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2013/07/30

かけ算の順序は教育上の便宜 (2)

(コメントが長くなったので、新たにスレッドを立て直しました。続きはここにお願いします。)

「5枚のお皿があり、1つのに2個ずつおはぎをおきます。おはぎは全部でいくつ必要でしょうか。」という問題があったとき、小学校では、生徒たちは、
 2×5=10
の順序で書くように指導され、もし、文章題に出てきた順番で、
 5×2=10
と書くと、多くの場合、バツにされていまいます。

  かけ算は交換法則が成り立ち、結果は同じなのだから、あとのほうでも誤りではないと言いたくなる人も、いるでしょう。とくに、かわいい息子または娘が、逆順で書いて、学校で×を食らってきた人は、「ダメ教師が」とか、「数学をわからなくなさる誤った教育方法だ」とか、非難したくなります。

 でも、それは、教育や学習の本質がわかっていないのです。問題なのは数学の真理ではなく、学校での教育上の工夫です。

  小学校では、2年生のとき、かけ算を教えるときに、

(1まとまりのなかの数量)×(まとまりの数)

という意味なのだと説明します。たとえば、一皿に載っているおはぎの数2が(1まとまりのなかの数量)で、それが5皿分あるというときの5が(まとまりの数)で、全部でおはぎは10個あるのですが、それがかけ算の結果です。

 かけ算をはじめて習う子も、足し算はすでに習っています。だから、学習済みの足し算を手がかりに、かけ算を理解させます。2×5は2+2+2+2+2の意味です。そのとき、5枚のお皿にそれぞれ2個ずつおはぎが載っている絵を見ながら、足し算の意味を習います。

 その際、順序は固定されていて、(まとまりの数)×(1まとまりのなかの数量)とはなりません。(かけられる数)が先に来て、(かける数)があとです。だから、もし皿が2枚あり、1枚に5個ずつおはぎをおく場合は、5×2と書くことになります。

 小学校のテストは、授業で学んだことを確実に理解しているのかを確かめる意味があるわけですが、順番を固定して教えているのに、逆に書けば、理解していない、ということになります。だから、バツをつけるのもアリです。

 また、冒頭のような文章題で、九九だけを機械的に覚えて、足し算の意味を理解してない生徒は、数字が出てくる順番通りに、5×2=10と書いてしまいがちです。

 出てくる順番に書いても、結果は同じなのですが、「お皿が5枚あり、10個のおはぎを各皿同じ数になるように載せるとき、1つのお皿には何個のおはぎが載るか」といった、割り算の文章題のときに、とても困ります。計算はできても、具体的な場面に算数を適用して考える力がついていないのです。

 かけ算では、どちらの順番で書いても結果は同じである点も考慮すれば、式はサンカク、答えはマルという採点方法も考えらなくはありません。式も答えもバツにするのは、おかしいと思いますが、式だけをバツにするのは、まったく正しいと思います。

 かけ算をはじめて学ぶときに、つまり、かけ算というものがどんなものであるかを理解しようとしてるまさにそのときに、交換法則のことを持ち出せば、交換法則がどんなに正しくても、頭が良い生徒をのぞいて、混乱してしまい、生徒にかけ算を理解させることに失敗してしまいます。

 2×5でも5×2でも、答えは同じ10になることは、交換法則という言葉を学ばなくても、同じ2年生で九九を学ぶことによって、生徒はわかってきます。しかし、かけ算を意味を今まさに学んでいる最初の段階では、交換法則への言及は不要であるだけでなく、学習妨害になりかねません。学ぶには学ぶのに適切な段階というものがあるのです。

 意味が分かっているのであれば、(かける数)と(かけられる数)の順番を逆にしてもいいではないか、という反論があるかもしれません。しかし、教育上、順序は固定していた方がいいのです。教科書左ページは、(かける数)×(かけられる数)で式が書かれ、右ページでは逆順で書かれていたら、生徒は混乱します。固定していた方が、設問も作りやすいし採点もしやすいのです。

 欧米の小学校と同じように、(かける数)×(かけられる数)の順で固定してもよかったもしれません。しかし、ともかく日本の小学教育では、どういう理由によるものか、(かけられる数)×(かける数)の順序が採用されています。

  以上のように、かけ算に順番があるかのように教えるのは、学習上・教育上の便宜です。それは便宜ですから、さらに学習段階が進めば、乗り越えられなければなりません。それを自己目的化して教条化してしまうことが、誤りなのです。それは便法にすぎないので、限界があり、さらに学習段階が進んで、面積の計算をするときなどでは、もう通用しません。

 かけ算以外でも、教育上の便法は普通に使われます。たとえば、3は2で割ると1余るので、割り切れない、と最初は生徒は学びます。もし、割り切れると答えた生徒は、まだ、余りが出る割り算がわかってないと判断されます。

 しかし、小数を学ぶと、3は2で割り切れて1.5となることを知ります。最初に「割り切れない」と説明されたのは、誤りだったのではなく、自然数しか知らない世界のなかでは、それなりに正しいことだったのです。

 1本の直線に垂直な2本の直線は平行です。生徒は小学校で平行線は交わらないと教わります。しかし、それは平面(ユークリッド空間)での話であって、非ユークリッド空間ではあてはまりません。

 しかし、平行ということをはじめて学んでいて、生徒が理解に失敗するかもしれない状況では、「非ユークリッド空間では交わらないとは限らない」などと、余計なことを言うべきではありません。

 交換法則を知っている大人の立場で、差し出がましく,5×2でも正しいと主張して、バツをつけるのは間違いだと学校に抗議し、段階を踏み(超え)ながら学んでいく教育現場を、混乱させるべきではありません。

コメント

>「かけ算とは 1 あたりのいくら分をもとめることである」とすれば「3羽のウサギの耳の本数」は「1羽あたり2本の3羽分」であって「1羽あたり3羽の2本分」となると「不自然」…

「1羽あたり3羽の2本分」ではなく「片耳あたり3本の両耳分」であるべきしょう。

「かけ算とは 1 あたりのいくら分をもとめることである」とすれば「3羽のウサギの耳の本数」は「1羽あたり2本の3羽分」であって「1羽あたり3羽の2本分」となると「不自然」…これは「日常生活」だけの話ではないし国語の問題ともいいがたいでしょう。「かけ算とは 1 あたりのいくら分をもとめることである」以外の「乗法の意味」をハッキリさせない「わざわざあてはめなくていい」は単なる「いいがかり」…「方便」「便宜上」では片づけられる話でしょうか?

四元数の具体例として自然数しかあげないのはどこかピントがずれている…その指摘にたいして「自然数は四元数にあらず」といっているというのはさらにずれている…二等辺三角形の具体例として正三角形しか与えられないのもどこかピントがずれている…。

二等辺三角形と正三角形、割り算の文章題などについて、小論を書きました。ご覧いただけると幸いです。
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20130804/1375564604

「かけ算とは 1 あたりのいくら分をもとめることである」は「小二」レベルだけしか考えないなら意義はあまりない。「反対派」はつねにこの事実から目を背ける。初等教育全体ひいてはその後の教育につながる「乗法の意味の理解」にかかわる指導における「意味を順序で表現すること」から「順序」という断片だけを抜き出し「順序指導」などという造語でナンセンスな「大騒ぎ」を繰り広げる…理解するのは同じ誤謬を共有する人たちだけ…。意味のない計算にとり憑かれた人たちを解放するのは「大騒ぎ」ではなく自ら考えること…それができないことを自分たちが受けた教育のせいにすることはナンセンス…まして算数教育の専門家の仕事に難癖をつけるのは…こどもたちをまきこむにいたってはただの「迷惑」ではすまされない…

「反対派」は検証可能な根拠を決して提示しない…事実の断片を別の文脈において「大騒ぎ」をする…そんなことなら誰にでもできるでしょう…。「反対派」のいいがかりはとくに彼ら自身によくあてはまるようです。


「かけ算の順序問題」の大騒ぎはいつも堂々巡りの不毛な「議論」にいきつく…。そんな大人たちがあらわれることには理由があるのでしょう。もしかすると「反対派」は彼らのえがく「推進派」同様「乗法の意味」を教えなかった教育の「犠牲者」…「大騒ぎ」は彼らの「復讐」…そして再びこどもたちが「犠牲者」になる…。

具体的に与えられた正方形を「長方形である」というのはピントがずれている…それは自然数の乗法に四元数の乗法をもちだすのと同じ…集合を学んだはずなのにそれがわからない…大人たちは自分たちの教育を人のせいにすることはできない…大人たちは自分の教育に自分で責任をもつことが期待される…「乗法の意味」がわからないなら学べばよいはず…算数教育の専門家を「批判」して(いるつもりになって)もはじまらないでしょう…。

【断定の根拠を示して下さい】

 主張は色々あると思いますが、客観的事実認識に関しては、共通の認識に至ることは可能だと思います。

 現在は自民党政権です。「現在は自民党政権でない」という認識は、自民党政権を支持するか否かに関わりなく、誤りです。客観的事実は主義主張とは基本的に独立です。「客観的事実」をされるものも、主義主張を持った人間が認識するので、本当の意味での客観的事実とは言い難いのですが、それはそれとしておいておきます。

 ざわめくブログ人さんは、「かけ算の順序指導は正しい」という主張の前提として、いくつかの客観的事実認識を表明されています。

 それは本当なのか?根拠は何なのか?

と疑問に思う点もあるので、根拠の提示をお願いします。私の過去のコメントの繰り返しにはなりますが、客観的事実認識に関わる部分に関しての疑問だけをピックアップします。


>高度に抽象的な認識に、小学2年生が到達するとは、私には考えられません。
 
こういう書き方であれば、その内容が妥当かどうかはさておき、ざわめくブログ人さんの推測であることが分かります。

ここで私が取りあげたいのは、これとは違う類のことです。
以下の、ざわめくブログ人さんの断定についてです。


(学校での算数教育を非難する人は 積分定数補足)【教育や学習の本質がわかっていないのです】

「本質」をざわめくブログ人さんのその後のコメントのように「段階を踏んだ学習というように換えても、不可解です。なぜ「わかっていない」のでしょうか?
「算数教育を非難する人は段階を踏んだ学習というものを理解していない」と、ざわめくブログ人さんが断定する根拠は何ですか?

【出てくる順番に書いても、結果は同じなのですが、「お皿が5枚あり、10個のおはぎを各皿同じ数になるように載せるとき、1つのお皿には何個のおはぎが載るか」といった、割り算の文章題のときに、とても困ります。計算はできても、具体的な場面に算数を適用して考える力がついていないのです。】

なにがどう「困る」のでしょうか?「具体的な場面に算数を適用して考える力がついていないのです。」と断定する根拠は何でしょうか?


【ところで、教育と学習はこのように、段階を踏み(越え)つつ起きるという点を、積分定数さんが無視してしまう傾向がある】

 これは明確な事実誤認です。なぜなら私自信、段階を踏んだ学習というのを否定していないからです。そしてコメントでも、そのように受け取られかねない発言はしてこなかったつもりです。しかし自分がそのつもりでも、他人から見たらそうは見えないこともあり得ます。

 どうしたら私自身の意図を誤解がないように正確に伝えることができるか、色々模索することがあります。

 私のコメントを引用して「ここの部分から、無視する傾向があると判断した」というように指摘して下さい。

 今後、自分の考えを表明する際に参考にさせていただきたいと思いますので、宜しくお願いします。

ちなみに「かけ算の順序問題」で「順序」だけを取り上げて批判をする人たちは開かれた場所での議論を避けたがる傾向があるようです。都合が悪くなると陰で「個人攻撃」を始める…特定の個人を排除する(「S氏も降臨」…「S氏」ならずっと前に「降臨」しているようなのですが…(^-^;)…そして本題は置いてきぼり…彼らにはそうしたことをする「自由」がある…でもこどもたちまで混乱にまきこんでしまうなら,単なる「迷惑」ではすまないでしょう。

そんなことより「乗法の意味」についてこどもたちとともに考える方が面白い…あながち「便宜」「方便」で片づけられない話につながっていくかもしれません。逆にこの話題で「乗法の意味」を抜きに「議論」を始めるとナンセンスな堂々巡りに陥るようです。

素人の「教育評論家」の方向性のない「議論」が拡散してしまうといったことももよくあることのようです。書籍の断片のみをとりあげて「いちゃもん」をつけるなら誰にでもできるでしょう。

「文脈」を無視したナンセンスな大騒ぎが「かけ算の順序問題」の「本質」のように感じています。「反対派」と彼らのえがく「推進派」「擁護派」とはよくにています。どちらも「順序」だけにこだわって「こじつけ」をしている…一方は「自由」他方は「固定」…

「意味を順序で表現している」のに「順序」だけを「問題」にしてもナンセンスでしょう。ナンセンスなことをしてナンセンスをみいだして大騒ぎをするのナンセンスと思います。

そんな大騒ぎにまきこまれるのではなく,こどもたちとともに「乗法の意味」について考えるなら,意外な発見もあるかもしれません。

「反対派」は,

(1)かけ算とは1あたりのいくら分をもとめることである
(2)1あたり×いくら分 の順序でかく

などといった文脈なしに「乗法の交換法則」をどうやって説明するのでしょう?

新たに「さくらんぼ計算」が出てきていますが、事例がWebの情報ばかりというのは公平とは思えませんので、何冊か書籍を参照して整理したものを紹介しておきます。
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20130322/1363901472
さくらんぼという言葉は使っていませんが、さくらんぼ計算と同様の形で、10や他の数を2つの数の和に分解をするという計算問題は、1961年の『算数に強くなる水道方式入門』上巻にも載っています。さくらんぼ計算は形式陶冶、その批判は実質陶冶が関係するように感じます。

長方形と正方形の違いに関して、小学生でも確かめられる問題を
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20120415/1334439362
で提案しています。三角形については、ジオボードを使って「二等辺三角形をつくってみよう」「正三角形をつくってみよう」をさせると、面白いかもしれません。
二等辺三角形・正三角形に配慮した学力実態調査の事例に、次のものがあります。(第3学年)大問1では「2つの辺の長さが等しい三角形」、大問2では「二等辺三角形」と書いているのが興味深いところです。
http://tosanken.main.jp/data/H21/H21jittaityousa.pdf#page=6

ざわめくブログ人さんに、一つお願いがございます。「かけ算の順序」を発端として、算数にまつわる様々な出題や指導を扱いたいのか、それともそれらはほどほどにして、「かけ算の順序」に集中して議論をしたいのか、方針を決めていただけると助かります。

ツイッターの #掛算 タグ
https://twitter.com/search?q=%23%E6%8E%9B%E7%AE%97&src=typd&mode=realtime

も参考になるかもしれません。こちらの「議論」は収束したようです。わたしはこの開かれた場所で「反対派」のいいがかりは彼ら自身にとくによくあてはまることをたびたび目にしてきました。

自分たちが小学校レベルの算数(「乗法の交換法則」「乗法の意味の理解」)について説明できず,小学校の教室で教えた経験もない素人でも「算数教育の専門家より算数教育に詳しく」なれるようですよね!

わたしにはそんなことがあるとは到底思えないのですが…

http://8254.teacup.com/kakezannojunjo/bbs/t39/l50

↑も参考としてあげておきます。「さくらんぼ計算」というのは一部の教師が行っている指導法です。かけ算順序と違って、標準的な教え方というわけではないのですが、どの程度か分かりませんがはやっているようです。

 もともとは、計算が出来ない子のための計算指導法と言うことだったようですが、手段が目的になってしまうという算数教育でおきまりのコースを順調に進み、

 さくらんぼ計算が不要な子にまでさくらんぼを強要し混乱を招いています。

 算数教育ではこのようなことがありがちであることを認識して下さい。

 ざわめくブログ人さんからしたら、「さくらんぼでやることになっているのであればそう指導するのは当然だし、そう教わったのだからそれができなければ授業を理解していないことになるので、バツになるのは当然」とでもなるのでしょうか?

 しかし、計算が出来る子にまでさくらんぼを強要する意味はないのではないでしょうか?

 「計算が出来る子は、できる子なんだからさくらんぼだってできるはず」となるのでしょうか?

 出来る子は、普通に計算して答えを出して、さくらんぼの方法でやった振りをするようですが、

 そういう器用な芸当ができず、普通に計算したらできるのにさくらんぼを強要されて混乱してしまう子もいると思います。

 「正三角形は二等辺三角形である」

を話題にして算数教育の専門家の仕事に難癖をつける素人(わたしも素人の一人です。念のため。)は多いようです。そういう人たちは,

 「自然数は四元数である」

といわれると「こじつけ」と感じるようです。そして

 「トランプ配り」で,「√2×√3=√3×√2」をどうやって説明するのですか?

とたずねるとまともな答えがかえってきません。

 意味を順序で表現している

ときに,「順序」だけを「問題」にしても意味はないでしょう。そして小学校二年生ははいつまでも「小二」レベルにとどまっていられるわけではない。一方で「かけ算の順序問題」「反対派」の人たちはいつまでも「順序」だけにこだわり,「小二」レベルにとどまりつづけているようにです。

そんな人たちがナンセンスな大騒ぎをしつづけるのはその人たちの自由かもしれません。でもその大騒ぎにこどもたちがまきこまれているなら「迷惑」ではすまされないでしょう。

ナンセンスな「かけ算の順序問題」で大騒ぎをするのではなく,「乗法の意味の理解」の指導に触れたのをきっかけに,大人たちがこどもたちとともに「乗法の意味」について考えるなら,無意味な記号列操作としての計算からこどもたちとともに解放されるかもしれません。こどもたちから教わることだってありうるとも思います。

(1)かけ算とは1あたりのいくら分をもとめることである
(2)1あたり×いくら分 の順序でかく

という文脈を知っていれば,

 「1皿あたり2個の5皿分は □×□個とかく」の空欄(□)をうめなさい

という問で混乱するなら「乗法の意味」がよくわかっていないといえるかもしれませんね。文脈を無視すれば,いかなるナンセンスも導けるでしょう。たとえば,

 「log_{10}{2}=0.3010 とする」

と問題文にあるとき,「2^699=5^301 が成り立つ,よって 2=5 である」などを導くのはナンセンスでしょう。明記されない「文脈」にしたがって問題を解釈しなければならないことはそんなに珍しいことではない。(1)(2)は授業であつかわれるのでしょう。そういう授業を受けなかった大人たちがナンセンスな大騒ぎをしてしまうのはごく自然なことでしょう。

 ある教師経験者はツイッター上で、「順序はどちらでも良いとしても子供は混乱しない。なぜなら実際の体験を通して、どちらでも構わないことを実感しているから」と言っています。この方はツイッターをやめてしまったので残念ながらオリジナルのコメントは見ることができません。

 それから私が直接会った小学校教員は、

「着任当初は指導書に従ってかけ算の順序を熱心に教えていたけど、途中から疑問に思えてきた。中学の数学教師が赴任してきたので、『かけ算の順序を正しく書かせることに意味はあるのか?』と質問したら、『全く意味はない』と言われて、それ以来熱心に指導することはやめた。どちらの順序でも答えは出るわけで、特定の順序の方だけを書かせる指導は子供を混乱させる」

と言っていました。


http://www.asahi.com/edu/student/teacher/TKY201101160133.html

この先生にも電話で質問しました。なぜ順序に拘った指導をしているかというと、「私が率先して提唱しているわけではなくて、授業研究会などでも順序指導が良いとされているから」とのこと。


 ちゃんと自分の責任と判断で「順序指導が望ましい」と考えて順序を指導している教師はほとんどいないようです。


 ざわめくブログ人さんが「順序指導が望ましい」とする根拠は何なのですか?

 ブログには色々書かれていますが、ソースのないものばかりで、到底説得力はありません。

>小学校のテストは、授業で学んだことを確実に理解しているのかを確かめる意味があるわけですが、順番を固定して教えているのに、逆に書けば、理解していない、ということになります。だから、バツをつけるのもアリです。

「順番を固定して教えているのに、逆に書けば、理解していない、ということになります。」というのは、 ざわめくブログ人さんが算数教育に携わっていて、実際に逆に書いている子が理解していない割合が多いと言うことを実感した、あるいはそういうことをどこかで聞いたのでしょうか?

それとも「ということになります。」ということで、「その子が実際に理解しているかどうかと無関係に、正しい順序に書いたら理解しているとみなす」ということでしょうか?

ざわめくブログ人さんはソースを示さずに断言することが多いのですが、根拠を示すなり、あるいは推測であるのならそのことを明記して下さい。

「正しい順序なら理解しているが、逆順だと理解してない」ということに根拠はないのではないか?というのが掛け順論争では定説となりつつあります。これに反論するのであればソースを示して下さい。


>出てくる順番に書いても、結果は同じなのですが、「お皿が5枚あり、10個のおはぎを各皿同じ数になるように載せるとき、1つのお皿には何個のおはぎが載るか」といった、割り算の文章題のときに、とても困ります。計算はできても、具体的な場面に算数を適用して考える力がついていないのです。

これも 「とても困ります。計算はできても、具体的な場面に算数を適用して考える力がついていないのです。」と断定していますが、根拠はあるのでしょうか?

「かけ算の順序などどーでもいい」という認識だとわり算のときに困るというのが、どうにも分かりません。むしろ、等分除も包含除も同じわり算と認識できて都合がいいとも思えますが。

 私自身もわり算をやっているときに「20÷5は、20を5等分するのと、20に5がいくつあるのかの2つの意味がある」と思いましたが、「かけ算の一方を求めるのだから当たり前か。2つの意味なんかない。わり算はわり算」とすぐに気づきました。小学校のときの記憶ですが鮮明に覚えています。

 以来、かけ算の順序も等分除も包含除も気にしたことはありません。それ以前から、私自身はかけ算の順序についてとやかく言われた記憶はありません。

 現在かけ算の順序が教えられていて、多くの子供はかけ算を理解するようになります。だから、「順序に拘るべきか拘らないべきかは分からないが、現状で重大な問題が生じていないのだから現状のままで良いではないか。これを変更すること自体が、リスクを伴う」という意見もあります。

 これはこれで一理ありますが、「順序に拘らない指導」もされてきたし、そのことでかけ算が分からない子が続出するという具合にもなっていません。


ざわめくブログ人さんの場合、「現状で重大な問題が生じていないようだから」というような消極的な現状肯定ではなくて、積極的に今のかけ算の順序に拘った採点・拘った指導を肯定していますが、その根拠は何ですか?

「拘っていない」とおっしゃるかもしれませんが、

>小学校のテストは、授業で学んだことを確実に理解しているのかを確かめる意味があるわけですが、順番を固定して教えているのに、逆に書けば、理解していない、ということになります。だから、バツをつけるのもアリです。
>式だけをバツにするのは、まったく正しいと思います。

という具合に、順序に拘った採点を肯定しています。

>700円の3割を求める問題で、100円の3割は30円だから、その7倍と考えて、30×7としても、計算過程がスマートでないだけで、割合の考え方は理解しており、実質的には公式は適用されています。ただし、ただ30×7と書いたのでは、30がどこからでてきたのかわかりませんから、式が半分にしか書いていないという理由で、バツやサンカクになってもしかたないところはあります。

なぜ減点が仕方ないのでしょうか?そのような採点方法を採用する教育的効果はどのようなものなのでしょうか?


ざわめくブログ人さんとのやりとり、及び最近教えていての体験から、

http://8254.teacup.com/kakezannojunjo/bbs/t21/1148-1149

を書きました。よろしければ目を通して下さい。上記掲示板へのコメントも大歓迎です。

>しかし、かけ算の機能には、順序ばかりか、(まとまりのなかの数)と(まとまりのいくつ)の区別さえないという高度に抽象的な認識に、小学2年生が到達するとは、私には考えられません。あまりに可能性の小さなことは無視すべきです。

 実際にどの程度の可能性があるのか、私は知りませんが、仮に子供が気づかないとしても、アレイ図などで格子状に並べて交換法則が成り立つことを示すことを教えています。この段階で、どちらが(1つ分)でどちらが(いくつ分)であるかをさして意識する必要はないと子供が認識することは十分あり得ます。また、トランプ配りの方法で教師の想定した(1つ分)と(いくつ分)と逆にしてしまう子もいます。

 それでもなお、(教師の想定した1つ分の数)×(教師の想定したいくつ分の数)に書かせるような指導が繰り返し繰り返し行われるのです。

 何のためなのですか?どのようなメリットがあるのですか?


>この違いの説明は、それでもやはり、それ自体が目的ではなく、やはり共通性へと向かうための1つのステップです。 

「違いの説明」が具体的にどのようなものか分かりませんが、ことさらに「違う」という必要は全くないと思います。

「5人にて3人かえった。」なら、5個あるブロックから3個取り除いて、
「男5人、女3人、男は何人多い?」なら、5個と3個を並べて、・・・と言う具合にすれば良いだけで、「さっきとはブロック操作が違う」と強調する必要はありません。

「蜜柑が5個あって3人に1個ずつ配ったら何個残るか?」というように求残か求差か曖昧なものもあります。

そもそもブロック操作など教師が見本を見せなくても、子供が色々試行錯誤すればいいだけのことであって、「合併なら両手でガシャン」「増加なら片手でガシャン」などと教えることがアホらしいと思うのですが、

いずれにしても、教科書指導書では、合併と増加、求残と求差の区別を児童にさせる指導が奨励されているのです。

私はこれは問題であると思っているのですが、ざわめくブログ人さんは「ステップとしてならそれもあり」という立場なのでしょうか?


ざわめくブログ人さんの主張はよく分からないです。

ブログでは学校の算数授業を全面的に肯定して、順序に拘ってバツを付けるのは正しいと言っています。

しかし、私が様々な事例を出すことで、問題がある授業があることは認識していただいたようです。

しかしそれでも、「目的となってはまずいがステップとしてはあり」として、最初のブログでの主張はそのまま維持されているようにも思えます。

結局のところ、かけ算の順序に拘ってバツを付けることについて、正当性があると思っていらっしゃるのでしょうか?

>4×3にバツをつけるのは、「今は3×4の順で書こくことにしよう」という約束を、君は守っていないね、ということにすぎません。

だから、そのような約束事の妥当性、バツを付けることの妥当性が議論されているのです。

ざわめくブログ人さんの話を聞いていると、「そういうように教えることになっているのだから、そう教えたのだからそれに従うべき」というように聞こえてしまいます。

「そういう教え方」が問われているのです。「法律は守るべきだ」という話と、「この法律は望ましくないから変えるべきだ」という話は別です。「○○法第○条に違反したから罰金10万円」という事に関して、「その法律は変えるべきだ」「罰金10万円は妥当とは言えない」と主張することは、○○法第○条に違反する行為ではありません。法改正の主張や罰金の妥当性への疑問に対して、「○○法第○条には違反したら罰金10万円と書いてある」と言っても反論にはなり得ません。

 私が教えてほしいのは、かけ算の順序に拘る指導の妥当性についてです。「かけ算の順序に拘った指導をしているのでそれに基づいて3×4はバツにしている」というのは、「現状がそうなっている」というだけのことでしかありません。

>東京書籍の教科書しか見ていないと、「すっかり解放されている」に見えるが、他の教科書も見るとそうではないということでしょうか。

かけ算の順序はかけ算を習い初めの段階だけではありません。後半になってうやむやになることはあるかもしれませんが、「今日からは拘らなくて良いです」と明確な解除宣言もなされないようです。大人になってもかけ算に正しい順序があると思い込んでいる人がいます。
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2004/0607/002209.htm?o=0
=============================
取引先の会社から請求書が送られてきました。
1部50円のパンフレット750部のものです。
計算式が750×50=37500円
となっていたのでおかしくなり、思わず上司(50代女)に
「こいつ馬鹿ですね。計算式間違ってます」
===============================

>「かけ算には正しい順序がある」という文言は、かけ算一般について言っているので、そこからさらに飛躍(かなりのて程度の一般化)がないと出てこない命題です。これはバツにすることの問題から切り離すべきです。

指導書も、教えている教師も「かけ算には正しい順序がある」という立場なのです。「切り離すべき」と言っても、教えている人は切り離してはいません。

 「いろいろやってみて、かけ算の順序を徹底した方が子供の理解が促されるようだから、本当はかけ算に順序などないのだが、順序を固定するように指導した方がいいな」と教師が自分の責任と判断で教えているのではなくて、

「かけ算には本当に正しい順序があるのだからがんばってそれを教えなければ」あるいは「よく分からないけど、順序を徹底した方がいいらしい。指導書にもそう書いてあるから」

ということで、順序に拘った授業が行われているのだと推測しています。


>私の主張は、掛け順は教育上の方便にすぎないので、こだわるべきではないというものです。

しかし現実には拘った教え方がなされているし、それに抗議する人を、ざわめくブログ人さん「教育を分かっていない」と断定しています。「こだわるべきでない」という見解とブログの内容が矛盾するように思えます。

「式だけをバツにするのは、まったく正しいと思います。」こことも矛盾しますよね。

あるいは、「拘るべきではないが方便としてならバツもあり」ということでしょうか?
そうであればそれは「こだわるべきではない」ではなくて、「場合によっては拘ることも正当化される」ということになります。

>その文言が、〈私が現在の学校教育を私が全面的に肯定し信頼している〉ことを示していると理解されているのですが、それはまったくの誤解

その文言だけではありません。ブログを読み返して見て下さい。学校の授業に抗議する側のみに非があり、授業のあり方については「これこれこういう事情でだからバツを付けるのは正しいのだ」と肯定しています。

>現実はその中間のどこかでしょう。

とのことですが、そうであれば、学校の教え方に不備があってそれに対する抗議があることもあり得るのではないでしょうか?

もちろん抗議のあり方・方法が問題視されることはあり得るし、かけ算の順序論争でありがちな、教師の人格を否定するような発言やネトウヨが「日教組がどうたら」と言うような事態が望ましいとは思いません。

しかしそのことと、そもそも学校のやり方に問題はないのかどうか、は話は別です。

ある教育方針が後に変更になることはありがちです。

かつては、運動中は水を飲むなと指導されました。どういう経緯か知りませんが最近はそのようなことはないようです。

 学校現場で行われていることが全て正しいとは限らない。学校外の人間が批判したり抗議したりすることもあり得るし、そのことで改善されることもあり得る。
もちろん、外からの批判が常に正しいとは限らない。

 一般的にはこういうことだと思います。

では「かけ算の順序」に関してはどうなのか? という話だと思いますが、

ざわめくブログ人さんのブログは、
「かけ算の順序に抗議する人は、教育が段階を踏んだ学習であることを理解していない、学校の授業はちゃんと考えられて行われているのだ」と読めてしまいます。

「現在の学校教育を全面的に肯定し信頼している」とみなされても仕方ないのではないでしょうか?

そうではないというのであれば、抗議する人を「教育や学習の本質がわかっていない」と断定することはないはずです。

「教育や学習の本質」を「段階を踏んだ教育や学習のこと」と言い換えても、「分かっていない」と断定していることには変わりありません。

>「教育や学習の本質」ということで私が言おうとしたのは、もうすでに何度も述べている、段階を踏んだ教育や学習のことです。子どもが現在立っている知識のレベル・地平を踏まえて、次のステップに進む道を示すことです。

そうすると、「かけ算の順序」に拘った教え方に抗議する人は、教育が「段階を踏んだ教育や学習・子どもが現在立っている知識のレベル・地平を踏まえて、次のステップに進む道を示すこと」をわかっていない、ということになりますよね。

 実際、私のことを

>ところで、教育と学習はこのように、段階を踏み(越え)つつ起きるという点を、積分定数さんが無視してしまう傾向があるのは

とみなしているようですね。ざわめくブログ人さんは、「学校での算数教育は段階を踏んだものであるのだから、算数教育を批判するのは、段階を踏んだ学習を否定するものだ」となってしまうのでしょう。

だから私は、「そうじゃないですよ」ということで「その子の認識レベルに合わせて指導するというのは、言うまでもなく当然のことです。」と言いました。

>「その子の認識レベルに合わせ」ることができれば一番理想的です。数学塾では一人一人に合わせた教育が可能なのでしょうか。実際には、学校は個人指導ではなく集団的な教育なので、学年や年令でひとくくりにされた子どもたちの認識レベルに合わせて、となると思います。

とのことですが、理想はこうだけど現実はそうもいかないと言うのも、言わずもがなの当然のことです。

「その子の認識レベルに合わせて指導するというのは、言うまでもなく当然のことです。」というのは、 「ところで、教育と学習はこのように、段階を踏み(越え)つつ起きるという点を、積分定数さんが無視してしまう傾向があるのは」ということへの反論です。


私が「無視してしまう傾向がある」と判断したのは具体的に私のどのコメントによるものでしょうか?

「かけ算の順序を批判する」=「段階を踏むのを無視する」ということになっているのでしょうか?

>積分定数さんの主張は、私の予想では、数学的にはアは正しいので、どちらもマルで満点で採点すべき、でしょう。


私のことを、「子供の理解など関係なく数学的に正しいことを教えろ」と主張しているとしたいのでしょうか?

「数学的」ということであれば、所詮用語の定義の話だから、「正方形は長方形でない」と定義することも、「正三角形は二等辺三角形ではない」と定義することも可能です。

 私が「正三角形は二等辺三角形」という立場もマルとすべきだと思うのは、算数教育上の理由です。

>そういう集合論的な認識がまだできない小学生の「認識レベルに合わせて」、ということであれば、そういう前提で教えるのがいいと思います。 

とのことですが、「そういう前提」とはどのような前提になるのでしょうか?

「二辺が等しい三角形」これだと、三辺が等しい場合がそうなのかが曖昧で、「三辺が等しい場合は除外される」という立場もあるかもしれませんが、長方形に関しては「4つの角が直角」という定義なので、この定義に従うなら正方形は長方形です。
台形の定義は「向かい合う1組の2辺が平行」だから、「2組が平行」(平行四辺形)は除外するという立場もあるかもしれませんが、平行四辺形から長方形や菱形を除外することは、定義の文言をどう解釈しても不可能です。


「正方形は普通は長方形とは言わない」 というような“常識”を持ち出すとどうなるのか?菱形は平行四辺形としないのが常識かどうか?などかなりややこしくなります。

「正方形は長方形ではない」「正三角形は二等辺三角形ではない」と逐一授業で教えるのか?これもややこしくて複雑であるし、そもそも、「正方形が長方形であるというのは子供には難しいから教えない」という話だったはずなのに妙な方向になってしまっています。

では、「特別に名前が付いた図形は、それよりも広い概念の名前からは除外する」というように教えるのか?

向かい合う2組の辺が平行であれば平行四辺形だが、長方形や菱形は、これはこれで特別な名前が付いているから、 長方形や菱形は平行四辺形から除外する

このようなルールを設定すると、「直角二等辺三角形は、直角三角形ではない」「正三角形は三角形ではない」「正方形は四角形ではない」となってしまう。


算数教育のローカルルールとして「正三角形は二等辺三角形ではない」「正方形は長方形ではない」としようとしても、無理が生じる。


結局は、「正三角形は二等辺三角形」「正方形は長方形」という合理的考えに従うか、文科省見解のように、「触れない。棚上げ」にするしかないと思うのです。

>私はエは正しいけれど、アはその前提のもとではバツにすべきだと考え(2)は全体としては、部分点にすべきだと主張します。

ざわめくブログ人さんが、「正三角形は二等辺三角形ではない」という立場で採点するのが算数教育上望ましいと言うことであれば、なぜ望ましいのか教えて下さい。

ざわめくブログ人さんの出題と採点基準は、文科省見解・教科書会社の見解・算数教育専門家・多くの小学校教員(※)の立場とは異なるものです。

(※)「正三角形は二等辺三角形ではない」「正方形は長方形ではない」という立場の教師がいることは色々な情報からほぼ確実ですが、少なくとも主流ではありません。私が直接聞いた範囲では、かけ算の順序に拘る教師も教育委員会も「正三角形は二等辺三角形」「正方形は長方形」と言っていました。 


「かけ算の順序」と異なり、この件に関しては、算数教育の主流の考えと私の考えはさほど違いません。「正三角形は二等辺三角形ではない」「正方形は長方形ではない」と間違って教えてしまう教師が出てしまうことを考えたら、 「正三角形は二等辺三角形」「正方形は長方形」と明確に教えた方が良いようにも思いますが、そのあたりは、子供が混乱するというデメリットとの兼ね合いになると思います。

ざわめくブログ人さんが、数学的合理性を犠牲にして、算数教育界の主流の考えと異なった、「正三角形は二等辺三角形ではない」という採点基準を提唱する理由を、聞かせて下さい。 

>そういう集合論的な認識がまだできない小学生の「認識レベルに合わせて」、ということであれば、そういう前提で教えるのがいいと思います。

「そういう前提」がどういう前提であるのか、理解されているのでしょうか?私のコメントやhttp://8254.teacup.com/kakezannojunjo/bbs/t44/l50
を見ればわかるはずですが、

文科省の回答によれば、ざわめくブログ人さんが提示したような問題がそもそも不適切なのです。


文科省の回答によれば

 正三角形が二等辺三角形であることや、正方形が長方形であることは、子供には難しいので、そのことは敢えて教えることはしない。教師の裁量で発展的内容として、このことを教えても構わない。
 正三角形が二等辺三角形であるかどうか、正方形が長方形であるかどうかで正解が違ってしまう問題は不適切。
 仮に出題したら、どちらの立場での解答も正解とするか、あるいは発展的内容として「正三角形は二等辺三角形」という立場を正解とすべき。

三角形がいくつかあってその中から二等辺三角形を選択する問題の場合、正三角形が選択肢に含まれているような問題は、私の知る限り、検定教科書にはありません。


私がこの事例を出した意図は、「子供が混乱するから正三角形が二等辺三角形であるとは、敢えて教えない」という方針が、「正三角形は二等辺三角形ではない、と教える」となってしまうことがあり得る、つまり、そもそもの教科書会社なり算数教育界の指導的立場の人が何らかの意図で方針を出しても、それが現場には正確に伝わらないことがあり得る、ということを言いたかったのです。

 実際に、ざわめくブログ人さんは、「そういう前提」として、文科省見解からしたら、出してはならない問題を提示し、さらに正三角形を二等辺三角形をみなした解答をバツにするという、文科省が「そういう採点は駄目だよ」という採点基準を示しています。

 現実にもそういう授業があるようなのです。

 つまり、算数教育界の指導的立場の人が何らかの意図で方針が、現場では必ずしも正しく実践されないことを示しています。

 かけ算の順序に関しては、さらに、そもそも算数教育界の指導的立場の人の方針が根本的に間違っている可能性が極めて高いのですが。

はじめまして。ざわめくブログ人さんの主張に賛同します。これまで収集・整備してきた情報
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20130520/1368981101
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20130615/1371274369
と重なるところが多いように感じました。

学校教育を離れますと、物品の数量をかけ算で表す場合、外国では「3×80g」「75g×5」のように、順序としてはどちらもあるけれど、幾つ分にあたるものには単位が付いていません。それに対し日本では「1.5kg×4箱」のように、両方に単位が付くものをよく目にします。1まとまりの数量は左に書かれ(「1.5kgが4箱」と読むことができます)、積も、同じ単位になります。総量は6kgであって、6箱でも6kg箱でもないのは明らかですが、かけ算の構造を解説するにあたりVergnaudが"it is not clear why 4 cakes × 15 cents yields cents and not cakes"と指摘したのは、フランスよりも日本の算数の中で考慮すべきことのように思います。

ざわめくブログ人さんが書かれた中で、本題ではないけれど気になったことを2つ。まず「1+1は2進法では 11 と書く」について、それは1進法ではないかと思います。個人的に大学に入ってすぐのとき、1+1は、2のほか、1でも10でも11でも“うまくいく”ように、+の演算を定義することができると教わりました。それと本文中の「3は2で割り切れて1.5となる」ですが、こちらは割り進みの話だと思います。あまりのあるわり算にするか、割り進めるか、分数にするかは、出題側から指示するのが親切となり、実際、平成20年度の全国学力テスト算数Aでは2÷3を分数で表す問題、同22年度は6÷5に「(わりきれるまで計算して,商を小数で書きましょう。)」を添えた計算問題があります。

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