をみているラピッドアイのようなものであろう。むろんそれは、覚醒したまま目を瞑って、目をキョロキョロさせているのとは明らかに違う。意識がここには無く、遠くに行っているという感じなのだ。今おこなわれている状況に困惑して、落ち着きがなくキョロキョロしているのではなく、瞑目の中で起こっている光景を追いかけているような眼球の動きなのである。この違いをつかむことも判断材料のひとつになる。 

ともかく、患者が半覚醒状態に入っているか否かを見分ける必須条件は、まぶたの下の眼球の丸みがくっきりとまぶたの上に浮き出ているか否かを知ることにある。それはほとんどの場合、眼球が左右にゆっくり揺れていることで知らされる。

眼球が止まっている場合は、まぶたの上の眼球のふくらみは、覚醒時のものなのか、半覚醒時のものなのか判断がつきかねる。慣れると、それは造作なく見分けられるが、初心者の場合は、それは、覚醒時のものであると思って、操作を一時中断し、覚醒か半覚醒かを見極めた上で操作を続行せねばならない。その見極め方は、次項に記す。半覚醒時に眼球の動きが停止しているのは、覚醒時に停止するのより、はるかに少ない。

                                                             ノート目次

               半覚醒時における操作の心得

 

 先に、覚醒時における心得を述べておこう。

目をつむっても 半覚醒状態に入っておらず、意識がはっきりしている場合は、眼球がキョロキョロしていているか、または、全く動かない。眼球がキョロキョロしているのは、こちらの様子を伺っているためである。眼球が動かないのは、忘我になろうと意識を集中しているからであろう。いずれも、神経は張り詰めている。

操作をいくつかやってみて、眼球の左右のゆっくりとした揺れが現われなかったら、その後の一連の操作を続行するのを中断して、患者さんは帰したほうがいい。この療法は、半覚醒状態に入らないまま何をやっても何の効果も無いからである。100かゼロかのどちらかでしかない。しかし、ゼロであってもそのゼロは、次回の操作においては、おうおうにして、99の役割を果たすことが多い。

ただし、それは施療代を貰わないときである。ウンともスンともしないのに次回もまた料金を取られるのかと思うと、次回もまた失敗する。この療法は、居眠りに入ってなんぼのものなのだから、こういう場合、料金はいただかないほうがいい。そしてそれでもだめだったら、何回でもただでやればいい。100か0かなのだから心配はいらない。必ず100の効果を出せる。長年こんなことをしょっちゅうやっているが、最後は必ず100である。その間、なぜ半覚醒状態に入らないのか、原因を究明すればいい。

次に、半覚醒時の操作の心得であるが、それは次に記した特殊な例でそれを述べる。それは、操作をもっとも慎重に遂行する例であるから、その場合を心得れば、一般的な半覚醒状態を扱うのは、それに準じているゆえ、容易である。

 特殊な例とは、 半覚醒状態に入っている時でも、眼球は全く動かないことがあるということである。こんなことを言うと、眼球の動きと半覚醒状態とは、何ら法則性がないではないかと反論されることになるが、『例外のない法則はない』ということは、ここでも言えるのである。そしてここでは、その例外がとんでもない重大事を秘めているのである。

 

 眼球が振り子のように左右にゆっくり、揺れている時は、必ず半覚醒状態に入っている。しかし、眼球が全く動いていない時でも、しばしば半覚醒状態の真っ最中ということがある。しかもそれはかなり深い半覚醒状態になっている。

 

 眼球が振り子のように揺れている場合は、それに対する対応は簡単である。一度、眼球の揺れている状態を見知ってしまえば、青信号なら渡れと同じくらいに簡単なことである。しかし、眼球が振り子のように揺れていない場合、事は簡単ではない。それは、黄信号みたいなものである。渡るべきか、否か迷うところである。ぐずぐずしているとその黄信号は、赤になってしまう。しかし、今の場合、そのシグナルは、交通信号と違って急ぐ必要は無い。なぜなら、眼球が振り子のように揺れている時は、半覚醒状態は浅いため、ぐずぐずしていると、覚醒状態にもどってしまう可能性があるが、眼球が全く動かない時は、深い半覚醒状態にあるか、または全く普通の覚醒状態にあるかの、いずれかであり、いずれの場合であっても、その意識状態はすぐ変化することはない。

 

 深い半覚醒状態に入っておれば、ほったらかしにしておいても、そう簡単に半覚醒状態から覚めることはない。ただし、ほったらかしといっても、必ず体の一部には手は触れていること。

ただし触れているだけで、操作を続行していてはいけない。その理由は、

1.体の一部に手で触れているだけで、施療継続中であると思い、患者は安心して施療に身を任せた状態が続けられるからである。よって、そのまま深い半覚醒状態は続くことになる。もし、体から手を離すと、そうはゆかない。やがて、魔法から解けたように、辺りをキョロキョロ見渡し、ここはどこ、君は何をしているの、そう言えば治療なるものを受けたっけ、もう終わったってわけか、なんか効き目なさそうだなーみたいな顔をされ、千載一遇のチャンスもオジャンである。

2.身体の一部(例えば腕など)を動かすなどして操作を続行するのは、深い半覚醒状態を覚ますことになる。なぜなら、半覚醒状態で眼球がゆっくり揺れていないのは、脳脊髄液の流出リズムが停止していることと深くかかわっているからである。なぜ停止しているかと言えば、この時の患者の姿位が、骨格修復をも含めてもっとも身体の修復に適った姿位だからである。この姿位を、腕を動かすなどして変えてはいけない。この姿位のまま身体の修復に没頭させるべきなのである。それを静かに見守るべきなのである。

 

 次に、もし普通の覚醒状態にあるのであるならば、これもまた急いで、操作をする必要はない。すれば、ますます意識が確かになってきて、自己防衛意識が強くなってくる。君は僕の腕をどうしょうとしているの?ストレッチをするようでもあり、しないようでもあり、イライラしてくるんだなーもうっ、てなわけで、体が緊張してくる。そして腕を動かそうとすると、鉛管でも伸ばすみたいにギュ-っと硬直してくる。

 これもほったらかしにするくらいの、心の余裕を持って接しよう。というわけで、いずれにしても眼球が動いていない時は、あせる必要がないわけだ。これも操作を中断して、そのまま身体の一部にふれたまま、一分ぐらい様子を見守ってみよう。覚醒状態にあるのなら、眼球がキョロキョロしてくるか、瞼がしばたいてくる。こうなったら、今日の治療は、さっさと切り上げて、患者さんは帰したほうがいい。

 

 眼球が動かないということは、ほとんどの場合、普通の覚醒状態にすぎないのに、先述のように、往々にして、深い半覚醒状態に入っている場合がある。これをどうやって見分けるか。『まぶたの上に現われる眼球のくっきりとした浮彫り』といっても、施療前、施療中の違いをそう簡単に識別できるものではない。もともと浮彫りがはっきりしている人もいる。

 しかし深い半覚醒状態に入っている場合、この時、あなたは、何か異質なものに出くわしたような感覚を覚えるはずである。その感覚とは、受療者の身体の一部に触れている手の感覚ではなく、身体全体から受けるトータルな気配である。

 

  眼球が動かない時、体全体がシーンと静まり返ったような感じがしないか。

嵐の前の静けさというか、台風の目の中に入ったような、手も足も、胸も腹も何もかもが微動だにしないような感じがしないか(あくまでも感じであって、実際は、呼吸に伴い胸や腹は動く、ただし、呼吸は非常に緩慢であり、平坦である)。

 深い海の底にでも横たわっているような感じがしないか。

 

 睡眠薬を飲んだみたいな、何をしても目を覚まさないようなグターとした感じになっていないか。

 

  受療者の身体がこのように感じられるとき、不思議と周囲も森閑と鎮まりかえっている。施療者の集中がそう感じさせるのだろう。身体の修復は、施療者との気の交流がなせるわざである。

体が鎮まりかえって行く様子を、これまでの臨床例を思い起こしつ、形容して見たのだが、深い半覚醒状態に入っている様子が掴めただろうか。

 この時、体には、心拍数、体温の低下、呼吸の緩慢などが見られる。調べたことはないが、血圧も下がっているはずである。その他、体の諸機能は一時的に低下する。身体が修復作業に没頭するからだ。

この時、体表の隅々にまで感知されていた身体の生気ある、膨れた感触が消えている。まるで仮死状態のようでもある。脳脊髄液の流出リズムの停止である。身体の中で、何かがチェンジし何かがオーバーホールされている瞬間なのである。パソコンを再起動かけたときの、起動するまでの真っ暗な画面である。再起動を邪魔してはいけない。起こしたり、脚の屈伸をしてみたりしてはいけない。再起動するまで、静かに後頭骨を支えてあげよう。やがて、再起動始めたら(身体に生気が戻り、膨れてきたように感じたら)、後頭骨に硬膜管の捩れや、ロックが解ける感触(力の方向)が伝わってくるから、それに対し、立てている指を合わせて、身体のピクピク、カクカクとした動きを惹起させよう。その動きが、すっかり出なくなるまで惹起させよう。

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            深い半覚醒状態に入っている時の操作法

 

 深い半覚醒状態にあるとき、腕を動かす等の、とにかく体を動かす操作はしてはいけない。それはせっかくの身体の修復作業を妨げることになるからだ。しかも、深い半覚醒状態から目を覚まさせることにもなるからだ。

 深い半覚醒状態に入ったとき、それまで行っていた操作をそのまま一時停止しょう。中止するのではない、一時停止なのである。腕を動かす操作の途中で体が静まりかえったような感じがし、まぶたを見ると眼球が全く動いていなければ、相手は深い半覚醒状態に入っている。その状態を感知したら、動かしていた腕をその場で即、止めて、眼球が再び動き出すまでジッとその停止状態を保とう。やがて体が生気を吹き返したように膨れあがった感じがし、平坦だった呼吸が徐々に起伏を持って来る。まぶたを見ると、眼球が振り子のように揺れている。そうなったら、腕を重くなる方向、ないしは抵抗を感じる方向に動かそう。再び、身体がカクカク動いて、骨格修復が始まる。

 

 またこのようにしても良い。深い半覚醒状態に入った時、それまでしていた操作方法を即、中途停止し、再び眼球が動き出すまで停止を持続し、再び眼球が動き出したら(体が生気を吹き返したように膨れあがった感じがし出したら)、別の操作方法に移ろう。別の操作とは、後頭骨を支える操作である。

 それまでしていた操作方法とは、腕を動かす、または猫背矯正の途中、その他、居眠りに導くための操作の途中であってもよい。 なぜならこの療法の最終目的は、硬膜管のロックをはずすことにあるからである。それには後頭骨を支える操作が最適なのである。深い半覚醒状態に入り、やがて浅い半覚醒状態に還る時、それは、この操作のチャンス到来なのである。

しかし、だからといって、最初から後頭骨を支える操作をすれば良い、というものでもないのである。 そこに至るまでには段階があるのである。いきなり後頭骨を支える操作を行って、相手を半覚醒状態または、居眠り状態に持って行くことは、初心者には少し、困難がある。それは、人間はいきなり、首付近を触られると、本能的に防衛意識が働き、体が緊張し、身構えるからである。お互い信頼を寄せ合っている関係同士であったら、それは可能であるが、一見の患者を、営業上常に相手とする以上、初心者は、いきなりそれはしないほうがよい。

 

というわけで、深い半覚醒状態に入ったら、暫時、間をおいて、眼球がキョロキョロしてきたら、姿位を変えて、後頭骨を支えよう。支えたままジッとしていよう。浅い半覚醒状態のなかで、体が、カクカクと動き出し、骨格修復が始まり硬膜管のロックがはずれる。後頭骨を支えている両手の指先に、右へ、左へと脊柱が蛇行する力が伝わってくる。その力にカウンターを与え、力を真中に向かわせるように指先に軽く抵抗を与えよう。

 深い半覚醒状態が解け出す時間は、一定ではない。二三分で済む場合もあれば、数十分ないし、一時間近くかかる場合もある。それでもなお、ジッと根気良く、その深い半覚醒状態が解けるのを待とう。長い時間かけて、深い半覚醒状態が解けた時、獲物は大きい。深海に垂らした釣り糸に大魚が引っかかるように、体が大きく膨れだし、大魚が一瞬身をくねらせるように、大きな矯正が始まる。

深い半覚醒状態に入ったら、部屋は十分に暖めよう。相手の体には、毛布などを掛けよう。深い半覚醒状態に入ると、体はかなり冷えてくるからだ。

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                                  脳脊髄液流出のリズムとは

 

 半覚醒状態の深まりは、脳脊髄液(CSF)流出のリズム停止に深くかかわっているということを、これまでに何度か話してきた。ここで脳脊髄液流出のリズムとは、どういうものであるか、知っておかねばならないだろう。

脳脊髄液流出のリズムとは、硬膜管内において第四脳室より一定のサイクル(一分間に6~12サイクル)を伴って。湧出する脳脊髄液のリズムである。組成はリンパ液である。これが第四脳室より溢れ出、硬膜管内を隅々までめぐって体内へ吸収されてゆくのである。この湧出を惹起しているのが、硬膜管の稼動である。つまり硬膜管がリズミカルに振幅運動をするがゆえに、第四脳室で脳脊髄液が湧出を繰り返すのである。これによって生命機能の恒常性が保たれているのである。この動きを最初に発見したのは、オステオパシーのジョン・E・アプレジャーである。彼は、脳の硬膜を手術しようとしてこの動きのためにそれができなかった。それから彼の考究が始まり、この関連を突きとめたのである。このリズムは心臓の拡張、収縮のリズムにも、肺の呼吸のリズムにも干渉されることなく、体の隅々にまで行き渡る。それは体のどこからでもこのリズムは感知されるということである。足首からでも、腿を触れても、腕を触れても、この硬膜管内の脳脊髄液湧出のリズムは感知されるのである。ただし、何か疾患に見舞われている部分ではこのリズムは感知されない。そこから、このリズムが感知されるか否かが、診断のセンサーとなる。興味のある方は、ぜひ、ジョン・E・アプレジャ著『頭蓋仙骨治療』(スカイイースト出版)を読まれたい。また、インターネットで、『脳脊髄液』で検索すると、頭蓋仙骨治療に関連して、多方面より、いろいろ述べられてある。

ただ、注目すべきことは、頭蓋仙骨治療の手順にしたがって、その流れのリズムを停止に至らしめ、身体をカスタマイズさせるのであるが、脳脊髄液のリズムそのものは、治療の手順どおりでなくても、どうかした日常生活の中で、時々停止することがあるということである。つまり、治療という特別な場面を設けなくても、身体はカスタマイズにいつも遭遇しているということである。

それは、身体にとって、求められるべき状況が身体に取込まれた時、そうなるのである。

まぁ、平たく言えば、何かに感動があったときということになる。例えば、朝のすがすがしい空気に秋の気配を感じたとか、夕暮れ時に、聞いたチャルメラの音に、幼少のころの思い出がよみがえったとか、路地裏で懐かしいにおいをかいだが、何のにおいだったか思い出せぬまま呆然とたたずんでしまったとか、商談していた相手が、急に電話をしに席を立って、独りきりになり、思わずここは何処?とつぶやいてしまったとか、ドアを開けた瞬間、偶然そこに昔の恋人が立っていたとか、隣の携帯の着信音が、いつも聞きなれたつまらぬ音楽だったのに、その日に限って…とか、思わず背伸びした瞬間、このポーズは、何かで見たような気がすると思った瞬間とか、つまり、枚挙に暇がないのである。

結局ここまで書いて、以前、このノートで同じようなことを書いたのを思い出した。それは、第一章の『この整体の優れた点』の項に書いた、『健康人は、ある条件がそろった時、覚醒意識の中に半覚醒意識が広がる。そしてまた消えてゆく』である。私なりに言わせれば、脳脊髄液のリズムの停止は、半覚醒意識を生むのである。

日常茶飯事、健康人はいつだって、脳脊髄液流出リズムを停止させているのである。そして、身体は元気によみがえり、再度チャレンジしているということである。問題は、こういう身体のメカニズムを利用したところに、この療法(姿位の整体)は成り立っているということである。何も特異な瞬間を狙ってテクニックの手順を組み立てているのではないということである。

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                  こんな人には、お酒を飲んでもらって居眠りしてもらおう。

 

 居眠りに入れない人には、あの手この手を試してみるしかない。性格的に神経質であるとか、五時間後の仕事のことが気になってしょうがないとか、莫大な借金を抱えていて、居眠りどころではないとか、外的、内的要因を問わず、居眠りに入れない理由には、顔の数ほどあるといえる。ええい、面倒だ、顔の数には付き合ってはいられない、ってなわけで、一杯引っかけてもらってご来室願おう。

 そういうわけで、私は、お酒を飲んで治療に受けに来られても、不謹慎とも何とも思わない。私も酒にはだらしない方だから、むしろ歓迎しているくらいである。治療室にはそういうわけで、酒のビンが並んでいる。ただし、治療師が一杯引っかけて治療してはいけない。いけないというよりも治療効果が出ないのである。全く効果がないわけではないが、明らかに効果は半減する。運動神経とか感覚が鈍くなるだけでなく、オーラがでないのである。二日酔いも同じである。治療師は、なるべくなら酒の嗜好は断つべきである。

 

 とにかく、軽く一杯やってもらって、ほろ酔い加減で治療を受けてもらうのも一つの方法である。アルコールは、脳の理性を司る新皮質の部分を鈍らせる作用がある。そこが朦朧としてくると、筋肉が弛緩し、眠くなってくる。そうなってしまえばしめたものだ。

 ベッドに仰向けに寝てもらうと、ドテ-としている。手足が、気力なくグニャグニャしている。下ごしらえが十分に出来た食材のように、最高の捌かれ状態にある。本人も煮てでも焼いてでも、ナントでもしてくれ~とマゾヒステックになっている。日頃の理性もどこかへ行ってしまったみたいだ。病根を体内から引きずり出すもっけのチャンスである。

 優しくかつ大胆に迫ろう。胸の上に両手を置いてもらう。それは、本人にさせないで、あなたがしよう。すること為すこと、すべてを人任せにしてゆくという依存意識を相手に増幅させて行くためである。

 次にすることとは、酔っ払って仰臥になっても体を真っ直ぐにして横たわっていないから、両足首を持って、腰を少し吊り上げ、左右に揺すり、真っ直ぐになったところで、静かに足首を下に降ろそう。これはけっこう気持ちの良い操作であり、これだけでも更にリラックスし、筋肉が弛緩してくる。そしてその後、先述したような股関節の開閉の差異の検査をした方が良かろう。副交感神経である骨盤神経叢に刺激が行き、酔いも手伝って、ますます体が投げ出されてくる。そこまでやれば、すること為すこと、すべてを他人任せにしてしまいたいという依存意識に、すっかり脳が浸食されてしまい、静かに腕を動かしても、鉛管を伸ばすようなぎこちない動きにはならない。大きな自動修復の動きが次から次へと現れ、戦果は、入れ食い状況となる。こんなに面白いことはない。治療の醍醐味ってこれかと唸るであろう。

 

患者さんに一杯ひっかけてもらって、治療か?う~ン考えちゃうなー。なんか安っぽい治療法だョなー、とここでそう思われたであろうか。もし思われたのであるならば、あなたは、まだ『居眠り』ということの、秘宝にも似た価値が分かっていないと言える。『居眠り』、それは手技療法における秘薬なのである。治療中これさえ、手に入れれば良いのだ。それだけでほとんどの疾患は消えてしまうのだ。そのためには手段を選んでいる暇はない。安っぽかろうと、高級っぽかろうと、手段なんかどうでもいい。山中に埋もれている、戦国時代の埋蔵金を掘り当てるのに、高級ヴィグル車で林道を疾走する必要もあるまい。おんぼろな軽トラで十分である。

 

また、『居眠り』なんて、その辺りにいつでもゴロゴロ転がっているじゃないか、何が秘宝だ、秘薬だ。少し頭がおかしいんじゃないかというであろう。しかし、それは、毎日毎日のどかな田園風景に見飽きた茶髪の(この場合茶髪でなければならない。なぜなら私もかっては茶髪だったからだ)不良少年のせりふみたいなものである。彼らは,茶髪を振り乱し、用もないのに農道をバイクで行ったり来たりする。けたたましいエンジン音をブン鳴らしてである。のどかな田園風景が彼らを癒していることに気づかない。そして今や、純粋にのどかな田園風景は、天然記念物なみに日本では、お目にかかれない。それに匹敵するのが治療中の居眠りなのである。

 

 お酒を一杯ひっかけてから、治療を受けてもらうことを思いついたのは、ある腰痛の患者さんにてこずったからである。

その方は、トンネル工事で、身体を機械に挟まれ、身体がくの字に曲がってしまった。腰椎の圧迫骨折から退院したものの、腰の激痛と坐骨神経痛に見舞われ、二度と現場に復帰できない身体になっていた。果てしない治療院巡りのはて、友人の紹介で私の所へ来ることになった。

 まず何をやっても居眠りに入ってくれないのである。居眠りに入らない無駄な治療が二三回続いた。何か職人気質特有の神経質のようなものを感じた。奥さんに聞くと、主人が家に居ると、家中ピリピリしてしまうということであった。それで、次回から、家で一杯やって、ほろ酔い心地になったら、奥さんに運転してもらって治療院へいらっしゃいということにした。それから治療は実に上手く行くようになり、一ヶ月ほどで工事現場に復帰するようになったのである。私は今でもこの感動を忘れない。目に涙を浮かべて喜んでくださった。本人も酒が好きであったから、一杯飲んでから治療を受けた方が上手く行くような気がしていたのだが、あまりにも不謹慎かなと思って黙っていたとのことであった。

 

治療中、居眠りに陥りさえすればいい。それだけでもう十分なのである。病魔を袋小路に追い込んだも同然なのである。後は、それが這いずり出てくるのを待つばかりである。椎骨のズレによる硬膜管のロックが外れ、硬膜管が真っ直ぐになり、それがスムーズに伸縮するようになれば、全てが解決なのである。そしてこの解決事項は、居眠り中にしか起こらないのである。そのために、まず、何が何でも、居眠り状況を現出させよう。居眠りしないことには、居眠り中の出来事も存在しないからである。

 

居眠りにもって行くまでの方法は、どんなことでもいい。方法としては、二方向ある。徐々にリラックスを深めてゆく方向と、身体に一気に緊張を強いる方向とである。身体に一気に緊張を強いる方向は、それが頂点にまで達した時、突然身体の弛緩が始まる。その例として、気功の基本動作のひとつである站椿功(タントウコウ)を患者さんに三十分ぐらいしてもらうのも、居眠りにもって行くのにかなり好い方法である。この站椿功は、初心者にはかなりきつい。三十分も立っていると、顔から汗が吹き出、膝がガクガク笑い出す。そうなったら、この動作を止めて、布団の上に仰向けに寝てもらおう。突然身体が弛緩を始め、眠気が襲ってくる。こんなやり方でもよいのである。

 

居眠りにもって行くまでは、なんでもよいと一応は言ったが、入浴はいけない。入浴はそれなりに骨格の修復が行われるからである。いったん修復が行われると、骨は、その後、修復の動きをあまりしないからである。

 他、睡眠薬による眠りの誘発もいけない。睡眠薬による眠りは、骨格の修復が行われない、ナンセンスである。この療法は睡眠薬の服用をやめさせるところにあるゆえ、これはもってのほかでもある。

 

居眠りという、誰しもが日常によく体験する、ごくありふれた生理現象を利用しての手技療法を紹介したのであるが、疾患を抱えている者にとっては、居眠りは、決してありふれた生理現象ではないということに留意すべきである。彼らにとって居眠りとは、やはり至難な出来事なのである。不眠症にとって、睡眠ということが苦痛な出来事であるように、居眠りも苦痛な出来事なのである。ただ、睡眠は必要欠くべからざることであるが、居眠りはそうでもないため,そのことに対する苦痛を感じないというだけのことであって、やはり、その者に居眠りを要求すれば、その者の身体のおかしさが露呈されてくるものなのである。

 居眠りという生理現象は、治療の宝庫であることに気づいている者はまだ少ない。一匹の猿がとんでもないことをし始めて(たとえば、芋を海水で洗って食べるとか)、それをみんな真似をして、それが百匹目に達した時、世界の、猿という種全体の意識構造が変わるという本を読んだことがある。しかし、私は百人とは言わない。このノートを読まれた方のうち、一人でいい、この居眠り療法を実践してほしいものだと思っている。その一人は、次の一人を生むはずだ。それでいい。私はこの療法で、一人の仲間を求めている。それは、この療法で私の体を治してほしいからである。多くの人の体は治せても自分の体は治せない。

人の手でなければ治せないという疾患形態はあるのであり、その必要性に迫られたところに手技療法が存在するのであり、その必要性に甘えて羊頭狗肉めいたことをやっているのがおざなりな手技療法である。

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                            姿位の整体適応症状

 

 命に別状はない、しかし、日常生活に支障をきたす症状(痛み、しびれ、めまい、苦悶、不定愁訴等 )。これがこの療法の適応範囲である。

 命に差し支えると思われる症状の時は、よしたほうがいい。当たり前のことだが、ことわっておこう。この療法は、そこまで高次ではない。しかし、数々の手技療法のなかには、すごい者がいる。臨死からの生還ということをやってのける手技療法師もいる。

 どんな手技療法も極めれば、そこまで到達することのようである。要は、技法ということに差異があるのではない。その技法を駆使するものがいかに名人か、達人かということである。いくら正宗の名刀を持たされても剣の心得がなければ、犬一匹殺せない。逆も真である。竹光で数人を倒すことも出来る。

 どんな手技療法も、最後に到達する技法は、同じだと思っている。巧むことなく、為すがまま、為されるがままの治患一体となった世界だと思われる。手技療法で身を立てようと思った以上は必ずそこまで至らねばならない。千里の道も一歩から、まずはとりあえず、人を居眠りに陥らせる名人になろう。

 

 命に別状はない、しかし生活に支障をきたす症状、これがこの療法の適応範囲なのであるが、命に別状があるかないかどうやって見分けるのか。残念ながらこれは、医者に聞いてみるしかない。長年手技療法をやっていると、これは、うちでは面倒が看れない、すぐ病院へ行った方がいいとか判断できるが、初心者には、それは無理であるから、一度、病院にかかって埒があかなかった患者か、治療経過中に必ず医師の診断を受けることのできる患者から手がけよう。

 

 例えば、頭痛といっても、脳に腫瘍が出来ている場合もあれば、蜘蛛膜下出血の前兆の場合もあるのである。頭痛ぐらいかといって、医師が手がける前にこちらが先に手がけるべきではない。しかし、世の中というのは、良くしたもので、こういった手技療法を受けに来る人というのは、一度必ず、病院へ行って、現症状の診断を仰ぎ、病院の治療を受けた経験を持っているということである。ということは、命に別状なく、手技療法適応範囲内の症状であるというお墨付きをもらって手技治療室の扉を叩いたということである。

 これが、いつの世にも変らぬ、正規の医療と手技療法との関係である。診断は正規の側にあり、その診断に基づいて手技療法が施療するということである。どういう診断か、それは正規の医療では治療不可能という診断である。生活に支障をきたす痛みを抱えて手技治療室の扉を叩いたとなれば、正規側の意図はどうあれ、結果的には、治療不可能という診断書を書いたも同然なのである。『腰痛』、『肩こり』、『膝痛』、『ムチウチ』…。最もらしく、何と診断しようと(これは病名ではないが)治せない以上、治療不能と診断しているのに等しいのである。

 正規の医療は、命に支障をきたす症状に対しては、一生懸命になる。それでこそ医学だ。しかし、そのぶん、命に別状のないものには、軽く対応してしまう。まぁ、それでいい。それで我々は、飯を食っているのだから。

 

 

 医師の診察を受けた後、こういった治療室へ患者が来るということは、正規の医療機関から、手技療法の適応範囲内の症状であるという、お墨付きをもらったに等しいということを先述した。そのことをもう少し詳しく書こう。

 

 一度病院で診察を受け、幾度か治療を継続して埒があかなかった、そして手技療法の扉を叩いたということは、次のことが考えられる。1.その症状は命に別状がない。もしあれば、入院させられている。2.幾度か治療を受けて埒があかなかったということは、その症状は、難病に指定されているものか、身体の捻じれが嵩じたために生じている症状か、いずれかである。

1. については何も言うことはないであろう。2.についてであるが、難病とは、例えばリュウマチ、膠原病、小脳萎縮症、筋ジストロフィなど、30数種ほどある。これは治療薬も治療方法もわからないため、無償で治療が受けられる症状である。こういう診断書を持って、治療室の扉を叩いて来たのなら、やってみるしかないであろう。筋ジストロフィなどは、手技療法で治ったという報告を読んだことがあるから、やってみる価値はあろう。リュウマチは私にも治験例がある。言いたいことは、指定難病だからといって恐れる必要はないということである。人はなぜ病み、それがなぜ治るのか本当のところは、医学でもわからないのである。表層的にもっともらしい理屈をつけているだけのことであって、心身の深層部でどんなことが起こってどう身体が変貌を遂げて行ったのか、だれも知らないのである。これは恐ろしいくらいに厳粛なことである。あなたはこの厳粛さの一端を担うことになるかもしれない。生命の神秘に参入することを潔しとするなら、難病を引き受けて立つべし。もしその難病の原因が、身体の捻じれを起因とするものであるならば、この姿位の整体は、著効を提供することになるであろう。

   以前、東京で開業していたとき、糖尿病からくる、『小脳萎縮症』の方を施療したことがある。難病に指定されている。運動機能がなくなって、最後は嚥下もできなくなり、石のように硬くなって横たわるしかない症状である。肩から首にかけて締め付けられるように凝り、右に首がまわせないのだという。どんなマッサージ指圧もほぐれないのだという。高橋整体術を思いっきりやらせ、グターとなったところで、仰向けになってもらい、腕を三回ほどまわして、すぐ後頭骨の支持をやった。身体が動き出した。床をどんどんとするくらいの動きであった。症状は取れた。しかし改善させることはできなかった。しかし、手技療法はそれでいいのである。本人に言わせれば、2年ぶりに首がまわるようになったというのだから。

 

 

 要は、難病であろうとなかろうと、病院で埒があかず、手技治療の扉を叩いた人の症状というのは、身体の捩れが原因となっていることがあるのではないかということなのである。もっと言うならば、身体の治癒系を阻害している原因の一つに身体の捩れが関わっているのではないかということである。

 

 筋・骨格系の痛み、シビレはもちろん、内臓系の痛み、例えば、胃潰瘍なども身体の捩れが関与していると考えられる。最近では胃潰瘍の原因に、ヘリコバクタピロリ菌が関与しているケースがあることがハッキリしたのであるが、それとて、身体に捩れがあるから、感染するのだといえる。ヘリコバクタピロリは、どこにでも居る普通の菌なのであるから、胃潰瘍になるとは、特定の者にしか罹らないということになる。しかし、その特定とは、特異体質のことではなく、特定方向に身体が捩れやすい体質なのではないか。そういう意味での特異体質として考え直す必要があろう。何もかも特異体質として片付けてしまうところに、薬漬けと、手術の横行を許す現代人の怠惰があると思われる。

胃潰瘍で薬を手放せない二十代後半の女性をすっかり治してしまったことがある。その人は、左のふくらはぎが異状に固かったのを今でも思い出す。これも後頭骨の支持だけで身体を動かし、二回ですっかりなくなってしまったのである。結果的に私が治したといえるのかもしれないが、薬を飲むのを止めたから治ったのだと思う。案外、身体というものはそういうものなのである。

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                                       身体の捻れと痛み

 

 病院で埒があかない症状の多くは、身体の捩れが関与している場合が多いと述べたが、ここでは、なぜ身体が捩れるのかについて具体的に考えてみたい。

 

 人間の体幹は捩れやすく出来ている。かって人類が猿人として、まだ四足歩行をしていた時は、そうではなかったであろう。二本足歩行の動物は、鳥類を除けば、人類だけである。これは特異なことと言わねばならない。身体の強靭な働きを捨てて脳化の拡大を選択した、唯一の損失結果が、『体幹の捩れ』である。二本足歩行は、重い頭脳を支えて歩くには好都合である。しかし歩くたびに体幹は捩れる。四足歩行の場合、体幹はほとんど捩れない。足の動作による体幹の捩れを手の動作が補正するからである。(仙腸関節の負担には重心が関係している)

 二本足歩行の場合、歩行による骨盤の捩れは、もろに脊柱を捩らせ、最後は後頭骨をも捩らせる。歩くたびに左右の腸骨は、前後に捩れる。すると、左右の腸骨に挟まれている仙骨は、左右に捩れる(左腸骨が後傾すれば、仙骨は右に回旋する)。左右の歩行が均等であれば、歩行を終え両足をそろえて静止した時、両腸骨の前後の捩れも、仙骨の左右の捩れも消失していることになる。ところが、左右の足の、いずれかの側により多く支点のかかる歩き方をしていると、腸骨の捩れ、仙骨の捩れが、一定方向に偏向することになる。

 例えば、左足に、より多く支点のかかる歩きかたをしていると仮定しよう。左足の歩幅は右足のそれより小さい。そして両足を揃えて静止した時、左の腸骨は後ろに捩れ、右の腸骨は、前に捩れている。仙骨は、右に捩れている。このトルクは脊椎の中を貫通している硬膜管を介して、頭頂にまで至る。このような体幹の捩れは、少しくらいは誰にでもある。しかし、その捩れが一定の閾値を越えた時、身体に様々な症状が現れるのではないか。

 

 体幹の捩れにより、まずどんなことが、身体の構造上起こり得るか考えて見よう。

 それに先立ち、若干、語義の訂正を行う。まず、これまで使ってきた体幹という語の意味であるが、これまで、話しの都合上、イメージが沸きやすいために、脊柱をも含めた胴体と同意味で使ってきたが、今後、両者は別意味で使う。例えば、体幹の中心は脊柱であるなど。 

 

 身体は、筋肉と骨格とによる構造物である。体幹の中心である脊柱が捩れるとどうなるか、身体という構造物は軋む。構造物のジョイントである関節の骨の位相が狂い、関節に痛みが発生する。

 

 脊柱の捩れは、体幹に補正を要求することになる。例えば脊柱が、左捻旋を余儀なくされている状態の時、胸郭(胸のあたりの肋骨群)は右捻旋する。そうすることによって、体幹は正面を保つのである。脊柱が左に捻旋すれば、体幹もそれにつれて左に捻旋することになろう。しかし、人間が蟹のように横ばいできればどうってことはないのだが、脳の平衡感覚がそれを許さない。さりとて、脊柱の捻旋は、戻そうと思っても、物理的トルクが働いているため、戻らない。いきおい、体幹を逆捻旋することによって平衡ないしは正面を保とうとする。ここに胸郭が捻旋することになる。

 胸郭が捻旋すれば、胸郭は軋むことになる。ここから背中の痛み、胸の痛みが発生する。四十肩、五十肩と呼ばれる症状も同じ原理で説明がつく。

 また胸郭の捻旋は心臓を圧迫し、不整脈を生じさせる。また心臓の血流を阻害し、狭心症、心筋梗塞の原因となる。

 胸郭の捻旋を元にもどすだけで、これらの症状を解消させた臨床経験から、このことを話しているのである。

 胸郭の捻旋だけではない。脊柱の捻旋は、仙骨に対する左右腸骨の捻旋を生じさせ、後頭骨に対する、頚椎一番の無理な回旋を生じさせる。

 左右腸骨の捻旋は、仙腸関節に軋みを生じさせ、慢性腰痛の引き金となる最初の原因となる。同じく股関節、膝関節等に軋みを生じさせ、それらの関節に痛みを生じさせる。

 胸郭の軋みが末端に波及すれば、肘関節、手関節に痛みを生じさせる。腱鞘炎などもその一例である。腸骨の軋みが末端にまで波及すれば、足関節、踵などに痛みを生じさせる。

        

 身体のフレームワークは複雑である。したがって、脊柱の捻旋による骨格の軋みが、どういうふうに伝播し、波及してゆくのか全く分からない。したがって、例えば膝関節の痛みには、この側の腸骨をこんなふうに矯正してとか、この背中の痛みは、何番の椎骨をこんなふうに矯正してとか、そういう逐一的技法は、この姿位の整体では一切採用しない。そういったことの無意味さは、実技編で十分述べたつもりである。身体のことは身体に聞くしかないのである。身体の為すがまま、為されるがままに従うしかないのである。その為すがまま為されるがままを、よりスムーズに通りやすくしているのがこのテクニックである。

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                         居眠りの復権

 

 身体は修復したがっている。毎日毎日、いつもいつもである。こんな痛みから早く逃れたいと切ない思いで涙に暮れているのだ。本人の心はそんなに切に思っていないと言うかもしれないが、それは本人が気づかないだけで、身体は本人の気づかないところで、切に叫んでいるのだ。しかし、とっ架かりがない。

 身体が修復したがっているという情念が、もろに出るのは、居眠りの時である。しかし授業中居眠りしても、誰も私の身体が修復したがっているとは思ってくれない。修復のとっ架かりとなる救いの手を求めても、堅物の先生にげん骨を入れられるのがせいぜいである。誰も私の、この救いをもとめてやまない、うそ偽りのない、純な心を理解してくれない。先生の注意を引こうと、かまってもらいたくて、救いをもとめて居眠りしているのに、げん骨を入れるとは何事だぁ!先生好きだったのに、げん骨入れるなんて野暮なお方。でも好き!と叫んで泣き寝入りするばかり。

   

 居眠りという生理現象は、日常生活の中で、不当に低く扱われている。大便、小便の排泄現象よりも低く扱われている。

 ということは、話しを進める前に、大便小便の排泄行為も低く扱われているのかと、聞かれそうなのだが、その通りと答えよう。排泄行為は、生命を維持する上で、なくてはならない現象なのであるが、汚い、不潔ということで、忌み嫌われている。こういった話しになると、誰も厳粛な気持ちになって聞かない。滑稽と、可笑しみを噛みこらえて聞く。それは、こういった排泄現象に対する蔑視があるからである。

 また少し脱線するが、ある小学校で、これまでの無機的な殺伐とした空間であったトイレを改造して、綺麗で和やかなサロンのような空間にしたら、不登校とか、いじめがなくなったというレポートを聞いたことがある。児童の生命に対する意識が変革したのだと思われる。そうすれば、人間の情操が変る。これは凄いことだと思った。いまだに、多くの小学校、中学校、高校で、学校でトイレができないということを聞く。学校で、トイレをすれば、いじめの対象になるからである。日本という国は狂っている。それは、いつのまにか、ヘンな生命観を植え付けられてしまったからである。

排泄現象だけではない。女性の生理現象も不当に低く扱われてきている。性に対する劣情と男尊女卑の意識構造から、この生理現象も、男性の側からの不当な仕打ちを受けることになる。この歴史は長い。『女人、山に入るべからず』、宗教すらおかしい。 

 居眠りという生理現象も不当な仕打ちを受けてきた。怠け者とやる気のなさの代名詞みたいに扱われている。

 生徒が授業中、トイレに行きたいと言えば、行かせるだろう。まさか、げん骨を入れる教師はいない。しかし、授業中居眠りすれば、げん骨を入れられる。不当ではないか。生理現象は、意識でコントロールできないことが多いのだ。排泄現象がそうである。居眠りもそうだ。なのに排泄行為にげん骨が入れられなくて、居眠り行為にげん骨が入れられるとは、どういうことなのだ。行儀がわるい?だからどうだってんだ。不謹慎だ?だからどうだってんだ。クソッ、俺はしょっちゅう、げん骨を入れられた。この恨みつらみが、このノートを書かせている原動力なのかもしれん。

 

 行儀が悪いとか、不謹慎とか言う教師は、ヘンな生命観に毒されているのである。居眠りしたくなる授業というのは、身体に良い作用をもたらしている授業なのである。だから生徒が居眠りしたくなる授業の教師は、もっと自信を持ってほしいものである。同僚や、校長や、委員会の不当な圧力に屈することなく、生徒をどんどん居眠りさせてほしいものである。あなたの身体からは、生徒の心身を癒すオーラが、放射されていることに間違いないのである。

 今、学校で一番大切なのは、学力ではない、心身の癒しである。学力なんて、その気になれば、どんな方法、機関を通じてでも身につけることが出来る。学校だけが、学力を身につける場所ではない。基本的に、学校は生命の交流の場である。

 今の世の中、どこへ行っても殺伐としている。生徒らがよく行く、ゲームセンターや、カラオケルーム。一見楽しげな空間であるが、その奥に潜んでいる殺伐とした意思はぬぐえない。授業中の、あの、先生の声を遠くで聞きながらまどろみに落ちて行く、あの快感に比べれば、これに勝るヒーリングの場所がどこにあろう。

 最後に、居眠りの復権のために、もう一例の話しを。

 作家の小林秀雄は、大変な音楽好きであった。外国から、有名なヴァイオリンの演奏家が来日するということで、心待ちにしていた。ところが、演奏会に行って、演奏の最初から最後まで、居眠りしてしまって、全くどんな曲目が演奏されたのかさえも覚えていなかった。しかし、彼はすごく満足した。とエッセイで書いている。それはなぜ?彼に言わせると、人を居眠りに陥らせるほど心地よい音楽だったからというわけである。

 素晴らしい演奏というのは、音楽を聞こうという意識を飛び越えて、直接身体に入ってしまうらしい。それでこそ、音楽を堪能するといえるのであろう。演奏家の醍醐味は、聴衆が皆、居眠りすることにあるのかもしれない。

 ここで、退屈な授業中の居眠りと、いっしょくたにするなと声が飛んできそうであるが、ヒーリングという観点からすれば、退屈な授業中の居眠りも、素晴らしい演奏会の居眠りも、さして変らないと思っている。遠くで先生の声を聞きながら居眠りに落ちて行く快さは、演奏会のそれとさして変らないと思われる。居眠りの質は、演奏会であろうと、授業中であろうと、電車のなかであろうと、同質なのである。居眠りしている身体は、周囲がどういう状況であろうと、おかまいなく、ピクピク、ガクガクと、勝手に動いているのである。

 

 誰も見向きもしなかった居眠りという、不当に貶められていた生理現象に治療の宝庫を見た、この居眠り手技療法は、革命的だと思わないだろうか。悪人こそ救われる(歎異抄)と言った一僧が、それまでの権威あるもの達によってでっち上げられた人間観を、根底から覆したように、この療法も、少しは革命的だと思うのだが…。自画自賛はこのくらい、次へ進もう。

                                                                ノート目次                  

 

                脊柱が捩れると、身体は歪む

 

 普通、手技療法界では、身体の歪みということは言っても、身体の捩れということは、あまり言わないように思われる。それは、捩れよりも、歪みの方が、外見上、分かりやすいからであり、したがって、それを手がかりに施術するほうが、納得しやすいからであると思われる。

 左右の骨盤(腸骨)の高低差、左右の脚の長短、左右の肩の高低差、脊柱の蛇行等、身体の歪みは、目敏く検査しやすい。しかし、身体の歪みを作っているのは、実は、脊柱の捩れなのである。脊柱の蛇行は、脊柱の捩れによって派生する副次現象なのである。 

 左図は、カパンデイの関節生理学に載っているものであるが、これは、歩行時における、身体の歪みを図示したものである。カパンデイは、ここでは、歩行時における左右の腸骨の高低差と、左右の肩の高低差を述べているが、脊柱の捩れということには言及していない。

 

 この図(関節生理学脊柱編のイラスト)を、捩れという観点から説明するとこうなる。

 左足に重心がかかると、左の腸骨が上がり、左の肩が下がる、とあるが、これを捩れという観点から言うと、左足に重心がかかると、左の腸骨は後傾し、左の肩は、前方に内旋することになる。左の腸骨が股関節を軸にして後傾する時、これまで前傾していた腸骨の一番長い長径が垂直近くに起きあがることになるから、あたかも腸骨が上がったように見えるのである。同じように、肩が、前方に内旋するとき、体躯の前屈とともに内旋する。それが肩が下がったように見えるのである。胸椎が凸の蛇行カーブを描くとき、前屈方向を目指す(肩が低くなる)からである。(胸椎の回転軸は、前方にあり、背中を屈曲させる)。

 次に、左足に重心がかかった時、脊柱の捩れはどうなるのであろうか。ここでは蛇行しか図示されていないが、脊柱が捩れるがゆえに、脊柱が正中線上を離れて蛇行しているかのようにみえるのである。そのように見えるのは、各椎骨の正中線上の棘突起のふくらみが、回旋により正中線上を離れ横に移行し、正中線よりも横にふくらみが現れるから、あたかも横に蛇行したように見えるのである。見かけほどには、脊柱が正中線上をそれることはない。各椎骨の中心軸は正中線上に乗っているはずである。

 まず、左足に重心がかかると、左の腸骨は後傾する。すると脊柱の土台である仙骨は、左方向に回旋する。するとそれに連れて、腰椎の5番から胸椎の7番付近にかけて同じく回旋する。しかし、胸椎の6番付近から一番にかけて逆回旋する。それは胸郭が正面を獲得するための補正作用である。同じく頚椎7番付近から後頭骨にかけて、顔面が正面を向くための補正作用が働き、右回旋する。このように、見かけ上の歪みのもとを作っているのは回旋という捩れである。捩れは、見かけの湾曲、蛇行をつくるが、それは、重心移行による脊椎回旋に対する反対回旋、つまり正面を獲得するための補正作用なのである。重心移行により腸骨が後傾し、仙骨が回旋したからといって、顔面を仙骨が回旋した方向に向けて歩くわけには行かないのである。顔面は常に正面を獲得しておかなければならない。蟹の横ばいに対するこの人間のプライドの高さが、体のあちこちに軋みをつくり、関節痛を起こしているのではないか。

この補正作用が幾重にも行われるようになると、脊柱は、蛇行しきれなくなり、脊柱は一本の棒のようになる。それは、蛇行のない、いかにも正常な脊柱のように見える。実は相当の悪化状態なのである。

タオルを固く絞った状態を連想していただけたら良い。固く絞ったタオルは真っ直ぐになる。まったくそれと同じ原理である。そして、幾重にも脊柱が捩れると、脊柱を構成している各椎骨間が、固く絞られたような状態になり。各々の、椎間孔から出ている神経枝を圧迫し、全身に痛みが発生する。

 

 このような重心の偏りが、恒常的に続くと、体幹及び、脊柱はどうなるか、捩れるという力は、脊柱上の関節を軋ませることは容易に想像できる。最も捩れの力が懸かる関節は、力の起始部と移行部である。力の起始部に相当する関節は、腸骨と仙骨とで構成される仙腸関節である。移行部とは、脊柱のS字状のカーブを構成しているユニットパーツの連結部分である。S字状のカーブは、上から、後頭骨、頚椎、胸椎、腰椎、仙骨のユニットパーツが連結して構成されている。これらの岐点(連結部)には、捩じれのトルクがスムーズに貫通しない。連結部特有のガタツキ(齟齬)を生じ、負荷は停滞する。この連結部が治療のターゲットになる。上から、その連結部の関節を言うと。①後頭骨と頚椎1番の関節(環椎後頭関節)、②頚椎7番と胸椎1番、③胸椎12番と腰椎1番の関節(胸腰部)、④腰椎5番と仙骨1番の関節(腰仙関節)、⑤仙骨と腸骨の関節(仙腸関節)、これらが捩れの負荷が停滞し、ガタツキ(齟齬)を生じさせる移行部であり、連結部である。電車の車両と車両をつなぐ連結部である。そこは、線路のカーブを滑らかに解消する部分である。脊柱の移行部は造作上、そのカーブの負荷を滑らかに解消するようにはできていないところに、疾患(痛み)に見舞われる要素があると考えられる。

 

重心の偏りが、恒常的に続くと、まず仙腸関節がやられる。やられるとは、そこに捻転の負荷がかかることであるから、その関節は捻挫することになる。仙腸関節の捻挫という診断名は、整形外科では、最近になってよく出されるようである。初期の急性腰痛は、たいていこれである。関節に懸かっているトルクを取り除いてやれば、捻挫状態は消失する。捻挫の初期は、そのトルクは取り除きやすい。しかし、経過が長いと、身体はそのトルクを様々な方向に転嫁しようと補正してしまっているため、一度に取り除く事は無理である。その頃は、もう、ズシッと重い慢性腰椎になっている。七面倒だが、補正を一つ一つ取り除いて行くしかない。

          

 脊柱が捩れても、体幹は、正常位相を保っていなければならない。そのため、仙腸関節に負荷されている力の経過が長いと、仙腸関節に負荷される力は、体幹の補正作用により、関節外へ転嫁される。つまり、左右腸骨と仙骨とで構成されるユニットとしての骨盤は、仙腸関節にかかる力の負荷を逃すべく、新たな捩れをつくる。そのことにより、仙腸関節の痛みは、一時的には消える。しかし、仙腸関節の捻挫は癒えたわけではない。痛みが消えた分、捻挫は深く潜行したことになる。

 仙腸関節の痛みを消すべく、ユニットとしての骨盤は、新たな捩れに入ったわけであるが、その捩れは、別の関節の痛みを生じる。即ち、腰椎五番と仙骨とで成す腰仙関節である。そしてこの痛みを消失すべく、つまり、腰仙関節に懸かる力を転嫁すべく、腰椎五番と骨盤が、新たな捩れを作ることになる。こうして、力を転嫁するための捩れが、順次、新たな捩れを生むことになる。身体の痛みは、あちこちに順次生まれ、消え、そして移動して、また生まれることになる。痛みは最初の鋭角的なものから、鈍角的なもの、つまり鈍痛として、身体に広がって行く。

 

 慢性腰痛の治療を始めると、現症状である広がった鈍痛は、徐々に狭まってゆく。狭まるとは、鋭角的になることである。そして、これまで、特定できなかった痛みの箇所が、指摘できるようになる。補正のための捩れが順次、取れて来たためである。そして最後、仙腸関節の痛みに辿り着く。脊柱の最初の捩れ形態に戻ったわけである。                                          

ノート目次

                  仙腸関節の捻挫 

  

 仙腸関節の捻挫は、慢性腰痛を引き起こすだけでなく、筋・骨格系の痛みはもちろん、内臓疾患においても、ほとんどの症状に一枚噛んでいるように思われる。

 身体のフレームワークが壊れる最初の突破口が、この仙腸関節だからであろう。事実、脊柱の最初の捩れの力がかかるところである。にもかかわらず、この関節は、頑丈には出来ていない。いたって脆弱に出来ている。手抜き工事の建物のように、重要なジョイント部であるにもかかわらず、何の補強材も当てられていない。普通、関節部には、筋肉がその関節を稼働させるためにあるのだが、この仙腸関節には、それが無い。まるで、左右腸骨の間に、仙骨という楔を打ち込んであるだけのような関節なのである。事実仙骨は、楔のような形をしている。楔は、固定するために用を為すのであって、稼働のためには、用を為さない。したがってこの形状からして、仙腸関節に懸かる力を、関節の稼働によって逃がすことは出来ない。いきおい、捻挫という疾患を起こす。いったん、ここが挫けると、そこに負荷されている力を転嫁するために、補正作用としての捩れが、次から次へと脊柱上に起こる。その間、痛み、こり、しびれ、失調、不定愁訴、様々な症状に見舞われることになる。このことは先述した通りである。

 

 あらゆる症状の元凶に、挫けた仙腸関節が居座っている。

 いったいに、仙腸関節は運動機能としての、関節の体をなしていない。筋肉が、関節の構成要素として参加していないからだ。では仙腸関節は、何のために、関節としてあるのだろうか。どうも、歩行時等に生じる脊柱の捩れを逃すための、機能としての関節ではなさそうである。

 かって人間が、四足の猿人であったとき、仙腸関節にトラブルは生じなかったであろう。なぜなら、四足歩行は、脊柱の捩れの力がほとんど生じないため、仙腸関節にその負荷は架からないからである。二本足歩行になってから、立位での無理な態勢が、仙腸関節に脊柱の捩れという力を負荷させた。これは、仙腸関節にとって予期せぬ出来事であった。関節としてそういう機能が備わっていないのにもかかわらず、身体上における関節の偶然の位置が、引き受けざるをえなかった。ここから、仙腸関節は、常にトラブルにさらされることになる。しかし、実に160万年前(人類が祖先として二足歩行を始めたのは、今から160万年前にアフリカ等に存在したホモ・エレクトゥスであると言われる)もの間、仙腸関節は進化することはなかった。トラブルを回避すべく構造へと進化しなかった。日本人男性の顔が醤油顔からソース顔に進化してもである。ここには、進化という、つまらぬ妥協を許さぬ完璧なる形状があるのかもしれない。その完璧なる形状に、この関節の秘密が隠されていることになる。

 

 四足歩行の当時から、歩行とは、何の関係もない仙腸関節なるものが、身体に設計されてあったとは、仙腸関節は、何か別の役割を果たしていたことになる。だがそれは、筋・骨格系のジョイントとしての役割ではない。なぜなら、仙腸関節には、ジョイントとしての筋肉は付着していないからである。

 

解剖学上、仙腸関節は、不動関節として、これまで認識されて来た。仙腸関節が、可動関節として論議を呼んできたのは最近のことである。その火付け役は、手技療法界の重鎮、オステオパシー医学である。しかし、まだまだ西洋医学界では、不動関節として通っている。可動であろうと、不動であろうと、今の医学界には、さして重要な関節ではないからである。何万人に一人とかいう先天的心臓病の手術の成功にこの関節が関与しているというのなら、この関節を微に入り、細を穿つように調べるであろうが、たかが腰痛に関係しているかも知れない程度の関節なんて、アホらしくて、調べる気にもならないのであろう。しかし―、である。

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                              身体の重心移行と、仙腸関節の捻挫 

 

ここでもう一度、仙腸関節の歩行時におけるメカニズムについておさらいしよう。言葉を少し違えると、さらにイメージが膨らむかも。

 

 歩行時、片足に重心がかかると、その側の腸骨は後傾し、仙骨はその側の腸骨につられて後方に旋回する。例えば歩行時、左足に重心がかると、左側の腸骨は、股関節を軸にして、後ろの方へ回転する。仙骨は、外巻きに回旋する。つまり左巻きに回旋する。こういう関節の動きは、仙腸関節を捩ることになる。この力を逃がすすべは仙腸関節には無い。それは仙腸関節は、もともと歩行用に設計された関節ではないからである。運動機能としての関節ではない。全く別意図を目的とした関節である。それを歩行用に代用しようということ自体、無理がある。しかも四足歩行ならまだしも、二本足歩行となると、仙腸関節のかかる負荷は、四足歩行の数倍である。この関節が毀損しない方が不思議である。パラソルを落下傘代わりに代用するようなものである。

 四足歩行の類人猿のときには、仙腸関節には、歩行に際する負担は、それほど懸からなかったと考えられる。したがって、類人猿には、仙腸関節によるトラブルはなかったであろう。仙腸関節のトラブルに見舞われるのはほとんど人類であろう。しかも仙腸関節のトラブルは、全身のフレームワークに波及する。このことが、人類の体躯を非常に脆いものにしているのではないか。

 腰痛は、人の生命力を削ぐ。それは、腰部の痛みは、腰の上部に位置する腎臓に放散するからである。常住坐臥、痛みを浴びせられている腎臓は間違いなく早々に衰弱してゆく。腎臓は、古来東洋医学では精気の源泉とされるところである。

 若い頃から腰痛を持っている者は長生きしない。腰痛を筆頭にして、身体に痛みを抱えている者は、溌剌と生きれない。人生の半分を捨てているようなものだ。この困難から逃れる方法は、仙腸関節のトラブルを解決することにあろう。今まで、身体の痛みを訴える者で、仙腸関節のトラブルを抱えていない者は皆無であった。これは、私が、手技療法に携わるようになって得た、20年間の確信である。

人間の身体は、間違いなくこの仙腸関節から壊れてゆく。そして慢性病に至る。やっと最近、慢性腰痛は、仙腸関節の捻挫が関係しているということを、一部の整形外科医が診断し始めた。そのうち、全ての慢性病の原因に、この仙腸関節の捻挫が関わっていることを、西洋医学が知る日が来るかも。

  オステオパシ-医学では、この関節に早くから注目し、歩行とは、全く関係のない別の生理現象を生起させるために設計されているということをつきとめた。それは、脊柱の中を後頭骨から仙骨へと貫道している、硬膜管の稼動装置としての仙腸関節である。硬膜管は、脳から尾骨に至る脊柱にあって、脳、脊髄神経を頑丈にすっぽりと包んでいる厚さ1mm~1.2mmほどの管である。しかし、この管は、単に脳、脊髄神経を保護しているだけでなく、ある一定のリズムを伴って動いているのである。何のために―。それは、第四脳室と呼ばれる部分から湧出し、再びそこに吸収されていく脳脊髄液の脳内循環をよどみなく履行させるためである。硬膜が一定のリズムを伴って動くことで、この履行はなされていると考えられる。その稼動装置が仙腸関節なのである。この脳脊髄液の循環は、生命維持に欠かすことのできないものであり、リズムを伴った硬膜の動きは、肺呼吸にも比すべきものであり、胎児が誕生して肺呼吸を始める以前から胎内でそれがリズミカルに稼動していたに違いなく、そういう意味で、この硬膜の動きを第一次呼吸と言い、肺呼吸を第二次呼吸とさへ位置づけられるものなのである。 

 では、この硬膜管を稼動させ、そのことによって硬膜管内の生理現象を維持している仙腸関節とは、どんな動きをしているのであろうか。

 仙腸関節の関節としての動きは、公園で子供達が遊ぶシーソのそれである。左右腸骨を支柱にし、そこに回転軸が設定されてある。シーソは、上下にギッタンバッタン動く。そのように仙骨も両腸骨に支えられて上下に半回転を繰り返す。上下に…、ただし、四本足歩行の猿人の時はである。二本足歩行の人間になってから、この半回転の繰り返しは、前後に…、ということになる。この半回転の繰り返しにより、硬膜菅は稼動し、脳内の脳脊髄液循環はリズミカルに保たれる。

半回転の繰り返しが、前後に行われるのと、上下に行われるのとでは、どちらが回転軸に負担が懸かるであろうか。脊柱および、頭蓋骨の重みを支えて、前後に半回転が繰り返される方が、引力の関係上、負担が大きいに決まっている。しかし、心配は無用である。この回転軸に体重の負荷がかかることはない。この回転軸の直近に別に体重軸受け部があるからだ。仙腸関節内の回転軸は、余計な心配をせず硬膜菅の稼動に専念できる。しかし、問題はその体重軸受け部が同じ仙腸関節内のその回転軸の直近にあるということだろう。両軸は、歩行時、微妙にねじれる。仙腸関節が可動関節であるゆえんである。

 問題は、この微妙なねじれによる体重軸受け部の毀損であり、その毀損が硬膜の可動装置である仙骨の回転軸に及ぼす干渉である。体重軸受け部が毀損するとその干渉により硬膜菅はリズミカルに稼動しなくなるのではないか。脳脊髄液の循環に齟齬をきたすのではないか。人間が四足歩行から二本足歩行になって以来、この体重軸受け部は旧倍のストレスを浴びることになったのである。

 

最新型のロボット、ASIMO とか SDR3Xとかには人間の仙腸関節に相当するものは、設計されてなかろう。胴体からいきなり、股関節って感じだ。しかし、ダイナミックにオーケストラを演じたり、しなやかに阿波踊りを踊ったりする。

体重の軸受けと体幹の捩れをとる機能は、股関節と膝関節に相当するところに設計されてあるのだろう。その方が体幹の捩れを取る代行品としての仙腸関節を設置するより合理的である。それに比し、脳脊髄液を循環させる必要のため、ついでに体重軸受けと体幹のねじれと硬膜菅の稼動装置を仙腸関節なるものをこしらえて一緒くたに任せた、人体の骨盤なるもの。それは人体の設計ミスではないのか。もともと四足歩行用に設計されたものが、二本足歩行になったとき、本来の脆弱さがモロに露呈してきたのではないか。人体のウイークポイント、アキレスの腱は、むしろ仙腸関節ではないか。

脳化をめざした二本足歩行への選択は、思ってもみなかった身体の脆弱さに晒される。脳化は、身体の強靭さと引き換えであったのである。

 生命維持装置としての硬膜菅の動きを仙腸関節は十全に果たしえない。ここから長い慢性痛の旅、生老病死が加速される。

                                           ノート目次

                        硬膜管の捩れと環椎後頭関節

 

 仙腸関節に懸かった捩れの力を補正するために、骨盤が捩れ、その捩れを補正するために、さらに椎骨の捩れが、次から次へと脊柱上を遡上して行く。そして最後は、脊柱の最先端の関節である環椎後頭関節を捩らせる。環椎後頭関節とは、頚椎一番と後頭骨から成る関節である。後頭骨はこの頚椎一番の上に乗っかっている。頚椎一番のことを別に、環椎ともいう。

 ここは、脳の指令が体躯に伝達される最初の関門であるため、ここにトラブルが生じると、頭痛、めまい、不眠、自律神経失調、肩こり他、全身に様々な症状が出る。環椎後頭関節は、仙腸関節と並ぶくらい、身体に疾患を呼び起こす重大な関節である。 確かにこの通りなのだが、環椎後頭関節を捩らせる重要な要素を、もう一つ忘れている。それは、硬膜管そのものの捩れである。脊柱の捩れと、硬膜管の捩れ、この二本立てで、環椎後頭関節は完膚無きまでにやられてしまう。

 

 では、硬膜管はどうして捩じれるのか。

 

 歩行時、片方の足に、重心がかかった時点で、その側の腸骨は股関節の上で後傾する。

それにともない、その腸骨と仙腸関節を成す仙骨も、後方に旋回する。

 重心のかかる片方の足が左足であった場合、仙骨は左回旋する。左回旋とは後方回旋だからである。すると硬膜管は、直ちに、仙骨と同じく左回旋に捩れる。 なぜなら硬膜管の下端は仙骨にがっしりと付着しているからである。仙骨が回旋すれば、ストレートに硬膜管は捩れる。すると硬膜管の上端が、これまたがっしりと付着している後頭骨も即、仙骨の回旋方向に回旋することになる。

仙骨の捩れは、この硬膜という直接的な媒体を通じて後頭骨を捩らせるのであるが、これを第一次とするなら、第二次的な捩れの伝播があって、さらに後頭骨を捩らせる。

それは、椎骨というドミノである。仙骨の捩れの力は、このドミノを倒しつつ後頭骨にいたり後頭骨を捩らせる。

椎骨というドミノは、連なって脊柱を形成し、脊柱内は長い空洞となる。この長い空洞を硬膜管が走る。硬膜管の外壁は脊柱にさほど密着していない(例外として、頚椎二番と頚椎三番に硬膜管が付着しているが)。ここから、仙骨の捩れの力が、第一次的と第二次的とに分かれて後頭骨にいたることになる。

しかし、伝播の速さは、関節的な椎骨のドミノより一本の直接的な硬膜の方が速い。

 

そして、捩れの原初形態は、椎骨のそれよりも硬膜にある。硬膜の捩れが重要視されるゆえんである。

 

 

 仙骨の回旋により、真っ先に後頭骨が回旋する。回旋するとは、環椎の上で回旋するということである。後頭骨は、環椎の上に載っている。

 後頭骨が回旋すると、頭蓋骨も回旋することになり、顔が正面を向かなくなる。まさか横向きで歩くわけにはゆくまい。脳の平衡感覚は、顔を正面にむけさせようとする。これは、錐体外路系という運動神経がそれを担う。

 

 仙骨の回旋による後頭骨の回旋は、顔に正面を保たたせるために、錐体外路系運動神経により、逆回旋させられる。いわゆる補正されるわけである。この時、環椎が、またしてもやられる。またしてもである。一度は、仙骨の回旋による硬膜管の捩れにより、後頭骨が環椎上で回旋させられた時。そして今一つ、補正作用により、頚椎二番の上で、環椎が逆回旋させられたときである。

 

 環椎に対する、この相拮抗する捩れは、どういう力の方向になるのか、力学的に厳密なことは、私には分からない。世界中のどこかで、誰かが、パソコンでもってはじき出しているかも知れない。各関節の可動域と可動方向をデータとして入力し、仙骨の回旋力を掛ければ、それほど造作なこととも思われない。

 

仙骨による後頭骨の回旋、錐体外路系運動神経による、補正作用としての逆回旋。この両力は、環椎にどのようなダメージを与えるのか、解剖、生理学的な詳細はその道のプロに任せ、大まかなことを考えよう。

 

ここで先ほどチラッと出てきた、頚椎二番と、三番が何かもの言いたげだ。

 

 仙骨の回旋により、後頭骨が回旋しても、脊柱は回旋しない。なぜなら、硬膜管の外壁は、脊柱の空洞に直接付着していないからである。脊柱の中を硬膜管が、何の障害物に遮られることなく、くるくる回旋できると想像したらいい。硬膜管と脊柱の関係は、本質的にそういう関係にあると思っていい。実際は、硬膜管の外壁と脊柱の空洞との間には、緩衝材のような軟部組織が詰まっていて、くるくる回ることは無いのだが、そのようにイメージされてもいい関係にある。

 

しかし、ここに例外がいた。頚椎二番と、三番である。この二つの頚椎にのみ硬膜管は直接に付着している。硬膜管内独立帝国は、体幹とひそかに密約を結んでいたのだ。その往来のルートが、頚椎二番と三番である。頚椎一番、即ち環椎は蚊帳の外である。なぜ、よりによって、頚椎二番と三番とに密約を交わしたのであろう。

 

それは、環椎に錐体外路系運動神経の補正作用を担わせるためである。上部頚椎の中で、環椎だけに硬膜管が付着していない。それは、環椎が硬膜管の支配から自由であることを意味する。ということは、頚椎二番と三番は、後頭骨の回旋とともに回旋するが、環椎は、回旋しないということである。後頭骨は、この、硬膜管によっては回旋しないその環椎の上で、回旋する。頚椎二番、三番という手下を従えて。

 

ここで、後頭骨の回旋を逆方向に補正できるのは、硬膜管の支配を受けない環椎だけである。環椎は、回旋した後頭骨を、そのまま載せ、頚椎二番の上で、逆方向に回旋する。これで顔は正面を獲得する。がしかし、環椎上の後頭骨の回旋はそのままである。補正作用とは、ごまかしであるといってよい。このごまかしを解き、後頭骨の回旋を元どおりに復元させるのは、手技療法によるしかない。

 重心を両足の間に来るようにすればいいのではないかと考えられるが、いったん環椎が、補正作用の逆回旋を起こし、それにより、頭蓋骨が正面を獲得した以上、錐体外路系運動神経は任務を終えたと錯覚する。それで、よほどのトレーニングをしない限り、重心は元に戻らない。

 

 仙骨の回旋が強ければ強いほど、後頭骨の回旋は強くなり、補正作用としての環椎の逆回旋もそれにつれて強くなる。

 硬膜管、脳神経、椎骨動脈が出入りしている後頭骨孔は、環椎後頭関節の間で、狭められ、その孔の玄関先に当たる部分の硬膜管は、頚椎二番と環椎の間で狭められる。そこへ、骨盤の補正作用としての脊柱の捩れが押し寄せてくる。環椎後頭関節とその近辺は、大変なストレスにさらされることになる。これが身体上に、疾患が襲ってくるメカニズムである。

 

 姿位の整体が、硬膜管の捩れとロックを解消することを、第一番に考える理由がここにあったわけである。

 硬膜管の捩れとロックを解消する方法とは、仙骨の回旋と、後頭骨の回旋を元通りに戻すことである。

 そのために後頭骨を支えたり、頚椎一番を回旋させたりするのである。半覚醒状態、ないしは居眠り状態に入ると、後頭骨は、元の位置に戻ろうと、回旋を始める。その時、仙骨も元の位置へと回旋を始める。後頭骨を支えたり、頚椎一番を操作していると、骨盤が突如、大魚が尾ひれを一瞬くねらせるよかのように、大きく揺すれたり、足が幾回となく屈伸を繰り返すのは、仙骨が元の位置にまで逆回旋するためであると思われる。

 

この療法は、受療当日よりもその翌日の朝、これが自分の体だったのかと思うほど、身体が軽やかになっているのにびっくりする。長年の痛みはかなり消えている。施療当日よりも翌日の朝、特に身体が変化していることに気づくのは、硬膜管の捩じれが解放されたことにより、骨格修復力が正常に回復し、身体の骨格修復が、睡眠中に行われたからである。身体の中枢を正せば、抹消部分は、自ずと正常へと追従してくる。

身体としての中枢とは、硬膜管である。つまり、身体の捩れを解く鍵は硬膜管が握っているということである。硬膜管こそ生命維持の重要な位置を担っているのである。もちろん、これは手技療法における見地からである。手技療法が身体の最深部にまで至るとすれば、この硬膜管止まりともいえる。この中枢をいかにカスタマイズさせるか、これがこの療法のねらいである。

 

                                                                                                 手技研をものにする?