1 日本の法的責任
まず、A級戦犯を裁いた東京裁判とBC級戦犯裁判という二種類の戦争犯罪裁判(戦犯裁判)について、説明していきましょう。
「戦争犯罪」には大きく言って二つの内容が含まれています。一つは戦争をおこなう際のルールを決めそれに反する行為を戦争犯罪とする考え方であり、もう一つは戦争自体あるいは戦争を起こすこと自体を犯罪とする考え方です。
前者については、傷病兵の保護を定めた第一回赤十字条約(1864年)が最初の条約といえます。その後、ジュネーブ条約(1929年)や「陸戦の法規慣例に関する条約(通称ハーグ条約)」とその付属規則(1907年)など戦時国際法が制定され、捕虜の保護、毒ガスや不必要に苦痛を与える兵器の使用禁止、占領地での住民の生命財産の保護、略奪の禁止などが定められ、それらを侵犯することは戦争犯罪とされるようになりました。
後者の考え方は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ平和条約で、この戦争を開始したドイツ皇帝の「戦争開始者責任」が問われたことが始まりです。ドイツ皇帝は亡命したために裁判にかけられませんでしたが、不正な戦争をおこしたこと自体を戦争犯罪として裁こうとした最初の例です。侵略戦争は違法であるという考え(戦争違法化)は国際連盟の規約(1919年)や「戦争放棄に関する条約(パリ不戦条約)」(1928年)などによって発展していきました。
その後、前者を「戦争の法規または慣例の違反(通例の戦争犯罪)」、後者を「平和に対する罪」と呼ぶようになりました。さらに第二次世界大戦中のナチスドイツによるユダヤ人に対するホロコーストという想像を絶する犯罪を念頭において「人道に対する罪」という概念も誕生しました。
A級戦犯を裁いたニュルンベルク裁判と東京裁判~BC級犯罪も同時に訴追~
ナチスドイツを裁くために連合国によって作成された国際軍事裁判条例(ニュルンベルク裁判の根拠、1945.8)の第6条において、犯罪のタイプとしてA項「平和に対する罪」、B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」と三つに区分したことから、侵略戦争をおこして「平和に対する罪」に問われた国家指導者たちをA級戦犯、それ以外のB項とC項の犯罪を犯した者をBC級戦犯と呼ぶようになりました。ただこれはアメリカ式の呼び方であり、イギリスは主要major戦犯と軽minor戦犯と呼んで区別しています。なおA級の方がBC級より重い罪という意味はありません。
このA級戦犯を裁く法廷としては国際法廷としてニュルンベルク裁判と東京裁判の2つが開設されました。ただしA級戦犯と言っても、BC級犯罪も同時に訴追されるのが一般的だったので、「平和に対する罪」だけが裁かれたわけではありません。BC級裁判は戦争犯罪の被害を受けた国が開設する権利を有していたので、各国ごとに開設されています。
なおB級とC級犯罪は重なる部分が多いのですが、B級が戦時における敵国民への犯罪であるのに対して、C級は戦時だけでなく平時も含み、自国民への犯罪も対象としていることに大きな違いがあります。たとえばドイツ国民であるユダヤ人を戦争前から迫害したケースは、B級には該当しません。そういう問題があったのでC級が考えられました。たとえば、カンボジアのポルポト派の犯罪は自国民を虐殺したわけだからB級ではなくC級犯罪です。日本についてはC級が適用されませんでしたが、それは植民地民衆(当時は日本国籍)に対する犯罪(強制連行や慰安婦の強制など)が裁かれなかったことと関係しています。
東京裁判と性暴力
東京裁判では、女性への性暴力の視点が弱かったことは事実ですが、提出された証拠書類のなかで性暴力を取り上げたものは、中国関係で39点、東南アジア関係で48点、計87点に及びます。
そのうち、日本軍「慰安婦」に関係するものも8点あります。オランダの検察官は、インドネシアのボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック、モア島、ジャワ島マゲラン、ポルトガル領チモール(東チモール)の4か所での事例について証拠書類を提出しました。そのうちジャワ島のケースはオランダ女性が被害者、残り三つは地元の女性が被害者のケースです。フランスの検察官はベトナムのランソンと、場所が特定されない「数地方」と記されたケース、中国の検察官は桂林のケースを取り上げ証拠書類として提出しています。これらはベトナム女性と中国女性が被害者のケースです(吉見義明監修『東京裁判―性暴力関係資料』現代史料出版、2011年)。これまで日本の戦争責任資料センターの調査により7点としてきたが、同書により「数地方」とされた証拠書類が確認されており、計8点になります。
東京裁判の判決で裁かれた性暴力・「慰安婦」強制事件
こうした検察団の努力により、東京裁判の判決では強かんについて随所で言及されています。また「慰安婦」に関しては、中国についての叙述の中で
「桂林を占領している間、日本軍は強かんと掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した」
と桂林のケースに言及され、戦争犯罪として認識されていたことがわかります。
検察が取り上げた「慰安婦」のケースを見ると、第一に、日本人と性的な関係があった女性、あるいはその嫌疑をかけた女性を逮捕して裸にし無理やり「慰安婦」にしたケース、第二に、部族長に「若い女を出せ」と脅して出させたケース、第三に、抗日勢力の討伐に行き男たちは殺害しながら若い女性を連行し「慰安婦」にしたケース、第四に、女工だと騙して募集して無理矢理「慰安婦」にしたケースなどが取り上げられています。つまり日本軍が女性たちを「慰安婦」にした手口の主なパターンが取り上げられていることがわかります。
こうしたことから、日本軍の性暴力と「慰安婦」強制事件は、不十分であるとはいえ、東京裁判において戦争犯罪として裁かれたと言えます。
BC級戦犯裁判で裁かれたスマラン事件
連合国各国がおこなったBC級戦犯裁判ではオランダが、蘭領インド(インドネシア)でのケースをいくつか裁いています。
有名なスマラン事件は、1944年にジャワ島スマランにおいて抑留所に収容されていたオランダ人女性ら約35人(16、17歳から20歳代)を日本軍が強制的に「慰安婦」にした事件です。2件13人が起訴され、うち慰安所開設の責任者の少佐が死刑、将校6人と慰安所業者4人が2年から20年の禁固刑になりました。
ほかに慰安所に関連して裁かれたケースは、バタビア裁判ではバタビアの慰安所桜倶楽部経営者1人(10年の刑)、東ジャワのジョンベル憲兵隊の大尉1人(他の容疑も含めて死刑、逃亡中に射殺される)、ポンティアナ裁判で海軍大尉以下13人(不法逮捕虐待殺戮の罪も合わせて全員有罪、うち死刑7人)、バリクパパン裁判で慰安所経営者の民間人1人(無罪)があります。起訴された者は全部で29人となります(34人というデータもある)。
アメリカ海軍がグアムでおこなった戦犯裁判において、在留邦人が、グアム女性を「意思に反してかつ同意なしに売春目的で不法に連行した」という「慰安婦」強制容疑で有罪となりました。ほかの容疑も含めて死刑判決が下されましたが、最終的には15年の重労働に減刑されています。中華民国がおこなった中国裁判では、強制売春3件と婦女誘拐1件が扱われているが詳細は不明です。資料公開と今後の調査が待たれます。
このようにBC級裁判では日本軍「慰安婦」への強制事件が戦争犯罪として起訴され有罪判決がいくつも下されています。
戦犯裁判と判決を受諾した日本政府
これらの戦犯裁判を日本政府は否定することができるのでしょうか。日本は、世界を相手におこなった侵略戦争で敗北した結果、連合軍による占領下におかれましたが、1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約によって、翌年4月に独立を回復した。その第11条において日本国は次のように国際社会に約束しました。
第11条 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。(以下略)
ここで単語Judgmentの訳をめぐって「裁判」か「判決」かという議論がありますが、東京裁判とBC級裁判において有罪と下された判断を日本国は認めなければならないことに違いはありません。つまりこれらの「判決」(「裁判」)を日本は受諾しています。
ところが日本政府は、そうした有罪判決を受けた戦争犯罪を反省するどころか、その後、死刑になったり獄死した戦犯を靖国神社に合祀しています。つまり「慰安婦」強制によって有罪となった者を、それと知りながらも、国家の英雄=英霊として称えているのです。戦犯合祀の手続きは、厚生省と靖国神社の共同作業としておこなわれており、これは十一条の趣旨を公然と踏みにじるものです。
平和条約は、朝鮮戦争の最中にアメリカの政治的思惑に沿って作られ、日本の戦争責任をあいまいにしたという問題があります。そうだとしても日本政府が日本軍「慰安婦」強制を否定することは、戦後日本の出発となった平和条約での約束を反故にすることです。冷戦状況を利用して戦争責任から逃げてきたのが日本でした。冷戦が終わった今日、真摯に自らの戦争責任に認め、その責任を果たすことが、平和国家をめざす日本の義務でしょう。
<参考文献>
・粟屋憲太郎『東京裁判への道』講談社、2006年
・戸谷由麻『東京裁判—第二次大戦後の法と正義の追及』みすず書房、2008年
・日暮吉延『東京裁判の国際関係』木鐸社、2002年
・日本の戦争責任資料センター、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『ここまでわかった!日本軍「慰安婦」制度』かもがわ出版、2007年
・林博史『戦犯裁判の研究―戦犯裁判政策の形成から東京裁判、BC級裁判まで』勉誠出版、2010年
・林博史『BC級戦犯裁判』岩波新書、2005年
・吉見義明監修、内海愛子・宇田川幸大・高橋茂人・土野瑞穂編『東京裁判―性暴力関係資料』現代史料出版、2011年
1965年6月22日に、日韓基本条約(正式には「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」)が締結されました。これに付随して同日、日韓請求権協定(正式には「日本国と大韓民国との間の財産および請求権に関する問題の解決ならびに経済協力に関する協定」)が締結されました。
同協定第2条1項には、「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とあります。
請求権で「完全かつ最終的に解決された」のか?
そこで、この「完全かつ最終的に解決された」請求権がどんな内容で、どう処理されたのか確認したいと思います。
第一に、韓国側の対日請求権の内容について、日本の外務省は「日本からの韓国の分離独立に伴って処理の必要が生じたいわゆる戦後処理的性格をもつ」ものとして理解していました。つまり、それは、日本が植民地朝鮮を合法支配したという前提とした「戦後処理」ということです。
この協定が締結された後に、労働省、大蔵省、厚生省などが消滅させようとした韓国側の個人請求権を見ても、郵便貯金や未払金などの、植民地期の法律関係を前提とするものです。日韓請求権協定で「解決」された請求権は、「慰安婦」問題などの戦争犯罪による被害については想定されていなかったのです。第二に、韓国側の対日請求権の処理方法について、外務省は外交保護権の放棄だけを想定していました。このことについて、外務省の説明に沿って考えてみましょう。
その要点は二つです。第一に、外交保護権とは「自国民に対して加えられた侵害を通じて、国自体が権利侵害を蒙ったという形で、国が相手国に対して国際法のレベルにおいて有する請求権」です。第二に、したがって、国は私人の代理人ではありません。「国は自己の裁量により、この種請求を提起するか否かを決定することが出来、また相手国による請求の充足に関してもどのような形、程度で満足されたものとするかそれを被害者にどう分配するか等につき、完全に自由に決定することが出来る」というのです。つまり、外交保護権とは、自国民の権利侵害を国自身がこうむったものと見なし、国の裁量で行使するものというわけです。
このような考えに基づいて、日本政府は日韓両国が外交保護権を放棄したことにより、私人の権利が消滅したかどうかを曖昧にしたまま、相手国または相手国民の財産をそれぞれ処分してよいと判断しました。その結果、日本政府は日本の国内法として韓国人個人の請求権を消滅させる措置として、1965年12月17日に「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律」を制定したのです。
論議されなかった「慰安婦」被害
なお、日韓請求権協定が締結されるまでの交渉では、「慰安婦」問題はほとんど議論されませんでした。外交文書で一度だけ確認できますが、それは韓国側の代表が「日本あるいはその占領地から引揚げた韓国人の預託金」を議論する文脈で、「慰安婦」の事例を出したに過ぎず、「慰安婦」の被害に関する内容を含まないものでした。
日韓請求権協定では、日本の朝鮮植民地支配とアジア侵略戦争によって引き起こされた「慰安婦」の被害に対する歴史的責任の問題が解決されたと言うことはできません。
<参考文献>
・高崎宗司『検証 日韓会談』岩波書店、1996年
・吉澤文寿「日韓国交正常化」(中野聡ほか編『ベトナム戦争の時代1960-1975(岩波講座
東アジア近現代通史 第8巻)』岩波書店、2011年)
・吉澤文寿『戦後日韓関係—国交正常化交渉をめぐって』クレイン、2005年
・太田修『日韓交渉―請求権問題の研究』クレイン、2003年
日韓請求権協定発効後に韓国政府が行なった韓国国民に対する補償措置は、財産関係と死亡者に限定された、きわめて不十分なものでした。その後、韓国で民主化が実現すると、ようやく韓国人をはじめとするアジア・太平洋戦争による戦争被害者が日本政府を訴える状況が本格化します。しかし、韓国人被害者の前に大きく立ちはだかったのが「日韓協定で補償問題は解決済み」とする司法を含めた日本政府の立場でした。
韓国の被害者が果たした日韓会談文書公開
このような経緯を打開したのが、日韓基本条約および諸協定に関連する公文書の開示でした。2004年2月13日、ソウル行政法院で、韓国人被害者100名を原告とする日韓会談文書の情報公開請求訴訟において、原告一部勝訴の一審判決が出ました。韓国政府は2005年8月26日までに161件、合わせて約3万6千枚をすべて開示しました。
このとき、韓国政府の「韓日会談文書公開後続対策関連民官共同委員会」は「日本軍慰安婦問題など、日本政府、軍などの国家権力が関与した反人道的不法行為」が請求権協定によって解決されていないとして、「日本軍慰安婦問題は日本政府に対して、法的責任の認定など、持続的な責任追及を行なう一方、国連人権委員会などの国際機構を通じてこの問題を引き続き提起する」ことを韓国政府に勧告しました。
この見解を受けて、韓国政府は外交ルートを通して、日本政府に「慰安婦」問題の解決を促すよう申し入れました。しかし、日本政府は2010年8月10日に菅直人首相の談話を発表し、11月に朝鮮王室儀軌などの文化財の韓国政府への引き渡しを決めただけでした。
しかし、その翌年の2011年8月30日に韓国憲法裁判所は「慰安婦」の賠償請求権が日韓請求権協定で消滅したか否かについて、日韓間の解釈上の「紛争」があると判断しました。そして、この問題の解決に向けて日本政府に具体的な行動を取らない韓国政府の不作為を、国民の基本的人権などを定めた韓国憲法に照らして「違憲」としたのです。
すなわち、日韓請求権協定第3条1項に「この協定の解釈及び実施に関する両締約国の紛争は、まず、外交上の経路を通じて解決するものとする」とあります。この「紛争」は日韓双方の政府が任命する各1名の仲裁委員と、第3国の仲裁委員の3名からなる仲裁委員会に委ねられます。日韓両国政府はこの仲裁委員会の決定に服さねばなりません。
これを受けて、同年12月18日に京都、そして翌2012年5月13日に北京で行なわれた日韓首脳会談では、李明博大統領が野田佳彦首相にこの問題の解決を強く促しましたが、日本側は具体的な対応をしていません。また、外務省はホームページを通して、「女性のためのアジア平和国民基金」(国民基金)に協力した「実績」を全面に掲げ、国連人権フォーラムでも日本政府の対応が評価されていると自画自賛するにとどまっています。
韓国大法院は「損害賠償請求権は日韓請求権協定の対象外」と判断
しかし、2012年になって、日韓請求権協定関連で重要な動きが二つありました。
第一に、5月24日に、三菱広島元徴用工原爆被害者・日本製鉄元徴用工裁判で韓国大法院は原審判決を破棄し、事件を釜山高等法院に差し戻す判決を出しました。この判決で、大法院は強制連行被害者の被害そのものに対する損害賠償請求権が日韓請求権協定の適用対象に含まれず、それについての韓国政府の外交保護権も放棄されていないという判断を示しました。
日本の裁判所が命じた外交文書開示
第二に、10月11日に東京地方裁判所は、外務省が管理する外交文書の一部を開示せよと命ずる判決を出しました。日本でも市民団体の情報公開請求に応じて、外務省は2008年5月9日までに約6万枚の文書を開示しました。しかし、不開示部分が多い不十分な決定であったため、市民団体による訴訟活動が続いてきました。判決は作成から30年が経過した文書を不開示とするには相当の根拠が必要という明確な基準を示したことが画期的でした。さらに、控訴した外務省も独自に判断して不開示部分を開示する方針を示しました。
このように、2000年代に入り、情報公開を通して日韓請求権協定の内実が明らかになるにつれて、「慰安婦」問題の解決を求める運動も強まってきました。今こそ、日本政府は「慰安婦」問題の解決に向けて、具体的な行動をとるべきです。
<参考文献>
・李洋秀「疑問多い日韓条約での解決済み―日韓会談の文書公開と情報開示」(田中宏・中山武敏・有光健他著『未解決の戦後補償』創史社、2012年)
・日本軍「慰安婦」問題解決全国行動『―日本軍「慰安婦」問題―本当に「日韓請求権協定で解決済みか? 韓国憲法裁判所「決定」を読む」2011年
・日韓会談文書・全面公開を求める会HP http://www.f8.wx301.smilestart.ne.jp/
「慰安婦」問題の解決には何が必要でしょうか。実は、解決に向けた提言がすでにあります。ここでは、これを紹介します。
2007年7月30日、アメリカ下院本会議で「慰安婦」謝罪要求決議が可決された翌日の7月31日に 、これまで「慰安婦」問題の調査研究を担ってきた日本の戦争責任資料センター、「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(当時。現在は「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター)、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の三団体で、「日本軍「慰安婦」問題における謝罪には何が必要か」という提言を日本政府に提出しました。
さらに8月11日にはこれまで発掘された資料や調査研究の蓄積と成果、被害女性たちの証言をもとに、シンポジウム「ここまでわかった!日本軍『慰安婦』制度」を開催しました(シンポジウムの発言を収録した本が同名で、同年末にかもがわ出版から出版されました)。
この提言には、「慰安婦」問題に取り組む日本の諸団体が賛同しました。その意味で、集約的な提言になっているので、ぜひお読みください。
提 言
日本軍「慰安婦」問題における謝罪には何が必要か
アメリカ議会下院に「慰安婦」決議案が提出されたことを機に、安倍首相は「慰安婦」問題における旧日本軍の強制性を否定する発言をおこない、今もそれを撤回していない。しかし、強制性に関する事実関係はアジア各地の被害女性から証言がなされており、被害女性の闘いにより日本の最高裁判所の判決でも認定されているものであり、かつ、これまで積み上げられた調査・研究からも明らかである。
日本政府は「これまで何度も謝罪した」とくりかえすが、それは被害女性たちの納得を得る謝罪ではなかった。その理由は第一に、これらの「謝罪」が国家の責任を明確かつ公的に表明したうえでなされなかったこと、第二に、「慰安婦」問題に対する国の責任を否定する言説が、閣僚を含めて繰り返されたことにより謝罪の信頼が失われたこと、第三に、教科書から「慰安婦」に関する記述が激減したことを「良かった」とする閣僚発言等が野放しにされ、事実に基づいた認識を培うべき教育への取り組みがなされてこなかったこと、第四に、謝罪が全地域の被害者個人に直接届けられなかったこと、第五に、謝罪とは賠償を伴うものであるが、それがなされてこなかったこと、などである。
被害国をはじめ国際社会が日本の対応を注視している今、被害者が納得する謝罪とはどのようなものか、また、日本は何をなすべきかを考えなければならない。そこで、これまで「慰安婦」裁判を支援し、あるいは調査・研究に取り組むなどして「慰安婦」問題の真の解決を願ってきた立場から、日本政府がいかなる対応をとることが必要であるかについて、私たちは提言する。
提 言
1、 日本政府は、旧日本軍および日本政府が、満州事変開始からアジア太平洋戦争の終結までの間、植民地や占領地などの女性を本人の意思に反して「慰安婦」にし、強制的に性奴隷状態においたこと、及びこうした行為が当時の人権水準に照らしても違法なものであったことを明確に認めること。
2、 その上で、日本政府または国会は、閣議決定や国会決議などの公的な形をもって、日本国家としての責任を明確にした謝罪を表明すること。
3、 日本政府は、被害を与えた全ての地域の女性たち一人ひとりに、謝罪の手紙を届けること。
4、 この謝罪の意を示すため、日本政府は被害者に対して新たな立法をもって賠償金の支払をおこなうこと。
なお、この謝罪が日本の真意であることを表わすため、以下の措置を講じる。
(1) 日本政府は、全ての非公開文書を公開し、十全な真相究明を行うこと。また、被害国すべての被害実態を調査し、様々な被害の実態を認識すること。
(2) 日本政府は、この問題を後世に正しく伝え、再び同じことが繰り返されないよう、教育的施策を講じること。
(3) 日本政府は、日本軍「慰安婦」制度の強制性・犯罪性を否定するいかなる言動に対しても、毅然とした態度で反駁し、被害者の尊厳を守ること。
以上、提言する。
2007年7月31日
日本の戦争責任資料センター
「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク
アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」
【賛同団体】
戦後責任を問う・関釜裁判を支援する会
フィリピン人元「従軍慰安婦」を支援する会
フィリピン元「慰安婦」支援ネット三多摩(ロラネット)
フィリピン人元「慰安婦」と共にLUNAS・ルナス
日本カトリック正義と平和協議会
在日の「慰安婦」裁判を支える会
中国人「慰安婦」裁判を支援する会
山西省・明らかにする会
台湾の元「慰安婦」裁判を支える会
ハイナン・ネット
日本軍「慰安婦」問題行動ネットワーク
日本キリスト教協議会(NCC)女性委員会
売買春問題ととりくむ会
強制連行・企業責任追及裁判全国ネットワーク
旧日本軍による性的被害女性を支える会
在日韓国民主女性会
旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画・京都実行委員会
東ティモール全国協議会
日本軍「慰安婦」歴史館後援会
カトリック東京教区正義と平和委員会
日本キリスト教会
日本軍「慰安婦」問題と取り組む会
日本キリスト教婦人矯風会
早よつくろう!
「慰安婦」問題解決法・ネットふくおか
「慰安婦」問題と取り組む九州キリスト者の会
女性エンパワーメントセンター福岡
過去を克服して共生のアジアをめざす共同行動実行委員会
全国同時企画・福岡実行委員会
関釜裁判を支える広島連絡会
平和(ぴょんふぁ)会
Maluの会(日本軍占領期東ティモール性奴隷制に取り組む会)
あづみの道草あかとんぼの会
日本軍性奴隷問題の解決を求める会in大阪
2 日本政府の見解
「河野談話」とは、1993年8月4日に河野洋平官房長官(当時)が発表した「慰安婦関係調査結果に関する河野内閣官房長官談話」のことです。これまで、歴代内閣が継承してきた日本軍「慰安婦」問題についての日本政府の公式見解です。
「河野談話」の意義
この談話では、重要なことをいくつか認めています。まず、日本軍「慰安婦」問題について、「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」と認めたことが重要です。「軍の関与」という言葉を用い、責任の主体をややあいまいにしている問題もありますが、政府の責任は避けられないとしているのです。このため、元「慰安婦」の方々に「心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と謝罪したのです。
つぎに、強制の定義については、「本人たちの意思に反して行われた」こととし、「慰安所における生活は強制的な状況の下での痛ましいものであった」と、慰安所での強制を認めたことも重要です。
第3に、慰安所の設置・管理と「慰安婦」の移送についても、日本軍が「直接あるいは間接に」関与したことを認めています。
第4に、「慰安婦」の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当ったが、その場合も「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例」が数多くあり、「官憲等がこれに加担したこともあったことが明らかになった」と、業者による誘拐・略取などが数多くあり、軍・官憲の加担もあったと認めたことも重要です。
第5に、歴史研究・歴史教育に関して、「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい」とし、「われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」と内外に宣言したことも重要です。
問題があるとすれば、このような問題を起こした主体は、日本軍だったのか、慰安業者だったのかという問題をあいまいにしていることでしょう。慰安所の設置は軍が決定し、「慰安婦」の徴募も軍が決定してから開始されます。慰安所の建物、規則、食料など必要な施設や品々なども軍が用意します。軍が主役であることは明白なのですから、そのことをはっきりと認めるべきでしょう。
第2に、「慰安所における生活は強制的な状況の下での痛ましいものであった」ということを認めたのは当然ですが、もう一歩踏み込んで、日本軍「慰安婦」制度は性奴隷制度だったと認めるべきでしょう。
第3に、日本軍の責任を認め、謝罪するのであれば、被害者への補償を、民間の募金によるのではなく、日本政府が直接行う道を開くべきでしょう。
第4に、「われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」と約束しておきながら、日本政府の責任を否定する発言に対して、政府が一度も反論しないのは大問題です。
また、河野談話の約束にもかかわらず、中学校の歴史教科書から「慰安婦」の記述がすべてなくなったのは、その約束が反故にされたことに等しいですね。約束したことはきちんと守るべきでしょう。
村山談話とは
なお、日本の敗戦50周年にあたる1995年8月15日には、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」という村山富市内閣総理大臣談話(村山談話)が発表されました。これは閣議決定されたものですが、つぎのような歴史認識を表明しています。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛をあたえました。
「植民地支配」と「侵略」というふたつの過誤を認めたのです。そして、つぎのような反省と謝罪を述べています。
私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
この反省と謝罪の言葉はまっとうなものだと思います。歴代の内閣は、この村山談話を継承していますが、この談話が口先だけでなく、心から守られていけば、アジアと世界の平和と共存を保障する大きな力となるでしょう。
■河野談話(「慰安婦」関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話)
1993年8月4日
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般、その結果がまとまったので発表することとした。
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
我々はこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。
1995年8月15日
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
2007年閣議決定は「河野談話」を修正?
第1次安倍内閣は、日本軍「慰安婦」問題について、国会議員の質問主意書に答える答弁書をいくつか閣議決定しています。その際、1993年の河野談話を否定ないし修正したかのような言説が一部に流されています。
たとえば、安倍晋三氏は2012年の自民党総裁選挙で、「安倍政権のときに「強制性はなかった」という閣議決定をしたが、多くの人は知らない。河野談話を修正したことを、もう一度確定する必要がある」と河野談話の見直しに言及したと報道されています(『朝日新聞』2012年9月16日)。
2007年の閣議決定とは
事実はどうでしょうか。安倍首相は、辻元清美衆議院議員の質問に対して、2007年3月16日に答弁書(
「軍や官憲によるいわゆる強制連行」というのは、軍や官憲による暴行・脅迫を用いた連行(軍・官憲による略取)という意味ですが、そのことを「直接示すような記述」はなかった、といっているだけです。証言はなかったとはいっていません。慰安所における強制や、軍・官憲が選定した業者による略取・誘拐・人身売買についてもなかったとはいっていません。
また、この時までに政府が把握していなかった、軍・官憲による略取を「直接示すような記述」が数多くあることは、Q&Aを見てください。なお、河野談話発表の前年には、『朝日新聞』(1992年7月21日夕刊・同年8月30日朝刊)が、軍・官憲による略取を「直接示すような記述」があるスマラン事件の調査結果(→ Q&A 2-6「スマラン事件で日本軍は責任者を罰した?」へ飛ぶ)を公表しているので、なかったというのはおかしいですね。
「河野談話」を継承した2007年の閣議決定
さらに、この答弁書では、河野談話について、「官房長官談話は、閣議決定はされていないが、歴代の内閣が継承しているものである」「政府の基本的立場は、官房長官談話を継承しているというものであり、その内容を閣議決定することは考えていない」と述べています。改めて閣議決定はしないけれども、河野談話は継承すると閣議決定されているのです。
日本政府は、「慰安婦」問題に法的責任はないが、道義的責任は「女性のためのアジア平和国民基金」(1995年~2007年。略称はアジア女性基金ともいうが、以下では国民基金)で果したと主張しています。
以下、国民基金の内容、被害者・被害国政府、国連・国際社会がどう評価したかをみていきましょう。
「女性のためのアジア平和国民基金」(国民基金) とは
1993年8月、日本政府は、「慰安婦」制度に関する事実認定と「お詫びと反省」を表明した「河野談話」を公表し、その気持ちの表し方を検討するとしました。その日本政府が1995年7月19日に「道義的責任」を果たす「償い事業」として官民合同で設立したのが、「補償に代わる措置」としての「女性のためのアジア平和国民基金」でした。理事長には原文兵衛(元参議院議長)、村山富市(元首相)が就任し、理事には和田春樹(東大教授)、大沼保昭(同)、赤松良子(元文部大臣)など著名人が名を連らねました。
その内容は、「慰安婦」制度被害者を対象に、①日本国民から集めた民間募金による「償い金」(200万円)、②「総理のお詫びの手紙」、③日本政府が国庫から出す医療・福祉支援事業(120~300万円)を被害者に実施するというものでした。
同基金によれば、日本国民から実際に集まった募金約5億6500万円(目標10億円)、政府資金による医療福祉支援金約7億5000万円ですが、これらに基づき、①②③を韓国・フィリピン・台湾の被害者285名に、生活状況を改善する医療福祉支援をオランダ79名に実施し(2002年終了)、インドネシアには高齢者福祉施設整備事業を行い、2007年3月に解散しました。
基金関係者「国民基金は失敗した」
では、アジア各国の被害者は、国民基金をどう受け止めたのでしょうか。国民基金関係者によれば、フィリピンとオランダでは「被害者の大多数が基金の事業を受け入れ」ましたが、韓国と台湾では「基金の事業は被害者の過半によって拒否されたままに終わ」り、基金事業を受け取った被害者も「社会的な認知を得られないまま」だった、「(基金は)韓国と台湾においては和解にいたることに失敗した」と評価しました。
被害者が拒否した理由
では、韓国や台湾の被害者たちは、なぜ国民基金を拒否したのでしょうか。その大きな理由は、国民基金が「補償に替わる措置」であって「補償」ではないこと、つまり国民基金の「償い事業」では「国家責任が曖昧」であるというものです。
韓国の被害者・姜日出さんは、日本の証言集会(写真参照)で、「日本の政府は責任をちゃんと取らないで、国民のせいにしています。国民からお金を集めてそれを国民基金としてお金を渡すとか、それはおかしな話です。ある人はもらったり、もらわなかったりで、人々に亀裂がおきました。私はもらいませんでしたが。日本政府はなんでこんなことをしてしまったのでしょうか」と語りました。慰安所をつくったのは国家の組織であった旧日本軍だから国家が法的責任をとるべきなのに、国民からお金を集めて「償い金」として支給する国民基金のやり方は「おかしい」として、国民基金を拒否したのです。また受け取りをめぐって被害者どうしに亀裂や悲しみをもたらしました。
韓国政府、台湾政府も、国民基金を受け取りたくないという被害者の立場や意向を尊重して、被害者たちの生活を支える政策を取ってきました。
国連・国際社会の評価
国連や国際社会は国民基金をどう評価したのでしょうか。国連マクドゥーガル報告(1998年)は、被害女性への「法的賠償をするという日本政府の責任が、国民基金では果たされるわけではない」「国民基金の『償い金』支払いは、第二次大戦に起こった犯罪についての法的責任を認めたものではない」と国民基金を退けました。
国民基金解散後の2007年7月に、アメリカ下院本会議は日本政府への「慰安婦」謝罪決議を採択しましたが、国民基金に対し「公人及び民間人の努力と情熱」を認めつつも解決とはみなさず、「明解かつ曖昧さのない形で」の公式謝罪と歴史的責任を果たすことを求めました。同年11月のオランダ下院本会議、カナダ下院の各決議でも同様です。国民基金から被害者が支給を受けたオランダでも、個人補償の追加措置を求める決議を行いました。
同年12月のEU議会決議(27カ国)はさらに踏み込んで、日本政府に「歴史的、法的な責任」を果たすことを要請し、被害者・遺族への賠償を行うこと、個人が政府に賠償を求める権利を認めることを求めています。
このように、被害者たちも、被害国政府も、国連・国際社会も、国民基金を謝罪として不十分と認識して、被害者への明確な謝罪と法的賠償を求めています。
<<参考文献>>もっと詳しく知りたい場合は、以下がおススメです。
村山富市(理事長)「アジア女性基金解散記者会見における理事長発言要旨」(2007年3月6日)
ゲイ・マクドゥーガル、VAWW-NET Japan訳『戦時性暴力をどう裁くか-国連マクドゥーガル報告全訳』凱風社、1998年
金富子・中野敏男編『歴史と責任』青弓社、2008年
和田春樹「日韓関係危機の中の慰安婦問題」『世界』2012年12月号
VAWW RAC編、西野瑠美子・金富子・小野沢あかね責任編集『「慰安婦」バッシングを越えてー「河野談話」と日本の責任』大月書店、2013 年
4 国際社会の声
国連クマラスワミ報告とは
クマラスワミ報告書とは、1995年から2002年にかけて、ラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力、その原因と結果に関する特別報告者」が国連人権委員会に提出した数十本の報告書のことです。日本では、そのうち特に1996年の「日本軍性奴隷制に関する報告書」を指すのが一般的です。
クマラスワミ特別報告者は1994年の国連人権理事会で任命されました。クマラスワミ報告書は、1993年に国連総会で採択された「女性に対する暴力撤廃宣言」の定義に従って、家庭における女性に対する暴力、社会における女性に対する暴力、国家による女性に対する暴力の3つの分類を基にしています。日本軍性奴隷制に関する報告書は、国家による女性に対する暴力の重要事例の一つとして取り上げたものです。
クマラスワミ特別報告者はスリランカの女性弁護士で、スリランカ人権委員会委員長です。1993年のウィーン世界人権会議の決定によって、国連人権委員会に「女性に対する暴力特別報告者」を設置することになり、1994年の国連人権委員会の決定によってクマラスワミ特別報告者が任命されました。クマラスワミ報告者は、1995年から2002年まで女性に対する暴力の撤廃に向けて多くの報告書を国連人権委員会に提出しました。女性に対する暴力特別報告書の任務終了後、国連事務総長から委嘱されて「子どもと武力紛争特別代表」として活躍しています。
報告書の特徴
クマラスワミ特別報告者は、1995年7月にソウルと東京を訪問して、韓国政府及び日本政府から聞き取りを行い、資料の提供を受けました。平壌も訪問予定でしたが、期日が合わなかったため訪問できなかったので、人権センター代表が代理で訪問して調査しました。報告書はこれらの資料に基づいています。
クマラスワミ報告書は、「慰安婦」問題を「戦時、軍によって、または軍のために、性的サービスを与えることを強制された女性の事件を軍事的性奴隷制の慣行」と定義しています。第1に、国連人権委員会差別防止少数者保護小委員会で議論されてきた性奴隷制および奴隷類似慣行の概念が有益であること、第2に、「慰安婦」という言葉は被害実態を示すのに適切でないことから「軍事的性奴隷」という言葉の方が適切であるとしています。
クマラスワミ報告書は、16人の被害者から聞き取りを行っていますが、チョン・オクスン、ファン・ソギョン、ファン・クムジュ、ファン・ソギュンの証言を紹介しています。
クマラスワミ報告書は、自国の法的責任を否定する日本政府の立場を紹介・検討して、現代国際法の下では、重大人権侵害についての責任者の訴追や、被害者の賠償請求権が認められていることを明示しています。1907年のハーグ陸戦規則や、1929年のジュネーブ捕虜条約、そしてニュルンベルク・東京裁判憲章などに照らして、当事の国際法の下でも日本政府に責任があったことを確認しました。
報告書の勧告
クマラスワミ報告書は、最後に、日本政府と国際社会に対して勧告を出しています。日本政府に対する勧告は次の6項目です。
(a)第2次大戦中に日本帝国軍によって設置された慰安所制度が国際法の下でその義務に違反したことを承認し、かつその違反の法的責任を受諾すること。
(b)日本軍性奴隷制の被害者個々人に対し、人権および基本的自由の重大侵害被害者の原状回復、賠償および更生への権利に関する差別防止少数者保護小委員会の特別報告者によって示された原則に従って、賠償を支払うこと。多くの被害者がきわめて高齢なので、この目的のために特別の行政審査会を短期間内に設置すること。
(c)第2次大戦中の日本帝国軍の慰安所および他の関連する活動に関し、日本政府が所持するすべての文書および資料の完全な開示を確実なものにすること。
(d)名乗り出た女性で、日本軍性奴隷制の女性被害者であることが立証される女性個々人に対して書面による公式謝罪をなすこと。
(e)歴史的現実を反映するように教育カリキュラムを改めることによって、これらの問題についての意識を高めること。
(f)第2次大戦中に慰安所への募集および収容に関与した犯行者をできる限り特定し、かつ処罰すること。
報告書への批判
クマラスワミ報告書に対しては、国連人権委員会は報告書を留意したが、歓迎したのではないという指摘がなされました。また、 「事実誤認がある」との指摘もあります。
第1に、1996年の国連人権委員会53会期は盛大な拍手でクマラスワミ報告者を迎えました。そして、全会一致でクマラスワミ報告者の活動を「歓迎」し、報告書に「留意」したのです。全会一致ということは、日本政府も反対できなかったということです。国連人権委員会は、国連加盟国から選挙で選ばれた53カ国の政府によって構成されていて、当時、日本政府も人権委員の地位にありました。
第2に、報告書には一部に事実誤認があることが指摘されています。確かに一部に誤認はあります。しかし、報告書全体の趣旨を損なうような大きなミスはありません。重要なことは、クマラスワミ特別報告者は、日本政府を含む国連人権委員会の決議によって特別報告者に任命され、日本政府の招待を受けて日本を訪問し、日本政府から情報提供を受けて、報告書を作成したという事実です。
日本政府が適切かつ十分な情報を提供したにもかかわらず十分な報告書にならなかったのならばクマラスワミ特別報告者を批判することができるでしょう。しかし、事実は逆です。もし、報告書に不備があったとすれば、十分な調査をしなかった日本政府、必要な情報公開をしなかった日本政府にその責任があるのです。
第3に、1996年の国連人権委員会で、日本政府が「怪文書」を配布したことを忘れてはなりません。クマラスワミ報告書の否決をめざした日本政府は、報告書に反論する文書を準備して、人権委員会事務局に提出し、一部の政府代表に配布しました。ところが、この反論文書は特別報告者を不当に中傷していると批判の声があがったため、日本政府は反論文書の撤回を余儀なくされました。日本政府はこの文書の存在を隠そうとしましたが、国連人権委員会会場で配布され、すでにコピーが出回っていて、多くの人権NGOがコピーを入手しました。その後、日本政府は「説明用の資料にすぎない」と釈明しました。国連人権委員会という国際舞台で日本政府が「怪文書」をばらまいたのは、それだけクマラスワミ報告書が痛手だったからでしょう。
報告書の意義
クマラスワミ報告書は、武力紛争時における女性に対する性暴力に対して、現代国際法がどのような対処を可能としているのか、また、どこに不備があるのかを示す重要な役割を果たしました。国際人権法と国際人道法を適用することで責任追及をなしうる場合と、現在の国際法では十分な対処ができない場合の限界について明確にしました。1996年当時は、国際刑事裁判所を設置するための国際交渉が行われていたさなかであり、旧ユーゴスラヴィア国際刑事法廷やルワンダ国際刑事法廷の活動も始まったばかりで、まだ判決が出ていませんでした。クマラスワミ報告書が示した武力紛争時における性暴力に対する訴追と処罰は、1998年以後に実現していくことになりました。
「慰安婦」問題についても、当時の国際法の解釈によって日本政府の法的責任を解明できることが判明しました。クマラスワミ報告書の国際法の議論は、1998年のマクドゥーガル報告書や2000年の女性国際戦犯法廷に継承されました。
クマラスワミ報告書の勧告は人権NGO・市民運動に歓迎され、クマラスワミ6項目勧告として、被害者の請求を求める運動の出発点となりました。クマラスワミ報告書に反発した日本政府でさえ、法的責任は認めないものの、個人被害者に対する賠償に代わる措置、首相による「お詫び」の手紙、学校教育への反映など若干の措置を講じざるを得なくなりました(その後、逆転していきますが)。
<参考文献>
ラディカ・クマラスワミ著・クマラスワミ報告書研究会訳『女性に対する暴力――国連人権委員会特別報告書』明石書店、2000年
ラディカ・クマラスワミ著・VAWW-NETジャパン翻訳チーム訳 『女性に対する暴力をめぐる10年--国連人権委員会特別報告者クマラスワミ最終報告書』明石書店、2003年
国連マクドゥーガル報告
マクドゥーガル報告とは、1998年8月および2000年8月の国連人権委員会差別防止少数者保護小委員会に、ゲイ・マクドゥーガル「組織的強かん、性奴隷制および奴隷制類似慣行に関する特別報告者」が提出した2つの報告書のことです。1998年報告書の付録は日本軍性奴隷制(「慰安婦」問題)を主題として取り上げ、国際法に基づく詳細な分析をもとに日本政府に対する勧告を呈示しています。2000年報告書においても、日本軍性奴隷制に1章を割いて被害者への法的賠償と責任者の訴追を勧告しています。
マクドゥーガル特別報告者はこんな人
マクドゥーガル特別報告者はアメリカ人女性ですが、かつて南アフリカ共和国における人種隔離政策のアパルトヘイトに反対し、差別反対、人権擁護の活動を長期にわたって続けたことで有名です。
1996年に国連人権委員会の差別防止少数者保護小委員会副委員となり、組織的強かん特別報告者に任命されました。また、国連人種差別撤廃委員会委員にも選ばれました。国連人権理事会発足後は、「マイノリティに関する独立専門家」に任命され、世界のマイノリティの状況を明らかにして、マイノリティに対する差別をなくすための国連会議「マイノリティ・フォーラム」を主催して、人権理事会にたくさんの報告書を提出してきました。今日、世界でもっとも著名で信頼される人権理論家・活動家の一人で、ジョージタウン大学客員教授に迎えられました。
報告書の特徴
マクドゥーガル報告書は、「慰安婦」問題について日本政府が認めた事実および国際機関(国際法律家委員会、国連人権委員会女性に対する暴力特別報告書)が確認した事実を基にして議論をしていますが、「慰安婦」とか「慰安所」という言葉は事実をゆがめるものなので、日本軍性奴隷と強かん所(レイプ・センター)と表現するべきだと指摘しています。
報告書は、日本政府が認めた事実について、国際人道法および国際人権法に基づいて分析しています。奴隷制の禁止、人道に対する罪、戦争犯罪としての強かんなどの犯罪が成立する可能性があることを明らかにしたうえで、日本政府による抗弁が成立しないことも示しています。
マクドゥーガル報告書は、日本政府や国連人権高等弁務官に対して次のような勧告をまとめています。
刑事訴追を保証するための仕組みの必要性
・強かん所を設置・運営した軍人らに関する証拠を集める。
・被害者の面接調査を行う。
・日本の検察官に対し提訴準備を促す。
・諸外国の裁判における訴追の協力を行う。
・そのための立法措置を取るよう各国に援助する。
損害賠償を実現するための法的枠組みの必要性――日本政府が行った「アジア女性基金」は法的賠償にあたらないので、新たに損害賠償のための行政基金を設置すべきだとしています。
・従前の事例を参照して適切な損害賠償額を算出する。
・基金の広報と被害者認定のため、効果的なシステムを確立する。
・被害者の請求に対処するため、行政審査機関を日本に設置する。
損害賠償額の妥当性――身体的、精神的な被害、苦痛や情緒不安定、教育などの機会の喪失、収入そのものや収入を得る能力の喪失、リハビリテーションのための医療費その他の応分な費用、名誉または尊厳への侵害、救済を得るために法律家や専門家の援助にかかる応分の費用などを考慮すべきだとしています。
報告義務――日本政府は少なくとも年2回、国連事務総長宛てに報告書を提出すべきだとしています。
報告書への批判
日本政府は、マクドゥーガル報告書が公表される以前から敵意をむき出しにして反対し、その後も勧告を拒否したままです。
マクドゥーガル報告書に対して、事実誤認があるという批判がなされることがあります。しかし、この報告書はそれまでに日本政府や国際機関が認めた事実を基にしているのであって、新たに事実認定をしたものではありません。また、註において荒船清十郎の言葉を引用していますが、荒船発言が歴史的事実であると確認できないという批判がなされます。しかし、仮に荒船・自民党議員が不正確な発言をしたのであれば、荒船を批判して、正確な事実を示すべきです。マクドゥーガル報告書を批判する理由にはなりません。
報告書の意義
マクドゥーガル報告書の意義は、国際人道法と国際人権法に基づいた法的分析を大きく前進させたことです。国際法律家委員会や、ラディカ・クマラスワミ国連人権委員会女性に対する暴力特別報告者が行ってきた国際法の分析をさらに一歩前進させたのです。それゆえ、マクドゥーガル報告書はその後の国際的議論に大きな影響を与えました。
というのも、マクドゥーガル報告書が公表された1998年8月時点では、参照できる主要な先例はニュルンベルク・東京裁判の判例くらいのものでした。武力紛争時における性暴力を裁く実践は、マクドゥーガル報告書公表以後に、1998年9月のルワンダ国際刑事法廷のアカイェス事件判決が、戦時性暴力をジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪として裁いて以後のことになります。
日本軍性奴隷制問題に関しては、2000年の女性国際戦犯法廷のための法理論の基礎となりました。世界における武力紛争下の女性に対する性暴力問題をめぐる国際的議論を発展させる最重要文書となりました。また2007年EU議会の「慰安婦」謝罪・補償要求決議にも影響を与えました。
<参考文献>
ゲイ・マクドゥーガル著・VAWW-NET ジャパン訳『戦時・性暴力をどう裁くか―国連マクドゥーガル報告全訳〈増補新装2000年版〉』凱風社、2000年
女性国際戦犯法廷とは
2000年12月、東京・九段会館で「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」が、被害女性六四人を招いて開廷されました。3日間の法廷の審理では、首席検事の共通起訴状の朗読、各国ごとの検事団の審理、被害者本人・ビデオによる証言、証拠展示、裁判官質問が行われ、その合間に専門家証人、日本軍元兵士(金子安次・鈴木良雄さん)証言が盛り込まれました。招請を無視した日本政府の見解は、アミカス・キュリエ(法廷助言者)が陳述しました。
法廷には膨大な証拠(書証と人証)が提出されましたが、法廷当日に、各国の被害者が貴重な証言(ビデオ証言含む)しました。証言をしたのは、朴永心、河床淑、金英淑、文必、金福童、安法順(以上、南北コリア)、万愛花、袁竹林、楊明貞(中国)、トマサ・サリノグ、マキシマ・デラ・クルス、エステル・デラ・クルス・バリンギット、レオノラ・ヘルナンンデス・スマワンほか(フィリピン)、盧満妹、イアン・アパイ、高寶珠(台湾)、ロザリン・ソウ(マレーシア)、エリー・ヴァン・デル・プローグ、ヤン・ラフ=オハーン(オランダ)、マルディエム、スハナ(インドネシア)、エスメラルダ・ボエ、マルタ・アブ・ベレ、エルメネジルド・ベロ(東ティモール)でした。
また、日本軍元兵士として金子安次・鈴木良雄さんが証言をしました。
専門家証言としては、山田朗(明治大学教授)が「天皇の戦争責任」を、林博史(関東学院大学教授)が「日本軍の構造」を、吉見義明(中央大学教授)が「慰安婦制度」に関する証言と証拠展示を行い、天皇の戦争責任や「慰安婦」制度への軍及び天皇の関与に関する立証に貢献しました。
またレパ・ムラジェノヴィッチ(ベオグラード・暴力反対自立センター)がトラウマ・PTSDを、フリッツ・カールスホーベン(オランダ・ライデン大学名誉教授)は「国家責任」を、藤目ゆき(大阪外国語大学助教授)が「日本人『慰安婦』」について、証言しました。
国際法で名高い検事団・判事団
首席検事団は、パトリシア・ビサー・セラーズ(旧ユーゴスラビア国際刑事法廷法律顧問)、ウスティニア・ドルゴポル(豪フリンダース大学国際法助教授)がつとめました。
判事団(裁判官)には、ガブリエル・カーク・マクドナルド(旧ユーゴスラビア国際刑事法廷前所長)やクリスチーヌ・チンキン(ロンドン大学国際法教授)、カルメン・マリア・アルヒバイ(国際女性法律家連盟会長)、ウィリー・ムテゥンガ(ケニア人権委員会委員長)など国際法の名高い専門家が加わりました。
そのうえで、法廷の判事団は、犯罪が行われた当時の国際法に拠って、「昭和天皇の有罪」「日本政府に国家責任」という「認定の概要」を示しました。
最終判決文が下した有罪判決—「慰安婦」制度は「人道に対する罪」
法廷の証言者—被害女性・元兵士・専門家約1年を経て翌年12月4日に、オランダ・ハーグで下された最終判決文では、「慰安所」制度に対する詳しい事実認定と法的分析を行い、「日本軍と政府当局は第二次大戦中に、『慰安婦』制度の一環として日本軍への性的隷属を強要された数万人の女性と少女に対して、人道に対する罪としての強かんと性奴隷制を実行した」(666項)と有罪を認定しました。
「性奴隷制」こそが適切な用語
最終判決文は、「慰安婦」制度を「制度化された強かん、すなわち性奴隷制」(583項)としました。「性奴隷制」は、歴史的に「強制売春」と呼ばれていた犯罪名を改める、より適切な用語であると付言しています。「強制売春は性奴隷制と本質的に同じ行為を伴うにもかかわらず、同程度に悪質な行為であることを伝える言葉ではない」として、「強制売春」はこの制度を利用する側の男性の見方ですが、「性奴隷制」は被害者の立場から、「被害者の受ける従属と苦悩をより適切に捉えている」(636項)としています。
また「一部の「慰安婦」が日本軍から支払いを受けていたとしても、性行為を拒否する自由な意志が奪われていた以上は、彼女たちの状態は性奴隷制であった」(656~660項)と的確に指摘しています。
被害者の救済を求める権利は国家間条約で消滅できない
さらに最終判決文は、被害者個人への補償は「国家間条約で解決済み」の根拠とされるサンフランシスコ平和条約(1951年)に対して、次のような判断を示しました。
「ある国家が他の国家の人道に対する罪の責任を放棄することはありえない。…サンフランシスコ平和条約に含まれる放棄条項は、連合国も、同条約の条件を何らかの形で受け入れた被害諸国も、人道に対する罪...に対する日本の責任を放棄するような法的能力や権利を有しなかったという理由で、無効である。」(1036項)
即ち、「人道に対する罪」の被害者が救済を求める権利は、国家間条約で消滅することはできないとしています。また判決は、平和条約締結時にジェンダー偏見が内在するとした首席検事の主張に説得力を認め、次の指摘をしました。
「我々は、女性が、個人・集団として、平和条約締結時に男性と同等の発言権や地位を有しておらず、その直接の結果として、軍性奴隷制と強かんの問題は、当時取り上げられずに終わり、平和条約の交渉や締結の背景とはならなかったことに注目する。本法廷は、国際的和平プロセスでこのようにジェンダーが無視されることは、武力紛争下の女性に対する犯罪の不処罰の文化を継続させることになると考える。」(1051項)
日本政府への勧告
最終判決文は、日本政府に対して、次のような勧告をしました(1086項)。
(旧連合国、国連及び加盟国への勧告もありますが、略します)
1.「慰安婦」制度の設立に責任と義務があること、この制度が国際法に違反するものであることを全面的に認めること。
2.法的責任をとり、二度と繰り返さないと保証し、完全で誠実な謝罪を行うこと。
3.ここで宣言された違反の結果として、犠牲者、サバイバーおよび回復を受ける権利がある者に対し、政府として、被害を救済し将来の再発を防ぐのに適切な金額の、損害賠償を行うこと。
4.軍性奴隷制について徹底的な調査を実施する機構を設立し、資料を公開し、歴史に残すことを可能にすること。
5.サバイバーたちと協議の上で、戦時中、過渡期、占領期および植民地時代に犯されたジェンダーに関わる犯罪の歴史的記録を作成する「真実和解委員会」の設立を検討すること。
6.記憶にとどめ、「二度と繰り返さない」と約束するために、記念館、博物館、図書館を設立することで、犠牲者とサバイバーたちを認知し、名誉を称えること。
7.あらゆるレベルでの教科書に意味のある記述を行い、また、研究者および執筆者に助成するなど、公式、非公式の教育施策を行うこと。違反行為や将来の世代を教育する努力が行われること。犯罪の原因、犯罪を無視する社会、再発を防止するための手段などを調査する努力をすること。
8.軍隊とジェンダー不平等との関係について、また、性の平等と地域のすべての人々の尊重を実現するための必要条件について、教育を支援すること。
9.帰国を望むサバイバーを帰国させること。
10.政府が所有する「慰安所」に関するあらゆる文書とその他の資料を公開すること。
11.「慰安所」の設置とそのための徴集に関与した主要な実行行為者をつきとめ、処罰すること。
12.家族や近親者から要望があれば、亡くなった犠牲者の遺骨を探して返還すること。
<引用・参考文献>
・VAWW-NET ジャパン編・『女性国際戦犯法廷の全記録Ⅰ 日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷の記録第5巻』緑風出版、2002年
・VAWW-NET ジャパン編『女性国際戦犯法廷の全記録Ⅱ 日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷の記録第6巻』緑風出版、2002年。
VAWW-NET ジャパン編『Q&A 女性国際戦犯法廷—「慰安婦」制度をどう裁いたか』明石書店、2002年
アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『女性国際戦犯法廷のすべて』wam catalogue、2006年
日系ホンダ議員が提出した決議案
2007年1月31日、日本政府に対して「慰安婦」問題について責任の認定を求める決議案(United States House of Representatives proposed House Resolution 121, H.Res.121)が、日系のマイク・ホンダ議員を含む7名の議員(民主党4人・共和党3人)によって、アメリカ下院外交委員会に提出されました。
2月15日に開かれた公聴会では、3人の「慰安婦」被害者が証言しました。米議会がこの問題で被害者の生の証言を聴くのははじめてのことでした。米国内でも決議案を支持する動きが高まりました。
http://www.youtube.com/watch?v=3GkS3ViToGA
http://www.youtube.com/watch?v=D6oTTgnaRII
その後、次々と賛同する議員が増えていき、共同提案者は民主党・共和党で167人にのぼり、7月30日に下院本会議で満場一致で採択(⇒資料庫に英語版・翻訳)されました。同様の決議案は01年から4回提出され、いずれも廃案になっています。
これに続き、同年11月にはオランダ下院本会議、カナダ下院、12月にはEU議会本会議でも同様の「慰安婦」謝罪要求決議の採択へと拡がりました(オランダは被害当事国です)。また2008年には被害国である韓国国会、台湾立法院でも同様の決議があがりました。
なぜ2007年なのか
では、なぜ2007年に、アメリカ、オランダ、カナダ、EUへと決議が広がったのでしょうか。アメリカ下院本会議決議の場合をみてみましょう。
第一に、前年の2006年4月から使われる日本の中学歴史教科書の本文から、「慰安婦」についての記述がいっせいに消え、日本の政治家が「慰安婦」の事実関係を否定する発言を繰り返したことです。
それまで「河野談話」「村山談話」に基づき、1997年の中学歴史教科書7社全社に「慰安婦」に関する記述がはじめて登場しました。これに反発する勢力が巻き返しをはかり、2002年度教科書では8社中3社だけの記述になり、2006年度教科書では本文中からすべて消えました。これに関して、2004年に、中山成彬文部科学大臣(当時)が「最近、いわゆる従軍「慰安婦」とか強制連行とかいった言葉が減ってきたのは本当によかった」と発言しました。
このことに安倍氏は重要な役割を果たしてきました。安倍氏は、国会議員であった時から「慰安婦」の存在に否定的な「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(1997年結成)の事務局長として、日本軍の関与を政府が認めた「河野談話」(1993年)の修正・撤回を求める活動をしてきました。
こうした動きに対して、アメリカ下院決議では
「日本の学校で使用されている新しい教科書には「慰安婦」の悲劇やその他第二次世界大戦中の日本の戦争犯罪を軽視しようとするものがあり、」 「日本の公人私人が最近になって、「慰安婦」の苦労に対し日本政府の真摯なお詫びと反省を表明した1993年の河野洋平内閣官房長官の「慰安婦」に関する声明(注:河野談話のこと)を、弱めあるいは撤回する欲求を表明しており、」
と、はっきりと懸念を示しています。ほかの国の決議案でも同様です。
第二に、2006年9月に首相になった安倍晋三氏が、2007年3月には自ら「慰安婦」への強制性を否定する発言をしたことです。しかもその発言がアメリカの世論から批判されると、日米首脳会談で「謝罪」を口にするなど、一貫せず迷走しました。
安倍首相は、組閣直後には「河野談話を引き継ぐ」(06年10月3日)と表明しましたが、訪米を前にした3月に「河野談話」に関連して「定義されていた強制性を裏づけるものはなかった」(07年3月1日)と語り、さらに政府答弁書で「政府が発見した資料のなかには、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」(3月16日、2007年閣議決定)と強制性を否認しました。3月5日には、米下院決議案に対して、「われわれが謝罪するということはない」とまで表明しました。
これらの発言が米国内で報道され大きな反発をよぶと、これに慌てた首相は、ニューズウイーク-ワシントンポストの記者の質問に「(従軍慰安婦にされた人々に)人間として、私は同情を表明したいし、また日本の首相としてこの人たちに謝罪する必要があります」と応え、軌道修正をはかりました(4月21日)。しかし記者に「これまでの発言と違う、あなたは(強制性の)証拠はないと言っていた」と指摘されると、「そのようなことをいったのは私が最初ではない」と逃げの答弁をしました。その直後の日米首脳会談で、安倍首相はブッシュ大統領に対して(元「慰安婦」への)「謝罪」を口にしました。
その後6月14日には、日本の国会議員などがワシントンポストに『The Facts』と題する広告をだし、「慰安婦」の強制性を否定し、「慰安婦」の徴集に日本の政府も軍も関与していないと主張しました。これに対して、被害国であるオランダのバルケネンデ首相は「あまりにも不適切だ」として不快感を表明しました (共同通信6月29日付)。
この過程で、決議に賛同する米国会議員がどんどん増えていきました。その理由について分析した荒井信一は、「3月および訪米時の首相の言動が、決議案への賛同議員増加の決定的要因」と述べています。
国際社会は何をなぜ問題にしているのか
アメリカ下院決議などの各国決議は、「慰安婦」問題への日本政府の対応に対して、国際社会が何をなぜ問題にしているのかを突きつけました。それをみていきましょう。
第一に、各国の決議はいずれも、以下のように、「慰安婦」問題の核心は日本軍による慰安所での性行為の強制、つまり性奴隷であったことにあると認識していることです。
「日本軍への性的隷属」「集団強かん、強制中絶、屈従、そして身体切除、死、結果的自殺に至った性暴力を含む、20世紀でも最大の人身取引事件の一つ」「性奴隷制を強制」(アメリカ決議)、
「日本が、…運営した強制性奴隷制度」(オランダ決議)、
「日本帝国軍のための「慰安婦」の性奴隷化や人身取引」(カナダ決議)、
「帝国軍の性奴隷」「輪姦、強制堕胎、屈辱及び性暴力を含み、障害、死や自殺を結果し、20世紀の人身売買の最も大きなケースのひとつ」「皇軍による若い女性を強制的に性奴隷状態においた行為」(EU決議)
と定義しています。このように、日本政府首脳や政治家のように、「慰安婦」を強制連行したかどうかを問題にしている決議は一つもありません。このことに対して、2007年当時アメリカにいた東郷和彦・前外務官僚は、「強制連行」に関する日本の議論は、この問題の本質にとって無意味であり、世界の大勢は誰も関心をもっていない、と言明しています。
「慰安婦」問題の核心は、日本軍の管理・統制下で外出・拒否・廃業の自由(人権)が奪われた状態で、慰安所での性奴隷であった事実、悲惨な状態にあった事実にあるのですから、慰安所にたどり着く前の連行の形態———たとえば「慰安婦」が強制連行であったのか否か―—は、問題になりません(実際は強制連行の事例は多かったのですが)。したがって、前歴で売春をしたか否かも、報酬をもらったかどうかも(実際は報酬がない場合が多かったのですが)、売春だったか否かも、問題の核心とは無関係なのです(「強制売春」への見方は⇒女性国際戦犯法廷へGO)。
「慰安婦」にされた女性たちは、日本の戦争遂行の道具にさせられ、人権を奪われました。問われているのは、日本社会、日本の政治家の「女性の人権」に対する意識です。
第二に、決議は、日本政府高官などの「慰安婦」否定発言や教科書からの「慰安婦」記述の抹殺に憂慮を表明し、「性奴隷制を強制」したことを「明確かつ曖昧さのない形で正式に認め、謝罪し、歴史的責任を受け入れるべき」(アメリカ決議)と明確に事実を認定し、「現在および未来の世代に対して」歴史教育を通じて伝えることを求めています。
そのうえで、教科書への記述や「慰安婦」の存在を否定する歴史修正主義に「明確かつ公的に反駁すべき」(アメリカ決議)と求めています。ほかの各国決議でも同様です。
第三に、とりわけEU決議は、日本政府に対して、謝罪だけでなく、賠償をするよう求めています。具体的には、被害者及び遺族への「賠償を行うための効果的な行政機構」、国会に対しては「賠償を獲得するための法的措置」を設置することを求めています。
一方、国民基金に対しては、「民間人の努力と情熱」(アメリカ決議)として認めていますが、「被害者たちが求めている法的な認知と公的な国際法による賠償を満たすものではない」(EU決議)とされ、日本国の正式な謝罪・補償とは見なしていません。
国際社会が懸念しているのは、日本軍「慰安婦」(性奴隷)制度という歴史事実を公然と否定する現在の日本が「民主主義、法の支配、人権の尊重などの価値」(EU決議)を共有しているのか、ということではないでしょうか。
<引用・参考文献>
荒井信一「米議会下院と『慰安婦』問題」『歴史と責任』青弓社、2008年
東郷和彦「『普遍的人権』問題としての慰安婦制度」『世界』2012年12月
国連人権理事会(United Nations Human Rights Council , 略称UNHRC)は、2006年の創設以来毎年、すべての国連加盟国の人権状況を順次審査する普遍的定期審査(Universal Periodic Review, 略称UPR)制度を採用しました。日本政府も、2008年と2012年に審査対象となりました。日本の人権状況に関して諸外国から様々な是正勧告が出されています。日本軍性奴隷制に関しても勧告が出されています。
第1回審査(2008年)
ジュネーヴの国連欧州本部で開催された国連人権理事会は、2008年5月9日、普遍的定期審査作業部会において日本の人権状況について審査を行いました。全部で26項目の勧告が出されましたが、日本軍性奴隷制に関する勧告は次の通りです。
「5 第2次世界大戦中の『慰安婦』問題に関する、国連諸機関(女性に対する暴力に関する特別報告者、女性差別撤廃委員会および拷問禁止委員会)による勧告に誠実に対応すること(韓国)。」
「10 日本における継続的な歴史の歪曲の状況に取り組む緊急措置をとること。これは、過去の人権侵害および再発の危険性に取り組むことを拒否している現れであるためである。また、現代的形態の人種主義に関する特別報告者からも呼びかけられたように、この状況に取り組む緊急措置を勧告する(朝鮮民主主義人民共和国)。」
「18 軍隊性奴隷問題、および朝鮮を含む諸国で過去に犯した人権侵害に取り組むため、具体的な措置を講じること(朝鮮民主主義人民共和国)。」
普遍的定期審査制度が始まって間もないため、各国とも手探り状態でした。そのためか日本政府に対する勧告は26項目です。他の諸国に対する勧告と比較して特に差があったわけではありませんが、後の2回目の審査では大幅に増えたのと比較すると、少なかったと言えます。その中で、「慰安婦」問題については当事者である韓国と朝鮮の2カ国が勧告を出しました。普遍的定期審査の勧告は、単に韓国と朝鮮がそう主張したというだけではなく、審議を経た後に作成される人権理事会普遍的定期審査報告書に記載され、正式文書として人権理事会で採択されました。
第2回審査(2012年)
ジュネーヴの国連欧州本部で開催された国連人権理事会は、2012年10月31日、日本に関する2回目の普遍的定期審査結果を作業部会報告書としてまとめ、174項目の勧告を含む報告書を採択しました。
日本軍性奴隷制に関する勧告は、次の通りです。
「いわゆる『慰安婦』問題について法的責任を認め、関連する国際共同体によって勧告されたように、被害者が受け入れることのできる適切な措置を講じよ(韓国)」
「過去と現在に向き合い、国際共同体に責任ある調和をとるよう再考し、慰安婦問題に関する謝罪を行い、その被害者に補償をせよ(中国)」
「第2次大戦中に用いられた『慰安婦』問題の責任を認め、被害者の尊厳を回復し、適切に補償する措置を講じよ(コスタリカ)」
「日本軍性奴隷制及び朝鮮を含むアジア諸国における過去に行ったその他の侵害について法的責任を受け入れ、きっぱりと対処せよ(朝鮮民主主義人民共和国)」
さらに、歴史教科書問題に関連して、次の勧告がなされました。
「学校教科書に慰安婦問題を盛り込むなどの措置を取ることによって、歴史の全側面を将来の世代に伝達し続けよ(オランダ)」
「教育課程に過去の犯罪と虐殺を含む歴史の事実を反映させることによって、過去の歴史の歪曲を終わらせ、歴史の事実への関心を高めよ(朝鮮民主主義人民共和国)」
2008年の第1回審査では、26だった勧告が174と大幅に増えました。普遍的定期審査が2順目となり、各国とも精力的に審査に加わるようになったことと、人権NGOの活動が活発となったためと思われます。
このため限られた時間の中で非常に多くの人権問題が語られ、「慰安婦」問題が霞んでしまうのではないかと危惧されましたが、第1回審査で勧告を出した韓国と朝鮮の2カ国に、中国、オランダ、コスタリカが加わり、5カ国になりました。中国、オランダも「慰安所」被害者のいる当事国ですが、コスタリカは関係当事国ではありません。日本軍性奴隷制度に関する法的責任を否定する日本政府の主張に、国際的な支持が得られないことがますます明白になりました。
普遍的定期審査とは何か
人権理事会は、2006年3月に国連総会で採択された「人権理事会」決議により、国連総会の下部機関として設置されました。国連における人権主流化の流れの中で、人権問題への対処能力を強化するため、従来の人権委員会に替えて新たに設置されました。ジュネーブにある国連欧州本部で開催されます。
人権理事会は47ヶ国で構成されます。地域的配分は、アジア13、アフリカ13、ラテンアメリカ8、東欧6、西欧7となっています。2006年6月の第1回会合以来、理事会会合(通常会合と特別会合)や各種の作業部会(ワーキング・グループ)等を開催し、テーマ別及び国別の人権状況にかかる報告や審議を行ってきました。
普遍的定期審査という制度が採用され、国連加盟国各国は4年に1回、人権状況を審査されます。理事国は任期中に優先的に審査されます。審査基準は、国連憲章、世界人権宣言、当該国が締結している人権条約、自発的誓約、適用されうる人権法です。
審査は、次の3文書に基づいて行われます。
①被審査国は、「ガイドライン」に基づいて20頁以内の報告書を作成し、人権高等弁務官事務所に提出します。
②人権高等弁務官事務所は、被審査国に関する条約機関及び特別手続による報告並びに関連する国連公用文書を編集した文書を準備します。
③人権高等弁務官事務所は、NGO等関係者が同事務所に提出した信憑性と信頼性のある情報を要約した文書を準備します。
審査結果文書は人権理事会本会合で採択されます。結果文書は、勧告や結論と被審査国の自発的誓約から構成されます。
「慰安婦」問題について国際法の下で日本政府に責任があることは、1996年のクマラスワミ報告書、1998年のマクドゥーガル報告書、2000年の女性国際戦犯法廷判決(2001年最終判決)によって明らかになっていましたが、日本政府はその後も、法的責任を認めず、今日に至っています。この間、韓国、朝鮮、中国などの関係当事国が日本政府の法的責任を根拠に被害者への賠償等を求めてきました。また、アメリカ議会、EU議会なども日本政府に解決を求めてきました。ILOの条約適用委員会も日本政府に解決を求めています。そして、国連人権理事会も日本政府に解決を求めています。日本政府の国際法解釈はあまりに特異なもので、国際社会に通用しないことが明白です。
<参考文献>
戸塚悦朗『国連人権理事会――その創造と展開』日本評論社、2009年
5 世界の植民地責任・戦争責任
1.アメリカの日系人への戦後補償
戦時中に強制収容された日系人たち
1941年12月7日の日本軍によるハワイ真珠湾攻撃直後に、日系人指導者が逮捕されました。翌年2月の「大統領行政命令9066号」により、西海岸諸州に住む日系人に退去命令が出され、法の正当な手続きもなく、約12万人が内陸にある収容所(11カ所)に集団的に送られました。過酷な収容所生活のなかで、財産損失だけでなく、大きな精神的打撃を受けました。同じように「敵性国人」とされたドイツ系、イタリア系は財産放棄や長期にわたる強制収容はなかったので、人種差別であったと言えます。
戦後、日系人は沈黙を続けました。しかし1960年代の公民権運動(アフリカ系による権利獲得運動)に刺激をうけて、1970年に若い3世たちによって収容所跡地への「巡礼の旅」が組織され、歴史の掘り起こしが始まりました。1978年、日系米市民協会(JACL)の年次大会で謝罪と補償を求める運動を立ち上げました。1980年に日系人補償賠償実現連合(NCRR)が結成され行動を起こし、二世を中心とする日系アメリカ人補償全米連合(NCJAR)は1983年に集団訴訟による補償裁判を起こしました。
1980年、収容について調査する委員会の法案が成立し、翌年から全米10都市で公聴会が開かれた(20日間、750人の関係者が証言)ことで、2世たちが証言をはじめました。これに基づき出された調査委員会報告書『否定された個人の正義(Personal Justice Denied)』(83年)では、日系人の訴えをほぼ認め、生存者への補償(一人当たり2万ドル)などを勧告しました。
以後、補償法案が議会で審議され、ついに87年9月、日系人補償を定めた「市民的自由法案」が下院本会議で可決され、翌年4月に上院でも同様の法案が可決されました、一本化された法案に対して、88年8月にレーガン大統領の署名を得ました。
「市民的自由法」とリドレス
このときに使われたのが「リドレス(redress)」という言葉です。「金銭による補償(reparation/compensation)」ではなく、「不正・過ちを正す」ことを意味します。
同法(Civil Liberties Act of 1988)は、まず「日系人の基本的な市民的自由と憲法上の権利の根底からの侵害に対し、議会は国を代表して謝罪する」と公式謝罪を行い、一人2万ドルの個人補償を規定しました。その対象者は収容当時、日系のアメリカ市民または永住外国人で、同法成立時に生存していた人です。亡くなった人は除外されましたが、立法後に亡くなった人はその家族などに補償金が支払われました。戦後日本に帰化して日本に住む人も補償されました。約6万人が対象となりました。また対象者には「第二次大戦中に重大な不正義が日系アメリカ人に対して行われた」ことを認めた「ブッシュ大統領の手紙」が送られました。
特徴的なのは、被害者に申請の必要はなく、補償対象者を探す責任はアメリカ政府が負ったことです。「アメリカ政府の過ちなのだから、政府が責任をもって対象者を探し、謝罪・補償を行うという考え方」(岡部一明)なのです。なお2007年アメリカ下院で「慰安婦」謝罪要求決議案を提出したマイク・ホンダ(1941年誕生)は、幼少期を強制収容所で送った体験をしています。
カナダでも1942年初めから、日本国籍の成人男子を「道路キャンプ」に送り、西海岸の全日系人をブリティッシュ・コロンビア州内陸部、州北部、プレーリーなどの施設、内陸6カ所の収容所などに送りました。当時の日系カナダ人総数2万2000人のうち91%が移転させられました。
カナダの日系人収容はアメリカよりも過酷であったといいます。初期には多くの場合、家族はバラバラに収容されました。さらにカナダ政府は、収容に当たって日系人の財産を没収し、その売却費用を収容費用にあてました。戻るべき家屋や財産を奪ったのです。それだけでなく、戦後はカナダ生まれの2世(カナダ国籍)を含め約1万人の日系人を日本に送還しようとしました。抗議がおこりましたが、4000人の日系人が日本に送られました。
カナダで戦後補償を要求する運動が始まったのは、アメリカと同じく若い3世が覚醒した1970年代からです。1977年の日系カナダ人百年祭をきっかけに、同年日系カナダ人賠償委員会(JCRC)が結成されました。1980年には補償要求を最重要課題に掲げた全カナダ日系人協会(NAJC)が新たに改組され、84年に同団体の意見書「裏切られた民主主義」が政府に提出されました。87年に日系以外も含む日系カナダ人補償全国連合(NAJA)も組織されました。翌88年にオタワで400人のデモ行進が行われた。
88年9月22日、アメリカに続いて、カナダのマルルーニ首相は議会で日系人補償を行う声明を発表した。その内容は、過去の不正を認め、生存する収容所体験者に一人当たり2万1000カナダ・ドルの個人補償、さらに日系社会全体への社会・教育・文化への助成1200万カナダ・ドル、人権擁護のための「カナダ人種関係基金」設立費用2400万カナダ・ドルの拠金です。アメリカが立法による個人補償だったに対して、カナダではNAJCとの「合意」(協定)の形をとり、個人補償だけでなくコミュニティへ助成がある点などが異なっています。
2012年5月、ブリティッシュ・コロンビア州政府がカナダ連邦政府による強制収容を積極的に支援したとして、正式に謝罪しました。BC州政府のヤマモト・ナオミ高等教育大臣(両親は体験者)が同州議会に謝罪を含む動議を提出したところ満場一致で可決され、州議会議長が謝罪を表明しました。
<引用・参考文献、映像>
・岡部一明『日系アメリカ人ー強制収容から戦後補償へ』岩波ブックレット、1991年
・<ハンドブック戦後補償>編集委員会編『ハンドブック戦後補償』梨の木舎、1992年
・マリカ・オマツ著、田中裕介・田中デアドリ訳『ほろ苦い勝利—戦後日系カナダ人リドレス運動史』現代書館、1994年
・村川 庸子『境界線上の市民権.日米戦争と日系アメリカ人』御茶の水書房、2006年
・TBSドラマ「99年の愛~JAPANESE_AMERICANS~」2010年11月3日 – 11月7日放映
・NHK・BS1ドキュメンタリー「沈黙の伝言~日系カナダ人強制収容70年」2013年1月16日放映
・「カナダのBC州政府、強制収容に公式謝罪」(バンクーバー新報2012年5月10日第19号)
・JB PRESS http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35338
・Nikkei Internment Memorial Centre http://www.historicplaces.ca/en/rep-reg/place-lieu.aspx?id=15382
戦後補償—日本とドイツ
日本は、サン・フランシスコ平和条約の賠償規定を基に、個々の求償国との個別国家間交渉による相互協定に委ね、経済援助・協力の意味合いで賠償を実践してきました。その中に個人補償なども含め、補償問題も「解決済み」としました。
一方(西)ドイツ政府は「ロンドン債務協定」で、戦前の債務を受入れる代わりに戦争損害への賠償を平和条約締結後に先送り、実質的に賠償をせずに済みました。これは、経済援助・協力の意味合いでの賠償が認めらなかったことと関係します。それに対し個人補償は実施され、2000年には強制労働補償基金が創設されて現在にいたります。
ドイツの戦後補償の開始と展開
日本の戦後補償を考える上で、ドイツの戦後補償がいかなる意味で参考になるのかを検討しましょう。ドイツは、何を根拠に、どのような被害に対して、補償したのでしょうか? かなり複雑です。
補償の開始時期から整理すると、まずはイスラエル・ユダヤ人組織との協定(1952年9月)。ドイツからイスラエルへのユダヤ人移住への援助と連邦補償法制定の約束からなります。次に、「ナチ被迫害者連邦補償法」(1956年6月)(前身の「連邦補足法」実施の53年10月に遡って施行)。これが補償総額からして約8割を占め最も重要です。第三に、1957年以降、化学企業IGファルベン社をはじめとする個別企業による補償。強制収容所に収容され、なおかつ強制労働をさせられたユダヤ人に限定しての補償です。
以上から、「補償」概念が「政治的・人種的・宗教的な理由による迫害」という狭義の「ナチ不正」の被害(「ナチ被迫害者」)を意味し、かつ対象はドイツ国籍ないし居住者への限定(「属地原則」)という特徴が確認できます。これによって排除された西側諸国11カ国は「ナチ不正」の非ドイツ人被害者への補償を求めて「補償外交」を展開しました。ドイツは1959年から60年代前半にかけて西側諸国とそれぞれ個別に包括的補償協定を締結しています。
こうして強制労働は一般的な戦争の結果に属し、賠償の枠内でのみ扱われるとされ、外国人強制労働者の補償請求権は否定されることになりました。
ヴァイツゼッカー大統領が1985年5月、第二次世界大戦終結・ドイツ無条件降伏40周年を記念して、「いやしくもあの過去に対して眼を閉ざす者は、結局は現在に対しても盲目となります」という演説をしたことは日本でも良く知られています。その際に想起されていた被害者の中には、この間補償対象が拡大された人たち(たとえばシンティ、ロマ、ホモセクシュアル、精神障碍者など)は含まれていましたが、外国人強制労働者は想起の対象とはなっていませんでした。
ドイツ統一後の戦後補償
1990年のドイツ統一に際し、強制労働者の補償問題が解決される余地もありましたが(「二+四条約」)、強制労働者の補償問題は条約から排除されました。その一方でドイツは、東欧諸国のナチ迫害被害者に「和解基金」を設立させました(ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、ロシア)。しかし強制労働などに対する補償責任を認めたものではなく、経済的困窮者に対する人道的給付でした。一時金を支給された被害者は補償とみなさず、その後もドイツ政府への圧力はつづきました。
日本で強制連行・強制労働、「従軍慰安婦」に対する補償要求の運動が開始された時期に、ドイツでの未解決の問題は民間人と戦時捕虜の強制労働でした。強制収容所に収容されても補償対象からは排除されていました。政府・企業が一体となって、強制労働はナチ不正の被害ではないという論理を貫徹しました。
ドイツ補償基金「記憶・責任・未来」創設
それに対して被害者組織は補償問題を積極的に提起し、裁判に訴える道をとりはじめました。1996年の連邦憲法裁判所の判決によって、強制労働の被害に対する個人的補償請求の可能性が開かれましたが、地裁レベルで勝訴した訴えも控訴審では敗北しました。
大きな転換点は1998年3月のアメリカでのフォード本社とドイツ・フォード社に対する集団提訴です。同年9月の連邦議会選挙で社会民主党と90年連合・緑の党が勝利し、「ナチ強制労働補償」へと動きました。翌年2月に「ドイツ経済の基金イニシアティヴ<記憶・責任・未来>」が設立されました。被害者側も補償基金設立へ向けた交渉のテーブルにつき、99年12月に合意して、ラウ大統領が「赦しを請う」演説を行いました。
こうして、ドイツ企業の不正への「関与」、企業の「歴史的責任」と連邦議会の「政治的・道義的責任」を認める内容の強制労働補償基金が、2000年7月に連邦議会で可決されました。2004年3月末までに170万人の資格保持者のうち150万人が補償の最初の給付金を受け取りました。
ドイツの戦後補償の特徴
ドイツ戦後補償の経緯の特徴を挙げますと、①特殊な「ナチ不正」概念を基礎とし、「ナチ不正」以外の「戦争犯罪」と「人道に対する罪」の被害者への補償を排除したこと。②外国からの圧力によって補償が開始され展開したこと。この外圧に対応して補償のユダヤ人・非ユダヤ人の差別化、東西差別化が行われてきました。③1990年代末にはアメリカがこの問題で再登場したこと。④ドイツ国内では、補償問題に関わってきた90年連合・緑の党と社会民主党の革新連立政権の成立したこと、があげられます。
戦後補償の日独の差異は1990年代半ば以降顕在化しましたが、過去を想起する日独の姿勢の違いは、1960年代後半以降から1980年代前半までの時期における日独の異なった歩みに根源を見出すことができます。一つは、学問・教育レベルでの批判的歴史学の成立と展開、医学界や司法界などでの過去への批判的まなざしの醸成。もう一つは、法的責任を追及した被害者の運動体が強制労働補償基金成立交渉の一主体として位置づけられたことです。ここに日本の「アジア女性基金」(国民基金)との基本的な違いがあります。
日本がドイツの「過去の克服」を乗り越える可能性
しかしドイツでは、戦時捕虜は強制労働補償基金の対象にならず、戦時「性的強制」(収容所で女性たちが性的な相手をさせられたこと)は問題にもされていません。強制労働も「ナチ不正」の一つとみなされてはじめて戦後補償の対象となりました。それゆえ、強制連行・強制労働、「従軍慰安婦」など日本の過去を克服するには、ドイツの戦後補償の論理、とりわけ「ナチ不正」概念を克服することが急務となります。こうした一連の日本の過去の問題は、ドイツの戦後補償の論理では排除されるからです。しかしこの克服作業は2000年に「女性国際戦犯法廷」が開始しています。これは、「過去の克服」の先進国とされているドイツを乗り越える可能をもつものと考えられます。
<参考文献>
・粟屋憲太郎他『戦争責任・戦後責任―日本とドイツはどう違うか』朝日新聞社、1994年
・石田勇治『過去の克服―ヒトラー後のドイツ』白水社、2002年
・倉沢愛子ほか編集『20世紀の中のアジア・太平洋戦争(岩波講座アジア・太平洋戦争8)』岩波書店、2006年
・佐藤健生・N.フライ編『過ぎ去らぬ過去との取り組み―日本とドイツ』岩波書店、2011年
・ペーター・ライヒェル『ドイツ 過去の克服』小川保博・芝野由和訳、八朔社、2006年
・ベンジャミン・B・フェレンツ(住岡良明・凱風社編集部訳)『奴隷以下―ドイツ企業の戦後責任』凱風社、1993年
・松村高夫・矢野久編『裁判と歴史学―七三一部隊を法廷からみる』現代書館、2007年
・望田幸男編『近代日本とドイツ―比較と関係の歴史学』ミネルヴァ書房、2007年
・矢野久「ドイツの過去の責任」金富子・中野敏男編『歴史と責任-「慰安婦」問題と1990年代』青弓社、2008年
R.v.ヴァイツゼッカー(山本務訳)『過去の克服・二つの戦後』NHKブックス、1994年
R.v.ヴァイツゼッカー(永井清彦訳)『荒れ野の40年』岩波ブックレット、1986年、2009年(新判)