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(13時間39分前に更新) |
日本の防衛態勢は、この秋から来年にかけて、一大転換を遂げるかもしれない。
その中身を一言で言えば、中国や北朝鮮に対抗するため防衛力を強化し、集団的自衛権についても憲法解釈を変更し、行使を容認するというものだ。
「戦争のできる国」への脱皮は、憲法9条の平和主義を空洞化させる極めて危険な変化である。
防衛省は24日、年末に策定する新防衛大綱の中間報告をまとめた。離島防衛のため自衛隊に水陸両用機能を担わせることなどを盛り込んだ。
27日には、安倍晋三首相が訪問先のマニラで記者会見し、集団的自衛権の行使容認に向け検討作業を進めていく考えを明らかにした。フィリピンなどアジア3カ国の首脳にその旨を説明し、理解を求めたという。国会での十分な議論もないまま外国首脳に説明し、既成事実化するのは、順序が逆ではないか。
会見で安倍首相は「平和主義が大前提」だと強調した。その場合の平和主義とは一体、何を意味するのか。
安倍首相の私的諮問機関である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)は8月から集団的自衛権に関する議論を再開する。今後、新防衛大綱の策定作業と集団的自衛権の解釈変更に向けた作業が並行して進むことになる。
集団的自衛権の解釈変更は事実上の改憲に等しい。ワンフレーズの情緒的、感情的な言葉が飛び交い、冷静な議論を欠いたままなし崩しに事態が進むのは危険だ。
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「同盟国など自国と密接な関係にある外国が攻撃されたとき、自国が攻撃されていないにもかかわらず、これを自国への攻撃と見なして反撃する権利」-それが集団的自衛権である。
歴代内閣は、集団的自衛権について「権利を保有しているが、憲法9条との関係で行使することはできない」との憲法解釈を維持してきた。
なぜか。戦力の不保持と戦争放棄をうたった憲法9条を素直に読めば、そうとしか解釈できないからだ。
それが平和主義の実質的な表現でもあり、こうした姿勢が、日本の植民地支配や侵略を受けた国からも一定の評価を受けてきた。
9条改正ではなく国家安全保障基本法を制定することで憲法解釈を変更し、「戦争のできる国」にするという試みは、憲法改正の発議要件を緩和するための96条先行改正と、どこか似ている。どちらも正攻法を避け、都合のいいように「裏口入学」しようとするものだ。
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憲法9条の下で集団的自衛権を行使し、米国と一緒になって、自国防衛とは関係のない戦争に参加する-。そうなると、憲法9条の法規範が完全に失われ、平和主義がまったく意味をなさなくなる。
この事態は、文字通り「憲法の死」を意味すると言っていい。
国会での長い議論の積み重ねを、ごく少人数の私的諮問機関の結論だけで、簡単に覆すようなことがあってはならない。