時代劇の悪代官さながらにタガの外れた学長の振る舞いに,山形大学の新名物として「結城 EN」つまり,結城の Election Neglect (選挙無視,自分の学長選のみに飽き足らず,工学部長選まで) というのをアピールしてはどうか,などと Facebook で面白がっていたところ,有機 EL で有名なK戸先生が自分のブログで今回の選挙について触れていたので読んでみたら,あまりに高飛車な物言いに改めて呆れた。昨日の山形新聞の記事を引用し,更にひとしきり学部長選の仕組みを解説したあとで,このように述べている。元の文章はやたら余計な改行や空行が目に余るので適度に修正を加えてある。リンクは以下である。
http://junjikido.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-1b63.html--- 引用開始
で、選挙と言えば、参院選があったばかりですが、山形では自民党が推薦した新人が当選しました。すなわち、組織票です。実は、工学部長選挙でも組織表が重要で、すなわち、主流派、反主流派が、候補者を立てて、しかも、陰で動く訳です。実は、いままでもたった一票差で工学部長が決まったことがあるくらいで、各学科間の思惑が交錯して、工学部長選挙になると異常に燃え上がる活動家がいる訳です。で、今回もまさしくそう言う構図で、アンチ現工学部長派が、水面下で動いて山本教授を立てて組織票を集め、たったの6票差で選挙に勝った訳です。
で、問題は、ここ。すなわち、地方大学の工学部長というのは、工学部の特徴を最大限に発揮して特色をだして受験生を集める。地域に根ざし、地域に貢献する。地方からこの国を変えるくらいの意気込みで全国に情報や科学技術を発信する、心意気と能力が必要な訳です。しかも、大きな川の流れのように、結城学長としては、これまで推進して来た大学改革の流れを塞き止めずに、現場、すなわち支流、毛細血管まで徹底してくれる人に工学部長に就任して欲しい訳です。
で、先日の工学部選挙。アンチ現工学部長が推したのが、山本教授。で、その山本教授、何を隠そう秋田大の准教授から2年前に来られて教授になられた方。すなわち、教授経験たったの2年、山大工学部歴2年、山形経験2年、米沢経験2年、最初に工学部長選挙の直前に山本教授の話を聞いたとき、えっ、 て思った。正直、Yamamoto who? ですよ。山形県内の企業の方々との接点もなし、工学部でどんなプロジェクトが、何の目的で走ってるかも、ご存知なし。もちろん、有機ELの現状、有機エレクトロニクスの地域への貢献もたぶんご存知なし、しかも、管理人の城戸とも話したこともなし城戸が何を目指してるかも知らず、マジで、えっ!ですよ。
今度、再選挙がある訳だけど、いわゆる浮動票をもつとくに若手の教員に言いたい。あなたがたが定年まで務められるかどうかは、今、工学部として何をするかでしょ。山形大学と言う地方大学が生き残るには、守り、ではなく、攻め、でしょ。校費が10万円ぐらい減ったところで、それがそうどうしたの?科研費を持ってくればいいんじゃないの、と、大きな声で言いたい。
現工学部長の飯塚教授は、有機ELとも有機エレクトロニクスともまったく関係ないけど、今の工学部で推すべきは有機エレクトロニクスでしょと、結城学長の意向を理解される人。もちろん、5年後、10年後は、電気電子やバイオなどからも工学部を代表する特色のある研究や人材を出したいと現工学部長も城戸も皆思ってる訳です。単に、アンチ主流で清き一票を使わないで欲しいと思う。次の工学部長選挙では、冷静な判断を求む。
--- 引用終了
同じ事象を違う立場から見ればここまで違うのかと改めて目が点になった。独裁を「改革」と呼び,研究費が足りなくなったら外から貰って来いと,いかにも自分の資金力を誇示するかのような上から目線である。仮にも次期工学部長に選出されたY本先生に対し,言うに事欠いて「誰それ?」とは何事であろうか。この人は,人物を評価するのに,その能力よりも勤務年数の長短のほうが優先なのか,など,この文章について言いたいことは山ほど出てくる。それにしても,ここまで執拗に現体制の維持に固執するのは,ひょっとして体制が代ってしまうと何か不都合なことでも暴露されてしまうからなのではないか,などとつい勘ぐりたくなってしまうほどである。特に,現在の工学部の大赤字の原因を作ったのは誰なのか,とかである。今までの独裁を改革というなら,改革が進むにつれて赤字が増えたのは何故なんだろう?是非ご高説を拝聴したいものである。:-p
今朝は月と朝日の両方を拝むことができた。ヽ( ´ー`)丿 まず,歩き始めた頃にまだ中空にあった下弦の月である。
朝日は久々に濃いオレンジの中から現れた。
朝日を目にするのがあまりに久々だったので,かなり高く昇るまで追いかけてしまった。
我が家の庭ではオクラホマが開いていた。このバラは妖艶な香りが非常に魅力的な品種である。≧∇≦
今朝聴いたのは Bach の平均率クラヴィア曲集第2巻の第 17〜24 曲 (BWV.886-893) で,演奏は Sviatoslav Richter (Pf.) である。まず,第 17 番変イ長調 BWV.886 は,重厚な和音が鳴らされる中で付点と 32 分音符によるリズミカルなフレーズに加えて,16 分音符によるスケールが流れるなど,その多彩なテーマはまるでソナタの第1主題のようであり,その後の展開もほとんどソナタ形式を彷彿とさせるものである。この曲などその典型であるが,総じて第2巻の曲は第1巻より規模が大きくて風格があり,深い内容を持っているといわれる所以であろう。第 22 番変ロ短調 BWV.891 は,第2巻の全曲中で最高峰というべき技巧的なフーガを持っている。3音上昇した後2音下降というフレーズは,あまり煮え切らないものであるが,山あり谷ありの人生の苦労を表していると言われればそんな感じもする。4声によるフーガは最初の各声部による原型テーマの提示を経て,次にテーマを反行形に変えてフーガを展開し,最後は原型と反行形を同居させるようなフーガという神業を聴かせている。この曲集は,Piano で演奏する奏者と,Cembaro で演奏する奏者に別れるが,現在では圧倒的に Piano での演奏の方が多い。Piano での演奏となると真っ先に名前が出て来るのがこの Richter 盤と Gould 盤である。Richter が堂々とした正統派なのに対し,Gould は個性派のひとつの頂点を成していると言えるだろう。Gould のあまりに個性的な演奏には賛否が分かれるであろうが,まず Gould 意外には決してできない演奏であることは確かで,その意味で一つの頂点を極めているといえるが,そのために,私は Gould が聴きたくなったら Gould 盤を聴き,Bach が聴きたくなったら Richter 盤を聴くようにしている。どちらも得難い演奏であることに違いはない。