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影人間のフォークロア
case.1 「タンドゥーマの悪魔 1」
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哲学者、フリードリヒ・ニーチェが言った。
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
彼の言う通り。
僕達は何時だって、闇の中から君達を見ているのさ。
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幽霊なんかいるわけない。
そんな風に頭で思う時、心は全く逆の事を想っている。
夜の校舎を歩きながら、狼森 羊子(おおいのもり ようこ)は渋々ながらそれを認めた。
羊子は幽霊を信じていない、と言うと語弊がある。
彼女は科学者ではない。どこにでもいるような普通の女子高生だ。だから、何か強烈な信念を持って幽霊を否定しているわけではない。
だが、信じているか問われれば、ノーと答える。幽霊がいると本気で思っているか、確信があるかと聞かれれば、ないと答える。彼女は幽霊を見た事がないし、霊感があると思った事もない。
心から本気になって考えた事はないが――考えるのも馬鹿らしいと思っている――まぁいないだろうと思っている。21世紀に生きる日本人の大半がそう思っているように、消極的な否定の態度をとって生きてきた。
それは常識的な態度だった。少なくとも、幽霊がいると明言している自称霊能力者に比べれば、彼女の態度は真っ当で、普通な事だと言える。
むしろ羊子にとって大事なのは、普通であるという事だった。
高校生活において、普通である事は何よりも大事な要素だと言える。学校には格差がある。スクールカーストという奴だ。この目には見えない身分制度が、高校生活の全てを決めると言っても過言ではない。
何か大きなミスをしたり、集団の中での弱みを見せれば、容赦なく下のカーストに放り込まれる。それが意味する所を簡潔に言えば、イジメという事になる。孤独になり、無視され、しかし放ってはおかれず、指差され、笑われ、弄られる。
それはどこにでもある社会の仕組みで、幽霊のように目には見えないが、幽霊よりも確実で確かな存在だ。
羊子はカーストの上位にいる。弱肉強食の強者であり、孤独ではない人気者、無視されるのではく無視する側で、指を指す側で、笑う側だ。
それはカースト内で最も安全なポジションと言えるが、最も危険なポジションとも言える。
スクールカーストとは、言わば一つの競争社会だ。そこに真の安寧など存在せず、下のカーストの人間は上の地位に登る為、上のカーストの人間は自らの地位を守る為、日々水面下の戦いを繰り広げている。
この戦いで大事なのは、いかにミスをせず、得点を稼ぐかという所にある。ほんの些細な失敗、失点が命取りとなる。その判断基準の一つが、普通であるかという事だ。
個性的過ぎてはいけない。集団の和を乱してはいけない。勿論、上にのし上がる為に何か派手な事をやる必要はある。けれど基本はこれだ。普通である事、これに尽きる。
そういった意味でも、オカルト主義というのは全くの論外だった。
幽霊を信じている? キモッ、ばっかじゃない?
以上。明日から『貞子』などと不名誉なあだ名で呼ばれ、カーストの最下層で過ごす事間違いなしだ。
そんな羊子が考え直す程度には、夜の学校は不気味だった。
時刻は零時過ぎ。生徒は勿論、職員ですら、一人残らず帰宅している時間だ。
完全無比に無人の学校。
彼女は何の為にここにやって来たのか。
その理由もやはり、スクールカーストに起因する。
最近まことしやかに囁かれるとある噂。
それは陳腐で在り来たりなオカルト話だったのだが、タイミングが悪かった。
上位カーストに立つ羊子のグループは、その噂のせいでちょっとした危機に陥っていた。
いや。
事と場合によって、下位カーストへの転落の恐れすらある、由々しき自体とも言える。
けれど羊子は、これをチャンスと考えた。
オカルトは、所詮オカルトだ。
恐れず、逆に利用取れば、今の地位を確固たる物に出来る千載一遇のチャンスとなる。
そういう訳で、羊子は昼の間にいくつかの窓の鍵をあけておき、夜になってから校内に侵入したのだった。
目的は、三階にある彼女のクラスの黒板に、でかでかと印を残す事、なのだが・・・・・・
「ちくしょう。怖すぎだろ。こんな事なら、誰か誘うんだった」
不可視の監視者に見張られているような気分に陥り、羊子は小声で呟いた。
当然だが、深夜の学校は暗い。羊子の視界を照らすのは都市の明かりを淡く跳ね返す曇り空と携帯のライトだけだ。見慣れている筈の校舎は全てが別物のように感じられる。携帯のライトの明かりは思っていたよりもずっと頼りなく、視界の奥には常に重いガスのような闇が淀んでいる。扉と言う扉は全て開かずの間のように不吉に思え、音に飢えた耳が静けさの中にこの世の物ではない音を聞こうと過敏になっている。
「怖くない、怖くない、怖くない、怖くない」
三階へと続く階段を上りながら、羊子は唱えていた。頭の中では必死になって夕食の時に見たバラエティー番組を再生している。だが、怖い。どうしようもなく、怖い。
幽霊を信じているといないとか、そんな事とは関係なしに夜の学校は怖かった。不気味だった。本音を言えば、今すぐ悲鳴をあげて逃げ出したい。
それをしなかったのは、ただの意地だった。折角ここまで来て、こんなに怖い思いをして、手ぶらで帰るわけにはいかない。第一、一部の友人には既にこの計画の事を話してしまっている。
幽霊なんて存在しない。悪霊なんて嘘っぱちだ。そう大見得を切ってしまったからには、やらないわけにはいかない。
階段をのぼる。誰かが見ている気がする。最初から。勿論それは気のせいだ。幽霊なんかいない。喉が渇いた。いるわけがない。それでも、何か恐ろしい存在の注意を引いてしまいそうで、足音を殺して歩く。
階段をのぼる。心臓の音が煩い。頭の中に心臓が移動したみたいだ。汗が噴出す。真夏の学校はサウナのように蒸している。服が肌に張りつく。不快な汗。喉が渇く。誰かが見ている? 気のせいだ、気のせいだ、気のせいだ。
怖くない、怖くない、怖くない、怖くない・・・・・・
羊子は唱える。唱えた数だけ恐怖が膨れ上がる気がする。それでも、唱えないわけにはいかない。それが魔除けのおまじないだとでも言うように、事実、今の羊子にはそう思えた。
階段をのぼる。最後の踊り場を越えて、ようやく三階にたどり着く。
「・・・・・・ひぃっ」
喉の奥で悲鳴が漏れる。怖い、怖い、喉が渇く。
曇り空のせいか、目の前に現れた廊下は暗く、黒く、そして長く感じられた。
羊子は視線を逸らした。足元を見る。土足のコンバースの爪先を見る。
闇が怖い。闇は怖い。闇は見えない。見通せない。喉が渇く。
闇は恐怖だ。恐怖とは闇だ。闇の中に羊子は恐怖を見た。あらゆる恐怖、実体のない空想。だが、考えてしまう。次の瞬間、闇の中から飛び出す悪霊の姿を。
「こっ、こぉっ、怖く、ない、怖くないって!」
半泣きになりながら、羊子は歩き出す。競歩の速度で。しかし、走り出す勇気はない。膝が震える。平衡感覚が麻痺し始めている。喉が渇いた。水飲み場・・・・・・鏡を見るのが怖い。
歩く。怖くない。歩く。喉が渇く。歩く。怖くない。歩く。喉が渇く。歩く。怖くない。歩く。喉が渇く。歩く。怖くない。歩く。歩く。歩く。歩く。
夢中になって歩いた。
歩いて、歩いて、歩いて歩いて歩いて・・・・・・
羊子は足を止めた。
その顔は恐怖に引きつり、目は驚愕に開かれた。
だっておかしい。
この学校の廊下は、
こんなに、
長くない。
「・・・・・・・・・・・・ッ――」
声にならない悲鳴を上げ、羊子は顔をあげた。あげたくはなかった。そんな勇気はなかった。この不条理の、不可解の、不自然の確認などしたくなかった。
けれど恐怖に、針のように刺々しい恐怖で、反射的に顔をあげてしまった。
廊下は続いている。どこまでも、どこまでも続いて、そして、無限の如き闇の中に飲み込まれている。
ぁ、ぁ、ぁ、ぁ、ぁ・・・・・・引きつった喉が無意味な音をひり出す。
羊子の目から涙が毀れる。
膝が砕け、その場にしゃがみ込む。
声が出ない。腰が抜けて走れない。恐怖以外何も考えられない。
唯一つ、あの噂が事実だったという事以外は。
闇の中からそれが姿を現して、
羊子はそれから一生、恐怖を感じなくなった。
もう、何も感じられなくなった。
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流石、第二の歌舞伎町と呼ばれるだけの事はあって、亜神市(あかみし)の繁華街は混沌としている。風俗店が軒を連ねる表通りの毒蛾のようなケバケバしさもさる事ながら、裏通りの胡散臭さもなかなかどうして負けてはいない。
同性愛者の天国を横切って、金融ヤクザのひしめく通り抜け、迷路のような袋小路を運任せに歩いていくと、その内迷子になるだろう。
冗談はさておき――
ここにマリアビルと呼ばれる五階建ての雑居ビルがある。
一見して、なんて事はないありきたりな雑居ビルだ。中には怪しげな多国籍料理屋やメイド喫茶が入っていて、四階は探偵事務所になっている。
その名もずばり、斜篠探偵事務所(ななしのたんていじむしょ)。
そこは異常な場所だった。
とは言え、パッと見でその異常さに気づくのは難しいかもしれない。
もしもここに足を踏み入れたなら、誰もが不思議な感覚に陥りながら、なるほどやはりと合点するだろう。
部屋の中にはレトロな雰囲気をかもし出す木製の家具が並び、壁には古びた新聞記事の切り抜き、難解なタイトルのついたハードカバーの古書、セピア色の地球儀や琥珀色の液体が注がれたボトル等々々々が置かれている。
つまる所、斜篠探偵事務所はいかにも探偵が住んでいそうな場所だった。
もっともそれは、虚構の世界にしか存在しない架空の探偵のイメージなのだが。
そんな古典的な探偵然とした風景の中に、煌々とした違和感を落とす影が一つある。
それがここ、斜篠探偵事務所唯一の探偵、斜篠 エイジ(ななしの えいじ)だった。
黒髪、黒目、黒スーツ、人を食ったような薄笑いを口元に張り付かせた男、エイジは三人掛けのソファーに寝転がり、半分に畳んだ雑誌を半笑いで眺めていた。
浮世離れした雰囲気の室内において、容赦ない違和感を放つ雑誌は、クロスワードパズルを扱った懸賞誌だ。
エイジはかれこれ二時間程、こうして雑誌と睨めっこをして、時々思い出したかのように右手のペンでマスを埋めている。
エイジの狙いは最新型のエアコンだ。何故ならこの部屋のエアコンは年老いて、真夏の暑さを和らげる力を失っているからだ。
最新のエアコンが欲しい。煮え滾るような事務所の中でエイジは思う。部屋に置かれた骨董品の温度計は、中の水銀が細長く伸び、今にも天井を突き破りそうだ。
喉が渇き、エイジはテーブルに手を伸ばす。洒落たコーヒーカップには、四角い氷が小山を作り、この部屋の風情を破壊するのに一役買っている。キンキンに冷えたアイスコーヒーを器用に寝たまま飲み下す。
タバコを吸いたいと思うが、生憎オーナーの意向によりこの部屋は禁煙となっていた。だが、最新のエアコンがあれば、電気なんたらかんたらの力でタバコの煙も分解してくれるだろう。いいな、最新のエアコン、欲しいな、最新のエアコン。
「・・・・・・キヒッ」
震える程に冷却された部屋で熱いコーヒーを飲む姿を想像し、エイジは引きつった笑い声を上げた。
「一人で笑うのは悪魔のすることよ」
「全部で十文字。三番目が【わ】、七番目が【う】、いつまでも結論の出ない相談の意味。なんだと思う?」
突然現れた少女に対して、エイジは顔を上げる事もなく尋ねた。
「小田原評定」
鈴の音のような冷たさと静かさで答える少女。
「流石マリア、博学だ」
ニコリともせず、少女はエイジの傍らに立った。
マリア・クロウ。
それが彼女の名前。
彼女はこのマリアビルのオーナーだ。
見た目の年齢は十五、六。陳腐な言い方をすれば、金髪碧眼の美少女と言った所か。黒いドレスと赤いハイヒールを纏い。エイジ以上にこの部屋が似合っている。もっともそれは、彼女を包む退廃的な雰囲気がそう思わせるだけで、探偵的な印象など欠片も含まないのだが。例えるなら、夜の酒場の若き歌姫と言った所だろう。
「こんな時間からソファーでごろ寝なんて、いい身分ね」
「偶然拾った宝くじが当たって三億円ほど手に入ったように見えるかな?」
「あなたが滞納してる家賃を今すぐ払うなら、その下らなくて無意味な戯言に付き合ってあげてもいいわ」
「全部で十三文字。最初が【と】で最後が【う】、まだ手に入れてない内からそれを当てにした儲けを計算する事」
「あなたが滞納してる家賃を今すぐ払うなら、その下らなくて無意味な戯れに付き合ってあげてもいいわ」
「無意味じゃないさ。こいつを一通り埋めれば、テレビでも洗濯でも最新のエアコンでも、欲しい物はなんでも手に入る。そいつを売っぱらっえばここの家賃も払える。だろ?」
寝転がったまま、エイジは仰け反るようにしてマリアに笑いかけた。
マリアは彫像のような冷たさでそれを見返した。ギリシャ神話の神々をモチーフにした大理石の彫像。揺るぎない硬質さと石の冷たさを持つ無表情がそこにはある。
エイジはマリアが不機嫌だとは思わなかった。
彼女は常に無表情なのだ。
テレビを見ている時も、漫画を読んでいる時も、ケーキを食べている時も、下のメイド喫茶で臨時のメイドをやっている時も、とにかく一貫して無表情。
だから、マリアは怒っていない。
と、エイジは思っている。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・?」
暫くの間、二人は無言で見つめ合った。どことなく、マリアの瞳に蛆虫を眺めるような侮蔑が加わった気がする。気のせいだろうとエイジは片付けた。
「・・・・・・取らぬ狸の皮算用」
溜息をついて、マリアが答えた。
「ありがとう。これで半分埋まったよ」
「あと何ページあるのかしら?」
「まだ三ページ目だから、残りは――いち、にー、さん、しー」
「もういいわ。黙って」
心持ち、マリアの溜息は先ほどよりも強くなっていた。
「全部で九文字。二文字目が【そ】で五文字目が【で】、嘘として言った事が結果的に本当になってしまう事」
「・・・・・・・・・・・・」
マリアは無言のままエイジの手から雑誌を奪い取り、それを半ばから引き裂こうとした。
「・・・・・・・・・・・・ッ」
無表情のまま、真っ赤になって雑誌を裂こうとするマリア。
「マリアには無理なんじゃないかな?」
「黙りなさいと言ったはずよ」
言いながら、マリアは雑誌をゴミ箱に投げ込んだ。外れたが。
「あーあー、僕のエアコンに何するのさ」
エイジが言うと、マリアは三秒程エイジを眺め――睨みつけてはいない。マリアは人を睨んだりなんかしない――ヒールの爪先で彼の脛を何度か蹴りつけた。
「どうしたんだいマリア。痛いじゃないか」
「それが目的なの」
皮肉っぽい響きなど微塵も漂わせず、マリア。
「ねぇ、エイジ。どうやらあなた、随分暇を持て余してるみたいね。そんなに暇なら、下の店を手伝ってくれないかしら」
マリアビルのオーナー、マリア・クロウ。
このビルに出店する店舗は全て、マリアが共同経営者として関係している。
「誤解だよ、マリア。僕は暇なわけじゃないんだ」
「そう。分かったわ。わたしのお願いのしかたが悪かったみたいね」
マリアは振り返り、壁に飾られた年代物の手斧を外しにかかった。
「いやいや。マリアの方こそ誤解してるみたいだけどね、僕は本当に忙しいんだ」
「そうでしょうね、エイジ。あなたって、とっても有能な探偵だもの」
マリアはいかにも重そうに手斧を持ってくると、「・・・・・・ッ」っと、上段に構えた。
「え、ぁ、えぇ!?」
困惑の悲鳴を上げたのはマリアでもなければ、エイジでもない。
「ようこそ、斜篠探偵事務所に。僕がこの事務所の所長、斜篠エイジだ」
目の前で斧を構えるマリアを気にも留めず、エイジは入り口で硬直する少女に挨拶した。
視線をマリアに戻し、
「依頼人と合う約束があってね。つまり、彼女がそうなんだ」
「なんで、わたしが、こんな事を」
テーブルにアイスコーヒーを並べると、マリアは羽虫の声量で呟いた。
事務所のコーヒーが切れていた為、下のメイド喫茶でコーヒーを入れて持って来てもらったのだ。
「悪いね、マリア。全く、君にはどれだけ感謝してもし足りない。こんなに優秀な助手がいて、僕は宇宙一の幸せ者だよ」
「いつ、わたしが、あなたの助手になったのかしら?」
「既成事実って奴かな」
マリアはエイジの分のコーヒーを下げると、無言で飲み干した。
「・・・・・・ッ」
マリアは無表情のまま激しく瞬きをして、控えめな胸元を押さえてぱたぱたと地団駄を踏んだ。
「はははは、猫舌なのに無理するから」
「・・・・・・ッ!」
マリアの視線と空のコーヒーカップが飛んでくる。
それを受け止めて、エイジは向かいのソファーに座る依頼人の少女に向き直った。
「探偵事務所に来るのは初めてかな?」
「・・・・・・はい」
少女は野良猫のような警戒を浮かべて頷いた。
若い少女だ。見た目の年頃はマリアと同じか、もう少し上。つまり、高校生ぐらいだろう。もっとも、マリアは高校生ではないし、高校生ぐらいの年でもない。マリアの年齢は知らないが、二十歳は超えているだろう。探偵をやっていると、容姿と年齢の関係がどれだけ希薄か思い知らされる。特に、女の年齢は。例え依頼人の少女が三十代でも、エイジは驚かない。
とはいえ、彼女は掛け値なしに高校生だろうとエイジは推理していた。
活発そうな少女だった。黒髪のショート、卵型の輪郭、はっきりした目鼻立ちは化粧を必要とせず、少女らしい素朴な可愛らしさをアピールしている。標準的な背丈にスラリとした手足、カジュアルなパーカーとデニムのショートパンツ。
運動部にでも入っているのだろうか。いや、彼女からはそういった熱量は感じられない。昔は入っていたのだろうが、今は違う。勿論、そんなのは憶測に過ぎないが。憶測、偏見、推理、仮説。そんな不確かな事が世界を支え、動かしている。そんな決め付けがなければ、人は何かを考える事は出来ない。
夏の雲のように明後日の方向に流れ始めた思考をあっさりと切断して、エイジは一言、ボーイッシュな女子高生というレッテルを彼女に貼った。
「初めてはいい。全てが鮮烈で新鮮だからね。もしも君が詩人を目指しているのなら、今日のこの感覚を覚えておくと良い。いつか役立つ時が来るかもしれないからね。で、僕は常々思うんだけど、どんな事でも、いつか役立つ時が来る可能性はあるんだよね。だから、僕はこの言い回しがあまり好きじゃないんだ。押し付けがましくて、無意味で、無駄に上から目線だからね」
大げさな身振りでエイジが言う。まるで道化師だ。
「・・・・・・はぁ」
膝の上に拳を置いて、姿勢よくソファーに座る少女。彼女は控えめだが、初対面の相手に見せるには少々露骨な困惑を浮かべ、態度を硬化させた。
「それって自分の事を言ってるのかしら。だとしても、しなくても、笑えない冗談ね」
「はっはっは、マリアは面白い事を言う。君のセンスが羨ましいよ。僕もマリアのように饒舌なら、もっと依頼人の信用を得る事が出来るんだろうけど、生憎僕は人見知りで無口だから、中々上手くいかないんだ。そうだマリア、君の肝を煎じて飲んだら、僕も君のように喋れるかもしれない。どうかな?」
「今すぐ死ねばいいと思うわ」
「すみません。やっぱり帰ります」
露骨さを通り越して、不愉快さを隠しもせず、少女が立ち上がった。
「忘れ物かな? 鍋に火をかけたまま出て来たとか」
「あなたが依頼人の名前も聞きもせずベラベラと馬鹿な無駄話をしているから愛想をつかせたんでしょうね」
「あぁ。つまり、彼女はせっかちなのか」
「馬鹿につける薬がないように、あなたに言う言葉が見つからないわ」
「滞納した家賃を免除する、って言ってくれると嬉しいね」
「あなたが滞納した家賃を払ってくれたら言ってあげるわよ。それより、いい加減に引き止めないと本当に帰っちゃうわよ」
「それは困る。僕じゃなく、彼女がね」
エイジは仮面のように張り付いた薄笑いを少女に向けた。
「山田 花子ちゃん。君は帰ろうとしてるみたいだけど、他に探偵の当てがあるのかな?」
ドアノブに手をかけた格好で、少女は立ち止まる。
「あたしはそんな名前じゃない。それに、適当に探したってあんたより有能は探偵はごまんといるわよ」
少女が振り返る。その目には、はっきりとした苛立ちが浮かんでいる。
「でも、彼等は君の話を聞いたりしないだろうね。普通の探偵は、普通の依頼しか受け付けない。浮気調査とか、人探し、裁判の証拠集めに、盗聴器の発見とかね。わざわざ僕の所に来たって事は、君の依頼は普通じゃないと推理できる。君は、うちの広告を見てやってきたんだろう? おかしな事件、大歓迎。あんな文句に惹かれて来るようじゃ、真っ当な探偵の手に負える依頼なはずがない」
少女は黙った。不満気で、何か言いたそうではある。だが、反論は見つからなかったようだ。
「言っただろう? 僕は口下手でね。その点では君に不愉快な思いをさせたかもしれない。だけど、君が問題を抱えているのなら、君の為にも戻ってきて、座りなおした方がいい。それに、マリアの入れるコーヒーは中々の物だよ? これを飲まないで帰るのは、ちょっと勿体ないかな」
少女は逡巡した。天秤が左右に揺れ、やがて一方に落ち着く。諦めの溜息を置き去りにして、少女は座りなおした。
「噂を聞いたの。幽霊退治に悪魔祓い、未解決事件の調査や殺人鬼探し、とにかく、どんなおかしな依頼でも引き受けて解決する凄腕の探偵がいるって」
「噂は噂だ。事実とは限らない」
エイジが少女を見つめた。真っ黒い、無限の闇を湛えた深淵のような瞳で。
「勿論、噂の全てが嘘だとも限らないわけだけどね」
意図の汲めない微笑を浮かべ、エイジは着席を促すように右手でソファーを示した。
「とりあえず、君の話を聞こうじゃないか」
「次木 三千子(なみき みちこ)。17歳。友愛女学院高等学校(ゆうあいじょがくいんこうとうがっこう)の二年生」
「好きな食べ物は?」
不機嫌そうに自己紹介をする三千子に対して、エイジが尋ねた。一応話をする気にはなったようだが、三千子の顔にははっきりと疑心の二文字が浮かんでいる。
「それって必要な事?」
「そんなのは、必要になるまで分からないだろうね」
「・・・・・・ハンバーグ」
「嘘をついちゃいけない」
三千子の瞳が踊った。ギョッと、そんな擬音が背景に透ける。
「なんで、探偵だから?」
感心、懐疑、困惑の三重奏で三千子が尋ねる。
「いいや、ただの当てずっぽうさ」
三重奏が失望と苛立ちのデュエットに。
「あんた、さっきからあたしの事からかってるわけ?」
「そう思うのは、君が僕の質問を無意味な悪戯だと思ったからだ」
あっけらかんとエイジが言う。三千子は答えなかったが、決まり悪そうに視線を逸らす動作が図星だと告げていた。
エイジはふふっと鼻の奥で笑い、気さくに話を続ける。
「このままだと僕は君の信用を得られず、君は近い内にまた出て行こうとする。止めるのは簡単だけど、同じ事を繰り返すのは退屈で滑稽だ。というわけで、君が納得する説明を付け加えるとしよう。君は僕の些細な質問の正当性を疑い、適当な回答で誤魔化した。この点から君は疑い深く、本性を隠しがちな人間だと推理出来る」
「だ、だから何よ。あたしは、性格診断をして貰いに来たわけじゃないのよ」
バツが悪そうに千代子。
「でも、僕には必要だ。つまり、探偵の仕事には、ね。探偵は依頼人の依頼を遂行する。君の願いを叶えるのが僕の仕事だ。だけど、依頼人の多くは嘘をつく。と言うか、人間はみんな嘘つきなんだ」
「あたしは、嘘なんか――」
エイジは人差し指を立てた。シー、お静かに。そんなサインだ。
「人間は、誰しも何かに嘘をついている。親に、兄弟に、友人に、自分に。そうやって過ごす内、誰もが自分の本心を見失うようになる。僕は探偵として、依頼人の本心を見極める必要がある。僕はみっちゃんの情報を頼りに仕事をするわけだけど」
「待って。みっちゃんってなによ」
三千子が眉を寄せた。聞き捨てならない。そんな顔をして。
「僕の事じゃないし、マリアの事でもない。という事は?」
冗談めかして、エイジは両手で作った二丁のピストルを三千子に向ける。
「そうじゃなくて! あぁもう! イライラする! とにかく、みっちゃんは止めて!」
「お気に召さない? 確かに、みっちゃんは少し没個性的だったかな。みっちょんにしよう。その方が可愛らしい」
「そういう事を言ってるんじゃないでしょ!」
三千子がテーブルを叩く。
「こういう奴なの。馬鹿正直に相手をしていると、何時までたっても話が前に進まないわよ」
下のメイド喫茶から持ち出したアイスを食べながら、しみじみとマリアが言う。
「っていうか、あんたも助手ならこの変人をどうにかしなさいよ」
「わたしは助手じゃない。このビルのオーナー」
「そして、我が斜篠探偵事務所の麗しき共同経営者でもある。そういえば紹介が遅れたね。彼女はマリア。マリア・クロウだ。年齢は知らない。国籍も知らない。好きな食べ物は甘い物、特に13アイスに目がない。あと、ヲタクだ。僕には秘密にしてるけど、時々大きなカートを引いてコスプレをしに――」
マリアの平手が飛ぶ。
「痛いじゃないか」
「それはよかったわ」
「ご満悦のようだけど、君のサディスティックな性癖を所かまわず披露するのは止めた方がいいんじゃないかな。僕はこれが愛の鞭だと知っているけれど、初対面のみっちょんはマリアが僕を死ぬほど嫌悪していると誤解するかもしれない」
「誤解じゃなくて、それが正解なのよ」
至極真面目な顔でマリア。そんな彼女を指差して、
「どうだい、みっちょん。これがツンデレって奴だよ」
「やめなさい。勝手に人に陳腐なラベルを貼らないで」
マリアの声には懇願すら滲んでいる。
「あんた達、一秒だって普通にしていられないの? お願いだから、ちゃんと真面目に話をしてよ!」
堪り兼ねて三千子が絶叫する。
「あぁ、すまない。悪い癖でね。すぐに脱線するんだ。話を戻すと、僕はみっちょんの事が知りたかったのさ。どんな人間で、どんな風に考え、どんな癖を持ち、どんな偏見を持っているか。依頼人の一の言葉から十の情報を得るには、そういった努力が必要なんだよ」
胡散臭い。そんな顔をしながらも、三千子は一応納得したようだった。
「探偵っぽい事言うじゃない」
「君の信用を得る為のでっち上げだけどね」
「帰るわよ! 本当に!」
「でも、君は帰らない。何故なら君は我慢強い性格だ。疑い深いけれど正直者で、人を信じやすい。臆病な所があるね。でも、内に強さも秘めている。困っている人を見過ごせないタイプだ」
「だから、性格診断をしてもらいたいわけじゃ―ー」
「君の依頼は君自身の事じゃない。友達の身に、何かあったのかな」
エイジの言葉に、三千子の瞳が跳ねて踊る。
「正解だね。君は、嘘が下手な人間だ」
エイジはそこで言葉を区切った。この先は、三千子に語ってもらう必要がある。
「さぁ、みっちょん。そろそろ本題に入ろう。君の依頼はなんだい? 君は、どんな事件に出会ったのかな?」
「・・・・・・分からないの。あたしにも、何が起きてるのか、それとも起きていないのか」
「どういう事かな?」
俯き加減で震える三千子の目には、薄い涙。
「・・・・・・死んでくの。友達が次々、死んでくのよ!」
人知れず、エイジの口元が微笑に歪んだ。
「詳しく話してくれるね?」
次木三千子の通う友愛女学院高等学校は亜神市でもちょっとは名の知れた女子高である、らしい。マリアは知っていたが、エイジは初耳だった。
元々はヨーロッパの資産家の娘である、シスター・フレンドリー・ラブによって建てられたカトリック系ミッションハイスクールで、女性の教育とカトリック系キリスト教思想の布教を目的としていたのだが、創立100周年を迎えた今では、本来の宗教的厳しさはすっかり抜け落ちて、形だけの聖書の授業がある事を抜かせば少し進学率が高いだけの普通の女子高に成り下がっている。
取り立ててお嬢様学校とも呼べないこの学校が、一体どうして亜神市で名が知れているかと言うと、男子と女子で意見が分かれる所だ。
男子にとっては、女子が可愛い事で有名な学校。
女子に言わせれば、制服が可愛い事で有名な学校。
元々紡績会社の令嬢だったシスター・フレンドリー・ラブが自らデザインした制服は、修道服を制服風にアレンジした物で、近年では『この制服が可愛い大賞』の上位常連として、その知名度を全国区へと広げつつある。
事件は、そんな友愛女学院高等学校を舞台に行われた。
「正直言って、どこから話せばいいか分からない。どこからが事件で、どこまでが事件じゃないのか。そもそも、これが本当に事件なのか・・・・・・あたしには、わからない」
「だけど、みっちょんはここに来た。この、斜篠探偵事務所に。という事は、君はそれを事件だと思っている。語る事を怖がらなくていい。依頼人が事件を理解している必要はないんだ。ある意味では、それを君に理解させるのが、僕の仕事でもある。だから、君は楽に話せばいい。君が事件だと思う事、その発端はなんだい? 何時、何処で、何が起きたのかな?」
蒸した事務所にエイジの言葉が響く。詩か呪文のように発せられた言葉が徐々に三千子の頭に染み入って、やがて彼女は語りを始めた。
「最初の事件は・・・・・・半年前。三月十八日。あたしは二人の友達と音楽室に向かってたの。そしたら、先に進んでた曲里 九練(まがり くねり)って子が、急に階段でバランスを崩して・・・・・・落ちて来て・・・・・・死んだの」
おそらく、その瞬間を目撃したのだろう。三千子の舌は鈍くなり、顔色は青ざめた。
「落ちて来たって事は、事故死かな?」
その時の事を回想しようとしているのか、三千子は暫く膝の上で握り締めた拳を睨んでいた。
「事故死って事になった。落ちる瞬間は、角度が悪くてよく見えなかったから」
「誰かが、突き落とした?」
三千子の顔色から察するが、そういうわけでもないらしい。
「半年前の事だし、本当に、よく見えてなくて、見てたのか、見えてないのか、一瞬の事だったから・・・・・・」
「突き落とされたかもしれない?」
先ほどよりは短い逡巡で、三千子は頷いた。
「だとすれば、殺人事件という事になるんだけど。とりあえず、次のを聞こうか。それだけじゃないんだろう?」
三千子が頷く。
「次の事件は、春休みの真ん中くらい。死んだのは、沈目 浮夜(しずめ うきよ)。彼女も友達で、九練が落ちた時、一緒にいた子」
「彼女も転落死?」
「自殺」
「場所は」
「学校。体育倉庫。そこで、首を吊ってた」
「ただの自殺じゃない?」
三千子が首を振る。わからないの合図。
「普段使わない場所で、春休みの最中だったから、見つかるまで一週間以上かかったって。それでも、ただの自殺って言える?」
「難しい所だね。他におかしな所は? 遺書はあったかな?」
「なかったって、聞いてる」
煮え切らない表情。三千子は別の事を考えている。
「自殺に見せかけた他殺だと思ってる?」
ゆっくりと間を置いて、三千子は肯定する。
「何か理由があるのかな?」
否定。
「・・・・・・でも、おかしいと思う。そんな子じゃなかったし」
「肯定する理由もないって事だね」
三千子が頷く。
「三つ目の事件は五月末。三年の会々 愛(あいあい あい)って先輩が貯水タンクの中で死んでた」
「穏やかじゃないね。それも事故死扱いかな?」
納得出来ないといった顔で三千子が頷く。
「今は封鎖されてるけど、それまでは屋上に自由に出入り出来てた。それに、愛先輩、よく授業サボってタンクの上でタバコ吸ってたから。それで、間違って落ちたんだろうって・・・・・・そんなわけないじゃん! 蓋がしまってるのに、何を間違ったらそんな所に落ちるのよ!」
「その子とも、仲が良かったんだね」
「・・・・・・あたし、学校で浮いてて。たまに屋上にサボりに行くと、相手してくれたの。三千子はまだ若いんだから、ちゃんと授業受けないとダメだって。おかしいでしょ。たった一歳しか違わないのに。怖いけど、優しい先輩だった。馬鹿だけど、間抜けじゃなかった。蓋のしてある貯水タンクに落ちたりなんか、絶対しない」
怒りと悲しみ、それに追憶が加わった複雑な表情だ。
「なるほど。つまり、みっちょんは、誰かがその三人を殺したと、そう思うわけだね」
「三人じゃない」
きっぱりと、三千子は言い放った。 それは、彼女が意図したものではなかったらしい。
言い切ってしまった声の大きさに、彼女自身驚いて、
「六人よ」
放心したように、三千子はそれを告げた。
――――――
「六人は、流石に多いわね」
三千子が帰った後、呟いたのはマリアだった。
「七月に二年生の空 紫堂(そら しどう)が封鎖されたはずの屋上から飛び降り、下校中の一年生、三四 和音 (みし わおん)を直撃。両者共に死亡。六人目の狼森 羊子は一週間前の始業式の日の早朝、美術室の石膏像の下敷きになった姿で発見されている。死因は脳挫傷。私服だった事から警察は狼森羊子が悪戯目的で美術室に侵入し、誤って倒した石膏像が頭を直撃したと見ている。つまり、一応全部事故死って事になってるみたいだね」
「本当にそうだとしたら、その学校は呪われているわね」
「この事件に彼等が関わっていると思うかい?」
午後の天気を尋ねるような気軽さで、エイジが尋ねる。
「そう思ったから受けたんでしょ」
「半分はね」
「もう半分は?」
「決まってるだろ?」
冗談とも本音とも分からぬ声音で、エイジは言った。
「マリアに家賃を払う為さ」
つづく。
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七星十々 著 / イラスト 田代ほけきょ
企画 こたつねこ
配信 みらい図書館/ゆるヲタ.jp
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この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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