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高原=文・写真 |
1964年9月の28日、日本から北京に向かう途中の日本の大手新聞・通信・放送の九人と、中国から東京に向かう中国の新聞・通信の7人の特派員たちが、香港で出会った。その夜、中日双方の特派員は全員、香港の、ごくありふれたレストランでいっしょに中華料理の食卓を囲んだ。勘定はワリ勘だった。 翌日、日本の記者たちは、汽車で深ロレに行き、さらに広州から飛行機で北京に向かった。中国の記者たちは、香港から飛行機で東京・羽田空港へ発った。これが中日両国の記者交換の第一陣である。
当時、中日間はまだ国交が正常化していなかった。しかし、友好関係を促進したいと望む両国のマスコミ関係者の強い希望によって、両国間で常駐記者を相互に派遣する記者交換が実現したのだった。そして常駐記者たちが中国と日本から発するニュースや映像が、中日国交正常化を大きく促す作用を果たしたことは、いまや歴史的事実である。 それから40年経った2004年9月6日、両国の歴代の常駐記者たちを中心に中日の関係者約80人が北京に集まった。中国国務院(政府)の主催した、中日記者交換40周年を記念する活動に参加したのである。 記念集会で冒頭、両国を代表して国務院新聞弁公室の趙啓正主任と駐中国日本大使館の原田親仁公使が挨拶した。 趙主任は、1964年に中日記者交換が始まって以来、両国の特派員たちが「両国人民の相互理解と交流に積極的な貢献をしてきた」とたたえ、「特派員たちはその時期の歴史の記録者であるばかりでなく、両国関係の証人でもある」と評価した。
原田公使は、両国のメディアが日中関係発展に果たした役割は大きいとしつつ「情報量は多くなったが、日中間の相互理解はまだ十分ではない」として、インターネットに多く現れる断片的な情報を基にした極端な意見に対し、マスコミを通じて客観的事実に基づく総合的な理解が必要であると強調した。 続いて中国の元日本常駐記者を代表して劉徳有・元『光明日報』記者(元文化部副部長)と駱為竜・元『北京日報』記者(元日本研究所長)が、また日本の元中国常駐記者の大越幸夫・元東京放送記者(現在東京放送社長室顧問)と横堀克己・元『朝日新聞』記者(現在『人民中国』編集委員)がそれぞれ発言し、当時の思い出などを語った。 中日両国の記者交換が実現するまでには、実に15年に及ぶ困難な過程があった。しかし時の周恩来総理が日本の著名な政治家である松村謙三代議士と何回も会談を重ね、ついに実現したものだ。これによって両国の記者が相手側の国で直接取材し、第一次情報を得ることができるようになったのである。 北京に駐在した大越氏によると、当時、日本の常駐記者たちは、中日友好協会の廖承志会長から北京の東安市場にあった唯一の日本料理店「和風」に招かれ、畳の部屋で朝食を食べながら、関心のある問題についてブリーフィングを受けた。北京には他の国の記者も常駐していたが、こうした便宜を与えられたのは日本人記者だけだった。
東京に駐在した劉徳有氏は、国交正常化以前だったこともあり、日本での仕事も生活も苦しいことが多かったが、それが日本のメディアで報道されると、一人の日本の少女がケーキと手紙を送ってきて励ましてくれたことが忘れられない、と語った。 中日記者交換はその後、政府間協定になり、この40年間に日本から中国に派遣された常駐記者は約千回、420人、中国から日本に派遣された常駐記者は約200回、120人にのぼる。現在、日本の常駐記者(香港、台湾を除く)は82人、中国の常駐記者は約40人である。 中日両国の関係は以前にも増して密接になっている。昨年の両国の貿易額は1350億ドルに達した。日本はすでに中国の最大の貿易相手国になり、中国も日本の第二の貿易パートナーとなった。人の往来も、昨年は延べ368万人にのぼり、両国の友好都市締結は224組もある。 しかし、集会に参加した人々の多くが指摘したことは、中日関係に現れている「政冷経熱」と呼ばれる現象を軽視してはならない、ということだった。「政冷経熱」とは、経済面では交流・協力が盛んだが、政治面では問題が多く、冷えているという現象である。 こうした状況を改善するために、「事実に基づく客観的で公正な報道を通じて、両国の人民の友好交流を促進する役割が両国のメディアに求められている」というのが、参加者の共通した認識だった。(2004年11月号より) |