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 昭和20年3月10日 史上最大の虐殺

   2001年9月11日に起きた同時多発テロの映像は世界中に大きな衝撃を与えたと思います。犠牲者の中には邦人も多く含まれ亡くなった方のご冥福を心から願っております。

  しかしながら、この惨劇も昭和20年3月10日未明に都民が経験した悲惨さに比べると霞んでしまいます。今から六十余年前の東京で、この同時多発テロの犠牲者をはるかに超える10万人以上の都民が1夜にして命を失いました。

 犠牲者は生きたまま火あぶりに会い、あえぎ苦しみ亡くなっていきました。当時のメディアが今のように発達していれば、いわゆる「東京大空襲」の想像を絶する地獄絵が世界の人々に伝えられたでしょう。これは広島、長崎の惨事と並び、人類史上最大の虐殺だったと表現してもおおげさではありません。

この作品はその悲惨な出来事を毛筆で表現したものです。

表題 「噫横川国民学校」   

  この作品を書いたのは書道家の井上有一氏です。井上氏は東京都本所区・横川国民学校の教員でした。東京大空襲が愚行された昭和20年3月10日の未明。井上氏は宿直で学校に残っていました。この作品はその横川国民学校での悲惨な状況を表現したものです。改めて作品を見てください猛火の中で逃げ場を失いあえぎ苦しみ死んだ人々の悔しさしと怒りが伝わってくると思います。

書の内容

絵 吉野山氏提供

 東京では関東大震災の教訓を生かして、公立学校の校舎を鉄筋コンクリート製に建て替えていました。これは生徒を守るだけでなく大規模火災の避難場としての役割も担っていました。横川国民学校もそのような校舎を備えていました。

 3月9日から10日に変わった0時から数分過ぎた時、米軍の空襲が開始されました。低空で飛行するB29から雨あられのように焼夷弾が投下されました。木造の住宅に空から石油をまかれ火をつけられたようなものです。おりからの強風に煽られ、30分も経たない内に下町中が火の海なりました。人々は逃げ場を失い多くの人が犠牲になりました。

 そんな中、横川国民学校に非難してきた人、千数百名。想像を絶する火勢により学校の敷地や校舎にも火が移ってしまいました。さらに追い討ちをかけるように焼夷弾を浴びせられ、避難してきた人の殆どが犠牲になりました。

 犠牲者の屍は炭化し。熱でおなかが炸裂、胎児が露出した妊婦もいた。と井上氏の書は語っています。井上氏も気を失い命を落とすところだったが奇跡的に生き残った。そして「親子断末魔の声終始わ忘るなし。」と筆を置いています。

 

絵 吉野山氏提供

 

 

 ドリフターズのいかりや長介さんも横川国民学校の出身で井上先生は彼の担任でした。いかりやさん一家は横川国民学校の裏で文房具店を営んでいましたが、静岡県富士市に疎開をしていたため空襲の難から逃れています。

 

 

絵 吉野山氏提供

 

 

 小説「繭(まゆ)となった女」(小林美代子:講談社:昭和47年)から

 昭和20年3月10日。焼夷弾で街中が炎に包まれていく中で本所横川町に住んでいた若い女性が、横川小学校の講堂に逃げ込んだ。講堂は既に500人ほどの人々で埋め尽くされ、外は火の海。もう駄目だと皆が覚悟を決めていた。

 その時、一緒にいた将校が「回りは火に囲まれてしまった。表は全滅だ。扉の前も炎の海で開ることが出来ない。自分たちでここを守る以外に生きられない。」と叫び、皆で吹き込んでくる火の粉を消していく。

 しかし「二階に火がついたぞ!」と声があがり、将校は「決死隊の第二陣出ろ、出るものはいないか、若い者でてこい」と叫ぶ。講堂の校庭に面した防火用水池の向こうも火の海だ。若い男が一人校庭に面した窓から飛び下りると、五、六人がそれに続いた。

以降小説から引用

  用水池から、一メートルほどのこの火中では虫のような赤い手押しポンプで、二階へ放水している。あまりにも心もとない細い水は、たぎり立つ炎の中に一本の放射線となって頭の上あたりに、そそぎこまれている。ホースを握っていた一人が、低空のB29から、油脂弾か、焼夷弾の直撃を受けて、人の形のまま火になって倒れた。私は思わず顔をおおった。・・・・・

  決死隊に出た人たちは助かったのか、死んだのかはわからない。ただ一人講堂に、全身皮膚を泡立つほど黒く焼けただらせ、堅く目を閉じたまま、わずかに呼吸していた。この勇気ある若者が死ぬくらいなら、われわれ全員が一緒に死んでもよかったのだ。

 この若者にとって、われわれ全員の命より、自分の命が尊いはずだし、少なくとも同じ重さの命であった。私はその若者が生き残った私たちの身代わりの、キリストの分身のように思えた。

 映画監督の山本信也さんは、「3月10日は陸軍記念日。今までにない大規模な空襲があるかもしれない。」と、お父さんの判断で東京大空襲の日は、千葉に疎開していたため難を逃れたそうです。

 

 絵 吉野山氏提供

このような地獄絵が繰り広げられた下町の航空写真

空襲前

空襲後

 横川国民学校は写真のほぼ中央に位置します。下町のほとんどの学校で横川国民学校と同じように多くの犠牲者が出ました。

 

  昭和19年7月。米軍はサイパンを奪還しグアム島に長距離爆撃機B29の基地を完成させました。この時から日本全土への空爆が可能になりました。

  そして11月24日から東京への空襲が開始されました。当初標的とされたのは軍需施設のみでしたが、効果が薄く米軍は次のような計画をたて無差別虐殺を実行したのです。

@

 ドイツの空爆で実績を上げたカーチス・ルメイ少将を東京空襲の責任者に任命。

空襲を指揮したルメイ少佐

 昭和39年の佐藤内閣は航空自衛隊の発展に貢献したと彼に勲章を与えています。勲章の授与を決定したのは池田内閣でした。同時期に真珠湾攻撃の参謀だった源田実が米国より叙勲され、両者の受勲は太平洋戦のわだかまりを絶つ国どうしの手打ちが行われたようなものであったしかし空襲を経験した家族にとって苦痛な出来事であった。

A

 

 家屋が木と紙でできていることに注目して、日本専用の焼夷弾を開発。そして砂漠に日本の家屋を建て焼夷弾の効果を確認する。

B

 

 過去の大火が春先の強風が吹く時期に集中しているというデータに注目し、大空襲の決行日を陸軍記念日の3月10日にした。

C

 

 そして300機以上のB29で地上を嘗め尽くすように焼夷弾を落とす。(1平方メートルあたり3発、総重量2000トン)

D

最初に空爆目標地の外周隅田川や荒川の堤防沿いに焼夷弾を落として炎の壁を作り人々の退路を絶つ

 

 

 

E

 機銃など不要なものを取り外し乗員の数も減らし、B29に可能な限り焼夷弾を多く積み込む。焼夷弾の命中精度を上げるため低空飛行を行う。

F

 軍事工場などのピンポイント空襲から一般人を含めた無差別空襲に変更。

日本本土空襲用に開発されたM69油脂焼夷弾

焼夷弾の正体はゼリー状になった石油

新焼夷弾の効果確認ために作られた長屋

降下された焼夷弾は屋根を貫通し予定通り火災を誘発した

このような実験を繰り返し、M69油脂焼夷弾が開発された

 戦争を早期に終結させるという名目を挙げ、市民が虫けらのように焼け死ぬ事を承知の上、米国は日本を空襲しました。

 空襲が開始されると、おりからの強風で東京の下町はたちまち火の海となりました。逃げ場を失った人々を襲う炎。火災の熱線により火の粉を浴びなくても髪毛や衣服が自然に燃え出す。火災による竜巻によって空に舞い上がる人。酸素が欠乏し窒息死する人。近くの川に飛び込み凍死した人。一夜にして10万人もの命が奪われました。これが虐殺でなければ一体何なのでしょうか。生きたまま焼かれた人たちはどんなに苦しかったか。

絵の提供 吉野山隆英氏 東京大空襲絵画「報われぬ犠牲」

以上米軍撮影写真

火の勢いが強く、火の粉がつかなくても衣類や髪の毛が自然に発火した。

 消化用ポンプの原動機が動かなくなるほど酸欠がひどく、窒息死した人々も多かった。

 川に非難すれば、凍死の運命が待っていた。大空襲を受けた日は、前日に雪が降るほど寒い日で、川の水温は0度に近かった。また致命的な焼けどを負った人々は末期の水を川に求めた。最後の力を振り絞って川に辿りついた人は川の水を口にして息絶えていった。

 下町の川は死体であふれ、隅田川河口のお台場には数多くの死体が漂着した。

 以上の写真は当時警視庁のカメラマンだった石川光陽氏撮影の記録写真です。

石川光陽氏

 石川氏は、自宅の庭に穴を掘りフイルムを隠して米軍に没収されるのを防ぎました。石川氏の努力によって、東京空襲の惨劇を後世の人々に視覚で訴えることができたのです。命を捨てて記録写真を取り捲った彼の行動はピューリッツァー賞に値するものだと思います。

別所弥八郎氏撮影

墨田区錦糸公園

 錦糸公園は墨田区にある公園ですが、東京大空襲で犠牲になった人々の死体は数日の内に、このような公園に集められ土の中に埋められました。

 終戦後しばらくの間、公園に埋められた犠牲者の遺骨を掘り起こすことが禁じられていました。それは東京大空襲の惨劇を黙殺する目的で、進駐軍から命令されていたからです。そのためすぐに遺骨を収集することができませんでした。

 サンフランシスコ条約が結ばれた昭和26年(1951)ごろから遺骨を掘り起す作業が進められました。掘り起こされた遺骨は随時、本所横網町にある関東大震災の慰霊堂に納骨されましたが、・・・。ブランクの間に死体を埋めた場所が失念され、未だに地中に眠っている遺骨があると思います。

 

1983年になって墨田区の菊川公園で発見された東京大空襲の遺骨 

  

 このような悲惨な体験のショックが未だに抜けきらず、日本人は他国に言いたいことを言えない国民になってしまったのかも知れません。

江東区、墨田区や台東区では鎮魂の慰霊碑が沢山建立されています。 

碑文 

 第二次世界大戦はその規模においても、その被害についても まことに甚大であった。ことに昭和20年3月10日の大空襲には この付近一帯は横死者の屍が累として山をなし その血潮は川となって流れた その惨状はこの世の姿ではない これらの戦争犠牲者の霊を慰めることこそ 世界平和建設の基となるものである ここに平和地蔵尊を祭り その悲願を祈るため 昭和24年4月ここに安置された次第である

 

 空襲の犠牲者を埋葬した隅田公園。人々の記憶は薄れ再び花見の名所となっています。

 

 そのような隅田公園の一角に建立された、東京大空襲の碑

 

浅草と向島を結ぶ言問橋

 橋の両サイドから非難民が集まり、橋の上の人々は身動きが出来ない状態になっていた。そのような状況下人々の荷物に火災が移り多くの人が焼け死んだ。ここでも死体が炭になるほど火災の勢いが強かった。また川に飛び込んだ人は溺死か凍死の運命が待っていた。

 言問橋では人々が家から時持ち出した家財道具に火が移り火の海になっている。関東大震災の時も広場に集結した人々の家財道具に火がつき多くの犠牲者が出ている。

 今後起きうる大震災の時は、身一つで非難するのが懸命である。現在の物品は石油製品が多く使われており、有毒ガスの発生や、高温火災に繋がる恐れがある。

  

浅草浅草寺境内に建立された碑

空襲前に米軍機よりばら撒かれたチラシ

 このビラを拾うと非国民として罰せられた。このビラを見た人やうわさにより、東京から離れ被害に遭遇しなかった人も多かった。

 

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