『風立ちぬ』を見て驚いたこと

2013-07-25 00:25:07 | 映画紹介
 宮崎駿の『風立ちぬ』を見ました。かなり驚いたので、感想を書きたいと思います。いわゆる”ネタバレ”がありますので、まだ見てない方は読まれない方が良いと思います。映画を見たこと前提に書きますので、まだの方には意味がわかりにくいかもしれません。

 「えっ、本当に?」というのが、『風立ちぬ』を見た僕の最初の感想でした。なんとなく美しい話として見てしまう物語の基底が、圧倒的に残酷で、これまでの宮崎映画とは次元がまったく異なっています。
 そして、たぶんこの残酷さが宮崎駿の本音なのだと思います。今回、宮崎駿は今までよりも正直に映画を作りました。それは長い付き合いで、今回主人公の声を担当した庵野秀明も言っていることなので間違いありません。何より、庵野秀明が主人公役に抜擢されたこと自体が「正直に作った」という意思表示です。庵野さんに対する宮崎監督の評価は始終一環して「正直」というものだからです。今回も「庵野は正直に生きてきた」から、その声が使いたかったと宮崎駿自身が言っています。

 この「正直」という評価は代表的庵野作品『エヴァンゲリオン』に対しても使われました。「正直に作って、何もないことを証明してしまった」と庵野秀明との対談で宮崎駿は言っています。
 ここで言う「正直」というのは、主に「心の底では考えている残酷なことに対して」正直」ということです。エヴァンゲリオンでは残酷さは正直に画面に現れていました。アスカの乗る弐号機が使徒に喰われてアスカの目から血が吹き出したりするシーンを見れば、そういうのは実にはっきりしています。

 庵野さんが「正直」ということは、宮崎さんは「正直ではない」ということですが、今まで慎重に嘘をついて来たのだと思います。子供向けにオブラートで包むようなやり方で。
 今回、宮崎監督はオブラートを3分の1くらい外しているはずです。その外し方に天才的な技巧を適用することで「正直になっても、俺にはこんなのがある」ことを証明しました。

 『風立ちぬ』という映画は、さっと表面だけ見ると「不安定な時代を生きた、天才技師である男と病を抱えた女の恋愛物語」ですが、良く見ると「美しさを追い求めることの残酷さ」を描いた映画です。
 残酷すぎて、ジブリが果たしてこんな映画を作るのだろうか、と思ってしまうくらいに残酷です。鈴木敏夫プロデューサーが宮崎駿にこの映画の企画を持ちかけたとき、宮崎監督は「映画は子供のために作るものだ」と怒ったそうですが、この映画を宮崎さんは子供にあまり見せたくないのではないでしょうか。あなたが生まれたこの世界は残酷なのだと言うことになるからです。

 主人公、堀越二郎は冒頭部でいじめっこから下級生を守る正義漢ですが、根っこの部分は人の心が分からない薄情者です。映画の端々で彼の薄情さが描かれます。特に妹が訪ねて来る時にいつも約束を忘れていて、妹を一人ずーっと待たせているところに明々白々な表れ方をしています。何時間もずっと待たせて、一言「ごめん、わすれてしまっていたよ」で済ませるのですが、妹は兄が薄情者であることを承知しているので、それに対して文句を言いません。そんな妹も、後に堀越二郎が結婚したあと、妻の菜穂子が可哀想だと泣いて訴えます。二郎の妻菜穂子に対する態度はそれくらい酷いのですが、二郎自身はそれが酷いとは全く気付いていません。二郎はそういうことが分かる人間ではないからです。

 この映画が”恋愛物語”からはみ出るのは、男の方がそういう薄情な男だからで、もっと云えば、二郎は菜穂子を別に愛しているわけではありません。二郎は菜穂子が好きですが、それは単に菜穂子が「美しい」からです。
 二郎は「美しさ」が好きです。それ以外のことにはあまり興味がありません。飛行機が好きなのも、美しいからで、彼が作りたいのは美しい飛行機です。焼き魚を食べてはその骨の曲率が「美しい」と言います。菜穂子に対しても褒め言葉は「きれいだよ」だけです。二郎は菜穂子が好きなのではなく、端的に彼女の美貌が好きなだけでした。

 僕が最初に、「あれ?」という違和感を感じたのは、計算尺を返して貰った二郎が教室を飛び出していったとき、菜穂子ではなく、菜穂子の侍女のことを想っていたときです。前情報でだいたい二郎と菜穂子が結ばれることは分かっていたので、どうして菜穂子ではなく、その侍女のことを二郎が好いているのか理解できませんでした。
 にも関わらず、後に菜穂子と再開して恋に落ちた二郎は、堂々と「はじめて会った時からあなたが好きだった」と爽やかに言います。薄情者なので、このような白い嘘を付くことには全く躊躇がありませんね。
 かつては侍女の「美しさ」が好きで、今は成長した菜穂子の「美しさ」が好きです。目の前に美しいものがあればそれが好きです。

 だから、「二郎と暮らすために、まず結核を治す」と山の療養所へ入院した菜穂子のところへ、二郎は一度も見舞いに来ません。
 それどころか、「大丈夫?心配してる」と1,2行書いた後に、(多分延々と)「今、仲間達とこんなに面白い仕事してるよー」と書いた手紙を菜穂子に送ります。二郎は自分のことしか考えられません。

 この辺りで、ようやく菜穂子は二郎が薄情であることを悟ります。
 自分が、一人の人間として「普通に」愛されているわけではなく、ただ「今のところ外見が美しい」から好きと言われているだけだと悟り、山を下りて二郎の元へやって来ます。
 ただルックスだけで、好きだと言われていても、菜穂子の方では本当に二郎のことが好きなので、くじけずに病を押して捨て身で、言わば命がけで山を下りたわけです。
 命がけで山から街へ、二郎の元へやって来て、二人は即席で結婚式を執り行い結婚しますが、仕事で忙しい二郎と、病身の菜穂子の生活は全く噛み合いません。「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」だけです。二郎が仕事をしている間、菜穂子は一人で治療も受けずにずっと布団に寝ていて、その様子を見た二郎の妹は「かわいそう」と泣いて兄に訴えます。菜穂子は二郎に美しい所を見せなくてはならないので、どこにも出かけないのに毎日化粧をしています。
 妹の訴えに対して、二郎は「僕達には時間がないから、一日一日を大事に過ごしているのだ」と答えるわけですが、これは全く頓珍漢な答えです。だって、二郎は朝から夜遅くまで仕事をしているだけで、特に菜穂子と多くの時間を過ごすわけではないからです。もしも、本当に大事にしているのであれば、菜穂子は療養所に返して、二郎が週末にでも訪ねるというスタイルにすればいいはずですが、二郎はそんなつもり毛頭ありません。病身で命を削ってだろうがなんだろうが、朝「いってらっしゃい」と美しい菜穂子に言ってもらって、一日美しい飛行機の設計をして、夜遅く帰ったらまた美しい菜穂子に「おかえり」と言ってもらう。それが彼にとっての「大事にすごす」です。菜穂子の健康も、二人の未来も、菜穂子の望みも、そんなもの知ったことではありません。

 ある日、飛行機の設計が終わり、徹夜明けで帰ってきた二郎が、菜穂子の隣にバタンキューと眠ってしまうと、菜穂子は二郎の掛けていた眼鏡を外します。美しいものを追い求める男の眼鏡を外すのは「美しい私を見るのは、もう最後だ」というサインです。
 翌朝、菜穂子は散歩に行くと嘘をついて家を去り、また山の療養所へ向かいます。これ以上、美しい状態を二郎に見せることができないくらいに病が進行したことを自分で分かっていたからです。喀血したり、しきりに咳き込んだりする姿を二郎に見せるわけにはいきません。そんなことをしたら、途端に二郎に嫌われてしまうことを菜穂子は分かっています。

 菜穂子が去った後、二郎の設計した飛行機のテスト飛行が行われます。今までは全てのテスト飛行が失敗で、急旋回などの負荷を掛けると翼が折れたり、機体が空中分解したして墜落していました。
 でも、今回は急旋回でもしようかという瞬間に、山の方へ風が吹いて、機体は美しく飛び続けます。ええ、もちろん、この山へ吹いた風は菜穂子の命が尽きたことを暗示するものです。
 二郎の飛行機は飛び続け、菜穂子は死にました。

 この後、夢の中で二郎は菜穂子に「あなたは生きて」と許されます。
 これは、アニメに身を捧げてきた宮崎監督の、自分に対する許しだと思います。

 菜穂子のことを中心に書いて来ましたが、この映画には別の大きな主題もありました。それは、ここ数ヶ月、特にベーシック・インカムのことを真剣に考えるようになってから僕が考えていたことに似ている、というか、僕とは全く反対の意見で「ピラミッドのある世界が良い」というものです。

 ピラミッドを、僕も本当に例にあげて喋っていたので、この部分が実は一番強く印象に残っています。
「ピラミッドのある世界と、ない世界、どちらがいいか」
 という問いに、二郎は、つまり宮崎駿は「ある世界」と答えます。
 僕は「ない世界」と答えます。

 何の話かというと、ピラミッドのある社会というのは、ピラミッドのような美しいものを、天才的なインスピレーションの具現化を沢山の普通の人々の苦しみが支える社会のことです。
 この映画でいえば、二郎みたいな天才が飛行機を作ることを、他の才能のない人は苦しくても支えるべきだ、という話です。菜穂子の苦しみは言うまでもありませんし、二郎が飛行機の勉強や設計、試作に使うお金もそうです。途中、二郎は親友に「飛行機の設計に使うお金で日本中の子供にご飯を食べさせることができる」と言われています。そうは言っても、友達も二郎も「じゃあ、飛行機のお金を貧しい人々に回そう」なんて思いません。自分達は恵まれていて、好きなことができてラッキー、というのが二郎達のスタンスです。自分達の作った飛行機が、戦争で使われて人が殺されるわけですが、それも大した葛藤なく「お陰で好きなことができてラッキー」という感じです。

 主人公、堀越二郎は、裕福な家庭に育ち、才能に恵まれ、大学卒業後は三菱に鳴り物入りで入って、上司にも部下にも非常に恵まれます。生きにくい時代を描いたということですが、基本的に庶民の生活と二郎は全く関係がありません。銀行の取り付け騒ぎなどで騒然としている街を通るのも、上司と一緒に車に乗ってで、窓から慌てる人々を「ふーん」と眺めているだけです。
 エコな左翼人みたいなイメージにまみれていますが、宮崎監督自身、裕福な家庭に育って学習院を出ています。最終的なところでは、宮崎さんのメンタリティはそういうところに立脚しているのだと思います。でも、そういうのはポリティカリー・コレクトではないので、今まで言わなかった。

 才能溢れた人が傍若無人に振る舞い美しさを追求すること。他の人々、特に庶民がその犠牲になること。そういうものが、残酷だけど、でも残酷さ故に余計に美しいのだという悪魔の囁き、宮崎駿の本音を、この映画は大声ではないものの、ついに小さな声で押し出したものだと思いました。
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TETSUO rave part1 自然編

2013-07-07 19:14:10 | Weblog
 ちっぽけな橋の上に座り、水面の方へ脚をブラブラさせながら、プラスチックカップに入ったコカコーラを飲んでいる。絶え間なく変化する水面の形状が、光の屈折方向をあちこち動かし、その所為で水中の光景はフラフラ定まらない。川底の石も、魚たちも、落ちる白い光も、全てが定常を知らず、どうして僕はさっきまでこの景色をまるっきり静かなものだと思っていたのだろう。

 朝は7時を過ぎていたが、まだ誰も起きてこない。
 ふと見ると、僕の座っている左隣に、一匹の黒い毛虫が歩いていた。彼は、ある地点で立ち止まると、頻りに地面を確かめている。一体そこに何があるのか、僕には良く分からない。でもそのポイントが、彼はどうしても気になるようだった。
 毛虫が地面を確かめているのを眺めていると、やがて一匹の蝿がやって来て、僕と毛虫と同じように、橋の上に止まった。彼は橋の上を素早く歩き回り、毛虫の側に来ると、今度は慎重な面持ちで毛虫に近づいた。毛虫が気になるのか、毛虫の気にしているものが気になるのか、これも僕には良く分からない。そういうことは彼らにしか分からない。蝿は毛虫に触れると、一瞬だけピクリと停止して、そして飛び去った。
 毛虫は毛虫で、地面に興味をなくしたのか、僕とは反対の方向へ橋の上を歩き始めた。人間が10秒ほどで渡る橋を、この毛虫はどれくらいの時間で渡るのだろうか。

 ゆっくりと、しかし確実に遠くへ歩いて行く毛虫を見ながら、僕はあること気が付いた。自然に対する見方が、昔と決定的に変化している。子供の頃なら、毛虫がいたら、ただ避けていた。蝿というゴミを連想させる生き物が何を考えているのかなんて、考えもしなかった。
 そういえば、さっき歩いていて、シカや、それより幾分大きな生き物の足跡を幾つか見つけたけれど、この川原で足跡を見つけたのははじめてのことだ。きっと、昔はそういうものが見えなかったんじゃないだろうか。
 子供の頃、川や山はただの遊び場で、虫は邪魔で気持ち悪いものだった。いつのまにか、それらは随分といとおしいものに変化していた。
 僕は思うのだけど、もしも山や森林に、何かの精のような、霊魂のような、トトロのような存在があるのだとしたら、それらは子供にしか見えないのではなく、大人にしか見えないのではないだろうか。

 いくつか前の記事に「TETSUO rave part1 反省編」を書いたけれど、これはその翌朝の話で、パーティーの後、僕は夜を一人外で明かした。厳密には、テントや車内に寝場所がなかったわけではないが、多少の雨にも関わらず、どうしてか外で眠ろうと思った。
 準備とパーティーで忙しく、一日ほとんど何も食べていなかったので、燻っている焚き火の中からアルミホイルに包まれ焼け焦げているドライカレーを拾い出し、全部食べた。体が猛烈にカロリーを欲していて、普段はほとんど口にすることのないコカコーラもガブガブと飲んだ。もうみんなテントに入って眠っていて、僕は一人だった。
 みんながキャンプを張っている地点から、川をいくらか上流へ歩いて行くと、僕が何度もテントを張ったことのある、いわゆる「お気に入りの」川原がある。ドライカレーとコーラを摂取したあと、そこへ向かって歩き始める。猛烈に眠たい。装備は最低限で、寝袋の代わりにサバイバルシート、ライト、ライター、レザーマンのナイフ。
 川を臨む岩の上を歩いていると、深くなって流れが緩やかな淵に、三匹の大きな魚が泳いでいる。恥ずかしい話だが、僕は魚の名前がほとんど分からない。僕は水の中を知らない。

 川原は、形状を変えていなくて、まだ十分な広さを保っていて、僕はそこへ下りてシートを広げ寝転んだ。上流へ少し歩くだけで、気温が随分と低くなっていて寒い。このままでは到底寝れないので、急いで枝を拾い集めて小さめに焚き火を起こした。
 暖かさは重要で、火は偉大だ。
 焚き火の側で、僕はうつらうつらと眠った。
 谷間に沿って、大きな鳥が、頭上を飛んで行く。

 それほど長くは眠っていない、周囲がすっかり明るくなり、もう誰か起きているだろうかと、僕は焚き火を消してシートを畳み、脱いで乾かしてあったビブラムを履いて、みんなのキャンプへ戻った。意外にもまだ誰も起きていなくて、仕方なくコカコーラをカップに汲み、僕は橋の上に座った。その後、しばらく川を眺めた後、毛虫の存在に気が付いた。毛虫が遠くまで歩いて行った頃、今度は三脚とカメラを担いだ、朝早い一人のハイカーが現れた。僕と彼は自然に挨拶を交わし、3分程立ち話をした。そろそろ、みんなも起きて来ることだろう。



 

 
 
 
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書評:『死刑』 森達也

2013-06-13 18:48:50 | 書評
死刑 (角川文庫)
森達也
角川書店


 知らないことがたくさんある。
 もちろん、そんなことは常識だ。僕達はこの世界のことをほとんど何も知らない。知らなくても(たぶん)問題なく生きていけることも知っている。日々の糧を得るために会社にでも行き、決められた仕事をして帰り、給料で食べ物を買い家賃を払う。結婚して子供が生まれると、自立と家族を手に入れた一人前の人間だと社会的な認知を受けて、あとは特に疑問を抱かなくとも死ぬまで惰性で暮らせるだろう。僕達の社会ではそれを幸福と呼んでいる。

 もしも、知らずとも幸福に暮らし生涯を終えることが可能であるのなら、世界を知りたいという欲求は一体どこからやって来るのだろうか。

 多くを知れば知るほど、きっと日常生活は崩壊する。約束されていた幸福は彼方へ飛び去る。目の前に置かれた快楽を提供するはずの装置が、途端にガラクタに変化する。
 たしかにこれらは精巧にできていた。一部は本当に僕達の為に作られたものも混じっている。しかし、大半がただの作り物で、彼らの為に作られたものだった。まったく良くできた動物園だ。旭山動物園とでも名付けておこう。違う、人間園か。
 あそこで飼われているシロクマは「その習性に従ってガラス越しの人間をアザラシと勘違いして勢い良く跳びかかる」というショーを披露するらしい。食べ物を取るという動物としての本能を下らないショーに利用されている。窓越しに見えているのはアザラシではなく保護された人間達の頭部で、人間とクマを隔てる分厚いアクリルガラスは絶対に破れないことが計算済みだ。彼の爪は永遠に獲物に触れることなく、ただピエロを演じた見返りに人間からエサをもらって生き延びる。丁度、僕達がそうしているように。

 エサはエサだ。
 いつまでもそんなものばかり食べていられない。
 だから僕達は世界を知りたいと思う。
 分厚いアクリルに穴を穿つための道具を手にしたいと思う。

 前書きが長くなった。
 僕は自分がどうして『死刑』だなんて重々しいタイトルの本を読みたいと思ったのか、自分では良く分からない。どうして死刑なんて、如何にも重苦しいことを知りたいと思ったのだろうか。
 
「人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う」

 という副題がなければ手に取らなかったかもしれないし、森達也が書いたのでなければ読まなかったかもしれない。はっきりしていたのは、死刑というタイトルを見た時、自分が「そういえば死刑について何も知らない」と思ったことだ。

 「何も知らない」は自分が想像していた以上の「知らない」だった。

 まず、僕は死刑制度は比較的「常識的」なものとして世界に広く存在しているのだと思っていた。
 ところが現実に死刑のある国、死刑存置国は世界に58カ国で、国名を列挙すると

 アフガニスタン、アンティグアバーブーダ、バハマ、バーレーン、バングラデシュ、バルバドス、ベラルーシ、ベリーズ、ボツワナ、チャド、中国、コモロ、コンゴ民主共和国、キューバ、ドミニカ、エジプト、赤道ギニア、エチオピア、グアテマラ、ギニア、ガイアナ、インド、インドネシア、イラン、イラク、ジャマイカ、日本、ヨルダン、クウェート、レバノン、レソト、リビア、マレーシア、モンゴル、ナイジェリア、朝鮮民主主義人民共和国、オマーン、パキスタン、パレスチナ自治政府、カタール、セントキッツネビス、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、サウジアラビア、シエラレオネ、シンガポール、ソマリア、スーダン、シリア、台湾、タイ、トリニダード・トバゴ、ウガンダ、アラブ首長国連邦、米国、ベトナム、イエメン、ジンバブエ

 となっている。
 (本の中でも存置国は列挙されているが、ここではhttp://homepage2.nifty.com/shihai/shiryou/abolitions&retentions.html から引用)

 
 正直なところ、僕はこのリストアップされた国名を見て強く驚いた。
 森さんも書いているように、別に他所の国は他所の国だし、日本に死刑を行う正当な理由があるのであればこのリストには何の意味もない。先進国がほとんどないことも気にしなくていいだろう。
 でも、もしも日本に強い正当な理由がないのであれば、僕達の住んでいるこの国は結構変わったポジションに立っていると言わざるを得ない。
 僕はこんなことすら知らなかったわけだ。
 僕にはヨーロッパ出身の友達も、ヨーロッパに住んでいる友達もいるけれど、死刑の話なんてそういえばしたことがなかった。目にする映画、ドラマ、物語はほとんど、先進国では珍しい死刑国、日本とアメリカのものだったので、死刑は普通に出てくる。だから僕はうっかりと死刑を極々一般的なものだと勘違いしていた。極々一般的だけど、自分とは何の関係もないシステムの一部だと。死刑があるとEUに加盟できないことも知らなかった。

 本書の中で森達也は様々な人間にインタビューを行なっている。途中からロジックが放棄され、「情緒」が柱に据えられる。「なんだそれ!?そんなことでいいのか」
と思われるかもしれない。
 本書に出てくる登場人物の全員と、森達也の「論理的な結論」は「死刑は存在する正当性がない」だ。でも僕達は「死刑よあれ」と思っている。
 死刑廃止論者達はずっとこの論理的な帰結を主張して来たが、人間というのはそれではどうやら動かないのだ。ならば、視点はやはり論理を超えて感情や情緒の世界へと移されるべきだろう。

 僕達がどの程度「死刑とあれ」と思っているのかというと、2004年の世論調査で「場合によっては死刑もやむを得ない」にイエスと答えた人は81.4%。設問が変わってしまうが1989年の「どんな場合でも死刑を廃止しようという意見にあなたは賛成ですか」に対するノーが66.5%。
 1989年からの15年で死刑支持者の割合は増加している。
 そして、それに呼応するかのように死刑執行が増えた。

 変な言い方だか、アメリカでですら死刑は減少傾向にあるという時期に、日本では死刑が増加していて、さらに言うのであれば、アメリカでは死刑の情報がオープンにされているのに対して日本では死刑の情報が隠されている。
 実は、国会議員で編まれた「死刑廃止を推進する議員連盟」というものが1994年に設立されているのだが、少なくとも本の出版された2008年においてこの議員連盟はサイトすら持っていない。もちろん、死刑賛成の国民が多い中でおおっぴらに活動しては票に関わるからだ。

 ここで立場を表明しておくと、僕はたぶん死刑存置なんじゃないかと思う。たぶん。本を一冊読んだところで答えの出せる問題ではない。

 本書における森達也の結論は、

「冤罪死刑囚はもちろん、絶対的な故殺犯であろうが、殺すことは嫌だ。
 多くを殺した人でも、やっぱり殺すことは嫌だ。
 反省した人でも反省していない人でも、殺すことは嫌だ。
 再犯を重ねる可能性がある人がいたとしても、それでも殺すことは嫌だ。

 結局それが結論かよと思う人はいるかもしれない。何とまあ幼稚で青臭いやつだとあきれる人もいるだろう。」

 正直なところ、結局それが結論かよ、と僕は思った。
 本文中での森さんの心の揺れを汲めばこれを本当に結論だと言っていいのかも良くわかない。

 自身の結論も明確には示さず、紹介した本の著者の出した結論にも「これは結論ではないのではないか」と言う、非常に曖昧な文章になったが、これ以上意見らしいものは僕には持てない。

 ただ、最後にこれまで知らなかったがこの本で知ったことを箇条書きにしておこうと思う。

 ・日本のメディアでは殺人事件の報道割合が他国のメディアに比べて突出して多い
  →日本人は殺人事件が好きなのかもしれない。

 ・明治大学博物館の色々な拷問器具が見れるコーナーは人気がある。
  →人間というのは残酷なことが好きなのかもしれない。

 ・今の死刑囚は他の死刑囚とコミュニケーションを取ることもなく、週2,3回30分の運動の時間すら1人で過ごす。運動場は10平方メートルから15平方メートルで、半分以上がなんと屋内。4畳半程の独房には窓があっても磨りガラスなので外が見えない。面会人がいない人も多い。つまり誰とも話をしない。死刑執行が言い渡されるのは朝食後で、言い渡されて大体1時間後に殺される。そんな状態で平均約8年間を過ごす。

 ・死刑の方法は絞首刑だが、確実に死ぬまで30分間吊るしておくのが慣例になっている。

 普通に暮らしているとまったく見えないこのような場所が、この日本にある。

死刑 (角川文庫)
森達也
角川書店
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量子力学ミニレクチャー@つくるビル(2013年5月23日)

2013-06-12 20:20:35 | Weblog
 先月の終わり「量子力学のお話会」を、五条新町の「つくるビル」で開催させて頂きました。当初「7,8人でテーブルを囲んで90分くらいで小さくやってみよう」と言っていたのが、10名の方に来て頂き、調子も出てきて2時間半喋り続けてしまいました。
 はじめての試みで至らぬ点も沢山あったかもしれませんが、楽しんで頂けたようで良かったです。
 無理矢理詰め込み過ぎた割りには「あっ、あのことに触れてなかった」という事があったり、図の見方を説明していなかったり、色々と反省もしましたが、僕も楽しい時間を過ごさせて頂きました。

 終わるまで全く気にしていなかったのですが、後日あることに気が付きました。
 僕はこの小さなレクチャーを渡邊あ衣さんの作品の前で行うことになったのですが、個人的にはこれは象徴的なことだったのです。

 前々回の記事にも書きましたが、僕は異常に長い間大学にいて、その間いくつかの「分類」の中で、どれも選択しきれずに悩んでいました。平たく言うと優柔不断かつ居場所がなかったということです。
 大学入学時、僕の選択した学科は電子情報工学科でした。当時の僕は「意識」というものに強い興味を持っていて、さらに「人工知能は意識を持ち得る」と信じる「強い人工知能」論者だったので、生物学にあまり興味がなかったこともあって、人工知能からのアプローチで意識の問題に迫ることができないかと思っていました。
 だから最初から入りたい研究室も決まっていて、一回生の頃からその研究室には出入りさせて頂いていました。

 ただ、最初にクラスのみんなでラップトップをLANに繋いでプログラミングの授業を受けた時、「僕はここには属していないんじゃないか」という不安が過ぎったのを覚えています。1998年の話でまだPentium1、メモリ64メガくらいのラップトップが20万していた時代です。僕はこの時までほとんどパソコンを触ったことがありませんでした。
 人工知能といえばほとんどソフトの話なわけですが、なんと僕はソフトには本来あまり興味がなかったのです。ソフトよりも実際に物理的に動きまわるハードが好きでした。AIをほぼロボットと同一視して、ロボットという形で物理的実体の制作をする日がそのうち来るだろうと思っていたのですが、その前に制御理論の深淵な世界が横たわっていました。その研究室の先生に「動くものを作りたいというのは、そりゃ工学の世界の人間として勿論分かるけれど、でも今はまだオモチャしか作れない、オモチャでいいんだったら作ればいいけど、俺はオモチャには興味ない」と言われたのと、確かに人の意識とは全然関係のないオモチャしか作れないことも分かったので、少しづつ興味を失っていきました。

 オモチャ。
 人の意識を云々するには、オモチャはあまり役に立ちそうにありません。
 でも、僕はもともとはオモチャに興味がありました。
 オモチャというか、発明というべきか。
 ずっと科学者になるのだと思っていたのですが、子供のときに思い描いていた科学者というのは発明家だし化学者だしエンジニアだし物理学者だし、とても漠然としたものでした。

 人工知能という縛りを外してみると、途端にクローズアップされてきたのがプロダクトデザインです。幸い、僕の大学にはプロダクトデザインの学科があって、友達も何人かいました。
 正直なところ、最初僕はデザインの人々をあまり快く思っていませんでした。
 勝手なことばかり言って作れないくせにお絵かきして偉そうなこと言ってる人達、という風にしか捉えていませんでした。
 同じ学科で仲の良かった数少ない友人の1人が、当時九州芸術工科大学への編入を考えていて、僕に入学案内を見せてくれました。そこには学生作品の一例として「リニアモーターバイク」なる「作品」が載せられていて、この人はこれを自分の作品だというけれど、どうせ中身を実装するのはエンジニアの仕事だし、何を適当なこと言っているのだろう、と思ったのを良く覚えています。
 
 デザイナーは基礎研究もしないのに、その成果だけを華々しく流用してずるいと思っていて、それはいつの間にか「僕もこのずるいポジションに立ちたい」に変わって行きました。
 こういう書き方をすると、まるで「おいしいとこ取り」だけをしたかったように見えますが、実際にオモチャの作れるプロダクトデザイナーは楽しい仕事に違いないし、それにこれは所謂「発明家」のスタンスだったので、子供の頃、発明家をクールだと思っていた僕にとってはあまり違和感のない職業でもありました。

 そうして、僕は自分の学科の講義に出ないでデザイン関連の講義ばかり受けるようになり、やがて正式に学科を変更しようと思うに至ります。ただ、これは書類を提出しに行く途中にばったり会った昔の友達と話していて思いとどまりました。

 そんな頃に量子力学の講義を受け、僕は決定的な衝撃を受けます。厳しいことで有名な教授が担当された講義でした。水素原子のシュレディンガー方程式を解く程度までの初歩的な内容でしたが、とても面白い講義でした。
 講義中に外村彰の電子ダブルスリット実験およびアハラノフ=ボーム効果の観測が紹介され、講義の後僕は個人的に先生にビデオ(VHSです)を貸して頂きました。

 すっかり量子力学に魅了された僕は、それをメインで使う研究室に入ろうと思います。ところが、僕の学科は電子情報工学科であって物理学科ではないので、バーンと「量子論!」を看板に挙げた研究室はありません。半導体工学の一旦として量子力学は使われますが、せいぜいその程度です。でも1つだけ量子論をバリバリ使う物性理論の研究室がありました。
 物性という分野は、あまり興味のないものでした。
 僕はおおまかに「大きなもの、動くハード」が好きで、「小さなもの、ソフト」がそんなに好きではありませんでした。だから化学にも材料工学にもほとんど興味がありませんでした。もっと大きなバーンとした物理学か、あるいはロケットみたいなものが好きでした。派手なものが好きだったということかもしれません。
 だから、物性かあ、というのが最初の感想です。

 そんな折、図書館で物理学の本を漁っていると『物質の中の宇宙論―多電子系における量子位相』という本が目に飛び込んできました。
 当時の僕はこの本の中身をほとんど理解することができずさっと目を通して返したのですが、前書きに「宇宙というのは、地球から遠い場所のことではない、我々の目の前のあるスプーンの中だって、当然この宇宙の一部であり、だから我々はこのスプーンの中を詳しく考えることで宇宙論を語ることもできるのだ」というようなことが書かれていました。
 言われてみれば当然、目からウロコとはこのことでした。

 そうして僕は物性物理の世界に足を踏み入れます。

 長々と書きましたが、AI、デザイン、量子物性という興味対象の変遷はクリスプに起こったものではなくて、ファジーなもので、そういうものを通過するうちに自分の立脚点というものが良く分からなくなりました。
 さらに友達関係でも、電子回路の講義を受けたあとにランチを食べる友達と、知識デザイン論の講義を受けたあとにお茶を飲む友達と、文学部の講義に潜るときの友達と、美術館へ行くときの友達と、クラブに行くときの友達、なんかが全部バラバラで、トレンディドラマに出てくる仲良しグループみたいにずっと一緒に行動できる友達がほとんどいませんでした。
 しっくりと所属する集団がなく、科学と芸術の出会いを標榜はするものの現実には分断されたままの大学で、1人その間を中途半端にウロウロとして居心地の悪い思いをしていました。

 だから、たとえ小さなイベントであっても、色々の人々にお集まり頂き、アートに囲まれた空間で物理学の話ができたことは、僕にとってとても嬉しくてしっくりとするものでした。
 このような試みが定期的に開催できたり、あるいはストリートミュージシャンのように続けていければいいなと思っています。

 来て頂いた方も、オーガナイズ、ご飯などで協力して頂いた方も、本当にありがとうございました!
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TETSUO rave part1

2013-06-11 13:19:06 | Weblog
 蛍にはまだ早すぎると思っていた。でも、谷間を高く跳ぶ薄らかな緑色の輝点は確かに蛍の放つ蛍光だった。僕は車で5分程、山中の無人駅まで、けして広くはない道を走り、友達の友達を迎えてきたところだ。一通りの自己紹介を車中で済ませ、ドアを開け外へ出ると、一匹の蛍が飛んでいた。川原からは音楽とウーハーの生み出す空気の歪みが伝わってくる。時間のことは良く覚えていない。ただ、街よりずっと早く闇の降りる谷間に、見えるのはその蛍の光と、そして僕達の付けたサイン、グロースティックの矢印だけだった。懐中電灯を点け足元を照らす。川の蛇行に沿ったカーブを曲がると、向こう側に焚き火と電灯とLEDとプロジェクターの光、そして人々の影が見える。
 今日は6月の1日目。梅雨入りだ梅雨入りだと、さんざんに脅された雨は2日前にすっかり上がり空は晴れている。
 2013年の夏は、このようにして開かれた。


 レイブをしようと言っていたのは、もう冬のことかもしれない。同居人の1人である友人の車で買い物に出て、カーステレオとウーハーの鼓動が背骨を揺さぶった時、僕は色々なことを思い出した。
 そういう風に身体を通じて音楽を聞くのはとても久しぶりだった。

 度重なる引っ越しと長い賃貸生活で、いつの間にか家からはまともなオーディオが1つもなくなっていて、PCのスピーカーとヘッドホンだけの生活になっている。もしもそれなりの音量で音楽を聞きたくなればヘッドホンを使うほかなく、しかし当然のことだが僕達は音楽を耳だけで聞いているわけではない。ヘッドホンから負け惜しみのように叫ばれる音楽には決定的なアンバランスが内包されている。

 クラブにもすっかり足を運ばなくなった。10年前にはまだ感じ取ることができた喜びや非日常性のようなものに、いつの間にか完全に慣れてしまい、そこはただの煙草臭くて狭い空間になりつつあった。高校一年生にとってはビレッジバンガードは興味深い店かもしれないが、30歳くらいの人間からみればガラクタ置き場にしか見えない。そういうことだ。少なくとも、ある年齢を超えた人間がクラブにただの客として行くことにはいくらかのアンバランスが内包されていて、僕はそれを無視できる質ではないようだった。

 かつて何度か開いた鴨川でのパーティーには、町中であることの当然の帰結として警察がやって来るという厄介な問題があったし、僕も迷惑な人間になりたいわけではないのでウーハーを使うこともできなかった。町中の開かれた場所は、アクセスも良くて魅力的だったが、結局のところここにも音量にまつわるアンバランスが存在していた。騒音はあれど響き渡る音楽のない街に、僕は暮らしている。

 防音の行き届いた狭い部屋の中ではなく、壁のない開かれた空間で、誰にも文句言われることなく、できれば美しい空気の中、遠くまで音を響かせたかった。野生の生き物たちには申し訳ないけれど、一晩だけ。清野栄一が昔「地の果てのダンス」に書いたように。
 そうだ、パーティーをしよう!
 気温が上がったらレイブをしよう!
 僕達はまだガスヒーターの温めるダイニングテーブルで、そのような会話を交わした。

 この半分は流れ去ったかのような計画が、先月復活して、僕達は計画を立てた。
 これも度重なる引っ越しのせいで、レイブを開催するのに必要な機器は僕の手元からほとんどなくなっていた。必要になったらまた買えばいいだろう、兎に角今は引っ越しが大変だ、というように捨て去ったわけだが、現実には「また買う」為のお金までなくなっていて随分な後悔が頭を過る。
 幸いなことに、友達がかなりのものを持っていて、オーディオは彼の車から下ろしたものを流用することにした。
 心臓である発電機は昔奮発して買ったものがあるのだが、何が起こるか本当にわからないもので保管場所にアクセスできなくなってしまい取り出すことができない。どうせ古くて重くてうるさい物だったのでレンタルすることにする。
 発電機のレンタル自体はかなり早くに予約してあったけれど、うっかりして直前まで直流の出力を確かめていなかった。3日前に電話して型番を聞き、ネットで検索すると直流は「バッテリー充電専用の12Vー8A」で100Wもない。これでは使い物にならないので、1600Wある交流側から電源を取るためにコンバーターを探して、予算がほとんどないので信じられないくらい安い物を買った。信じられないくらい安いコンバーターは、やはり信じてはいけなくて出力電圧が表記では12Vなのに、測定すると9Vしかない。360Wまで出せると書いてあるけれど、となればこれも嘘だろう。
 困った僕はもう10年以上会っていない友達と連絡をとって、いくらするのだか分からない完全にキチンとした安定化電源を借してもらった。本当にありがたいことに。もうパーティー前日のことで、まだあれこれと残っている準備のこともあり、十数年ぶりに駅前ロータリーで会って十数分で別れた。最後に会ったのは彼の結婚式で、もう彼には小学生の子供が2人いる。


 当日は朝からてんてこ舞いだ。
 基本的にはほとんどの準備を2人でしなくてはならなかったし、小さなトラブルが大体いつものように続出する。忘れないようにと数日前から「持ってくるもの置き場」に出しておいたイヤホンジャックからピンプラグへの変換ケーブルも、どうしてか見当たらない。それも念の為に買っておいた予備までご丁寧に消えている(ちなみにこれは今に至るまで消えたまま)。アンプ等を結線したまま運べるようにケースを加工したり、発電機を受け取りに行ったりガソリンを買ったり、使えないことが前日に判明した映像ケーブルの新しい物を買いに行ったり、飲み物と食料を買い出しに行ったり、気が付くと何も食べないまま既に夕方が迫っている。

 僕はかつて「なんでも一日あればできる」と思うような、所要時間に関して限りなく楽天的な人間だったけれど、度重なるピンチを経験して、時間の読みが随分と慎重になった。さっと想定した所要時間の2倍は絶対にかかる。特に集団で動く時はそうだ。
 時間があまりにもあっさりと過ぎ去ることを学習した僕は、一時期冷徹なタイムキーパーだった。そんなにのんきにしていては駄目だと、チームのみんなをせっついて回っていた。
 あるとき、夏の暑い時期、イベントの準備で動きまわって汗だくになった友達が、同じく汗だくになっている僕を見て「ちょっと一回休憩してシャワー浴びに帰らない?」と提案した。時間が既に押していたので、僕はその意見を却下したのだけど、なんだか自分が随分と酷い人間になってしまったような気がして後悔して、しばらく後にシャワー休憩を取ることにした。
 その頃から、あまり周りの人をせっつくことをしなくなった。正直なところそういった「うるさい詰まらない人」の役割にも疲れてきていた。「いいじゃん、いいじゃん、まあのんびり、遅れたら遅れたでいいし、コーヒーでも淹れようか」というような役割に対する羨ましさのようなものもあった。カチッと動くとのんびり動くの間でどっちつかずにサスペンドされた僕は、ここ3,4年間かなり自分を抑えこんで集団行動の際にイニシアティブを取らないよう心掛けていた。

 今回、2時間もしないうちにアンプが飛んでしまうという、音楽イベントとしては致命的なアクシデントが起こってしまったのは、そんな僕のせいだ。
 荷物満載の車で現地に到着したとき、まだそれほどの遅れも出ていなかった。発電機を回して会場を設営するときに、プロジェクターの電源ケーブルがないというかなり痛い事態が判明したが、それも照明のコードを一本加工してワニグチクリップとの組み合わせでなんとか乗り切った。
 ライティングと音と映像と焚き火が揃って、ようやく諸々の問題がクリアされてパーティーが開かれたのに、わずか2時間程でアンプが弾け飛んだのは痛烈だった。準備中に疲労が蓄積して来て「まあ大丈夫だろう」と行ったサボタージュが3点、即座に後悔の結晶として心臓の隣に析出する。
 後の祭り。

 (続く)
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12歳

2013-05-29 07:22:35 | Weblog
 もう34年間も生きてきたので、大体自分がどういった人間なのかも分かってきたつもりですが、僕は概ね勉強するのが好きな人間だと思います。
 今も学びたいことが山の様にあり、死ぬまでの限られた時間を考えれば、それらの大半を知ることなく人生を終えるのだろうと、儚い焦燥感も持っています。

 子供の頃から勉強することは好きでした。学校の勉強もできたと言っても多分文句は言われないと思います。
 だけど、学校の勉強というか受験勉強が、心の底から本当に大嫌いでした。
 宿題もほとんどしませんでした。
 もう完全にできることをこれでもかと繰り返すドリルが本当に嫌で、僕は計算ドリルの途中であまりのバカらしさに何度も泣きました。
 夏休みの宿題は始業式の朝にページをバラバラにして、友達に配って数ページづつ写してもらい、それをセロハンテープでくっつけて提出しました。
 中学生のとき、高校受験が本当に嫌で、未来からタイムマシンに来てもらって、そのまま未来へ連れて行ってもらおうと「絶対に捨ててはならない未来への手紙」を書きました。もしもいつか人類がタイムマシンを発明するとしたら、もしもこの手紙がその時まで保管されていて誰かが読んでくれたら。指定した場所の指定した時刻、つまりそのとき僕が数学の授業を受けていた教室の、その手紙を書き終えた一分後にタイムマシンが現れるはずでした。
 幸か不幸か、この試みは失敗に終わり、僕は高校受験どころか大学受験までするはめになりました。

 受験勉強が嫌だというと、色々な人が「でも受験をなくすには、偉い人にでもなって国を変えるしかないから、一旦きちんと受験勉強して京大か東大にでも行かなきゃね」とシニカルな口調で言いました。
 システムを壊したかったら、一度そのシステムに従えというわけです(人生は短く一度なのですが)。
 妥当と云えば妥当な意見だったと思います。
 それに、高校受験に失敗したら人生が終わるかもしれないとすら思っていた馬鹿で臆病な中学生にとって、本当に革命的な行為を起こすよりも、とりあえずは普通に勉強するしかないのだという意見は安全安心で魅力的なものでした。
 笑われると思いますが、当時はまだインターネットもなくて、「お受験」がトレンディドラマの主題になる程度には受験が重視されていて、田舎の一中学生としては「人生を棒に振るのは怖いから大学進学率の良い高校を受験する」という選択肢しか持てませんでした。
 さらに僕は小学生の時から科学者になると決めていたので、高校へ行って、大学へ行くという以外の方法を考えつきませんでした。まず革命を起こして受験をなくしてから改めて科学を学ぶ、なんてできるわけありません。

 今から思えば、革命は無理でもただ高校へなんか行かなければ良かった。勝手に勉強して大検でも取って大学へ入っても良かったし、別に大学へ行かないという選択もありました。
「自分で決めて、自分でしたことなのに。自分のせいだろ、誰に責任転嫁してるんだ」と言われると思いますが、「時間を返せ」と思っています。別に責任転嫁でなく、自分で後悔して「無駄な時間と労力とお金を取り返しが付かないくらいたくさん使ってしまった」と思っているだけかもしれません。とにかく受験勉強で失われた膨大なコストが惜しくて仕方ないし、今もまだ沢山の子供達がそのように過ごしていると思うと居ても立ってもいられない気持ちになります。

 僕は自分に怠惰な面があることを認めますが、子供の頃、宿題をしなかった僕は単なる怠け者だったのでしょうか。
 計算ドリルを放り出して、相対性理論の本を読んでいた僕は本当に単なる怠け者だったのでしょうか。
 今、僕はとんでもない書き方で自己弁護を書いています。
 そのことには十分自覚的なつもりです。
 でも、人にどう思われようともこれは書こうと思っています。

 受験勉強なんてと言いながら、僕は大学院時代、時給に釣られて塾講師をしていたことがあり、ある時、小学生の男子生徒が作ってきた工作を見てとても驚きました。
 僕は直接彼のクラスを教えたことはないのですが、彼は勉強を嫌がって廊下や事務所でグズグズ泣いている、いかにも子供っぽい子供でした。まさかこんなに精巧な工作ができるとは思いもよりませんでした。絵も上手で、聞けばご両親も彼の才能には気付いていて「だけど高校までは普通に頑張って勉強してほしい」と。

 その時、はじめて僕は気が付いたのです。
 それまでは嫌だと言いながらも「どうせならもっと真面目に受験勉強した方がよかったのではないか」という自責の念をどこかに抱えていたのですが、それが消えたとはいかなくても随分小さくなりました。
 僕に、彼が美術で見せるような才能があったかどうかは分かりません。たぶんなかったのだろうと思います。
 でも、少なくともやりたいことがあって、義務教育だか標準的な知識だか常識だかなんだか知らないけれど、そんなもの邪魔以外の何でもなくて兎に角嫌で嫌で仕方なかったのは同じだったのではないかと、勝手に彼に強く同情しました。
 子供のうちはまだ、なんでこんなに嫌で、なんでこんなに涙が出てくるのか、十分には認識できないし、上手く説明もできない。ともすれば自分は怒られてばかりいる怠け者でどうしようもない人間なのだと、社会は正しくて自分が駄目なのだと自分を責めるしかないんです。

 「高校までは普通に頑張って欲しい」という考え方はドミナントです。それどころか「大学まで」「就職と結婚まで」「定年まで」というのは普通のこととなっています。
 義務教育の内容が「標準で大事」だと信じられています。「偏りなく一通りいろいろ体験できる」とありがたがられています。でも標準ってなんでしょうか。「勉強が何の役に立つんですか」って子供がよく聞いていますが、あの問いは果たして答えられたのでしょうか。鳴くよウグイス平安京なんてどうでもいいです。覚えたい人以外は1200年くらい前でいいじゃないですか。覚えたいことは勝手に覚えます。僕は小学生のとき光速を約秒速30万キロではなくて 299,792,458(m/s)だと覚えていたし、ローレンツ変換の式だって覚えていました。ローレンツ変換にはルートも二乗も出てきますが、説明してもらえば中学生を待たなくても小学生で十分理解できます。漢字学習は全然しませんでしたが、辞書の引き方は知っていたのでどんな本でも読めました。もう兎に角放っておいてほしかった。中学生が微積分使ってテストの答案書いて何が悪いというのだろう。

 もう一度書きますが、僕は今自分がどういうことを書いているのか自覚しています。
 しばらく前に「性格が悪いので発言の裏を探り、常に悪く受け取ってしまう」というようなことをツイッターに書きましたが、このテクストが「子供のとき賢かった自慢」に読めることは十分承知しています。でもそうではありません。今皮肉を込めてわざとテクストと書きました。「文章」でも「作文」でも「テキスト」でもなくテクストと書きました。「賢い僕自慢」をしたいのであれば、僕はそういう小賢しいレトリックで済ませます。この文章は、単純にかなり腹を割って書いています。

 だいだい、勉強が好きだったというのは自慢でもなんでもありません。
 それはお菓子が好きだったとか鬼ごっこが好きだったとか言うのと何も変わらない。学問はもともと只の娯楽です。面白くて楽しいからという動機がなければこんなに発展したわけないです。「勉強が好き、というのは自慢」という文脈こそヘンテコな義務教育の生み出した偏見です。

 これを書いているのは、もしかしたら村上隆さんの、ご自身の作品「めめめのくらげ」に対する赤裸々な連続ツイートを読んだ影響かもしれません。
 村上さんは「今の自分はだいたい10歳くらいまでに触れたものでできているから、子供に向けても作っている」とおっしゃっていますが、これは僕も同じで、今の自分の構成要素はせいぜい12,3歳くらいまでに触れたものです。

 子供の頃、本を読むのが大好きでした。今、本を書いています。
 子供の頃、科学の本を読んだり実験するのが好きでした。今はアカデミックから下りてしまいましたが、少しだけでも物理学に貢献できないかと、まだ完全に離れるつもりはありません。
 子供の頃、発明と称して電子工作や大工の真似事をしていました。今、作りたいものがたくさんあって部屋の片隅で材料達が待っています。少しだけデザインについて学んだのも、デザインが発明とほとんど同じだったからです
 大工の真似事をしていたのは、友達の家の建築会社資材置き場で、今、僕の机の前には一面建築の写真が貼られています。
 小学生の時、日曜洋画劇場でBack to The Futureを見てすぐにスケートボードを買ってもらいました。まだ第三世代の大きな板でした。今、僕は日常の交通手段に第四世代のスケートボードと、新しく出てきたミニクルーザーを使っています。
 はじめて小手返しを教わった時の感動を今でも覚えていて、今僕の日常で行われる些細な運動は武術トレーニングを元にしたものになっています。
 訪ねたい旅先は、夏休みの廊下でゴロゴロしながら読んだ宝探しの物語のような、洞窟のある無人島です。
 いつも持ち歩いていた七つ道具の入った鞄は、当時買えなかったレザーマンのツールセットに姿を変えていつもポケットに入っています。

 どうしようもないくらいに僕は12歳の時から何も変わっていなくて、通り抜けてきた中学校だとか高校だとかはびっくりするくらい何も影響がなく、ただ単に邪魔でした。12歳の頃からいくらか成長したのだとしたら、それはほとんど自分勝手な読書と大学以降の教育のお陰です。
 ずっと変わっていなくても、12歳というのは遠い遠い過去で、自分が12歳だったなんて到底信じられないし、12歳の時の自分が自分だったなんて全然思えません。15歳でも、17歳でも。
 そして、僕は当時の自分を、あるいは彼ら達を見て、少しかわいそうなような、本当になんて何も知らなかったのだろうと、せめてネットがあったらと、そういうことを思わずにはいられません。
 これは別に直接的に不幸だということではないです。僕は素晴らしい両親の下、幸福な家庭で大切に大切に育てられて、良い友人にも恵まれました。
 ただ、僕は本当に無知で、そして「まっとうな」道から外れたらどうなるのか怖くて、その恐怖心にドライブされて生活していて、それを十分に自覚すらしていなかったのです。それをやっぱり愚かだったなと振り返らざるを得ません。
 無知故に駆られた恐怖で、システム通りに生活しました。大学生になるまで我慢しようと考え、実際に我慢しました。「多読なんかより、俺の作ったアクセントのプリントを暗記しろ」みたいな英語教師の教える、どうでもいい受験英語の授業を受けていたわけです。

 だから、大学は本当に嬉しかった。
 無論、大学にも変なところは沢山あるけれど、でも大学はそれまでの場所に比べたら圧倒的に素敵だった。そのせいか、なんと僕は大学に学部と院(と休学)を合わせて14年間も在籍していました。
 よく「いつになったら卒業するの、ほんとに学校好きだよねw」と嫌味を言われましたが、本当に好きだったのだと思います。

 これはやっぱり村上隆さんのツイートに触発されて書いた、僕の極々個人的な大学までの生活に対する感想です。
 基本的には文句と愚痴をつらつらを連ねて、それではと万人に対する教育をどうすればいいのかという代替案を示すことも僕にはできません。目の前にいる誰かに対してなら、もしかするとこういう風な教育がいいのではないかということを言えるかもしれませんが、「子供達」という漠然としたもともと一括りにできない対象について何も言うことはありません。だいたい既に僕は教育という単語に嫌悪感を覚えるような人間になっています。
 まとめも何もないのですが、ただ、高校生の頃までのように、目を塞いだまま、生きる為に死んでおくというようなことと、それを美しい頑張りだと勘違いするようなことはないようにしようと思っています。
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書評:『文化系のためのヒップホップ入門』

2013-04-04 20:09:27 | 書評
文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)
クリエーター情報なし
アルテスパブリッシング

 ここのところベーシック・インカムの話ばかり書いていましたが、今回は少し話を戻してヒップホップのことを書きます。
 しばらく前の記事で、都築響一さんのインタビューのこと、それに触発されてちょうど同居人の女の子が見ていた映画『サイタマノラッパー』を見たことを書きました。いつのまにか音楽にクールだけを求めて意味なんて求めなくなっていたこと、むしろ意味は邪魔だと思っていたということも書きました。
 今回はその続きです。

 都築さんのインタビューは重要だと思うので、引用した部分を再録しておきます。

《都築:それは、その時代その時代で、特に若い子たちの想いっていうものを、一番確実に表現する音楽のジャンルがあるんです。それはたぶん、40年くらい前だったら、自分が「あぁ?!」と思ってることを一番ダイレクトに表現できたのはフォーク・ミュージックだったかもしれない。そしてそれがパンクだった時は、「とにかく3コードさえおさえればいけるぞ」みたいなことでいけたと。そもそもの最初に、僕の地方巡りの仕事っていうのがあるんですけど、地方に行くと若い子たちがつまらなそうに夜中にたまったりしているわけじゃないですか。でもそこで昔みたいに、ギターで「とりあえずFを練習するぞ」とかではない。それがここ10年ぐらいはヒップホップで、「とりあえず有りもののビートで、とにかく自分のラップをやる」と。そして、それを中学校の体育館の裏で練習するみたいな、僕は特に日本ではそうだと思ったんです。それからやっぱり、ヒップホップは他の音楽に比べて垣根が滅茶苦茶低い。だって楽器がいらなくて、マイク一本でしょう。スタジオすらもいらないくらいで、夜中の公園とかで練習できる。一番お金がなくても練習できる音楽で、だから世界中に広まったと思うんです。僕は世界の田舎にも行くんですが、昔見ていた、ロックが世界中に広がっていく速度よりもヒップホップの方が早い。だって今、イランだってラップがあるわけだし、たぶん北朝鮮にだってあるかもしれなくて、これだけ包容力のある音楽形態ってなかなかないわけですよ。中国にロック・バンドもありますが、それはやっぱり資産階級じゃないとできない。だけどヒップホップの場合は、本当にラジカセ一個あればいいということがあるので、そういうヒップホップの形態の持つ力というのがありますよね。》

 あれから僕はヒップホップの本をいくつか読んでみたのですが、『文化系のためのヒップホップ入門』という本が素晴らしかったです。

 文化系のためのヒップホップ入門、とは随分ヘンテコなタイトルですが、タイトル通り文化系の為に文化的に書かれたこういう本は待望されていたはずです。
 ヒップホップはなんともヤンキーっぽい音楽で、そのままでは文化系にはなかなか飲み込めない。
 本文にもこのような記述があります。

《大和田:あと日本の場合、ニューウェーブを聞いてきた層は文化的エリートかサブカル・エリートが中心で、恐らく彼らは地元のヤンキー的価値観を憎悪しているんですよ(笑)。だいたい地方の中学や高校だと、ヤンキーや運動部が幅を利かせていて、オタクやサブカルはおとなしくしてるじゃないですか。「自分はこんなやつらと違ってエッジーなカルチャーに接しているんだ!」というギリギリのプライドだけで日々の生活をサバイブしているのに、その「新しいサウンド」の中身が地元主義だったり不良グループの抗争だったりすると心底勘弁してほしい、ということになるのかも。こういうのが嫌だから早く東京に出たいのにって(笑)。》
 
 そういうものをナマのまま口にするのがしんどいとしても、この地元主義や不良グループの抗争を音楽の歴史の文脈に嵌めこむことで、すなわち「文化の香り」を振りかけることで、口当たりを良くして食わず嫌いを治す効能がこの本にはあります。

 とはいうものの、「音楽の歴史」と先程書きましたが、本書の最初ではいきなり「ヒップホップは音楽ではない」と断言されてしまいます。
 では何かというと、「ゲーム」であって、どれだけ上手く言い返せるかという「プロレスやお笑いみたいなもの」だということです。
 だからゴシップとか抗争争いはヒップホップではとても重要です。
 大和田さんのゼミにアメリカ帰りのヒップホップ大好きな学生がいて、その学生は「誰が誰のレーベルに移った」とか「誰と誰が仲悪い」とか、そういうラッパー達の事情にとても詳しいのだそうですが、「彼がヒップホップを聞いているのを見たことはない」というようなことが書かれていました。そして、大和田さんは「そういうヒップホップの”聞き方”が意外に正しいんじゃないか」みたいなことも書かれています。

 プロレスとかゴシップとか、なんだか低俗なことばかり書いているようで、「前にヒップホップは日本を変えるとか救うとか言って広げた大風呂敷はどうなっているのだ」と言われてしまうかもしれませんが、この「プロレス」に実は鍵があります。
 肉体と肉体のぶつかり合いに。

 ええ、僕は、言葉が身体性を取り戻した、ということについて書こうと思っています。

 都築響一さんのインタビューを読み、そのあと『サイタマノラッパー』を見て僕が思ったのは「ヒップホップによって僕達は言葉に身体性を取り戻した」ということでした。
 当初、それをリズムとライムで説明しようと考えていたのですが、『文化系のためのヒップホップ入門』を読むと、いきなり体の話が出てきてしまい、しかもそれは僕が考えていたことよりも随分ダイレクトなものだったので、まずはそれを紹介したいと思います。

 冒頭、色々な音楽を長い間聞いてきたし、結構なんでもいける口だったのにどうしてもヒップホップは聞けなかったという話の後に、こんなことが書かれています。

《大和田:じつは5年前に足を骨折しまして(笑)。フジロック・フェスティバルでビールを飲みながらはしゃぎすぎて穴に落ちて、膝の陥没骨折で全治4ヶ月ですよ。その翌日からヒップホップしか聞けない体になってしまいました。

 長谷川:足を折ったんじゃなくて頭を打ったんじゃないですか?(笑)》

 なんだそれ?というような話ですけれど、どうやらそういうことのようです。
 この話は、本の後半にもう一度出てきます。

《大和田:当時暇があったので「骨折してヒップホップにハマる」ことについて一生懸命考えたんですよ。それで思ったのは、ロックという音楽ジャンルはやはり基本的な表現の回路が「内省」にあるということです。「子供のころのトラウマ」や「心の傷」などのステレオタイプがあって、個人的な内面の葛藤を表現するというイメージがロックにはある。それに対して、ップホップはどこまでも「身体の損傷」が問題になるというか、「お前は5発撃たれたかもしれないけど俺は9発撃たれたぜ」というように、決して内面に向かわない。徹底的に身体的であると。つまり何が言いたいかというと骨折はまったく「内省」に結びつかないんですよ。「心」に向かわない。これが「結核」や「潰瘍」であればどこか文学的なイメージと結びついてロックばかり聴き続けたかもしれないんですが(笑)》

 やはり、ヒップホップと身体性は切っても切れないもののようです。
 長くなって来たので続きは次回に書きます。

 (追記)この本を読むと、なんといっても長谷川町蔵さんと大和田俊之さんの知識量に圧倒されます。
 誰かが自分の好きなことについてバーっと立板に水の如く話しているのを聞くとき、内容が分からないとしても僕は嬉しくなってテンションが上がってしまうのですが、二人の対談形式になっているこの本でも同様の感覚を味わいました。
 曲名もバンド名も、もう全然分からないのですが、それでも楽しくてどんどんと読んでしまいました。
文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)
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ベーシック・インカム/社会的責任/伝統工芸

2013-03-27 17:50:06 | ベーシック・インカム
 ベーシック・インカムの批判に「社会的な責任からの逃避」ではないかというものがあります。
 労働というのは社会的な責任を果たすことでもあるので、労働をしないというのは社会的な責任を果たさないということだ、というわけです。

 これは耳触りの良い、もっともらしい意見に聞こえますが、「社会的な責任」ってなんだということをちょっと考えてみれば、あまり筋の通った意見でもないと解ります。

 「社会的な」活動だと言っていいと思うので、たとえば町内会の行事について考えてみた時、大抵の忙しいビジネスマンは参加できません。
 町内会の集まりなんかよりも会社の会議の方がずっと大事で優先されるものである、というのは現代人にとって常識です。
 そのビジネスマンがどんな仕事をしているのか、ということもここでは問題ではありません。「シゴト」というのは尊い何かだと一括りにされているので、内容は問われないわけです。
 だから、そのビジネスマンは効果不明瞭なサプリメントの広告のクリエイトを、子供たちが楽しみにしている夏祭りの町内会議に優先させます。
 これは現代社会の文脈では完全に正しいことです。

 しかし、社会的な責任という言葉を中心にして考え直してみれば、どちらが社会的な責任から遠いのかは意見が別れるのではないでしょうか。
 僕にはサプリメントの広告を作るよりも、町内の子供達がより喜ぶような祭りを考えるほうがなんとなく社会的な責任に近いような気がします。
 なんでも税金さえ払えばそれでいいのだという考え方は、もしかしたらそれだって十分に社会的に無責任なのかもしれません。

 「社会的な責任」と「賃金労働」というのは本来関係がありません。
 主婦達が、家事も労働だと賃金を求めて起こした運動が歴史上いくつかあります。
 こういうのを「リブとかフェミニストの連中がまた訳のわからないこと喚いてる」と片付ける無神経さが社会にはあるというか、なんとも不思議なことにドミナントなのですが、このような無視も、話が家庭の外に広がっていることを見つめれば続かなくなるかもしれません。

 アンペイドワークの問題は家事に留まらず社会を広く覆っています。
 たとえば地域の祭りを維持することに対して賃金は支払われません。
 「そんな、祭りなんてしたい人が遊んでるんだから、嫌ならやめればいいじゃん」という意見もあるかもしれませんが、この意見は経済的合理性のないものはこの世界から消えろ、という乱暴な意見です。「観光客からお金が取れて独立採算の成立する祭り」しか存在しない社会を僕達は本当に受け入れることができるのでしょうか。
 祭りに関わらず、惜しまれながら「経済的な事情で」消えているものは沢山ありますが、これは本当に仕方がないことでしょうか。

 僕は数年前まで仕方がないと思っていました。
 「伝統工芸の後継者がいないとか、商売が成立しなくて潰れたとか、まあ不要という証拠だから別にいいんじゃないの」と思っていたのです。
 僕は新自由主義者で市場を信じていました。
 なぜなら僕は合理的なことが好きだからです。当時は市場原理は合理的なものだと考えていました。残念ながら、現行の市場原理だけでは帰結として無味乾燥な世界を生み出すので、あまり合理的なものでもないようです。

 それに「不要」という言葉の意味することも深くは考えていませんでした。市場の判断というのは「欲しい人がいない」ということではなく、「欲しいかもしれないが、値段を鑑みて買うのはやめた」ということです。
 欲しい欲しくないとか、要る要らないとかいうことより、むしろ値段がポイントです。
 僕はこのことがあまり良く分かっていませんでした。

 物には値段があるという概念を一旦取っ払ってしまったら、どうでしょうか。それでもまだ100円ショップの包丁で料理をするのでしょうか。それとも一流の鍛冶職人が鍛えた包丁を使いたくなるでしょうか。
 僕達は物事の取捨選択を、ほとんど全部「値段」で行うようになっていて、しかもそれを「当たり前」だと思っています。
 これは多分非常に息の詰まった世界です。

 ベーシック・インカムが導入されると、この問題は解消されます。
 買ってくれる人が少なくて商売上がったりの伝統工芸竹細工屋さんが、「食うために」仕方なく廃業してタクシーの運転手をしたりということがほとんどなくなります。
 彼は売れても売れなくても、自分が素晴らしいと思う竹カゴを編み続け、それを素晴らしいと思う人が時々でも現れればそれを販売します。
 料理が好きでレストランをはじめたのに、採算を考えて野菜のレベルを落としていたレストランが、本当に使いたかった野菜を使えるようになります。
 ごゆっくり、と言いながら1日に5回転はしないとヤバイので、柔らかに客を追い出していたカフェが、本心からごゆっくりと言えるようになります。

 「食うために仕方ない」という大人の事情がなくなった世界はきっと素敵なはずです。

 
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書評:『あなたを天才にするスマートノート』岡田斗司夫、その2

2013-03-25 18:59:11 | 書評
 最近、同じような悩みをいくつか立て続けに聞きました。
 「自分が一体何をしていいのか、何をしたいのか分からない」というような感じのことですが、より具体的には「休みの日に特にしたいこともなくて、出かけたりはしてるけど、実は暇潰ししてるだけで虚しい」という形で表面に浮かんできます。

 最初に話を聞いているときは、特に具体的な「こうしてみればいいんじゃないか」という方法論は浮かびませんでした。何かしなきゃならないと思うのは近代以降の病だから気にしなくていい、というような返事しかできませんでした。

 でも昨日寝ていたら具体的な方法が1つ浮かびました。

 僕はこれまでの人生で一度も暇だと思ったことがないのですが、それは自分の中に弄ぶべき何かの塊がずっとあるからです。僕は客観的に見てみると今のところ全く”成功”した人生ではなく、初対面の人に状況を説明すると「そんなのでどうしてこんな平気な顔で生きてられるのか」と驚かれることもあります。客観的に考えてそういう反応があることは理解できます。
 それでも自分としては、それなりの手応えと幸福感を持って毎日を暮らしていて、それは他の人には理解されないとしても、自分にとっては大切なコアのようなものがあるからではないかと思いました。
 有り体にいうと「自分の世界」ということになると思います。

 「自分の世界」という言葉から、以前紹介した岡田斗司夫さんのスマートノートを思い出しました。前回の書評は完全に的を外していました。
 あの本のメインメッセージは「自分の世界を作ろう」で、書かれていることはその為の具体的な方法でした。

 岡田さんがおっしゃるには、現代の世界は「現実世界」と「電脳世界」が重なってできています。「リアル」と「ネット」ということです。ネットで個人の固有性よりも匿名性が強くなっていることは肌身で分かると思いますが、実は「リアル」でもこれは同じことです。大量消費社会の成れの果てで、多くの個人はもはやスペシャルな存在ではなくなってしまいました。宮台真司さんの言葉を借りれば「交換可能」になってしまいました。たとえば近所のコンビニがローソンからセブンに変わっても別に気にならないように、もはや個人も交換可能な存在になりつつあります。

 そういう社会に生きていると「自分の世界」を守るのは大変です。
 子供が大人になるにつれて自分らしさや輝きを失うのは良く見られることです。子供はまず小中高と訳の分からないレギュレーションに叩きこまれて、そのあと大学を経て企業社会に嵌めこまれます。大学は「自分の世界」構築機能を一時期持っていましたが、今は企業社会の傘下に入りつつあって、そういう機能は失われています。
 あんなに嬉しそうに絵を描いていた、絵の大好きな子供が、気付くと保険会社の営業になっていて下らない接待で夜中に吐き気を堪え、休日に自殺を考えたりしているわけです。
 たくさんの人達が、平日は会社という誰かの価値観が実体化した組織の中で、誰かの価値観の為に働き、その対価として得た幾ばくかのお金で休日に誰かの価値観を買いに行きます。金銭という記号を媒体にして人の価値観を交換しているだけなのですが、それが「活発な経済活動!」で良いことだと勘違いされています。なんか変かもしれないと思っても「自分流にカスタム自在」とかいう商品でも買って誤魔化してみたり。

 岡田さんの提唱されていることは、細かなテクニックを取り去れば「毎日ノートの上で考え事をしましょう」というもので、その結果バラバラだったものがリンクされていって、頭の中に「自分の世界」が構築されるとおっしゃっています。
 毎日書いていたわけではないですが、僕は中学生のときからノートはずっと持ち歩いていたので、この感覚はなんとなく分かるような気がします。
 「自分の世界」が構築されるのはけして「ノート上」ではなくて、「頭の中」です。ノートはぐちゃぐちゃで整理もしないし、古いのは捨てています。あとで読んだりすることはほとんどありません。

 「お前ごときが何様のつもりだ」という話で、ちょっと気がひけてはいるのですが、僕に何の実績がなくても「紙にペンで書きつける」ということの有用性はわかるので、それだけはここに書いてもいいと思っています。
 また「自分の世界」を構築することは、偉いことでもすごいことでも賢くなるということでもありません。ただ「自分の世界」ができるだけです。もしかしたら頑固になるということかもしれません。
 
 でも、この紙とペンが脳内に作り上げた「自分の世界」が、「現実世界」と「電脳世界」へ「自分」が溶け出してしまうことを防いでくれるのは確からしいように思います。
 少なくとも、「とりあえずカルチャーセンターでも行って習い事でもはじめてみればいいんじゃないか」みたいなアドバイスよりは、ずっと有効な気がしています。iPadなんかよりも、ただの真っ白なノートを!

あなたを天才にするスマートノート
岡田斗司夫
ロケット


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働かなくてもいい、というデータ。ベーシック・インカムについて再び

2013-03-21 10:41:34 | ベーシック・インカム
 小学生の時、学校に作業所で働く障害者の人達がやって来て、体育館で交流会みたいなものが開かれた。彼らが普段どのようなものを作っているのかとか、作業の様子などを僕達は見せてもらった。

 ある場面で、僕はものすごい衝撃を受けた。

 その女の子はほとんど体を動かすことができない。
 微かに動かすことができるのは指先だけだ。
 彼女の隣では、ボランティアか職員か分からないけれど、箱に蓋を載せて半分くらいまで閉める係の人がいる。中には多分なんらかの製品が入っていたのだろう。その半分蓋の閉まった箱が女の子の前に置かれると、彼女は微かに動く指先でゆっくりと蓋を最後まで押し下げて閉めた。
 それが彼女にとっての仕事だった。

 僕は混乱した。
 これのどこが仕事なんだろうと思った。
 半分まで蓋を閉めてあげる係の人が、そのまま最後まで蓋を閉めた方がよっぽど作業は捗る筈だ。彼女がしていることは何の助けにもなっていないし、はっきり言って作業の妨げにしか見えなかった。

 僕はまだ小学生で、大人たちがしていることだから"正しい"のだろうと思おうとするところもあった。彼女のしていることが仕事に見えないのは僕がまだ仕事のことを良く分かっていないからかもしれないとか、あるいは"福祉"のことを良く分かっていないからじゃないだろうかと。
 でも、やっぱりその光景はおかしいような気がした。

 ベルトコンベア方式で全ての作業を次から次に見せてもらうことになっていたのと、その女の子は会話もままならなかったので、実際に彼女が自分のしていることに対してどのような思いを抱いていたのかは分からないままになった。
 所謂「労働の喜び」みたいなものを、彼女は本当に感じていたのだろうか。

 この時に感じたことは僕の心に深く刻まれた。
 それからもう20年以上が経つけれど、この時のことをどういう風に解決していいのかずっと分からなかった。
 一生懸命にやっていたのに、彼女のしていることを仕事と認めない僕が意地悪なのだろうか。でも一生懸命にやっていたらなんでもいいってわけじゃない。だいたい彼女は本心ではどう思っていたのだろうか。周囲の人達も本当はどう思っていたのだろうか。本当にあれがベストだったのだろうか。あなたにできる精一杯はこれくらいなんだからこの作業で労働の喜びを感じなさいというのは傲慢なんじゃないだろうか。彼女は本当にあんなことがしたかったのだろうか。それとも義務だと思っていたのだろうか。

 今なら、あの時起きていたことが何であったのか、たぶん分かると思う。
 あれはやっぱり良いことではなかったと思う。
 労働至上主義とてもいうようなイデオロギーの犠牲だったのではないだろうか。
 役に立つ人間以外は無価値であるという残酷でかつ間の抜けたイデオロギーの。
 全ての人間は「オトナになれば」働かなくてはならないし、労働は尊いし、労働が生きる意味で、労働こそが喜びだというような価値観。
 そして同時に不動産なんかを持っている不労所得者への妬みを抱えるという闇さ。

 頭をカラにしてから、1から考えてみれば、労働を賛美する理由はどこにもない。もともと必要なものを作れる人のことはありがたいと勿論思っただろうけれど、全員にそうなれだなんていつから言い出したのだろうか。
 労働、というのでは言葉が曖昧かもしれない。金銭を媒介とした労力のやり取りが人間の尊厳の為には必要だなんて、そんな考え方がどうしてこんなに社会にドミナントに浸透したんだろうか。
 その人が、ただそこにその人としていることに単純な賛美を送ってはならないのだろうか。

 僕達の先祖はテクノロジーを発展させてくれたので、社会を維持するためにはこんなに沢山の人がこんなに長時間こんなに必死に働かなくていい。
 こんなにたくさんの人が働く必要はないのだというと、「そんなの信じられない」という人がいるのだけど、こんなにたくさんの人が働かなくてもいい証拠はとても身近なところにあります。
 あの間の抜けた就職活動とかいうのを見てみて下さい。
 あんなに必死で媚を売ってやっと一部の人が職を手に入れるというのは、みんなが働く必要なんてないということを端的に表しています。

 ここのところは本当に馬鹿みたいなことになっているので、くどくなりますが繰り返して書きます。
 日本だけではなく、世界各国で職を得ることのできない人々はたくさんいます。
 これを「解決すべき大問題」だと、みんなが思い込んでいるのですが、何度でも言いますけれど、言葉は悪いですけれど、これは本当に馬鹿なことです。
 この現象はどう考えても「もうみんなが働かなくても大丈夫な世界になった」ということを表していて、本来は喜ばしい結果です。解決すべき問題でも困ったことでもなんでもない。それを、雇用を生まねばならないとか大騒ぎして、もう本当にこれは馬鹿なんです。
 馬鹿馬鹿言って申し訳ないですが、これは本当に馬鹿なんです。僕もずっと気付いてなかったので半分自分に向かって言っています。
 問題は単に働いている人だけが富を独占していることです。それだけです。
 加えて、労働信仰は人々の頭に叩きこまれているので、働かないと気分も悪いし、働いていない人には文句を言いたくなるので、無理に下らない仕事や有害な仕事を設定して人々を働かせています。
 最たるものは自然破壊しかしないダムみたいな公共事業です。
 そんなものを労働提供の為に行うのなら、何もしないでお金だけ上げたほうがよっぽどいい。
 それでも、もしも労働が尊いと信じているのであれば、世の中の労働を良く観察してみればいいと思います。
 誰も読まない書類を書いて整理することが、本当に尊いのでしょうか。
 改悪でしかないようなマイナーチェンジが本当に、尊いのでしょうか。
 ラーメン屋の売上なんて別にどうでもいいじゃないですか。
 そんなことの為に目くじら立てたり胃潰瘍になっている人々がどうしてこんなにたくさんいるのだろうか。
 どうして要らないのに誰もしたくないのに無理矢理生み出された仕事の為に自然が破壊されるのだろうか。

 それらは社会の為の仕事ではない。
 あの女の子が、微かに動く指先で、それでもなにかせねばならないのだと箱の蓋を最後の半分だけ閉めていた、あの行為そのものだ。
 あの女の子にはただ、別に何もしなくてもいいのだと、ただそれだけ云えば良かったのではないだろうか。もしも何かをしたいのであれば、それが労働である必要もなく、ただしたいことをすればいい。それがあの時の箱を閉める行為であったのであれば、もちろん僕はそれを嬉しいと思う。
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