(平成10年4月6日)
関西興銀 理事長「李 勝載」独白


 大蔵省天下りの日本道路公団の幹部を 「時効前に逮捕しろ」 の告発文が流出したばかりだが、関西興銀に絡む 長野 厖士・証券局長、墳崎(つかざき)敏之・近畿財務局長の“罪状”に関する告発文が送られてきた。
「李 勝載 独白」の一文も添付されているので、これも含め全文を掲載する。



前略

 今をときめく大蔵省高級官僚の接待行政に関して情報を提供いたします。
近畿財務局長・墳崎敏之と信用組合 関西興銀 理事長・李 勝載との関係です。

関西興銀といえば、1993年、神戸、滋賀、奈良、和歌山の 4商銀を合併して普通銀行への転換を図ったことはご記憶にあろうかと思います。
その時の近畿財務局長が 長野 厖士 でした。
長野 厖士 に対する接待攻勢も凄いものがありました。

今、西日本の韓国系信用組合の統合を図って生き延びようとする在日僑胞の敵、李一族の墳崎に対する接待も、目を見張るものがありました。

接待の場所は、大阪・ミナミの「大和屋」、北新地のクラブ「有馬」、祇園の「富美代」、先斗町の「初の家」、それと一族が経営するゴルフ場「コマ・カントリー」です。
週に一、二回は必ずと言っていいほどの頻度だったようです。お調べ下さい。
十万円単位の「お車代」や「お土産」は当たり前。なんと墳崎の方から要求していたとのことです。

ものはついで。「李 勝載 の独白」と題した文章があります。ご一読下さい。
李 勝載は昨年末に 韓信協副会長を解任されたといってますが、先月(1月)19日、韓信協総会で表面化しました。
関西興銀理事長の肩書も「休職」となったようです。これらも、簡単に確認できるのではありませんか。
「有志」の名前で一文を差し上げましたが、意のあるところを汲んでいただき、単なる怪文書として御見捨てなさらぬようお願いします。
1998年 2月
有志より



李 勝載 独白
〜〜関西興銀 理事長が語る  


 関西興銀は 1997年 11月末に死にかけました。
 11月26日 午前9時、全店長を集め、「28日はやっていけない。韓国系信組から 80億円が流出してしまう。もうダメだ。」と告げました。
 だが、今はラクになってます。次の危機は5月。それまでの資金手当は、読めてます。

 12月2日、近畿財務局長に呼び出されました。
 これで関西興銀もおわりやなと思いました。正午の呼び出しでしたが、午後1時に変更してもらい、思いっきり寿司を食べてから行きました。

「親父(李 煕健)も早よ死んでたら、ええ葬式できたのに。 なまじ長生きして、老害を振りまいて、関西興銀が倒れてしもて、81歳の男が(特別背任などの罪で)逮捕される。 なんで1年前に死なへんなんだんや」とつくづく思いました。

 近畿財務局長の 墳崎 敏之 は、私、李 勝載 とは駿河台高等予備校の同級生。大学も東京大学で一緒でした。いわば、親友の関係です。

 その墳崎が
「11月28日、金曜日、この月末をもって、大阪商銀、京都商銀がデフォルトに入った。 追加資金は無条件で、大蔵の要請を受け、日銀特融を付ける。
 ついてはこの2つを引き受けてはくれないか」 と切り出しました。
 僕は、すかさず「ノー」と答えました。
 何故だと食い下がる墳崎に対して
「大阪商銀で 1,400億円、京都商銀で 300億〜500億円とした回収不能額の計算は甘い。
 大阪商銀は貸出額 2,300億円のうち 2,000億円、京都は 1,200億円のうち 990億円。
 これが真相でっしゃろ。 京都商銀については、5年前からの預金流出状況を知ってる」
と言うたりました。

 翌週、また墳崎に呼び出されました。2度目ですわ。
 墳崎は
「2つの信組の不良債権額は、お前のいうとうりやろ。 だが、大蔵発表の検査結果を信用してくれ。 俺とお前は親友同士。 お前とこ、関西興銀は潰さない。
 で、合併の発表から実際に合併するまでは 全信組連からの融資を付ける。 合併後は日銀融資に変えてやる。 これでどうだ」 といいよりました。
 僕は、
「融資なら要らない。預金にしてくれるなら OK だ。
 考えてもみてくれ、預貸率逆転しとって、2,000億円も借り入れしている銀行を誰が信用しまっか。 発表した翌日、関西興銀は倒れてしまいまんがな」 と言うてやった。
 それでまた、物別れになりました。

 3度目に会うたんは、その3日後でしたか。墳崎は「預金にしてやる」と言いました。
 ここまでの交渉については、親父も「ようやった」と褒めてくれよりました。「何があいつら東大出や。お前かて東大出やないか」 と喜んどりました。ところが、ここで、僕が欲を出したんですわ。

 大阪商銀の 1,400百億円、京都商銀の 500億円、これを検査し直したら、少なく見積もっても 2,500億円になる。
 そこに、10年間面倒みてやるという 2,000億円。
 併せて 4,000億円もあったら、という計算で、「福岡商銀、山口商銀も面倒見ます」と言いました。
 墳崎は「お前、いつから気狂うて欲張りになったんや。大蔵の足元見るんか」と言い出した。
 怒って親父に電話して「お前とこの息子、エエ加減にさせい。友情を逆手にとって、欲張りやがって」と告げ口しよったんですわ。

 それで親父が、僕を気違い扱いしだした。 親父は
「12月20日の土曜日の深夜、大蔵省が記者会見して、京都、大阪、福岡、山口、埼玉、北海、静岡、三重、島根、佐賀商銀の破綻処理について同時発表するやろう。
 大阪、京都商銀の内容を発表されたら、関西興銀も潰れてしまう」と怒りました。
 僕は、
「分かってまんがな。そやけど、ここが頑張りどころと違いまっか。
 近畿だけ救うて、福岡や山口を潰させていいんですか。
 全部を掏いとるか取りこぼすか、勝負所でっしゃろ」
と言いました。 親父は「お前気違いや」というばかりですわ。

 そこで、僕はキンスマン副会長に「僕が動く」と言うて、病気の振りをして西に行ったんです。
 12月12日、賢島CC でやった(関西興銀の)部店長コンペの会場から、鈍行で福岡に行った。 福岡、佐賀、三重、長崎、大分、熊本、山口商銀の理事長に、1時間ずつ間をあけて会いました。

 その場で、「自主再建を断念します。関西興銀に事業譲渡されることを切望します」とあらかじめ用意した文書を示し、各県の知事と西日本安定管理官宛に出せるよう判子を押させたんです。
 皆が同意してくれたのに、福岡のオジンがゴネて、8人で7時間半かけて説得しました。
 その福岡にも最終的に判子を押させ、そこで初めて、「対等合併、出資金安全」の条件を示したんです。

 しかし、対等合併でやれるはずがない福岡商銀については「事業譲渡」と書いておいたんです。
 それを見た福岡が、「これでは判子押せん」と言い出し、結局流れてしまいました。
 やってみる価値、言うてみる価値のあることをやろと思いましてん。大蔵省に対して「西日本は全部出来てます。まとまってます」ということを示して、流れを変えることできんか、と思たんですわ。
 親父は「出すぎたことを。追放や」と、またまた怒りよりました。

 福岡から帰った 12月15日、大阪商銀理事長の大林さんに会うため、新幹線の京都駅にいたら、松田(関西興銀副理事長、李 正林)と 吉本(同専務理事、朴 忠弘)と山村に捕まりました。
 吉本は「お前、会長の息子や思うから遠慮してたが、もう許さん」と、駅の喫茶店で、午後2時から6時まで 4時間にわたってボコボコにどつかれたんです。

 僕についていた秘書室長の木山が3人をどつき倒し、店の人が 110番しました。
 ピコピコとサイレンが鳴りだしたとき、僕は悔しさで心臓発作を起こしてしまいました。
 病院に運び込まれて、一時停止していた心臓が動き出して助かったけど、そこから4日間、注射をうたれて、寝かされてしもたんですわ。

 12月20日は、本当にXデーやったんです。
 大蔵省は日本国中の信組、韓国系だけやなく、全部の信用組合を一斉に業務停止にしようと図ってたんです。

 ところが、現実にはそうならなかった。自民党が「潰す方が生かすより十倍の費用がかかる。大蔵案は机上の空論」と反対したからです。
 どうやら、橋本首相は三塚の力で、金融機関を潰さない方向に変わりよったんです。

 その直前、元大蔵次官を2年やった大物政治家と話したんです。彼は、
「流れが変わったんだ。本当は、大蔵は、不良金融機関を潰して、いい所にぶっつけて、公的資金をつぎ込む積もりだった。
 ところが、大阪府が『そんなに倒されたら、やっていけない』と泣きついた。
 国が出す金の半分か 3分の1は府県負担。大阪には潰れる信組が6つもある。どこよりも多い。全部潰されたら、ノックは府議会を乗り切れない、ということですよ」
と話した。その人は、個人的に私を指導してくれる方だが、「いい流れではない」と苦慮しておられた。

 そんなことがあって、僕は 12月25日、韓信協の副会長を解任されました。仕方がないから、僕自身が、自分で解任願を書いたんです。
 僕は今、さすらいの身です。女房と2人で、伊勢や白浜や山中温泉やとか、関西興銀の保養所を5日間ずつ、転々としてます。

 それでもね、僕は親父とは通じているつもりです。いまでも親父は、5日ごとに 50万円とか、送ってきてくれます。逃避先から僕が送った不老長寿の水を「おいしい」というて飲んでくれてるそうです。
 僕が親父に対して頭に来たんは、山口商銀の保証のことだけなんやから。それが、親子というもんやと思てます。

 山口商銀への保証とは、「山口商銀が全信組連から借り入れた分と、山口商銀の経営問題の、あらゆる損害を一切保証致します」という内容です。
 そこに、「韓信協(在日韓国人信用組合協会)会長 李 煕健」の印鑑をついているんです。

 ウチの息子3人は「韓信協に法人格はないで。金もないで。李 煕健、個人の責任やとなれば、ウチの家がやられてしまうで」と心配していたんですわ。

 幸い、パチンコ、ボーリングは兄弟3人名義。韓国の新韓銀行の株も僕の名義になってるから大丈夫やとしても、大和、新韓、興銀に併せて 40数億円の預金がありますねん。これをやられてしもたら、どもなりません。

 山口商銀は毎日 何億円単位で預金がジャジャ漏れですがな。不良債権がボコボコになってしもてる。
 僕ら兄弟は、個人の 李 煕健 ではなく、韓信協の会長の責任や、と逃げまっせ。
 関西興銀が逃げ切ったところで、大蔵省や全信組連が「そしたら、やはり韓信協さんの責任じゃあーりませんか」と言い出したら、東京商銀と大阪商銀が受けるしかないでしょう。

 こんなばかげたことを、僕が解任した次の日にやってしまいよったんです。さらには「息子は追放した。理事長がおらんようになったからには、松田、吉本、お前ら頑張ってくれ」と言うたようです。

 こいつらも、親父が保証するのん、横で見とったんですよ。こいつら、親父の金玉を掴んどるんですわ。
 人に見せられない融資、ヤクザ関係の 何々組や 元何々組に 6億円とか 5億円とかちゅう融資をね。僕の仕返しが怖いから、親父にすがりついとるんですけど。

 その松田が僕のおらん間に、本部担当の山村や木山ら 20人ほどに、1ヶ月の自宅謹慎を命じよったんです。山村らは、僕の命令やと思いこんでいたようです。
 1月4日に初めて気付いて、そこから反撃開始です。9日迄に全部の事情が分かりました。

 1月13日、「松田、吉本をやっつける会」やということで、会長以外の全役員に召集かけました。僕が 5階、松田らは 6階に籠もりよった。
 最終的には 10対2。10人がウチに来ました。2人を除いての全員会議を持ちました。
「クーデターを図った松田、吉本の粛清をやってしまわないかん」と。

 そこで考えたのが次の案です。1回では実らんかもしれません。僕の方が負けてしまうかも分かりません。そやけど、1ヶ月後、3ヶ月後と何遍でも挑んでみます。僕ら、あのクリントンと同い年でっせ。80歳も越えたような人は、棚の上にあがって貰わなあかんのです。