ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録
メインメニュー
 埼玉県職の歴史
初期の県職
 埼玉県職が結成されたのは、1946年(昭和21年)2月4日でした。第2次世界大戦が日本の敗北によって終了すると、それまで治安維持法等でがんじがらめにしばられ、労働組合も解体されていた日本の労働者は、長い戦争と敗戦による経済秩序の混乱、戦火による廃墟のなかで、飢餓から脱出するため労働組合をつくりたたかいに立ち上がりました。
 このような情勢を背景に、埼玉県庁内でも終戦の年の9月頃から組合結成の動きが始まり、県職の結成となりました。最初の名称は「埼玉県庁職員労働組合」で、当時の新聞は「官庁民主化の巨歩」と報じました。この時の綱領は「埼玉県政の民主的改造・職員の最低生活確保・県民の公僕たる自覚に基づき公務の積極的完遂」等でした。結成された県職は広く県民や多くの労働組合との連携をはかりながら活動を始めました。
 初期の活動で重要なたたかいは、1947年の2.1ストへの参加でした。ストライキはアメリカ占領軍の命令で中止されましたが、全国の仲間の闘いは大きく盛り上がり、賃金の2倍化などの成果をかちとりました。

労働政策転換のなかでの県職
 しかし、アメリカ占領軍の対日政策の変化などにより、公務員のスト権等を禁止する政令201号が発令されレッドパージ、行政整理などが始まり、県当局からも労働協約の取り消し、組合幹部の首切りなどの介入がおこりました。また、一部当局に迎合する職員の第2組合作りなどもありました。第2組合作りは失敗しましたが、ほぼ全員が組織されていた組合が、一時は300名程度になるなど県職組織は危機に陥りました。
 1951年サンフランシスコ平和条約が連合国側からソ連、中国、インドなどを排除して結ばれ、この条約で日本は千島列島を放棄し、同時に日米安保条約を締結しました。これに反対する労働組合は単独講和反対闘争を組織しこのたたかいをとおして、急速にその力量を回復しました。占領軍のきも入りで結成された総評も半年後に平和4原則を決定し「ニワトリからアヒルへ」と言われた路線の転換を行い反対闘争を展開しました。これらの情勢の下で県職も各種闘争を闘いながら力をもりかえし、この年、約900名で地方公務員法による職員団体としての登録を行いました。名称も埼玉県庁職員組合と改正しました。
 1953年頃から地方財政危機が深まり、1955年には知事から323人の人員整理が組合に通告されました。県職は直ちに撤回闘争にたちあがり、広範な労働組合の支援をうけて闘いました。県会で条例が通過した後もねばり強く闘いを継続し、退職者は出しましたが、指名解雇や一方的整理の実施は阻止し、組合員も急速に増えました。

1960年代の県職運動
 1959年から60年にかけては賃金闘争と安保闘争を結合させた闘いで大きな成果をあげました。賃金闘争では過去5年間引き上げ勧告を行わなかった人事院が12.4%(2,680円)の勧告を行うなど画期的な成果となりました。
1957年県職が中心になって結成された自治労埼玉県連は、この時期の闘いの中で急速に拡大強化され、名称を自治労埼玉県本部と改称しました。県職も自治労埼玉県本部県職部会と名称変更しました。
 一方、民主運動の発展に脅威を感じた政府自民党による民主勢力に対する抑圧政策や分断政策、そして公務員法の改悪などもあり再び当局からの攻撃が強まり、県職活動は困難な状況に陥り、2500 名を超えていた組織も1千名をわりました。

1970・80年代の県職運動
 このような県職運動を後退から前進へと発展させ、組織的強化を図るために執行体制の強化や組織の整備を行い、これをきっかけに職場に根をはった活動を開始し、ようやく組織も前進し始めました。
 日本列島改造論にみられるような、国民生活破壊に反対する住民運動の発展の中で革新統一戦線の結成が進み、1972年社会党・共産党中心に革新統一による選挙体制が整い、畑革新県政の誕生となりました。知事選勝利後、県職と当局との関係も全面的に改善され、県職は「県職と革新県政との関係は労使関係にあると同時に政治的立場は共通する」ことを原則に運動をすすめ、賃金、労働条件などの諸要求も前進しました。革新県政誕生後まもなく、オイルショックなどがおこり激しいインフレとなりました。県職も大幅賃上げを要求し全国の仲間とストライキ闘争にたちあがり、30%近い給料の引き上げを獲得しました。
 その後、県職は婦人の勤務条件の改善、調整手当引き上げなど労働条件改善や地方財政危機打開、臨調・「行革」反対の闘いなど、県職員と県民の利益を守る運動を前進させ、80年代初めには、組合員数も2950名を超え、目標としていた3000名にあと一歩と迫りました。

全労連・自治労連の結成から1990年代へ
 1970年代後半から労働戦線の右傾化の動きが強まり、いくつかの波を経て1989年に連合が誕生しました。一方、日本の労働運動の闘う伝統を継承・発展させる組合は、1974年に統一労組懇運動を発展させ、真のナショナルセンター結成をめざして運動を進めました。この結果、連合誕生と前後して1989年11月、すべての働く労働者と国民の利益を擁護し、民主主義の発展、日本と世界の恒久平和、社会の発展のために闘う労働運動のナショナルセンターである全国労働組合総連合(全労連)が結成されました。県職は、労働戦線の再編問題に当たっては、ねばり強い民主的討議の上に県職の歴史と教訓をふまえ、「たたかってこそ労働組合」、「すべての民主勢力の団結をめざす」などを原則とする自治体の労働組合の連合体である自治労連の結成に参加し、ナショナルセンターの全労連に結集して全国の働く仲間との連帯を大切に運動を進めています。また、名称もこれを機会に埼玉県職員組合と変更しました。
 1990年代に入り、ソ連の崩壊や資本主義経済のゆきづまりやそれに伴う政党再編などの政治情勢の激変が続いています。また、1992年の知事選挙において自民党知事が誕生したことや、1993年の総選挙をきっかけに日本共産党を除く全ての政治勢力がオール与党体制を作り出したこと、右転落した自治労がその影響力と金力を使い第2組合を結成するなどの新しい情勢の下で運動をすることとなりました。

部局支部体制への移行と2000年代へ
 その後、バブル経済がはじけ地方財政危機が深刻化し、次々と悪政が実施され国民のいのちと暮らしが脅かされ、公務員に対するリストラ攻撃が強化される中、1997年に公費支出の不適正・不正問題が生じ、1998年には人勧が3ヶ月値切り(7月実施)されました。県職は、1998年10月から部局支部体制へと移行し、2000年4月からの賃金2.5%カット等厳しい状況の中で、確固として「発言する県職」の立場で闘い、部局支部体制の強化を着実に進めてきました。2002年4月から一般職員の賃金カットは廃止させましたが、管理職は引き続き2.5%(主幹以下2%)の賃金カットが継続され、2004年4月に廃止させました。県財政破綻のツケを職員に押しつけ、昇任・昇格の改悪等厳しい賃金攻撃のなか、断固として職員の利益を守るため闘ってきました。
 2003年7月、自らの政治資金管理団体の不正経理問題の責任をとる形で土屋知事が辞職し、上田県政が始まりました。
 上田知事は、知事選で示した「新生埼玉マニフェスト」を具体化するため「新生埼玉行動計画」を策定し、県財政の危機的状態を改善するとして「県政3つの挑戦」として?「事務事業・組織改革」?「マネジメントシステム改革」?「職員の意識改革」を一体として実施する県政改革を打ち出しました。これは、県民を顧客とし、県庁を「優れた経営体」に変え「一番のサービス産業」へと変貌させ、県民や職員に負担を押し付ける、指定管理者制度の導入や組織の統廃合、定数削減などをNPM(ニューパブリックマネジメント)手法で実現しようとしています。
 2005年には、自衛隊を自衛軍と規定し、海外で戦争できる国に変えようとする自民党の憲法改正案が発表されました。他方、憲法9条を守ろうという運動も各地で活発化してきています。また、「官から民へ」という合い言葉で自治体の責任で行うべき労働を「市場化」し、50年ぶりの給与構造の大改悪が行われようとしています。

 県職は現在、「県民サービス向上のために県の責務を」「生き生きと働き続けられる労働条件を」の合い言葉で、一貫して県民と職員のくらしと権利の擁護、県民本位の民主的な県行財政運営への転換を掲げ取り組んできました。

この様に、歴史と伝統を持つ県職は、政策的力量を高め県民との協力・共同を強化し、「県政やくらしに憲法をいかし民主的な公務員制度の確立」を求め、引き続き運動の発展と組識強化をめざして日夜奮闘しています。
プリンタ用画面
前
県職委員長 ごあいさつ
カテゴリートップ

サイト内検索はここから

高度な検索