木語:蒋介石の尖閣日記=金子秀敏
毎日新聞 2013年07月25日 東京朝刊
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尖閣問題に関して興味深い史料がある。中華民国(台湾)の蒋介石(しょうかいせき)総統の日記だ。蒋介石は「尖閣諸島は中国の領土である」と最初に言い出した中国人だから、その日記の流れを追うと尖閣問題の原点がわかる。琉球問題だ。
蒋介石日記は米国のスタンフォード大学に保管されている。厳重に管理され、コピーや写真撮影ができない。研究者はマイクロフィルムを手書きで写さなくてはならない。
昨年11月、中国紙「環球(かんきゅう)時報」に日記の尖閣関連部分をまとめた「瞿翔(くしょう)」署名の論文が発表され、中国のネットに転載された。外務省出身の政治学者・浅井基文氏のホームページ「21世紀の日本と国際社会」に日本語訳がある。
日記に、尖閣が初めて登場するのは1970年8月11日。「尖閣諸島」の名前が使われているが、9月12日以降は「釣魚(ちょうぎょ)諸島」に変わる。ここに注目したい。
その前年69年5月、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)が尖閣周辺の東シナ海大陸棚に豊富な石油資源があるという報告書を出した。すかさず中華民国が東シナ海の大陸棚すべての主権を宣言し、米国の石油会社に尖閣諸島周辺を含む海域の採掘権を与えた。蒋介石の関心は海底の宝物だった。「中米は尖閣群島海底の石油の探査につき署名せり。日本は異議提起せず」(8月11日)
翌日の日記によると、蒋介石は尖閣が琉球の一部であるという認識だったことが明らかだ。ただし琉球は日本の領土ではなく中国の主権が及ぶと考えていた。
琉球が中国の領土だという明確な記述はない。蒋介石はカイロ会談(43年)でルーズベルト米大統領と第二次大戦後の領土分割を密約し、沖縄を米中共同管理にすると提案していたので、米国にも配慮したのだ。
だが、米国はサンフランシスコ講和条約(51年)で琉球を米国単独の統治下に置き、さらに日記が書かれた当時は沖縄返還交渉を通じて日本の沖縄主権回復を了承していた。
日記が「釣魚諸島」の名称に転換したのはなぜか。米国の沖縄返還が確実になり、琉球奪還を断念した蒋介石は戦術を転換した。「琉球の一部である尖閣」から「台湾の付属の島である釣魚諸島」という論理に変えた。
同時に、「(釣魚島の)陸地は争わないが、日本の所有権も承認せず懸案とする」「大陸棚はすべて中国のもの」(9月14日)という基本戦略を定めた。これがいまの中国の「棚上げ論」の原点だろう。(専門編集委員)