Tuesday, July 23, 2013

国際メモリアル・デーとは何か

国際メモリアル・デーとは何か 戦争犯罪論ノート(48)/『Let’s』80号(2013年)                                                                                      一 はじめに                                                                                                                    二〇一二年一二月、台北で開催された第一一回アジア連帯会議で、八月一四日を「日本軍『慰安婦』メモリアル・デー」とすることが決まった。                                                                                                                      八月一四日は、一九九一年に、韓国の金学順さんが「慰安婦」被害者として初めて名乗り出た日である。                                                                                                                                          衆参両院における議員からの質問に対して、日本政府(当時の労働省職業安定局長)が「いわゆる従軍慰安婦につきましては、民間の業者がこれを連れまわしたもので、軍は関与いたしておりません」と、日本軍の関与を否定したという報道に接した金学順さんが、自分は日本軍に連れまわされた被害者であると告発した。この勇気ある告発がきっかけとなって、アジア各地の被害女性たちが半世紀の沈黙を破ることになった。                                                                                                                                             それ以前から、沖縄のペ・ポンギさんのことは知られていたし、韓国では尹貞玉(梨花女子大学名誉教授)が調査と報告を行っていたが、アジア各地の女性たちが立ちあがる最大のきっかけは、やはり金学順さんの勇気だった。                                                                                                                                            元になった国会質問は、朝鮮学校生徒に対するJR定期券差別問題であった。当時、JRは日本学校生徒にのみ通学定期券を発行し、朝鮮学校生徒にはこれを認めていなかった。私たちは平等の定期券発行を求めて、文部省、運輸省、JR東日本に要請行動をしたが、その一環として議員に国会質問をお願いした。本岡昭次議員と清水澄子議員がそれぞれ国会質問を行ったが、その際に取り上げたのは「戦前戦中に朝鮮人を強制連行し、酷使して鉄道工事を行ったにもかかわらず、その子孫である朝鮮学校生徒をいつまで差別するのか」という問題であった。そこで定期券差別問題だけではなく、朝鮮人強制連行問題、従軍慰安婦問題、南方方面派遣団問題を取り上げてもらった。                                                                                                                                                    この質問に対して、日本政府が関与を否定したのが右の答弁であり、報道でそれを知った金学順さんが名乗り出ることにつながった。                                                                                                                                                「慰安婦」被害女性の運動は、東アジアにおける問題だけではなく、世界各地における紛争下の女性に対する暴力の問題につながった。一九九三年五月のウィーン世界人権会議、同年一二月の国連「女性に対する暴力撤廃宣言」採択、一九九四年三月、国連人権委員会における「女性に対する暴力特別報告者」の創設とラディカ・クマラスワミ特別報告者の任命、そして一九九五年のクマラスワミ特別報告者の調査と、一九九六年のクマラスワミ「慰安婦」問題報告書へとつながった。まさに歴史を動かしたのが、金学順さんと、東アジア各国のサバイバー(被害女性たち)であった。                                                                                                                                                        そこで、第一一回アジア連帯会議の決定を受けて、さらに今年、日本で「八月一四日を国連メモリアル・デーにしよう」という運動が始まった。アジアだけの問題ではなく、武力紛争下における性暴力、とりわけ性奴隷制と闘うためのメモリアル・デーとするためのチャレンジである。                                                                                                                                 それでは国連メモリアル・デーとは何か。どのようなメモリアル・デーがあるのか。それはどうやって決まるのか。八月一四日を国連メモリアル・デーにするためにはどんなロビー活動が必要なのか。                                                                                                                                                                   二 国連メモリアル・デーの概要                                                                                                                                                    1 国連メモリアル・デーとは                                                                                                                                                   国連ウェブサイトで調べると、「国連の国際デー」という言葉で一年間のメモリアル・デーが掲げられている。国際デーとは何かという定義は見当たらなかった。一月二七日の国際ホロコースト犠牲者の記憶記念デーに始まり、一二月二〇日の国際人間連帯デーに至る年表が掲載され、一一五のメモリアル・デーがあることがわかる。                                                                                                                                                他方、ウィキペディアで調べると、ABC順で、Aの世界エイズ・デー(AIDS)から始まって、Yの国際青年デー(YOUTH)まで、七六のメモリアル・デーが掲載されている。                                                                                                                                                                   世界本デー、子どもデー、国際ダンス・デー、世界社会正義デー、国際民主主義デー、アース・デー、国際奴隷廃止デー、国際家族デー、国際移住者デー、世界ツーリズム・デー、国連デー、戦争犠牲者デー、世界水デー、世界子ども労働反対デー、世界交通事故犠牲者記憶デー、世界環境デー、国際人種差別撤廃デー、国際女性に対する暴力撤廃デー、世界食糧デー、人権デー、世界知的所有権デー、国際核実験反対デー、山デー、国際非暴力デー、国際平和デー、世界哲学デー、世界プレスの自由デー、世界難民デー、国際パレスチナ人民との連帯デー、国際拷問被害者支援デー、国際寛容デー、世界健康デー、世界人道デー、世界統計デーなど、実に多くのメモリアル・デーがある。                                                                                                                                                              2 主要なメモリアル・デー                                                                                                                                                                  (1)一月二七日 ホロコースト犠牲者の記憶記念デー                                                                                                                                                         一九四五年一月二七日、ナチス最大のアウシュヴィツ強制収容所がソ連軍によって解放された日をもとにしている。国連で承認されたのは比較的新しく、二〇〇五年のことであった。それ以前に一九九六年、ヘルツォーク・ドイツ連邦共和国大統領が提唱してドイツなどで記念式典が催され、二〇〇一年からはイギリスやイタリアなど各国に広がった。それを受けて、ナチス収容所解放六〇周年を機に、二〇〇五年一月二四日、国連総会決議が採択され、一月二七日が国連デーとなった。イニシアティヴをとったのは、シルヴァン・シャローム・イスラエル外相だった。決議は、ホロコーストの歴史教育の発展、ホロコーストの否定を拒否すること、人種的不寛容や、民族的出身や宗教的信念に基づく煽動や暴力を非難することを明示している。その後毎年、国連本部で記念行事が行われている。                                                                                                                       (2)三月二一日 人種差別撤廃デー                                                                                                                                                      一九六〇年三月二一日、南アフリカ共和国においてシャープビル事件が起きた。アパルトヘイト法に反対するデモが行われたが、デモ隊は平穏に行進していたにもかかわらず、警察が発砲して大混乱となり、六九人の市民が殺害された。南アフリカではかなり以前から、この日がパブリック・ホリデーとなっていた。一九六六年一〇月二六日、国連総会決議によりこの日が国際デーとなった。その後毎年、国連本部でも南アフリカでも記念行事が行われている。                                                                                                                                           (3)四月七日 一九九四年ルワンダ・ジェノサイド反省デー                                                                                                                                                               一九九四年四月七日、ルワンダにおいてツチ民族に対する迫害と虐殺が始まり、八〇万と言われる虐殺が行われた。二〇〇四年四月七日、国連総会で決議が採択された。キガリ(ルワンダ)、ニューヨーク(アメリカ)、ダルエスサラーム(タンザニア)、ジュネーヴ(スイス)で記念行事が行われ、一分間の黙祷が行われた。                                                                                                                                 (4)五月八・九日 第二次大戦時に生命を失った者の記憶と和解の時                                                                                                                                                                                  一九四五年五月八日、ナチス・ドイツが無条件降伏をし、アドルフ・ヒトラーの第三帝国が終焉した。二〇〇四年一一月二二日、国連総会で決議が採択された。決議は、各国、国際機関、NGOに、第二次大戦犠牲者に敬意を捧げるように呼びかけている。                                                                                                                                                          (5)六月二〇日 難民デー                                                                                                                                                                                                 二〇〇一年一二月四日、一九五一年の難民の地位に関する条約五〇周年を記念する決議によって、難民デーが決まった。それ以前からアフリカのいくつかの諸国で、アフリカ難民デーが記念されてきたので、国連は同じ六月二〇日を国際デーとした。                                                                                                                                                                                                                   (6)六月二六日 拷問犠牲者支援デー                                                                                                                                                       一九四五年六月二六日、国連憲章に署名がなされた。国連憲章は人権尊重に言及した最初の国際文書である。また、一九八七年六月二六日、拷問等禁止条約が発効した。拷問犠牲者リハビリテーション委員会を置くデンマーク政府の提案によって、国連総会で決議がなされ、拷問犠牲者支援デーが決まり、一九九八年に最初の記念行事が行われた。                                                                                                                                                                                (6)七月一八日 マンデラ・デー                                                                                                                                                                七月一八日は、南アフリカのネルソン・マンデラの誕生日である。二〇〇九年一一月、国連総会決議によりマンデラ・デーが創設されたが、その前年から一部の諸国や機関によって記念行事が行われていた。二〇〇九年四月二七日、ネルソン・マンデラ基金などが提案して、国連決議となった。マンデラ・デーは南アフリカで祝日になっていたわけではないが、マンデラの遺産を継承し祝賀する日と考えられてきたという。                                                                                                                                    (7)八月九日 世界先住民族デー                                                                                                                                            一九八二年八月九日、当時の国連人権委員会・差別防止少数者保護小委員会の先住民族作業部会が開始された。一九九四年一二月二三日、国連総会決議により国際デーとなり、二〇〇五年から「行動と尊厳」をテーマとする国連第二先住民族の一〇年が始まった。                                                                                                                       (8)八月二九日 核実験反対デー                                                                                                                                                       一九九一年八月二九日、セミパラチンスク核実験場が閉鎖された。二〇〇九年一二月二日、カザフスタンが提案した国連総会決議が全会一致で採択された。決議は、核実験爆発の影響に言及し、核兵器のない世界という目標を達成する手段の一つとして核実験中止の必要性を訴えている。                                                                                                                                                                      (9)一〇月二日 非暴力デー                                                                                                                                                                              一〇月二日はマハトマ・ガンディーの誕生日であり、インドでは以前から記念日とされてきた。二〇〇四年一月、イランのノーベル賞作家シーリン・エバディが提案し、やがてインドでも関心が高まり、二〇〇七年一月にニューデリーで開催されたサティヤグラハ会議に引き継がれた。ソニア・ガンディとデズモンド・ツツ主教の呼びかけを受けて、二〇〇七年六月一五日、国連総会決議が採択されて、非暴力デーとなった。                                                                                                                                       (10)一一月二五日 女性に対する暴力撤廃デー                                                                                                                                                        一九六〇年一一月二五日、ドミニカ共和国で、政治活動家であるミラバル三姉妹が、トルヒーヨ独裁政権によって暗殺された。一九八一年以来、主にラテン・アメリカの活動家たち、NGOが、女性に対する暴力と闘う日として記念行事を行ってきた。一九九三年五月、ウィーン世界人権会議で女性に対する暴力のテーマが正式に取り上げられ、一二月には国連総会で女性に対する暴力撤廃宣言が採択された。翌年から国連人権委員会の議題となり、その後現在にいたっている。一九九九年一二月一七日、国連総会決議によって国際デーとなった。その後、毎年、国連、列国議会同盟、UNIFEMが記念行事を行っている。                                                                                                                                           (11)一二月二日 奴隷廃止デー                                                                                                                                                                         一九四九年一二月二日、国連総会は人身売買禁止条約(人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約)を採択した。国連は一九八六年以来、この日を国際デーとして記念してきた。                                                                                                                                                                        (12)一二月一〇日 人権デー                                                                                                                                                                            一九四八年一二月一〇日、国連総会が世界人権宣言を採択した。最初のまとまった国際人権文書であり、その後の国際人権規約(自由権規約、社会権規約)、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、拷問等禁止条約、子どもの権利条約など国際人権法の出発点となった宣言である。一九語〇年一二月四日、国連総会は一二月一〇日を人権デーとして記念行事を行うことを決定した。国連の各機関におけるハイレベルでの記念行事が行われてきたが、各国政府もさまざまな取組をしてきた。二〇〇八年一二月一〇日は六〇周年にあたり、国連事務総局は一年間の人権キャンペーンを行った。今日、世界人権宣言は、キリスト教の『聖書』に次いで、もっとも多くの言語に翻訳された文書とされている。                                                                                                                                                                   三 おわりに                                                                                                                                                                                         以上、八月一四日を「慰安婦」メモリアル・デーにしたいという関心から、主要なメモリアル・デーを見てきた。それぞれの国連決議の内容など立ち入った検討が望ましいが、ここでは以上の概観をもとに、若干の感想を述べるにとどめる。                                                                                                                                                                                                                                                   第一に、最初に感じたのは、アジア発のメモリアル・デーが少ないことである。パレスチナをアジアと言えないこともないが、それ以外には、一〇月二日の非暴力デーがマハトマ・ガンディーの誕生日を記念している程度である。やはり西欧の出来事が中心である。第二次大戦に関しても、日本ではなく、ナチス・ドイツの降伏がもとになっている。また、アフリカに関連する国際デーも目立つのは、西洋による植民地支配への一定の反省がなされたことと、アフリカ諸国が一致して要求できたからではないだろうか。                                                                                                                                                                                                    核実験反対デーはセミパラチンスクであり、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニの記憶は刻まれていない。日本では、八月六日と九日を重要な記念日としているが、国民の祝日にはなっていない。まして、国際社会へのアピールがなされず、国連メモリアル・デーになっていない。日本政府が国連に働きかけることをしなかったからであろう。それどころか、日本政府は、核兵器の使用を禁止する決議に反対投票している有様である。                                                                                                                                                                                                     日本軍「慰安婦」メモリアル・デーをつくる観点で言えば、アジア初の国連デーが少ないことはチャンスと言える。欧州やアフリカの歴史と経験に学んだ国連デーだけではなく、アジアの歴史と経験に学んだ国連デーをつくろうと呼び掛けることができる。                                                                                                                                                                                           第二に、国連デーは、国連総会決議で決められている。他にもILOが決めた記念日やユネスコが決めた記念日もあるが、多くは国連総会である。                                                                                                                                                                                            国連総会で決議をして決めるとなると、提案は基本的には政府によることになる。日本軍「慰安婦」メモリアル・デーを国連総会に提案するためには、政府の協力が必要である。韓国や中国がそこまでの決断をするには、NGOによる強い支援と国際世論の動向が鍵となる。あるいは、アメリカ、カナダ、EU諸国など、「慰安婦」問題に関する決議をしてきた諸国に期待することも考えられるが、そこまで踏み込んでくれるかどうかは難しいのではないだろうか。韓国、中国と、EU諸国が足並みをそろえられるような環境づくりが必要である。                                                                                                                                                                                              マンデラ・デーや非暴力デーのように、政府ではなく民間人・団体がイニシアティヴをとった事例もあるが、最終的には政府が提案していると思われる。これらの事例の詳細な経過も要調査である。                                                                                                                                                                            いずれにせよ、国際NGOや、著名人(著名政治家、著名団体、ノーベル賞受賞者)などに要請して、幅広い運動として国際世論を高めて行く必要がある。                                                                                                                                                                                   また、日本政府の抵抗を乗り越えるためには、まずは国内において、歴史の事実を否定し、被害者を侮辱する異様な暴言・妄言集団を厳しく批判していかなければならない。これまで同様に歴史の事実を明確に記録し、被害者の記憶を心に刻み、継承し、アジア各国の連帯を強化するNGOの努力を継続しなければならない。                                                                                                                                                                                     第三に、固有名詞を含むものと、含まないものがある。ホロコースト、ルワンダ、ネルソン・マンデラ、パレスチナなどの固有名詞が用いられている。固有名詞を掲げるためには、圧倒的な賛成があり、強力な反対意見がないことが必要であろう。ホロコーストは、ユダヤ人が受けた人類史に残る悲劇であり、イスラエル政府を先頭にロビー活動が行われたが、ドイツ政府もこれに反対はしなかった。それどころか、ドイツ大統領がホロコースト・デーに言及していたくらいである。ルワンダ・ジェノサイドもごく最近のとてつもない悲劇であるが、ルワンダ政府が変わったことにより、歴史の記憶と継承がなされることになった。                                                                                                                                                                                                                                日本軍「慰安婦」メモリアル・デーを国連デーにするためには、変わろうとしない日本政府の抵抗を乗り越える必要がある。あえて「日本軍」と掲げて、国際世論を味方につけて、日本政府の抵抗を押し切ることができるか。あるいは、「日本軍」という言葉を削除せざるを得なくなるか。運動の進め方の検討が重要となる。                                                                                                                                                                                                                第四に、類似・関連するメモリアル・デーとの差別化も考えておく必要がある。人種差別撤廃デー、重大人権侵害に関する真実の権利と被害者の尊厳国際デー(三月二四日)、奴隷制と大陸間奴隷貿易の被害者の記憶デー(三月二五日)、女性に対する暴力撤廃デーなどがあるので、これらをさらに調査して、単に重複していると受け止められないように考えていく必要がある。その際、本稿冒頭にも示したように、戦時性暴力被害者が立ちあがり、真相解明と責任追及を求め、自らの人間の尊厳を求めて闘ったことが重要となるだろう。金学順さんが告発した八月一四日をメモリアル・デーとすることの意味を、より深く考究する必要がある。