【当時の勉強ノートを公開】世界初のCPU「4004」開発回顧録(1) それは電卓の価格競争から始まった
世界初の電子式卓上計算器は英国Sumlock-Comptometer社が真空管(実際にはネオンガスを封入した管)を使って開発した「アニタ・マーク8(Anita Mark 8)」で、1961年10月のロンドン博覧会に出品された。私が勤めていたビジコン社(旧社名は日本計算器販売)はこのアニタ・マーク8を見つけて日本に輸入し、販売したが、高価過ぎて日本ではあまり売れなかった。しかしアニタ・マーク8は日本メーカーの電卓開発に大きな影響を与えた。
計算器の計算手段は、アナログ式の計算尺から、機械式手回し計算器、モーターを使った電動計算器、リレー式計算器、そして真空管を使った電子式卓上計算器(電卓)へと進化した。やがて、1951年に開発され「回路の時代」をもたらしたトランジスタや、ダイオードが使われるようになった。1964年には、トランジスタを使ったシャープの「CS-10A」やキヤノンの「キヤノーラ130」といった電卓が開発され、量産にも成功した。
電卓市場で最初の価格破壊を仕掛けたビジコン社
一方、ビジコンは1966年に高性能電卓「ビジコン161」を発売した。これはイタリアのモンティ・カティーニ・エジソンが開発した超小型磁気コア・メモリーの技術を日本で初めて電卓に採用したもので、メモリーを搭載し、16桁の加減乗除と平方根の計算ができた。しかもビジコンはビジコン161を29万8000円という当時としては破壊的な価格で発売した。その頃、シャープの電卓「コンペット21A」は14桁の加減乗除に対応、メモリー無しで43万5000円だった。ビジコン161は価格が30万円を切ったことから爆発的に売れた。電卓は会社に一台から各課に一台の時代となり、電卓の価格競争が始まった。
日本の電卓は事務用電卓から出発。その後、科学技術計算用電卓やプリンタ付電卓へと急成長し、日本の電卓業界はOEM(相手先ブランドで販売される製品造)を含めた世界の電卓ビジネスを一手に引き受けるようになった。電卓は今日のパソコンと同様、電子機器メーカーにとっての花形商品だった。
市場拡大とともに開発工数の削減が求められた
今から振り返ると、この価格競争と市場拡大がイノベーションを生み出したと言える。というのは、当時の電卓の制御方式は「ワイヤード・ロジック(結線または布線論理)」が採用されており、機能の変更が面倒だった。ワイヤード・ロジックはプリント基板上にトランジスタやダイオード、抵抗、集積回路(IC)、磁気コア・メモリーなどを配置し、基板上の配線で論理を組み上げる制御方式である。よって、電卓の機能を変更するには基板上の配線を変更しなければならず、これでは開発工数の増大を招く。新機種の開発やOEMビジネスのためには、開発工数を増やさずに機能の追加や変更が可能な別の制御方式が必要となった。
電卓はコンピュータと同じく、入力装置や出力装置、処理装置、メモリー装置で構成されている。であれば、コンピュータと同様に「プログラム論理方式」を採用できるはずだ、とビジコンは考えた。そこでビジコンは、OEM先ごとに仕様の異なる電卓の開発を短期間に行う方法として、同方式の電卓への導入を計画した。私がビジコンに入社したのはちょうどその頃だった(関連記事)。
私は1967年に東北大学理学部を卒業後、ビジコンで電子計算機のプログラマの職に就いた。入社6カ月後、日本計算器に出向し、電卓の試作やキーボードの開発に従事した。さらに入社2年目の1968年春には、設立間もない電子技研工業に移籍した。電子技研工業はビジコンと日本計算器、三菱電機の共同出資により設立されたビジコンの東京地区における開発・製造会社であった。
これも今から振り返ると、電卓へのプログラム論理方式の採用が「4004」の開発につながる布石で、画期的なことだったように思える。しかし、当時のビジコン社内では「電子計算機」や「プログラム」などの言葉が日常的に使われていたため、プログラム論理方式の電卓への導入には実のところ何の違和感も感じなかった。
私はハードウエアとソフトウエアの両方を知っているということで、プログラム論理方式の電卓に必要な命令セットやプログラム、ハードウエア構成などの原案を作成した(次回につづく)。
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