2012-01-21 「なぜ小沢一郎の岩手には原発がないのか」の答えが今明らかに(笑)

東電勝俣会長と囲碁仲間だったり東電にパー券買ってもらったりと、全然脱原発じゃない小沢一郎氏。そんな小沢氏にまつわる“都市伝説”の一つが、「小沢は岩手に原発を誘致しなかった」というもの。少なくともその起源は「ただしソースはゲンダイ」(笑)から来ている様です。
■?なぜ小沢一郎の岩手には原発がないのか? (日刊ゲンダイ) (去年5月5日付阿修羅)
東北地方の太平洋側には日本の原発の4分の1が集中している。その数、実に14基。福島から青森までボコボコと建てられているが、なぜか岩手だけ外れている。原発がないのだ。
「岩手の面積は北海道に次ぐ広さですが、人が住めるのは全体の25%程度と少ない。特に海沿いは平地が狭く、原発建設に適した土地がないのです。沿岸部は交通の便も悪い。新幹線や高速道路が通っている内陸部から、クルマで2〜3時間かかります。30年に1度は津波被害もあり、候補に挙がることはありませんね」(地元関係者)
日本では、原発を受け入れた自治体に、ベラボーなカネが転がり込む仕組みができている。
資源エネルギー庁のモデルケースによると、最新型の原発を誘致した自治体は、45年間で2455億円もの巨費を受け取ることができる。
ただし、支給金額は一定じゃない。着工から運転開始までの7年間が最も手厚く、総額433億円だ。
「支給額は、着工から7年を過ぎるとガクッと減らされます。これがクセモノで、8年目は前年の4割程度に落ち込むのです。不足分の穴埋めには、新たな原発を誘致するのが手っ取り早い。電力会社に牛耳られた地方財界や政治家も後押しする。そうやって1号機、2号機……と同じ場所に原子炉が建設されていくのです。原発は麻薬と同じ。一度手を出すとやめられません」(電力業界関係者)
この麻薬は住民の暮らしもマヒさせる。電気料金は大幅に割引されるし、原発施設の地主は特定の商売で独占権を与えられる。雇用面でも福島原発の周辺は、3、4人に1人が東電関連の仕事をしている。
「政治の力」=「小沢の力」と言わんばかりの記述。そして当の小沢自身も、誘致しなかったのは自分の手柄、と言った事を吹聴している様です。
■小沢一郎が語った「岩手に原発がない理由」(楽天ソーシャルニュース)
小沢「役所はクリーンでコストが安くて、安全なエネルギーであると、宣伝文句を言っていた。今も、その当時もあまり変らないのは、結果的に原発から出てくる高レベル放射性廃棄物の処理には、未だ適当な方策がないんだよ。役所の宣伝文句は別にして、過渡的なエネルギーとして、仕方がない。石油もないからね。だから過渡的なエネルギーとしては仕方がないけれど、いずれ新しいクリーンで、しかも日本で大量に生産できるエネルギーっちゅうものを考えなければ、駄目なんだと思っていたし、俺は言ってきたんだ。」
しかし今日の朝日新聞によって、伝説はやはり伝説でしかない事が明らかとなりました。
■岩手県に原発がないのは鈴木善幸の立ち回りのおかげだった。小沢一郎(笑)は原発誘致派だった(21日付kojitakenの日記)
1/21の朝日新聞3面に、「原発国家 三陸の港から」と題された記事が出ている。
周知のように、青森県から茨城県までの太平洋沿岸で唯一原発がないのが岩手県である。この事実をとらえて「小沢信者」たちは「小沢一郎が原発に反対だったからだ」と宣伝しているが、この記事を読むとそれは事実と異なることがわかる。(以下略)
上記エントリーに朝日記事からの引用がごくわずかしかありませんので、折角ですから全文引用です。
大津波は約14メートルの防波堤を軽々と越え、住宅や畑を押し流した。岩手県の三陸海岸にある旧田老町の摂待(せったい)地区。防波堤の倍近い高さまで山肌は削れ、岩盤がむき出しになっている。海岸から1キロ以上先まで一面の荒れ地だ。
太平洋に注ぐ摂待川に沿ってわずかに開けた半農半漁の集落に原発の建設計画が持ち上がったのは、1975年だった。この地に原発があったら、無傷で済んだとは到底思えない。
青森県から茨城県までの太平洋沿岸で、岩手県だけは原発が出来なかった。三陸の網元の家に生まれた元首相、鈴木善幸を抜きにその歴史は語れない。
最有望の立地
岩手県への原発誘致は進むかに見えた。通産省が70年前後に地質調査し、際有望とされたのが摂待地区だった。80年には善幸の子飼いだった知事の中村直(ただし)が県議会で「県民生活の安定や産業振興に原子力を含む大規模電源が必要だ」と表明。82年には県が摂待地区を含む4カ所を適地として東北電力に売り込んだ。
地元経済界には賛成論が強く、誘致に伴う公共事業への期待も膨らんだ。旧衆院岩手1区で自民党大平派の善幸としのぎを削った玉沢徳一郎(福田派)や旧2区の小沢一郎(田中派)も賛成を表明していた。
漁民たちは反対した。当時の朝日新聞岩手版は「ワカメやホタテの養殖漁業がダメになる。体を張って反対する」という漁協幹部の声を伝えている。三陸のあわびは当時、1回の漁で数万円になった。漁協で十分に食べていけた。
ところが、肝心の善幸の態度がはっきりしない。
中央政界では明らかに原発推進だった。80年、首相に就任した時の記者会見で「石油代替エネルギーはなんと言っても原発だ」と明言。首相として初めてお国入りした際にも岩手県庁で記者会見し、「原発で県内エネルギーの自給度を高めることは国全体にも寄与する」と言い切った。
後に漁協組合長となる摂待地区の畠山武男(85)は「善幸さんは何度も来てくれたが、原発で何か言われたことはない」。田野畑村長を8期32年務めた早野仙平(82)が「原発交付金は村予算の4倍、30億円以上もらえるが、使う知恵がない」と伝えると、善幸は「そうだな」と満足げだったという。長男で前衆院議員の俊一(58)には「三陸に原発は造らせない」と断言していた。
三陸の世論は割れていた。白黒つければ禍根を残し、後戻りできない対立に発展する。善幸の選挙基盤も分裂したかもしれない。
82年に首相を退いた後も善幸は原発誘致の決着を先延ばしにしつづけ、粗末な漁港を訪ねてはせっせと改良していった。そのうち日本は石油危機を乗り切って原油価格は下落し、電力はだぶついた。岩手県の原発計画は立ち消えになった。
決定か連帯か
団結を重んじ、対立を持ち込まない。三陸の漁村は共同体の亀裂を忌み嫌う。その危険を冒してまで原発利権に手を伸ばすよりも、水産族のドンとして漁港を着実に整備していくほうが、善幸には自然な選択だった。釜石市に生まれ育った私にはそう思える。
年明けに訪ねた大槌町安渡(あんど)地区で、震災直後に小学校に避難した800人は小さな握り飯を分け合ってしのいだと聞いた。仮設住宅にばらばらに移り住む今も高台への集団移転に向けて連絡を取り合う。宮城県は被災した142漁港のうち60ヵ所に機能を集約する方針だが、岩手県は108港すべての復旧をめざす。
「角福戦争」「三木おろし」など党内抗争を経てきた善幸は、自民党の総務会長を通算10期務め、全会一致で決める会議を仕切った。首相になると「和の政治」を掲げた。足して二で割る典型的な政治家だった。昨今、小泉純一郎や橋下徹ら対立軸を鮮明にして選挙で決着をつける指導者が人気を集めるのは、遅々として進まない過去の政治への反発からだろう。だが、主張を明示して勝敗を決したはずなのに対立は続く。日本の政治はそんな隘路(あいろ)に陥っている。
次々に決断を迫られる今の時代に、善幸の手法がそのまま通用するとは思わない。ただ、二項対立の政治は敗者を生み、共同体を分かつ。脱原発か原発維持かを決める過程で日本社会が分裂してはならない。「決定」と「連帯」をどう折り合わせるか。三陸の風土は新たな問いを投げかけている。
=肩書きは当時。敬省略
(本田修一)
いやはや、鈴木元首相と比較して、岩手に原発が無いのを自分の手柄の様に語る小沢の浅ましさが良く分かります。それでもなお信者たちは「小沢一郎に脱原発させろ」と言うのでしょうなあ(苦笑)。