仕事を拓く
若い民からの成長戦略
【社会】広島「幻のフィルム」カメラマン 原爆被害記録へ執念の撮影メモ
原爆投下から間もない一九四五年秋に、広島市内を撮影した記録映画の撮影メモが見つかった。放射能汚染の不安がある中で、カメラマンが冷静に撮影データを記していた。専門家は「撮影隊の動向や、各場面の撮影時期などを特定できる」と、メモの価値に関心を示している。 (藤浪繁雄) メモは、原爆の記録映画「広島・長崎における原子爆弾の影響」を製作した日本映画社のカメラマン鈴木喜代治(きよじ)さんが作成。作品は約二十年にわたり米軍が接収するなど「幻のフィルム」と呼ばれた。孫の能勢広さん(44)=相模原市南区=が最近自宅で見つけた。 当時、東京にいた四十五歳の鈴木さんは、広島に入る直前の同年九月十八日から、手のひらサイズのメモに記録し始めた。メモや広島平和記念資料館(広島市中区)によると、撮影隊は五班あり、鈴木さんがいた生物班が最も早く現地入りし、九月二十四日〜十月二日に撮影した。 生物班は日本人の学者に同行し、植生の状況を調べる様子を撮影したほか、放射能の影響を建造物などから調べる物理班にも加わった。 二十六ページのメモには映画の主な場面をスケッチし、日付やカメラの絞りの数値なども記録した。 爆心地近くの護国神社付近で測定機を使い、放射線量を調査する場面では「爆心の附近(ふきん)の目標を印象づけるため」と記述。荒野と化した市街地に残る鳥居を写し込むように撮った狙いも書き残した。熱線の影響を受けた葉の変色を白黒フィルムでもはっきり見せようと、「不鮮明につき二通り撮影ス」と、こだわりも随所にみせている。 生物班は十月上旬、長崎に移動したが、鈴木さんは腎臓を患い、広島赤十字病院に約二十日間入院。その後の撮影には参加しなかった。メモは十月二十九日まであり、別の紙には療養中、「次から次へ自分を、追い越して行くものがある」などと長崎に行けない焦りもつづった。 鈴木さんは戦後、科学教育関連の映像を中心に撮影。八九年、八十八歳で亡くなった。 この作品に詳しい広島平和記念資料館学芸員の落葉裕信さんは「生物班の動向に加え、物理班も含めた撮影の様子が分かる」と価値を指摘。孫の能勢さんは「常識では考えられないような惨状の広島で、データを未来に残そうという使命を持ち、懸命に撮影したのだろう。(原発事故で)放射能の問題を抱える今もこの映画は貴重だと思う」と話している。 <「広島・長崎における原子爆弾の影響」> 日本映画社が学術調査団に同行し、1945年9月から広島と長崎で原爆の実態や被害の様子を撮影した記録映画。長崎での撮影中、GHQに中止を命じられ、米軍管理下で製作を再開。翌年完成した作品は米国に接収された。67年に複製が返還され、2010年には完全版のDVDが発売された。問い合わせはクエスト=電03(6380)3031。 PR情報
|