憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する生活保護制度が揺れている。基準額の見直しにより2012年8月からは支給額引き下げが始まるが、不正受給問題で市民の視線は厳しさを増し、不正を取り締まるための通報制度を設ける自治体も出始めた。自治体や担当者が申請を妨げようとする「水際作戦」も横行しており、「最後の安全網」はもはや穴だらけ。本当に困窮している人々を救うための策はあるのか。
◇第1章 問われる最低限の暮らし/支給されるお金は高すぎるのか?
◇第2章 広がる不正のイメージ/収入隠しての受給、どこまで横行?
◇第3章 申請に高いハードル/本当に困った時、受給できる?
◇第4章 細やかな就労支援、カギ/働いてない人は本当に働けないの?
◇第5章 「最後の安全網」守るには
読者から一通の手紙が届いた。「生活保護の基準額の引き下げが取り沙汰されていますが、国民年金と比べて基準額は高いと、私も思います」。丁寧な字で便箋(びんせん)に3枚。高齢者の生活保護を取材した自分の記事への感想だった。生活保護で支給されるお金は高すぎるのか。
差出人の女性(65)を訪ねた。東京都内で夫と2人で暮らす。夫婦の年金は月に約13万9千円(一部は厚生年金)。「ここから介護保険料や国民健康保険料を払う。医療費もかかる」。さらに今住む中古マンションのローン、管理費。貯金はほとんどない。「年金で暮らす人の実態を知ってほしい」
夫が経営する薬局は10年以上前に大型店進出で閉店。5千万円を超す借金が残った。戸建ての自宅も車も手放した。月10万円近い借金の返済が今も続く。年金では到底まかなえない。夫は工場で事務のアルバイトをし、女性は医療事務のパートにでる。生活費が足りない時でも、年金保険料は払ってきた。
仮に同じ世代・地域の夫婦が生活保護を受けたとすると、基準額(生活扶助)は、月に約12万円になる。受給者は基本的に医療費の自己負担はない。
保険料に応じた老後の備えである年金と、困窮者の暮らし全部を支える生活保護。制度の役割が違うと頭ではわかる。「年金額が低すぎることこそ問題」という意見も知っている。だけど――。釈然としない女性の思いが言葉の端々から伝わってきた。
「生活保護の人が憎いわけじゃない。ただ『どうしてそんなにもらえるの?』って思っちゃう」
◎一般世帯の消費参考に
そもそも基準額はどうやって決めているのか。
神奈川県立保健福祉大学の講師、岩永理恵さん(社会福祉学)によると、現行法の施行当初は、暮らしに必要な食品や日用品を買い物かごに入れて計算するように、最低生活費を出していた。保障水準が低く、国民生活との開きが課題となった。
1960年、人間らしい暮らしには保護費が少なすぎるとして受給者が起こした「朝日訴訟」で、当時の国の基準は憲法の理念に反するという判決を東京地裁が下した。判決はその後覆ったが、保護費改善の一因となった。
今の決め方は1984年から続く。当時、受給世帯の消費支出は一般世帯の6割だった。家計調査を詳しく分析し、基準額は「ほぼ妥当」と結論づけた。これ以降、国民の消費水準とのバランスを保つ調整を続けてきた。「水準均衡方式」と呼ばれる。
ただ金額はともかく、肝心なことがわからない。「健康で文化的な最低限度」とは具体的に、どんな暮らしなのか? 岩永さんに聞いた。
「一概には言えない。その人の状況や、時代によっても変わってきます」
例えば進学。厚生労働省によると、保護費で高校の就学費の給付が認められたのは2005年からで、わりと最近のことだ。例えばエアコン。「地域の普及率70%以上」を目安に、所有が認められるようになってきたそうだ。
「人間らしい暮らし」のイメージは人によって少しずつ違う。「最低限度」にふさわしい保護費とは、を議論する難しさを感じた。
◎他の支援制度に影響も
基準額見直しで、保護費は8月から段階的に引き下げが始まる。最大10%の大幅減額だ。安倍政権は「骨太の方針」で、さらなる保護費抑制を掲げる。
こうした動きに危機感を募らせる人に会った。東京都豊島区の女性(46)だ。生活保護を受けたことはないが、2人の子が小中学校で「就学援助」を利用した。低所得家庭の子に、給食費や修学旅行費などを支援する仕組みだ。「この制度がなければ、月約1万円の給食費は払えなかった」と話す。
広がる「子どもの貧困」。就学援助の利用者は増え、生活保護を受けていない家庭の子だけで142万人。対象者は生活保護基準額を目安にして決める自治体が多い。
女性は心を痛める。「生活保護の引き下げで就学援助を受けられる水準も一緒に下がり、対象から漏れる家庭が出るのが心配です」
就学援助だけではない。保護基準額を指標に対象者が決まる制度はたくさんある。国民年金保険料や保育料の免除、介護保険の利用者負担の軽減――。国の資料をめくると、影響する可能性がある38項目が並ぶ。「影響がないようにする」と政府は言うが、その保証はない。
生活保護の基準額は、経済的余裕がない人を支援する様々な制度の土台となる。「みんなの基準」だとわかった。その引き下げは「受給者だけの問題」と単純に片付けられない。
あの女性からの手紙を読み返した。切実な暮らし。「生活保護は高いのでは」という疑問。共感する部分はある。でも、それで基準額を下げ続けたらどうなるか。受給者以外の暮らしをも巻き込んで、社会に張り巡らされた安全網を弱めかねない。
そんな私の考えを伝えたら、手紙の女性に納得してもらえるだろうか。
□生活保護制度
失業や病気で生活に困った人に憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する制度。仕送りや預貯金などでは暮らせず、厚生労働大臣が決める最低生活費を下回るとき、利用できる。受給者数は全国で約216万人(3月)。保護費は住宅扶助や教育扶助など8種類ある。生活扶助は食費や光熱費、衣類代といった生活費にあたる。
生活保護を巡って、最近よく耳にする「不正受給」。事件の報道だけでなく、「監視」のためのホットラインも広がる。国会で審議中の生活保護法改正案にも罰則強化が盛り込まれた。それほど横行しているのか。不正受給の実態はどうなっているのだろうか・・・
憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する生活保護制度が揺れている。基準額の見直しにより2012年8月からは支給額引き下げが始まるが、不正受給問題で市民の視線は厳しさを増し、不正を取り締まるための通報制度を設ける自治体も出始めた。自治体や担当者が申請を妨げようとする「水際作戦」も横行しており、「最後の安全網」はもはや穴だらけ。本当に困窮している人々を救うための策はあるのか。[掲載]朝日新聞(2013年6月20日〜6月27日、11100字)
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