富士山本門寺の成立
日蓮大聖人の佛教を要約すれば 「本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目」の 三大秘法であります。 日蓮大聖人は弘安二年十月十二日本門の本尊である 「本因妙大本尊」を御造立あそばされて日目上人に 託されました。 その御造立銘には 「造立本因妙大本尊 右本尊者、釈迦諸佛出世之本懐也 真實 真實唯一大事之秘蜜 然万年 救護 為之留 国主被立此法者 可奉懸本門寺本堂 弘安二年太才己卯 十月十二日 日蓮 (在御判) 」 とあります。 そして「本門の戒壇」については『三大秘法稟承事』に 「戒壇とは王法佛法に冥じ佛法王法に合して王臣一同に本門の三秘密 の法をもちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん 時、勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土似たらん最勝の地を尋ねて 戒壇を建立する可き者か」 と仰せられております。 また『法華取要抄』には 「今当世の悪王、悪比丘の仏法を滅失するは小を以て大を打ち権を 以て実を失う 人心を削りて身を失わず寺塔を焼き尽さずして自然 に之を喪す其の失前代に超過せるなり、 我が門弟之を見て法華経を信用せよ目を瞋らして鏡に向え、天瞋るは 人に失有ればなり、二の日並び出るは一国に二の国王並ぶ相なり、王 と王との闘諍なり、星の日月を犯すは臣・王を犯す相なり、 日と日と競い出るは四天下一同の諍論なり、明星並び出るは太子と 太子との諍論なり、是の如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し 本門の三つの法門之を建立し一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布 疑い無からん者か。」 と述べられております。 日蓮大聖人より「本因妙大本尊」を託され「国家諌暁」の御遺命を 給わった日目上人は大聖人の御予言の 「一国二王」 即ち、弘安十年(一二八七)九月、幕府の横車に依って後嵯峨上皇 の 「不譲泰伯」 の遺詔に叛した後深草上皇(持妙院統)の治世 が成立し後嵯峨上皇の 「而意在李歴」 の遺詔を受けた亀山 天皇(大覚寺統)との二統に分れ対立しました。 こうした情勢の中で大覚寺統の後醍醐天皇は倒幕を志され元亨三年 (一三二三)の秋、廷臣、日野資朝を東国に下し味方を募ったので あります。 =============================================== 当然、日蓮大聖人の『王佛冥合』の教えを信奉していた新田小野寺 一党は時至れりとに日目上人に勧め、日目上人は国諌の書を認めて 上洛し天奏を果たされました。 この『国家諌暁』の奏状文は世に『園城寺申状』と云われ今に伝え られています。 その内容は次の如くでした。 ------------------------------------- 日蓮大聖人の弟子、駿河の国富士山の住、日目誠惶誠恐、 庭中に言上す (この先の内容は「正統天皇と日蓮」P71を参照) http://syohnan.com ================================================ この上奏が日目上人の生家、新田小野寺家の援助に依るものであった 事も、 京都・要法寺蔵の元亨四年甲子十二月五日、日興上人筆の大曼荼羅に 「皇門御家人新田孫五郎通章に之を授与す」 とあり、また、 宮城県若柳町、妙教寺蔵の元亨四年十二月五日の日興上人筆大曼荼羅に 「奥州御家人新田三郎五郎行道に之を授与す」 と在って、その経緯を推測させるに足り、この奏事が富士門最初の奏上 であった事は、 大石寺蔵の正慶元年十一月三日の日興上人筆曼荼羅に 「最初上奏の仁、新田阿日目に之を授与す 一が中の一弟子なり。」 と在って確かであります。 しかしながら後醍醐天皇の此の元亨の倒幕計画は、幕府方に漏れ潰 えてしまった訳であります。 これを世に「正中の変」と称しており、この間、日目上人の申状は 後醍醐天皇より天台法華の寺門派の本山、園城寺に対して申状の記 載の内容に対して御下問がなされ園城寺より、その 『三時弘経の次第』 に誤りのない旨の回答が奏上されたのであります。 =============================================== そうした経過の後、嘉暦三年(1328)の春、後醍醐天皇の廷臣、 参議、清閑寺藤原資房の音信が富士に寄せられたのであります。 それに対し、日目上人はご一族の民部阿闍梨日盛師に対して 『資房の上、申し時の返上見ず候事心もとなく候 うちならし便宜に給うへく候 これは秋てん(天)定めて上べく候 かまえてとのい(殿居)ものなかさせ給ましく候 十月披候へく候 ふし(富士)へ大事のふみ(文)つか(使)はし候 なにとしても、とくとくつけて給へく候 かまえて とくとくいそき(急)の事也 (以下略) 卯月九日 日目 (花押) 民部阿闍梨御坊 』 と認められております。 『日盛師は正和三年(1314)日目上人の天奏に先立ち、比叡山延暦寺 に登り日目上人の奏上の為の申状の書式を書写された人で日興上人 の御手紙には 今度山門奏上書写給候條恐悦無極候へく候 正和三年六月八日御状 同十八日到来、委細拝見候了 (以下略) 白蓮 (花押) 謹上 民部公御坊 御返事』 つまり、日目上人の元亨の申状(園城寺申状)はこの時、日盛師が 比叡山で書写された奏上を書式手本として日興上人に依って文案さ れ、日目上人に依って奏上されたのであります。 この奏上の結果、嘉暦三年の秋、富士に後醍醐天皇の綸旨が下され たのであります。 その時の状況を、日目上人は御生家に次の如く報じられております。 『みめみめよろこひ入候てふし(富士)へわたて候 九月廿九日には、てんちやう(天朝)ふし(富士)へのほ(上) り候へく候 三郎入道とののもとへもふし(富士)へも御ふみ候へは給候て心 遺まいらせ候へく候 のひ(延び)候とも月あいにはすきましく候 恐恐謹言 八月廿一日 日目(花押) おさとの御返事 (京都・住本寺蔵) その後醍醐天皇の叡慮に接した日興上人は日蓮大聖人の御遺命の 「本門寺」勅許の確信を深められ、日蓮大聖人が富士門の門下に 授与された各々の「大曼荼羅」に嘉暦四年に 「但可為大本門寺重宝也」 或は 「懸本門寺 可為末代重宝也」 「懸為本門寺重宝也」 の文言を加筆されたのであります。 =============================================== 故に正慶二年(1333)二月十三日の日興上人の御遺言には 『日蓮聖人御影竝御下文 園城寺申状 上野の六人の老僧方、巡に守護し奉る可し 但し本門寺建立之時 は本堂に納め奉る可し この条 日興上人の仰せに依って支配奉る事此の如し 此の旨に 背き異を成し義を失たらん輩者 永く大謗法為る可し 仍誡之状件如し 正慶二年癸酉 二月十三日 日善 (花押) 日仙 (花押) 日目 (花押) 』 とあります。 即ち、『御下文』とは『園城寺申状』に対する嘉暦三年の秋に 後醍醐天皇から下された 「綸旨」 を示すところであります。 日興上人のご遷化された此の年の五月、鎌倉幕府は滅亡し翌六月、 後醍醐天皇は京都に還幸されました。 日目上人は嘉暦三年に下された綸旨に基ずき勅宣を賜らんと上洛の 途に着いたのであります。 再度の奏上文は次の如く認められました。 奏上文の内容は『正統天皇と日蓮』P81を参照 そうして、甥の日道に大石寺(正統大石寺)の後事を頼み、弟子の 日郷(保田・妙本寺開山)、日尊(京都・上行寺開山)の両名を供 として上洛の途につかれたのであります。 美濃の国垂井の宿に到着された時、不破の関ヶ原は伊吹颪が吹き荒び 日目上人の前に立ち塞がりました。 十五の歳に日興上人に随って妙法華を信じ十七歳の時、甲斐の国 身延に詣で日蓮大聖人の御在世七ヵ年の間常に給仕し、弘安五年 御遷化に当り大聖人より 「本門戒壇勅許」 建立の御遺命受けたまわって以来、遠くは奥州より都へと妙法華 弘経の為の長年にわたる東奔西走は日目上人の踝を冒していたの であります。 日目上人の御辞世は 代々を経て 思いをつむぞ 富士のねの 煙よをよべ 雲の上まで とつたえられており、その詠歌の意味は、日蓮大聖人の御遺命の 『本門寺の戒壇』建立の 願いは必ず聞き届けられるであろうと言うことであります。 =============================================== 日郷・日尊の弟子は日目上人の御遺躰を懇ろに荼毘に附され、ご灰骨 を胸に抱きかかえ入洛されたのであります。 後醍醐天皇は日目上人一党の忠節とその志を深く思し召され 『法華妙禅之宗旨』 の綸旨とともに洛中六条坊門堀河に正法弘経・王城鎮護の道場を 造営し 『本門護国寺』 と寺号を賜りました。 この『本門護国寺』の坊地は後の「南北朝」という争乱の中で武家 方の支配下となり富士門から別れ 『六条門流』 と称される別流になってしまう訳であります。 また同時に日目上人は後醍醐天皇に依って 「国師」 に任じられ 『二位法印』 の官位とともに 『千福阿闍梨』 の号を宣下賜った のであります。 その証拠として、当、本門正宗本門寺(横浜市戸塚区小雀)には 『篠梧文の紫子袖』 が今に伝わっております。 この 「紫子袖」 の故事について日蓮大聖人は 『諌暁八幡抄』 に 『扶桑記に云く 又 伝教大師八幡大菩薩の奉(おん)為に神宮寺 に於いて 自ら法華経を講ず 乃ち聞き竟て大神託宣すらく 我れ 法音を聞かずして久しく歳年を歴る 幸い和尚に値遇して正教を聞くことを得たり 兼ねて我が為に種種 の功徳を修す 至誠随喜す 何ぞ徳を謝するに足らん 兼ねて我が 所持の法衣有りと 即ち託宣の主 自ら宝殿を開いて手から紫に袈裟一つ 紫の衣一を 捧げ和尚に奏上す 大悲力の故にさらに納受を垂れ給え』 とあります。 即ち「八幡大菩薩」とは人王第十六代応神天皇のことであり、人王 第三十代欽明天皇の三十二年に神となって現れ仏教の伝来を慶賀し たという宮中故事を日蓮大聖人が示した文で、この故にこれ以降 「紫衣」は専ら尊貴なものとして勅許がなければ着衣する事が出来 ず、天皇の僧に対する親任の証として用いられました。 特に後醍醐天皇より日目上人に賜った「紫衣」は、「篠」は 「歳寒三友節操在り」 と称され古来、聖人の人格を現す植物として扱われ「梧」は瑞鳳の 集まる唯一の書き嘉木とされております。 そうして、この瑞鳳を金翅鳥とも称して、悪龍を退治する、即ち 悪法・邪法を胎児する聖人の化身と云われております。 故にこの紫衣を着用の人物がその働きを行う人、聖人という事に なるのであります。 |
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