昨年11月から12月にかけて特発性拡張型心筋症で入院した際の闘病記をまとめました。
1. 入院
昨年10月頃、持病の喘息と頚椎の椎間板ヘルニアの痛みが結構ひどく出始めて、喘息は診療所で処方された薬、椎間板ヘルニアは鍼や市販の痛み止めで治療していました。月末から11月にかけては、咳がさらにひどくなり、普段ならすぐ効くはずのステロイドの吸入をしても全く変わらず、脈も常に100を超えているようになりました。また、11月4日にはノーベル化学賞受賞者の根岸英一先生もご出席された大学の合同同窓会と長コンがあったので、それまで食事は控え目にしていたのですが、何故か突然体重が2~3キロ増えていました。
とりあえず同窓会と長コンは体調が悪いなりに何とかこなし、翌日に喘息で診て頂いている診療所に行きました。それまでステロイドの吸入薬の他にテオドールとベネトリンという薬を処方されていましたが、ベネトリンに心悸亢進の副作用があるとのことで、使用を中止しました(自分で調べてみると、テオドールにも頻脈、不整脈の副作用があるようですし、「うっ血性心不全」のある人は慎重に使う必要があるとも書かれていますが、テオドールはそのまま処方されました。また、量もそれまでの100mgから200mgに増えました)。
また、後で調べると、市販されている痛み止めのロキソニンの副作用にも、「うっ血性心不全」と明記されていました。
マスコミは私が衆院選に出ると勘繰っていましたが、そういうつもりはなく、むしろ維新の会がどうしても長野1区から候補者を出したいとの意向だとは聞いていましたので、応援する気でいました。11月8日(木)、長野市在住の維新政治塾の塾生(結局は立候補しませんでしたが)と私とで、長野市周辺の自治体の議員が長野市内で経営する飲食店に行き、同じ1980年生まれ同士の3人で、お互いに選挙に出る時は応援し合おう、選挙の時じゃなくても勉強や交流をしていこう、という話をしました。もしその維新塾の方が出るのならば、全力で応援しようという思いでいました。
その晩、家に帰ってきて、夕食を食べようとしたところ、突然異変が現れて、お箸を持つことすら出来なくなりました。どう表現して良いか分かりません。とにかく体が動かないという感じでした。妻に緊急医を調べてもらっている間に何とか寝室に行きました。ベッドに横になっている間に、体が動かないどころか、息も出来ない、しゃべることも出来ない、という状態になりました。緊急医じゃなくて救急車呼んだ方が良いかな、と思いましたが、そう言うことすら出来ませんでした。
何とか妻に車に乗せてもらい、長野市民病院に行きました。子供達の声は聞こえるのですが、話し返すことも目を開けることも出来なくて、自然と涙が出てきました。その時は本気で、今日か明日が自分の人生で最後の日だと思いました。
家に帰ってきたのが8時ちょっと過ぎだったので、市民病院についたのは夜9時頃だったと思います。緊急外来の先生には心不全かもしれないと言われ、処置室に連れて行かれ、心電図やレントゲン検査をしました。当直の循環器科の先生でがいなかったのか、何時間もずっとベッドで待たされました。心電図のモニターはずっと鳴りっぱなしで、脈は私が見た時は140台、後で聞くとずっと150~160はあったそうです。その間、点滴はブドウ糖だけだったと思います。最終的に日付が変わって循環器科の先生から「うっ血性心不全」だと診断され、HCU(高度治療室)に入院しました(明細を見てみると、入院日は病院に行った11月8日ではなく、11月9日になっています)。
うっ血性心不全は、心臓のポンプ機能が弱まって心臓から血液を充分に送り出せなくなり、結果として肺から心臓へ血液が入っていかなくなり、肺に水(血液中の水分)がたまってしまう症状です。咳がひどくなったのも、体重が突然増えたのも、肺の中に水がたまっていたからでした。1.5Lのペットボトル2本分なので、かなりの量です。その状態で長コンや同窓会や大事な政治活動を乗り切ったことになります。また、11月5日に喘息のかかりつけ医を受診していますが、そこでは症状を見逃されたことにもなります。
2. 血栓ができる
HCU(高度治療室)は子供の面会も禁止で、入れたのは妻だけでした。私自身は絶対安静で、トイレは尿器とポータブルトイレ(おまるのような感じです)で、チューブを付けて鼻から酸素を吸入していました。
治療は、心臓の働きを強くすることの他は、利尿剤の点滴と服用によって体内の水分を排泄して、肺にたまった水(血液中の水分)を抜くというものでした。ですので、水分摂取にも制限がありました。私もストイックな性格なので、水分に制限があると言われると、食事の際に出されたお茶以外は飲みません。
順調に回復していき、11/10(土)には一般病棟に移れました。
11/11(日)には酸素の吸入も無くなりました。
11/13(火)には、次の週の月曜日にカテーテル検査をしたら退院と言われ、トイレまでは歩いて良くなり、点滴も外れました。
順調に回復しているのと思っていましたが、11/14(水)に超音波検査をしたところ、左心室内に2cm×3cmの大きな血栓が見つかり、またHCU(高度治療室)に戻ることになりました。この血栓が心臓から出てしまうと、血栓塞栓症になります。脳梗塞の可能性もありますし、手足に詰まってマヒする可能性もあります。来週には退院出来ると楽しみにしていたのが、一気に絶望に変わりました。
追い打ちをかけたのが、それまでの治療内容でした。心臓の動きが悪くなっていると血栓が出来やすい、利尿剤で血液中の水分を減らしているから血栓が出来やすい、と先生からそう説明されていましたが、抗凝血治療は施されていませんでした。また、11/9(金)から11/13(水)まで4日間、超音波検査は行われませんでした。落差が大きかっただけに、血栓が出来るのは防げたのではないか、防げなかったとしても、もっと早期に発見出来たのではないか、との思いが私にも家族にもよぎります。それが一層、精神的なつらさを激しくしました。
それからしばらくHCUにて点滴と服用で抗凝血治療を受けて、11/16(金)に先生から長野赤十字病院への転院を告げられました。手術で血栓を取り除くとしたら、市民病院では手術が出来ないからとのことでした。そして同日、救急車で市民病院から日赤に運ばれました。精神的には、もう何が何だか分からない、という感じでした。
3. 転院
左心室内に2cm×3cmもの大きさの血栓が出来てしまったため、11/16(金)、長野市民病院から長野赤十字病院に転院しました。市民病院側も日赤側も、かなり物々しい雰囲気でした。後述しますが、左心室内に2cm×3cmという大きさの血栓が出来たなんて前例は無いそうですから、どちらの病院にとっても相当な出来事です。
救急車で日赤に着いてから、あらゆる検査をして、循環器内科・外科双方の先生方が数人がかりで診て下さいました。手術をして血栓を取るという前提での転院だったので、あらかじめ執刀医(になる予定だった)の先生が文献で調べていてくれました。左心室の血栓を取り除く手術自体、過去に数件しか前例が無く、私のように心筋梗塞も無く、ましてこんな大きさの血栓を手術で取り除いたケースは報告されていないそうです。
結局、何人もの先生方で総合的に診断した結果、血栓が無いわけでは無いけど2cm×3cmなんていう大きさでは無くて、拡張型心筋症、筋緻密化障害の影響で心筋の表面がいびつになり、そこに血栓が着いているのを、市民病院の先生が見間違えたのだろうという結論でした。市民病院で言われた「2cm×3cmの血栓」の大部分は血栓では無くて、血栓のように見える心筋でした。最悪の事態を覚悟していたので、一気に救われた気分になりました。
そうは言っても治療が必要なことに変わりありません。手術で血栓を取り除く方法と、薬で血栓を溶かす方法がありました。
通常、心臓を切る際は心筋梗塞等で細胞が死んでしまっている部分にメスを入れるのですが、私の場合はそういう部位が無いので、血栓がある左心室を切れば確実に心機能は低下します。左心房を切ってカメラを入れながら左心室の血栓を取り除く方法もありますが、どれだけ視野が確保出来るかはやってみないと分からないので、血栓を取りきれるとは限らないとのことです。そして、左心室を切るにしても左心房を切るにしても、刺激を与えることで手術中に血栓が飛んでしまう可能性は捨て切れず、また、心臓を止めないといけないので、手術後に元通りに動かなくなるリスクもあります。
一方、薬で血栓を溶かす場合は、心臓への負担はありませんが、治療の過程で血栓が心臓から出てどこかに詰まってしまう可能性が残ります。
いずれにしてもリスクがある中、どちらにするか決めないといけませんでした。結論としては、とりあえず薬で血栓を全部溶かせれば一番良いし、万が一血栓が飛んでどこかに詰まってしまったとしても、24時間365日手術が出来る体制なので、その時に対応してもらえば良いと考え、薬による治療を選択しました。自力ではどうしようもありませんから、先生方に命を預けるしかありません。長野市に住んでいて日赤でダメならどこの病院に行ってもダメだろうと思ったので、割り切ってしまえば意外と簡単に結論を出せました。
4. 血栓塞栓症
早速、11/17(土)に大きなことが起こりました。夜寝ようとした時に、突然お腹が痛くなり始めました。その時は歩行禁止だったので、とりあえず看護師さんを呼んで車椅子でトイレに連れて行ってもらいました。トイレに座ってしばらくすると、痛みがどんどん増していきました。痛みの強さも、痛み方も、痛む場所も、全てが今まで経験したことが無いものでした。すぐに、普通にトイレでお腹が痛くなるのとは違うって分かりました。どうにも耐えられなくて、まだ下着を履いてない状態のままナースコールで看護師さんを呼んで、ベッドに戻りました。トイレからベッドまでの間は、覚えていません。
ベッドに戻ってからは、とにかく痛くて、汗も止まらなくて、もがいて、暴れているだけでした。心電図も自分で取ってしまいました。バスケの試合中に骨折したのにそのままプレーし続けたことが2回(1回は肋骨、2回目は膝のお皿)もあるくらいなのですが、そんなのとは比べものにならない、今までに経験したことのない激しい痛みでした。
だんだん看護師さんや当直の先生が何人も集まってきて、ベッドのままCTを撮りに連れて行かれました。検査をして、先生から、右の腎臓に血栓が詰まってしまったこと(血栓塞栓症)と、腎臓は二つあるから、右の腎臓の下半分は壊死してしまうけど問題は無いということを告げられました。CTの検査室で麻酔の注射を受けて、後は気付いたら病室のベッドの上で目が覚めていたという感じでした。
目が覚めて最初に思ったのは、「まだ生きてるんだ」ということです。血栓塞栓症にいつでも対応出来る体制が整っているからこそ、手術ではなく薬で血栓を溶かす治療を選んだわけですし、事前に腎臓の塞栓症は問題無いということも聞かされていました。しかし、頭ではそう分かっていても、いざこういうことが起きた時は、自分はもうこれで死ぬんだと本気で思いました。遺体は献体しようということも本気で考えました。
それからはモルヒネの注射で痛みを抑えて、効いている間はほとんど寝ていて、効き目が切れるとまだ腎臓が痛み出すという感じでした。最初の内は食事もほとんど取れませんでした。
次第に痛みも軽くなり、食事も取れるようになってきたのですが、3日後に全く同じような状況になりました。夜寝る前、突然お腹が痛み出しました。今度は2回目だったので自分でも分かりましたし、慣れたのか痛みも1回目よりはマシでしたが、それでも耐え難い激しい痛みです。やはりベッドの上で、ただただもがきました。検査の結果、今回は左側の腎臓の血栓塞栓症でした。
左右両方になってしまったので、この時から、尿の管を入れられるようになりました。それが一番つらかったです。また、モルヒネを使い続けるわけにもいかないので、痛み止めは飲み薬と坐薬になりました。そんな感じで痛みとの闘いで数日過ごし、だんだん回復していきました。
左右ともに腎臓の下半分が壊死しているわけですが、結果的には腎機能に何の後遺症もありませんでした。また、左心室に出来た血栓も、腎臓に詰まった以外は全て溶けました。痛みは激しかったですが、一番体に害の無い形で血栓が解決されました。
5. 医療制度、行政手続
11月末にはHCU(高度治療室)から一般病棟に移ることが出来ました。HCUは小さい子供が入ることが禁止されていたため、ずっと4歳の息子と会えずにいましたが、やっと会えるようになりました。また、私の父が入院の末にガンで亡くなったのを娘は覚えているので、おそらく、私も死んでしまうんだろうと子供ながらに考えていたのではないかと思います。一般病棟に移れた=回復しているということは理解していたので、娘も安心したと思います。
それからは、徐々にでしたが、トイレまでなら歩いて良くなり、点滴も取れて、シャワーも浴びて良くなりました。
自分の病室の外まで見られるようになったので、色々なことが見えるようになってきました。市民病院はものすごく綺麗で快適でした。医療機器や設備も整っています。ただ、緊急外来に駆け込んで日付が変わるまで待たされたり、血栓が出来た際に4日間も超音波検査が行なわれなかったように、設備を活用しきれていない面もありました。一般論で言えるかは分かりませんが、少なくとも、私に関しては、結果的にそう言えます(ただ、人手が足りないならそれはそれで仕方が無いので、別に責めてはいません)。
一方の日赤は、血栓が腎臓に詰まった際は2回とも夜でしたし、1回目は土曜日の夜でしたが、CTもMRIも当直の技師さんがいて、すぐに検査が出来る体制でした。私の件が無くても、いつ来るか分からない患者に対応出来るよう、24時間365日、人材を配置しています。経営面での負荷は大きいと思います。そのせいもあるのか、施設は非常に古いです。段差だらけですし、浴室に至っては、段差どころか1段上がったところで服を脱いで、重たい扉を開けて、さらに1段下がらないとお風呂に入れません。バリアフリーなんて程遠い感じでした。理論的には他の病院より重篤な患者さんが入院する病院なので、バリアフリーに関してもより大きな配慮が必要なはずです。それが経営上難しいなら、公的な支援をしても良いのではないかと思います。公共事業の優先順位を変え、医療、福祉分野に重点を置くべきだと思います。
また、全て妻がやってくれたのですが、行政手続もたくさんありました。高額療養費は健康保険組合(私の場合は国保なので長野市役所)、身体障害者は市役所、特定疾患である特発性拡張型心筋症関連は保健所、といった具合で、様々な手続きを、複数の場所でしなければなりません。典型的な縦割り行政です。長野市に限ったことではありませんが、管轄が違うからというのを理由にせず、柔軟に1箇所で手続きが出来るよう制度を改変する余地は充分にあります。
回復とともに考える余裕が出来、医療や福祉の勉強をする非常に良い機会になりました。視察等では見られない部分もありましたので、政治家としての私にとって、大きなプラスになりました。
6. ICD植え込みを決断
一般病棟に移ってから10日ぐらい経ってから、病状も落ち着いてきたので、今後のことについての話を先生からされるようになりました。
先ず、退院前にカテーテル検査をするということ、これは私としても反対する理由も悩む理由もありません。
もう一つが、ICD(植込み型徐細動器)の植え込み手術でした。これを入れると身体障害者に認定されますし、体内に機械が入るということを精神的に受け入れるのは容易ではありません。でも、先生からお話を受けて、無いよりはある方が安心と思うようになりました。
今までに心室細動が起きたことは無くても、今後も起きないとは言えません。これは私に限らず誰にとっても言えることです。心室細動が起きた場合、救急車を呼ぶよりは、その場でICDで止めてもらった方が早いわけです。その数十分の差で後遺症とかが残るのは避けたいと思いました。
また、ICDの遠隔モニタリングシステムがあるので、日常的に先生に体調をチェックしてもらえます。これは絶対に安心です。別に心電図を24時間365日チェックされるからと言ってプライバシーが無くなるわけでもありません。
ということで、ICDを植え込むことを決めました。
また、先生からは、アメリカのチェイニー元副大統領も同じ機械が入っていて、政治活動に影響は無いということも言われました。ほとんどの人は何も感じないと思いますが、私にとっては大きい前例です。患者に応じて説得材料を使い分けるということですから、医師というのは人の気持ちも考え、的確に汲み取らなければならない大変な仕事なんだなと実感しました。もしかしたら、それを実践出来る先生に診てもらえた私が良い縁に恵まれていたのかもしれませんが。
7. 心臓カテーテル検査
12/14(金)、退院を目前に控え、特定疾患(特発性拡張型心筋症)の申請に必要な診断書に記載するデータを取るために、心臓カテーテル検査を行いました。
右の手首の動脈と、右の首の静脈の2ヶ所からカテーテルを入れました。手首は、同じ病室の他の患者さん達もみんなやっていたので、様子も聞いていましたし、特に何とも思いませんでした。ただ、首というのは異例でしたし、聞いた日からずっと怖くてしょうがなかったです。絶対泣くと思いました。
検査当日は、朝3番目の順番だったのですが、その前の患者さんが順調にいったらしく、遅れることなく、むしろ思っていたよりも早く検査室に入りました。
最初は手首からでした。別に痛みは感じませんでしたが、カテーテルが血管の中に入っているのは分かりますし、カテーテルの先端が触れると不整脈も出ますので、決して良い気分ではありませんでした。と言っても別に大したことはありません。
首の方はもうちょっとつらかったです。左を向いて顔を押さえつけられるのですが、普段そんな姿勢になることありませんし、首から何かが入っているというだけで恐怖です。でも痛みは無いので、それほどつらくはありません。
むしろ予想外で大変だったのは、造影剤でアナフィラキシーショック症状を起こしてしまったことでした。カテーテルが全部抜けてこれで終わりって思っていたら、咳が出始めて、次第に涙と鼻水も出てきて、止まらなくなりました。検査室で起こったので心配にはなりませんでしたが、かなり苦しかったです。すぐに注射をしましたが効き目が無く、別の注射をしました。それでもすぐには治まらず、完全に落ち着いたのは病室に戻ってしばらくしてからでした。
そんな感じで予想外に大変でしたが、無事にカテーテル検査が終了しました。2日後の12/16(日)には外出も許可され、数時間だけ実家で過ごすことが出来ました。
余談ですが、右の手首のカテーテルの後の食事は、左手でも食べられるおにぎりになる決まりでした。私が検査をした日のお昼は天ぷらそばでした。週に一度の楽しみが無くなってしまうのは避けたいところです。私はもともと左利きだったのを矯正されているようで(母は認めませんが、兄はそう言っていました)、今でも使う物によっては左手を使います。入院中も、右手が点滴だらけだった時は左手で食べていました。どうせダメだろうと思いながらそれを看護師さんに言ってみたら、笑いながら、食事を天ぷらそばに変えてくれました。左右どっちも使えるって便利だなと思う出来事でした。
もっとも、この日に限らず、点滴が入っていない方の手を使ってたので、入院中はずっと左右半々ぐらいでした。
8. ICD植え込み手術
カテーテル検査も終わり、退院を数日後に控え、昨年12/17(月)、いよいよICD(植込み型徐細動器)の植え込み手術をしました。
衆議院総選挙が前日で、何も手伝えなかったなりに結果は気にしていました。みんなの党の井出ようせいさんと維新の会の宮沢さん、百瀬さんが比例復活すると思ったので、結果を待たずにそれぞれ関係者にメールをして、寝ることにしました。しかし、やっぱり結果は気になりますし、次の日に手術を控えているという緊張もあって、2時頃まで眠れませんでした。
朝6時頃になると看護師さん達が病棟をまわり始めるので、自然と目が覚めます。朝9時に手術開始予定で、7時頃から点滴等、準備を始めました。抗生物質の点滴を始めると次第に咳が出始めました。カテーテル検査の際に造影剤でアナフィラキシーショック症状を起こしたこともあり、抗生物質にもアレルギー反応があるのかもしれないということで、すぐに別の抗生物質に替えました。
手術室には予定通りの時間に入りました。最初は選挙結果の話とかをしながら心電図や血圧計を付けたり、緑色の重たくて冷たい布のようなものをかけたりと、準備をしていきました。緊張しているはずなのに、不思議と脈はかなり落ち着いていました。
しかし、やはり手術が始めると、精神的には落ち着いてはいられません。局所麻酔の注射を何本も打ってから左胸の鎖骨の少し下を電気メスで切ると、焼ける匂いもしてきましたし、首にものすごく温かい液体(血です)がたれてきました。それだけで「もう止めてくれ」という気分です。一回切ってから、筋肉があるから通常より大きく切らないといけないね、というような内容の会話も聞こえてきて、「まだ続くのか!?」と思いました。
皮膚を切った時点でもう嫌でしたが、そんなのはマシな方でした。次は、ICDやコードを入れるために、筋肉の膜(筋膜)を切っていく作業でした。これがものすごく痛くて、もがいてしまうので体中押さえつけられながら切られていきました。先生から「これ麻酔の針の痛みだからすぐ痛くなくなりますよ。」って言われると、痛いものは痛いけど、じゃあ我慢しようという気になります。後で看護師さんから聞いた話によると、筋膜には局所麻酔が効かないそうです。と言うことは、先生が麻酔の針の痛みだと言っていたのは私の精神的負担が軽くなるようにするためで、実際は筋膜を切っていたのだと思います。良く考えると、薄い膜に麻酔の注射をするわけがないとも思えます。とにかく耐えがたい激痛でした。
痛みはまだまだ続きます。切った筋膜の間からコードを筋肉の下に入れて、静脈に刺して心臓まで到達させます。同じところから、ICD本体も入れます。実際にはどこの痛みかは分かりませんが、筋膜が裂けるような耐えがたい痛みと圧迫感がありました。この時も体を押さえつけられていた記憶があります。
私にとってはものすごい痛みが続いたわけですが、ICDの植え込み手術としては順調に進みました。最後に、ICDの作動テストがありました。私を眠らせている間に人工的に心室細動を起こさせ、ICDが適正に作動するかをチェックします。「今から眠ってもらいますからね。」と言われて点滴から薬を注入し、いつの間にか名前を何度も呼ばれて起こされて、無事に作動テストが終わったと告げられた、という感じです。
そして、全て無事に終了したので、表面の皮膚を縫い合わせて終わりました。その頃には麻酔が切れてしまっていてチクチク感じる箇所もありました。
これで手術終了なわけですが痛みは全くおさまりません。腎臓に血栓が詰まった時も激痛でしたが、もがいたり暴れたり出来たので、まだマシでした。今回はちょっとでも体を動かすと痛くなるので、どうにも出来ません。20年ぶりぐらいでしょうか、痛いだけで涙が出てきて、ずっと看護学生さんに拭いてもらいながら病室に戻りました。
どうしても痛いので、病室に戻ってから痛み止めの点滴をしてもらいました。痛み止めが効いている間は痛みを感じないと言うか、眠ってしまうので、耐えられます。でも、強い薬なので1日1回しか使えません。夜は、睡眠薬を飲んで寝てしまえば大丈夫です(痛くて目が覚めることもありましたが)。それ以外の時間はずっと痛いわけです。そんな状態が何日か続きました。
前代未聞の痛がり方って看護師さんから言われました。他の患者さんと比べると私は看護師さん達と歳が近いので、笑い話にもなりますし、若くて筋肉がある男性が筋膜を切られるとこうなるのかな、というようなことも言っていました。
バッテリーの寿命があるので、6年ぐらいでICDを交換しないといけません。その時のことを想像するのも嫌な激しい痛みでした。
9. 終わり
無事にICD(植込み型除細動器)の植え込み手術が終わり、痛みに耐え、予定通りに12/22(土)に退院することが決まりました。
退院の前日の夜、看護学生さん達による音楽会と、キャンドルを持って病棟を回ってくれるイベントがありました。昔ドラマでそういうシーンを見た記憶がありますが、まさか自分が見られるとは思っていませんでしたし、1年に1回なのでタイミングが合わないといけません。退院の前日という抜群のタイミングで、最後の最後に幻想的な体験が出来て良かったです!
前にも書きましたが、政治家は普通、体に関することを隠します。実際、私も最初は隠すべきか悩みました。しかし、自分が病気になったり身体障害者になったことを隠すような人間が、医療や福祉に取り組めるわけがありません。
政界には、政治家の病気と政治生命を結び付ける人もいますが、そう思っている人は、病気や障害と闘っている全ての人を一括りにそう見ているのでしょう。
私は堂々とこの一連の出来事を自ら公表しました。病気であろうと偏見であろうと誹謗中傷であろうと、何に対しても私は負ける気はありません。実際に先生からは政治活動をすることに問題は無いとも言われていますから、むしろ当事者として学んだことを医療や福祉の政策に活かしていくつもりです。