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内田樹の詐術と欺瞞 - 政党論の詭弁、ねじれ論の二枚舌
鈴木寛応援団の一人だった内田樹が、一昨日(7/23)の朝日のオピニオン面(17面)に、参院選についての感想文を載せている。自民・共産・公明の3党が勝利した今回の選挙は、「綱領的・組織的に統一性の高い政党」を有権者が選んだ結果であり、それは、「それぞれ異なる主義主張を訴え合い、それをすり合わせて、『落としどころ』に収めるという調整システム」である民主主義からすれば、歓迎すべからざる、嫌忌すべき逸脱した現象だと言っている。そして、民主制の本来性からすれば、二院はねじれていた方がよく、「ねじれの解消」が実現した今回の結果は本来性を踏み外した危険な民意だと言っている。要するに、自分が応援する民主党の惨敗について不満を垂らし、この結果を不当な選択だと決めつける理屈を捏ね上げているのだが、全体にきわめて問題の多い文章である。ここには、政党の問題と議会の問題を故意に混同させ、問題をスリカエる表象操作のトリックがあり、また、政党論についての根本的な誤謬がある。最初に政党論から見てみよう。内田樹は、公明と共産を「揺るがぬ信念によって組織が統御されていて、党内での異論や分裂が抑制されている政党」だと言う。そして、「知られる限りの粛清や強制収容所はすべて『ある政党の綱領が100%実現された』場合に現実化した」として、共産党の一枚岩的組織体制がもたらした歴史の厄災を強調した上で、党内で意見が分かれて対立する民主や維新を、民主主義の本来性から歓迎すべき政党だと積極評価する。


この詭弁論法は、脱構築系に特有の政治言説だ。そして基本的に誤った認識だ。政党の定義を広辞苑(第二版)から引こう。こう書いている。「共通の原理・政策を持ち、一定の政治理念実現のために、政治権力への参与を目的に結ばれた団体」(P.1228)。政党には理念がなくてはならない。共通の政策がなくてはならない。党内に政策的に(消費税・TPP・憲法)全く相容れない二派があり、ために党内抗争ばかり繰り返し、党論を纏められずに先送りばかりし、また、政権を取ったらすぐに公約を覆し、国民を裏切って公約と逆の政策を遂行し、下野したらまた政策を変えて国民にいい顔をする政党は、政党の定義の外にある政治集団なのだ。そもそも、政党とは英語でpartyではないか。partyとは、partを受け持つという意味で、すなわち社会全体の中で、ある一部の利害や利益を代表し代弁するという意味に他ならない。全体社会は各利害を持つ各部分に分かれている。だからこそ、政党はそれぞれが特有の支持基盤を持ち、共通の理念や信条を持っているのであり、議会の中でそれを競い、自らの政策こそが普遍的だと言って利害の実現を目指すのである。共産や公明こそが、むしろ民主主義政治の政党(party)の本義に則っているのであり、partを正しく担った政党なのだ。政党が歴史的に発生した由縁も、民主主義政治における政党の役割も、内田樹の話とは全く逆なのである。

共産党の一党独裁の歴史的弊害をクローズアップするのは、内田樹の政党論を合理化するための巧妙な印象工作であり、読者はここで近代政党の概念規定を見失い、騙されて感性的に誘導されてはいけない。また、内田樹は議会の問題と政党の問題を混同させ、周到に公明や共産を議会制民主主義にそぐわない存在のように印象づけているが、この狡猾なイメージの詐術に惑わされてはいけない。議会が多様であることは結構なことだ。議会の多様性とは、それぞれ立場が違い、政策が違い、理念や路線の異なる政党が存立して、各々が筋を通して角逐している姿である。各政党が純粋に屹立し、自らの綱領に忠実に政策主張し、活発にぶつかり合うからこそ、そこに議会の多様性が出来し、確保され、維持されるのである。各政党の理念が曖昧で、政策をコロコロ変え、国民の前では対立しているように見せながら、裏で睦み合っている議会こそ、多様性の失われた、複数意見のない暗黒の議会であり、現在の日本の堕落した国会の真実なのだ。妥協は対立なくして生まれない。議会の画一性の問題は、政党の一枚岩性とは関係ない。別問題だ。一枚岩の政党ばかりだから、議会も画一的になるなど、論理矛盾も甚だしい。むしろ逆ではないか。ユニフォームの政党が複数存立し、対抗して、議会のバリエーションが担保されるのである。現在の日本の国会に真剣な意見対立や政策論争がないのは、民主や維新という(内田樹のお気に入りの)政党が、実際には自民と政策が同じで、社会の中の自民支持層とは異なるpartを代表してないからである。

内田樹は、さも一枚岩の政党の存在が、議会の画一性を媒介するように表象を操作している。釣られてはいけない。この内田樹の寄稿に対して、きわめて秀逸で完璧な論破の記事がネットに上がっていて、実に爽快で小気味がいい。この記事は、3年前の参院選で、民主が負けてねじれの状態になったとき、内田樹がその選挙結果を批判し、「政治過程をフリーズさせようとしている」と有権者を非難した事実を暴露している。3年前に民主が自民に負け、参院がねじれたときは、内田樹はねじれ国会を「何も決まらない国会」だと痛罵し、不当視しているのである。決定的な動かぬ証拠を上げられたものだが、要するに3年前と言っていることが180度違う。今回、ねじれを解消させた民意を全体主義政治への選好だと警告しながら、3年前にねじれを生じさせた民意に対しては、「有権者のダッチロール」だと侮蔑しているのである。言っていることが全く逆だ。何を言っているのか分からない。要するに、民主を負けさせた民意は悪いと言いたいのが内田樹の本音であり、民主を負けさせた民意を不当化して意味づける理屈を応急的に開発し、修辞の装飾を施して言説を弄んでいるだけにすぎない。衆参のねじれは、内田樹にとって、そのときどきで都合よく意味が変わるのであり、3年前は「政治過程をフリーズさせる」悪であり、今回は「政党の暴走を抑制する」善なのだ。きわめて党派性丸出しの主張を思いつきで繰り返しているのだけなのだが、表面的には何か思想的に含蓄の深い分析と提言を与えているように偽装している。

その粗悪でデタラメな一夜漬けの言説を、朝日が権威づけて宣伝している。そしてそれを、内田樹のお仲間で一緒に鈴木寛を応援した湯浅誠が、TWで「共感した」と言い、自分のfacebookに引用して信者に紹介している。いずれにせよ、内田樹の3年前の記事と今回の記事の豹変と欺瞞は、あられもない赤面の失態で、小学生が見ても明白な、露骨きわまる二枚舌であり、評論家としての内田樹の信用を傷つけるものだろう。動かぬ証拠をネットに晒され、内田樹はどう弁解するのか。それとも、厚顔を通して無視し続けるのか。問題なのは、前回の記事で触れたが、自分も評論家気取りで、東浩紀や宮台真司の口真似をして喜んでいる高学歴の論壇オタクたちが、この問題を由々しき事件として深刻に受け止めないことである。この連中にとって、真偽や善悪は、出版され発刊され放送されて売れているという、市場の現実が唯一の基準なのであり、岩波や朝日の包装紙のものならば、内田樹や湯浅誠というブランドから発せられた言説や言句ならば、無条件に善であり、無前提に正義であり、「さすがに内田さん」と相槌を打ち、「湯浅さんはいいことを言う」と頷いて手を叩く対象なのだ。彼らにとっての言論とは、あるいは言論世界での態度とは、論壇市場で成功しているものに脊髄反射で靡いて賛同することであり、鵜呑みにすることであり、せいぜい、そこで消費者として確認するのは、ブランドが産出された工場の情報(学歴)を確かめて納得する程度でしかない。この、言論を趣味としか心得ない者たちは、高学歴であるが無知であり、無知の自覚が全くない。

私は、内田樹の主張は間違っているし、また、こうした誤った思想が、そもそも「政治改革」の破産の根本的原因であると私は考える。逆なのだ。よく考えてもらいたいことは、公明や共産に投票して、それは候補でも政党でも同じだが、有権者は裏切られるということはないのである。民主や維新に投票すれば、まず十中八九、確実に裏切られる。民主や維新は、最初から有権者を裏切ることを前提で、選挙で政策を言っている。公明や共産は投票した者を裏切れない。そういう政党だ。ある候補が議員になって、途中で公約と違う政策に転じたなら、その者は離党しなくてはいけないし、議員辞職しなくてはいけない。それが公明と共産の政党としてのあり方である。「政治改革」以前は、そうした政党のあり方が普通で、政党や候補者と有権者の関係が当然で常識だった。政党がこれほどコロコロ政策を変え、橋下徹的に平然と嘘をつくのが当たり前になったのは、「政治改革」以降のことだ。「政治改革」以後の変化で最も重要なことの一つは、マスコミが政治を左右するようになったことである。マスコミと論壇の論者が、政治家や政党を手玉にとるようになり、あるいは癒着し、政党がマスコミと一体になった。マスコミが風を吹かす政党が必ず勝つようになり、世論調査で空気を動かし、投票日の前に勝者を決定する仕組みになった。政治が極度に濃厚にポピュリズム化した。内田樹が言っていることは、そういう政治体制こそが素晴らしいということだ。マスコミと官僚が権力を持ち、政党はそれに従属する政治を民主主義だと言っている。

つまりは「政治改革」のイデオロギーの正当化だ。内田樹は間違っている。政党に、「政治改革」で失われた原理性と理念性を回復させないといけない。政党を本来の政党に戻さなくてはいけない。そこからしか、日本の政治の再生はないと私は確信する。


by thessalonike5 | 2013-07-25 23:30 | Trackback | Comments(1)
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Commented by さくら at 2013-07-25 19:49 x
たしかに、今の国会で政党と呼ぶに値するのは、公明党と共産党だけなのかもしれません。
理念が曖昧でコウモリのような党に、有権者が議会での代表権を委ねても不毛ですよね。自分たちの代表だと思って投票したら、いつのまにか別の立場の人たちの代表になってました、なんてことになるから。
公明党や共産党はそれはそれで良いとして、その他に、2009民主の公約を実現するような政治的立場の、理念ある本当の政党が生まれることを期待します。グローバリストと国家主義者のキメラのような自民は、どう考えても庶民の立場を代表することはありえませんから。
夜明け前は最も暗いと言います。次の総選挙が楽しみです。
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