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政治
【正論】日本人に生まれて、まあよかった 比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘
明治42年9月2日、夏目漱石は大学予備門同窓の満鉄総裁中村是公の招きで満州に向かった。『満韓ところどころ』は大連、旅順、二〇三高地、奉天まで、満鉄を中心とする日本人の植民地経営見聞記で、10月17日に帰京するとすぐ朝日新聞に連載、年末に打ち切った。奉天まで書けば、満鉄のPRはもう十分と思ったのだろう。
≪漱石の見聞記『韓満所感』≫
漱石はその先、長春、ハルビンまで北上し、次いで韓国に南下してなお見物したのだが、続きは書かずに終わった。そこが物足りない。というのは、50日間の大名旅行から帰国直後、伊藤博文がハルビン駅頭で暗殺されたからだ。
そのプラットホームは、つい先日、漱石の靴の裏を押し付けた所だ。倒れんとした伊藤公を抱きかかえたのは中村是公だ。負傷した田中清次郎は満鉄理事の社宅ですき焼きを御馳走(ごちそう)してくれた。当然漱石は強い刺激を受けたはずだ。なのに触れない。となるとあれは『満韓ところどころ』ではない、『漱石ところどころ』だと揶揄(やゆ)された。胃痛の話ばかり出てくる。体調が悪いと文章も冴(さ)えない。
だが漱石は、伊藤公狙撃の凶報に触発されてやはり書いていた。記事は11月5、6日付のトップに掲載されたが、満洲日日新聞は発行が大連なものだから、『漱石全集』にも洩(も)れたのである。黒川創が見つけて、新潮2月号に出たこの『韓満所感』を読むと、漱石は植民地帝国の英国と張り合う気持ちが強かったせいか、ストレートに日本の植民地化事業を肯定し、在外邦人の活動を賀している。
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