2008-5-25
■呆れた韓国の歴史捏造癖 高句麗・広開土大王碑の複製擬装
Wikipedia「広開土王碑」から引用します。
広開土王碑(こうかいどおうひ)は、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)の業績を称えるために息子の長寿王によって414年に建てられた石碑である。好太王碑とも言われ、また付近には広開土王の陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、広開土王陵碑とも言われる。
1880年頃に清の集安(現中華人民共和国吉林省通化地級市集安市)の農民により発見され、翌年関月山より拓本が作成された。高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の碑の四面に総計1802文字が刻まれ、純粋な漢文での記述となっている。風化によって判読不能な箇所も存在するが、391年条の倭国関連記事の干支年が『三国史記』などの文献と1年異なるなどを示すなど、4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史、古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料となっている。広開土王碑は現在吉林省集安市の好太王陵の近くに位置している。1961年、全国重点文物保護単位に指定された。
碑文は三段から構成され、一段目は高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に広開土王の業績、三段目に広開土王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。碑文では広開土王の即位を391年としており、文献資料『三国史記』『三国遺事』では392年とする紀年との間に1年のずれがあることが広く知られている。また、この碑文から、広開土王の時代に永楽という元号が用いられたことが確認された。
引用される部分ここでは倭に関する記述のある二段目の部分(「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭ロ<耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民」)について通説により校訂し訳す。
百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民。
そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説もある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。
なお、「■を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされていたが異論もある。
この記述に関しては、1884年に大日本帝国陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰って解読した、いわゆる酒匂本を研究対象にした在日朝鮮人の歴史学者李進熙や、北朝鮮の学者から、大日本帝国陸軍による改竄・捏造説が唱えられたことがある。その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、本来は
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而後ロ<辛卯年不貢因破百殘倭寇新羅以爲臣民
百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。
という表記であって、「破百殘」の主語を高句麗とみなして、倭が朝鮮半島に渡って百済・新羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗が百済・新羅を再び支配下に置いた、とするものであった。しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、かつて朝貢していた百済・新羅が朝貢しなくなった理由が述べられていないままに再び破ることになるという疑問や、倭寇を破ったとする記述が中国の正史、『日本書紀』、『三国史記』などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。これに対して、高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽6年以降の広開土王の華々しい活躍を記す、という碑文の文章全体の構成から、該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、との反論が示された。
2005年6月23日に酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一である旨の新聞報道がなされた。さらに2006年4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。これにより、大日本帝国陸軍による改竄・捏造説が成立しないことが確定した。
高句麗・広開土大王碑の複製建立「高句麗の気象、雄飛せよ」〜日本が歪曲した碑文は
2ちゃんねるネタである。
蚯蚓φ ★氏がご苦労にも日本語訳してくれた。
中国吉林省に位置する広開土大王碑を実物大で修復した碑が京畿道九里市に雄大壮厳な姿を現わした。
「広開土王碑」→「広開土大王碑」??
いきなり改竄か?
去る23日午後5時行われた「広開土大王碑除幕式」で一般に公開された広開土大王複製碑は我が国で6番目に建てられたもの。しかし、この碑はこれまで戦争記念館と独立記念館などに立てられた5個の複製碑と比べる時、歴史的意味は勿論、学術的価値と完成度などで断然すぐれているということが複製・建立過程に参加した専門家たちの一様な意見だ。
新羅の子孫である現朝鮮人が敵国であった高句麗を賛辞するのも不思議である。彼らにしてみれば、一時的に広範囲の領土を持っていた高句麗も朝鮮の一部とした方が都合がいいのだろう。
実際今回の複製碑は多くの拓本などを綿密に分析して碑文の完成度を高めたことは勿論、実物と一番一致した外形を持っており、また去る2002年我が国で最初に建てられた広開土大王の銅像とともに並んで立っているなど歴史的価値もすぐれていると評価される。
まあ、自分の国でやっていることだから何をしようと勝手だが、改竄したものに歴史的価値を求めるのは犯罪行為だ。
碑文の考証を担当したソ・ヨンス教授は「碑文紹介」で「大王碑は19世紀末、再発見されて以後、世界学界の持続的な関心を受けて来たがすべてが高句麗の栄光を歌ったものではなかった。
世界学界の持続的な関心??????
私の偏見だろうが、ナンミョウの人たちの論調と似ているな。
日本の参謀本部によって碑文の一部が変造、歪曲されて倭の韓半島進出の根拠に利用されたし、最近では中国の‘東北工程’によって高句麗が中国史という歴史歪曲の象徴物になったりした。」と説明した。
出ました。朝鮮人お得意の思考パターン。「日本と中国がグルになって、朝鮮の正当な歴史を改竄した」という論調である。日本と中国にある歴史資料を否定しているのである。
「東北工程」とは以下の内容である。
Wikipedia「東北工程」参照。
東北工程(とうほくこうてい)とは、中国東北部(旧満州)の歴史研究を目的とする中華人民共和国の国家プロジェクトである。1997年から開始され、2000年以後に研究成果が中国国外のメディアにも公表されるようになった。
その中で高句麗と渤海を中国史の地方政権とした扱いに対して、韓国国内で激しい抗議が発生し、中韓間の外交問題に発展した。
1996年に中国社会科学院において中国東北部・旧満州における歴史研究を重点研究課題とすることが決定された。この研究プロジェクトは東北工程と称され、2002年から研究が本格的に開始された。当初の計画においては2007年2月に全課程が終了する予定となっている。
研究においては、中国国内における高句麗遺跡の調査および整備が行われた。さらに広開土王碑と将軍塚の世界遺産への推薦を行い、2004年7月1日に蘇州で開催された世界遺産委員会において、高句麗前期の都城と古墳が世界遺産に登録された。翌日の新華社通信においては、「高句麗は歴代中国王朝と隷属の関係にあり、中原王朝の管轄にあった地方政権」と報道されている。さらに中国外務省のホームページにおける朝鮮史の項目における高句麗の記述が削除されるなど、中国国内では高句麗を中国史として扱う傾向が強まった。しかしながら、北京大学の歴史学科では、高句麗を朝鮮史として扱っている北京大学の王小甫教授らが執筆した中韓関係史(社会学科文献出版社刊行)が教材として使用されており、このことから、2002年以前までは、中国も高句麗史を朝鮮史と認識する余地を残しているのと同時に11990年代に出版された書籍[1]などで「高句麗は朝鮮に非ず」という項目を設けるなど、早い時期から高句麗を朝鮮史と切り離した主張も行われていた。
発端は世界遺産登録合戦だったようだ。
現在「広開土王碑」は中国領にある。
「高句麗は中国の属国だから中国の一部。従って高句麗の遺産は中国の遺産」という主張である。実際、碑文が中国領内にあるのだから、それなりに説得力はありそうだ。
中国政府がこのようなプロジェクトを開始させた理由として、冷戦崩壊後に世界各地で顕在化した民族主義が中国国内にも波及するのを防ごうとした為であるとする意見も存在する。それによると中国の歴史学では、現在の国家体制を重視し、過去に存在した諸民族の国家を中華主義を利用して包摂し、中華民族史としようと目論んでいるとされる。
で、朝鮮側としては面白くないという気持ちは痛いほどわかります。
2000年に入り、韓国のメディアにおいて東北工程の存在とその研究内容が伝えられるようになった。韓国の歴史研究者や政治家は厳しく抗議し、一般人の中でも東北工程に対する激しい抗議活動が行われた。学会においては「中国の高句麗史歪曲対策委員会」が組織され、これを基に「高句麗研究財団」が設立された。
客観的に見れば、高句麗は中国にも朝鮮にも属さない扶余系の騎馬民族国家であった。「高句麗」の「歴史」のぶんどり合戦である。
2006年に入ると新たに渤海および長白山の「歴史的帰属」にまで問題は拡大した。韓国国内での中国への抗議活動に対して、2004年8月に両国政府間で「歴史解釈の問題が政治争点化することを阻む」との合意が行われた。対中外交を重視する盧武鉉大統領は東北工程は中国政府の公式認識ではないとして長い間公式の抗議を行わなかったが、メディアにおいて政府批判が強まった為、2006年9月ヘルシンキで開催されたASEM首脳会議において、中国の温家宝首相に「学術研究機関次元だとしても両国関係に否定的な影響を及ぼすことがあり得る」との抗議を行った。
このような韓国の韓国内での反発とは対照的に、北朝鮮は全く反応を示していない。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連) の機関紙である朝鮮新報において、「中国が高句麗史を自国史に編入しようとしているのは露骨な歴史歪曲」であると示されていたのが唯一の対応である。
同じ朝鮮人でも、北朝鮮にその気がないのは痛いですね。まあ、北朝鮮にしてみれば、「そんなどうでもいいことより、食い物を恵んでくれ」ですからね。
話を、アホ記事に戻します。
高句麗・広開土大王碑の複製建立「高句麗の気象、雄飛せよ」〜日本が歪曲した碑文は
ソ教授は続けて「今日立てた‘原型複製碑’は高句麗の歴史の栄光を再現したものであると同時に、文化財の立て直しの道しるべになるはずで、ひいては高句麗の気象をいかして私たち未来の志向点を知らせてくれる座標になるだろう。既存の複製碑は原型とは距離が遠かったが、今回の複製碑は韓中日3国の代表的な原石拓本を土台に精緻に考証して芸術魂を刻んで活かしたもので、文化の再創造と言える」と強調した。
これほど、歴史改竄に情熱を示す国民性も珍しい。先ほど中国も朝鮮人も同じと言ったが、厳密には違うようだ。中国人の場合は態度がでかいだけで、ドヤせば引っ込む感じだが、朝鮮人の場合は利害関係を度外視したパッションを感じる。tつまり、もっとアブないのである。
パク・ヨンスン久里市長は式辞を通じて「中国は今、私たち国民が太王碑のそばに近付くことができないように徹底的に見張るだけでなく、大王碑をガラス窓の中に閉じこめておいて一つの単純な観光商品に転落させてしまった」と指摘し、「今回の複製碑の建立を契機に民族史上一番すぐれた帝国だった高句麗の気象がもう一度力強く雄飛できるように願う」と述べた。
異民族の高句麗を一番すぐれた帝国と抜かしている、この市長さんに異を唱える人はいないのだろうか?
次のアホ記事を見てみよう。
◆「辛卯年記事論争に終止符を打つ」
広開土大王陵碑の碑文中でいわゆる「辛卯年記事」は日本が任那日本府説を主張する主要な根拠になるなど論争が数十年間続いて来た。「而倭以辛卯年来渡海破百残○○新羅以為臣民」と言う部分で、 日本側は1980年代の末「日本が辛卯年に海を渡って百済と伽揶と新羅を破り臣民にした」と解釈して波紋を投げかけた。これに対して九里市が複製碑を建立してこの部分をどのように処理するかに関心が集まった。
なるほど、どうせ複製だから、この際好き勝手に「書き換えちゃえ」という奴もいたんだな。
ソ教授は辛卯年記事と関連、「元碑の字の形態をそのまま従って複製碑を作ったが、同時に日本の歪曲された主張を覆す意味を盛った」と述べた。すなわち、大王陵碑の横に「百済と新羅は昔の属民なのにいまだに朝貢を捧げないで、倭は辛卯年(391年)に(海を)渡って来た。そのため○は百残(新羅)と○を攻破して、新羅は○して(服属させて)臣民にした」と言う内容の複製碑解説板を立てる事にしたのだ。
腐っても大学教授、「好き勝手な書き換えまでやったら、お仕舞いだよ」と思ったようだ。
で、訳のわからない解説板を張り付けた。
「意味不明の文章だから、真面目に読む奴もいないだろう」と言うことか?
「日本が百済と新羅を攻めてきたから、どさくさ紛れに両国を属国化させて軍事援助してやった」という解釈でいいのかな?
チョン・ホンギュ韓国金石文各自芸術研究院院長はこれと関連、「過去数十年間、論文数百が出て辛卯年記事を扱ってきた。しかし、大王の功徳費に倭(日本)が百済などを臣民にした、という内容を書く理由が常識的にはない。これ以上の議論は不必要だ。」と主張した。
「竹島は韓国領だから議論する必要はない」というのと同じ発想である。
「確かにこんな連中相手に議論しても意味はない」という点では共通理解が得られそうである。
建立委助言委員であるユン・ミンス北東アジア歴史財団委員も「辛卯年記事は高句麗が戦争の名分を要約的に記述した部分。しかし、その名分と歴史的事実の可否は別個であり、したがって辛卯年記事は任那日本府説の主張の論理的根拠にはなれない。」と強調した。
任那日本府の存在は韓国人の根深いトラウマであることがよく判る記事であった。
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- 67 https://www.google.co.jp/
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