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日記をつけていた時期がある。
2001年から2006年までの5年間だ。
35歳から40歳まで。
先日、そうじをしていたら6冊、6年間分まとめて出てきた。
この頃の僕は、筋肉少女帯は活動休止中。特撮、電車、といったバンドで音楽活動をしつつ、エッセイ、小説を月産100枚くらいのペースで書いていた。
テレビタレントとしての活動は除々にフェイドアウトしていった時期だが、「徹子の部屋」に3回目の出演を果たしたりもしている。
ちなみに日記によれば「黒柳さんのペースにはまり、何もしゃべれぬまま収録終了。無念」とのことである。
それはまったく無念なことである。
「アメトーーク!」の「徹子の部屋芸人」放映より何年も以前に、僕もまた徹子さんの術中にはまっていたようである。
2000年代前半の世界的な事件についての記述も見つけることができる。
2009年9月11日、NYテロの日の東京は、日中、台風であったことを覚えている人はいるだろうか?
「台風の中、水道橋野球博物館で雑誌用取材。案内のオバちゃんいい人。すごい嵐で2本目の取材は中止。夜8:00、○○氏と会食。男性スタッフと来る。○○氏「私は表現者としてこうありたい」みたいなこと飲みつつ語る。感心していると、○○氏が突然、店のテレビのほうへフラフラ歩いていった。ふり返ると飛行機がNYのビルにつっこんでいた」のだそうだ。
世界的事件にも触れてはいるが、もちろん記述の中心は僕の日常についての記録だ。
読んでみると、当時、バンド活動について、葛藤していた様子もうかがえる。01年10月14日(日)「広島へ。町へ出て豚かつ食べる。15時、並木ジャンクションへ。小さなライブハウス。動員よくないとのこと。いい歳をして、小さなハコで少人数の前でライブするのかと思うと、ふとむなしくなって困る。その後すぐ、来てくれるお客さんに申し訳ないことを思ってしまったと自分を恥じ入る。」
がんばってもいたし楽しんでもいたものの、筋肉少女帯ほどのセールスや動員が得られず、30代も半ばとなり、ちょっと、へこんでいた部分があった時期なのかもしれない。
だが、その後すぐに、この日記の著述者は考えを改める。
「しかし楽屋では、エディーと有松(共にメンバー)が、キャーキャー言いながらグルグルと追いかけっこをしていて楽しそう。そうだ!ロックは楽しむことがまず第一なのだ!と思う。打ち上げはお好み村」
感心な気持ちの切り換えである。でも、なんで肝心のライブについての記述が一行も無いのだろう?
ちなみに、お好み村は「かき、豚キムチなどみなうまい!」とのことで、明らかにライブより打ち上げ中心のダイアリーなのである。
充分にロックの日々を楽しんでいたのではないのかと思う。
だが、七日後の仙台JUNKBOXではまた落ち込んでいる。
「このところモチベーションが見つけられずライブ前落ちこむ。打ち上げはやる気茶屋。」
だからなんでライブについて一行も無いんだよ!と、また思う。かつ、やる気の出ないやつがやる気茶屋へ行くな〜!!と猪木ばりのビンタで制裁したくもなる。
ちなみにやる気茶屋では「竜ちゃん(メンバー)飲ませてつぶす。牛タン食べまくり」とのことで、葛藤と言うか、思うだけの結果が得られず、ちょっとヤケッパチになっていた部分があったのかもしれない。暴れて飲んで、ウサを晴らしたかったのだろうか。竜ちゃんはいいとばっちりである。
そういった荒れた気持ちが、中年期を前にして空虚感と化し、“非リア充感”のような空気が、僕を包みこみ、『いやいや、充分に日々を楽しんでいるじゃないか』との相反する想いから、事こまかに日々の出来事をつづることにより、リア充確認を試みようとする、日記制作へと僕を向かわせていたのではないかなとも今にして思える。
“リア充日記”制作のためであろうか、この頃、フォルクスワーゲンやポルシェのハンドルを握って、僕はアチコチにドライブをしている。ともかく日常の中に何かイベント事が欲しかったのだろう。ヒマな主婦みたいだな。
そしてその“手書きドライブレコーダー”の中には、6年分の日記を読み直して、最も驚き、かつ、『なんだこりゃ?』という記述があった。
「運転中、ともさかりえを轢きそうになった」
な、なんだこりゃ?と、ともさかりえさんを?
まったく記憶に無い。しかし確かにそう書いてある。
ともさかりえとはもちろん女優のともさかりえさんのことであろう。
そのともさかさんを、オーケンが02年12月8日に渋谷で、車で轢きかけたのだという。轢いていたらエラいことだし事故に至らなかったとはいえなんたることだ。
だが、まったく。これっぽっちも覚えていない。
ともさかさんと当時、面識は無い(多分)。数年前、何かの音楽イベントで、スネオヘアーさんの奥様として楽屋エリアにいらっしゃったのが僕的には初対面のはずだ。その時に二言三言お話しした。
「ともさかさん、以前、轢きかけましたよね。そんときゃ正直スマンかったです」
「あ〜渋谷で、ビックリしましたけど、かわせてさいわいでしたよ」
「いや〜ヒヤッとさせてしまって、ごめんなさい」
「いえいえ、安全運転して下さいね」
なんて会話を、交したわけが無い。そんな話しは一つも出なかった。単なるあいさつトークを交しただけである。
ならば、なんなんだろうこの記述?
もしも、ともさかさんが日記を付けていらっしゃって、同年同日、「渋谷で大槻ケンヂの車に轢かれそうになった」と書いていたら事実なんであるが、どうなんだろう。そして、こちらの日記にはその前後のことも一切書かれていないのがまた謎が謎を呼ぶんである。ともさかりえを轢きかけたというのに。
「運転中、ともさかりえを轢きそうになった。打ち上げはやる気茶屋。牛タン食べまくり」
などと書かれていたらさらにこれは大事件であろうが、何も詳細は記されていなかった。(お好み村だったのだろうか?)
探したなら“ともさかさん事件”以上の「なんだこれ?」な記録もあるかもしれないけれど、6年分の日記を読み返していたら、30代の頃の自分が、なんともかわいらしくも恥ずかしくなってきて、6冊まとめて捨ててしまった。
日記は2006年4月21日をもって以後白紙となっていた。筋肉少女帯の再結成が決まる数ヶ月前である。あるいは、リアルな充実感を得始めての日記中止であったのか。我が三十代の主軸であった特撮も、2009年には復活することとなる。