『任天堂』の由来




京都の一角にて創業した花札屋。
カルタ職人・山内房治郎氏は、そこに 「任天堂骨牌」と名付けました。

今現在、この「任天堂」の由来として、しばしば「人事を尽くして天命を待つ」が挙げられます。 が、私は、そんな高名なことわざを基にして付けられたとは到底思えない。

任天堂の創業は1889年(明治22年)。少しそこら辺の歴史から見ていきましょう。






1853年、黒船来航を機に、開国か攘夷か維新の嵐が吹き荒れます。 天皇のいる京都には地方の藩士が続々と相集い、寺院や町家の一部は陣所となりました。

安政の大獄、桜田門外の変を経て、京都は江戸に変わって政争の中心へ、また戦場へ。 町中で抗争事件が勃発、1964年、禁門の変の大火で京都の市街地は焼失します。



禁門の変。燃え拡がる有様は「ドンドン焼き」と称された。


大政奉還、幕府の倒壊。1968年、天皇制の明治政府が成立。翌年、東京遷都。 政府は、殖産興業・富国強兵策を推し進め、神道を国教とし廃仏毀釈を行います。

1871年、郵便制度の実施。自転車、カメラの輸入。この頃から文明開化の名のもとに ハイカラ(洋風気取り)が流行し、逆に伝統的な文化が廃れていく時代です。

かるた(カード)商の世界では、政府がトランプ輸入を認めたことに応じて、 1886年、花札(および賭博系カルタ)の禁令を解いたことから、再び活況が戻ってきました。

1889年のそんな折り、任天堂骨牌は創業します。






由来の1つ目。

京都の東福寺西に、赤く大きな天狗の面の看板を掲げた老舗花札屋があります。社名を「大石天狗堂」。 天狗堂・・・そう言えば任天堂も「天狗」なる花札を出しています。

というのも、“花札”と“天狗”の間には面白い縁があるんです。 それがこの店の初代・大石氏に花札屋の名として“天狗”を付けさせた理由になるんですが。


「大石天狗堂」の由来

この店の初代・大石蔵之介氏は、18世紀末、能登半島から京に渡り、 ここ東福寺近くで米穀商を営んでいました。やがて公卿の遊んでいた花札に目を付け、 それを(一般へ)広く売り始めたのが始まりです。

花札は江戸時代、賭博に用いられ社会に害を与えるとして、幾度も禁令にあいました。 そんな時期大石氏は、表向きは精米業という風にして、裏でこっそり花札を作っていたのです。

  

買いに来る客も同様です。人目を避けて店へ入り、 黙って鼻をちょいと撫でる。もしくは「鼻あるか?」とこっそり囁く。 それを暗黙の合図に主人がそっと花札を渡す。

こうして、花札の隠語として「鼻」が使われるようになり、やがて 長い鼻を持つ「天狗」が花札の象徴となりました。 大石氏はそこから店の名を「大石天狗堂」とした、という話です。

参考文献・引用元 『季刊銀花第13号・春』 (文化出版局)、『京都の本』 (講談社)


山内房治郎氏が、創業当時既に百年近く暖簾を守っていた花札屋の老舗「大石天狗堂」の名、 もしくは花札の象徴である「天狗」にあやかった可能性があります。

任天堂の“天”とは、“天上・天界”の天ではなく、“天狗”の天だったのです。






2つ目は「任侠道」です。

“任侠”(仁侠)とは、義理と人情を重んじるヤクザの気風です。 ヤクザとは、江戸時代賭場を仕切った役座が発祥ですが、彼らの 弱きを助け強きを挫く男だての気質です。

任天堂が創業時から扱った花札は、賭場で使われそれが大きな収入源となりました。
下京区・七条界隈は、江戸初期から市場で賑わう宿場町となり、 遊女屋が営まれ、 寺院では浪人(失職武士)達が賭場を開き、バクチ稼業を始めます。

ヤクザの運営する賭場用の花札には、高い品質−色艶の美・張りムラ・打ち音−が要求されました。 職人・山内房治郎はそれに適うだけの腕を磨いていたのです。

「任侠道」は、ヤクザが追求する陰の道理であり、 桜や牡丹、闇の凄みを描いた「花札」の世界にも通じる美意識です。 花札職人と「仁侠道」は無縁ではありますまい。


武士と賭博とヤクザ

戦国時代後期、日本には数百万もの雇われ武士がいました。彼らは 城攻めなど持久戦になると、暇を持て余してはバクチに熱中したそうです。 金がなくなると鎧や刀を賭けて。

バクチに負けた裸同然の武士は、腕を磨くか、 奇襲攻撃を取るしか生きる道はありません。 後に勇猛果敢と讃えられたサムライには、実はバクチに負けた者が多かったとか。

しかし、江戸時代・太平期を迎えると彼らは失職します。そして浪人となり幕府の弾圧に合うのです。 農村に帰る者、内職に励む者、テキ屋を始める者。そして博奕稼業を始める者。 ここに賭博用具としての花札と、任侠を建前に生きるヤクザが誕生します。

参考文献:『別冊太陽 いろはかるた』 (平凡社)、『賭博』 (半澤寅吉/原書房)






3つ目は、単純に「運(天)任せ」。博奕打ち達の究極的な悟りです。
実を言うと、この「運ヲ天ニ任セル」が、今、任天堂に伝わる社名の由来だそうです。

博奕打ちは勝負を繰り返し、結局最後に一つの真理を会得する。 「どうせこの世は一天地六」とも言われる「天任せ」の境地、 運に己の運命を委ねる彼ら特有の悟りでしょう。

またこれは、幾多の災禍を体験した京都人が培った陰の哲学とも言えます。 上方カルタ一枚目の諺である「一寸先は闇」、この諦念の未来観は「天任せ」に通じます。

地道に質を追求する京都の職人気質の世界と、運命をサイコロに任せる博奕打ちの世界、 こうした合理と非合理性の融合が、京都を支える永続の力になっている。

博打と京都の陰にある「天任せ」の思想は、房治郎をも感化していたことでしょう。


創業三代目・現社長山内溥の言葉

社名が「人事を尽くして天命を待つ」から取られたのかとの質問に、山内はこう答えます。

「人事を尽くして天命を待つと言うたって、人事なんてなかなか尽くせるもんやない。 その時は、やるだけやった、後はどうなっても満足だと思うかもしれんが、 しくじったとたん、ああしておけばよかった、こうもすればよかったと、 次から次に反省が生まれるものです。

 だから、どんなに人事を尽くしたつもりでも、 人は天命を待つ心境になれない。そういう意味でもわたしは、 任天堂の名の由来のごとく、『人事を尽くして天命を待つ』のではなく、 単純に『運を天に任せる』という発想をとりたいと思うとる。」

山内溥のこの達観。彼は生来の博奕打ちなのかもしれませんね。

参考・引用元 『任天堂商法の秘密』 (高橋健二/祥伝社)p76






これら3つ、京都の花札職人と関わりのある言葉、
「天狗(堂)」、「任侠道」、「天任せ」が合わさると、『任天堂』が浮き上がってくる。

このような理由から私は、一般に由来元として挙げられる 「人事を尽くして天命を待つ」なることわざは、後から付いてきたものではないか、と考えます。

花札が、日本の文化−美しい四季・花鳥風月−と溶け合い誕生した様に、 『任天堂』という社名もまた、京職人の特性−アレンジの才・義侠心・諦念観−を反映して生まれた。

もとより任天堂は、山背の国、京都の鴨川わき・7条通りに構えた花札屋です。 北に鞍馬山を眺め、周囲には寺社があり、早くから賭場が開帳、博徒たちが往来した・・・

ただただその中で、花札職人・山内房治郎の頭に、 『任天堂』という言葉が、ポッと浮かんだのかもしれませんね。





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