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注:この記事はネタバレを含みます。
宮崎駿監督の最新作である、映画「風立ちぬ」が公開された。
ところが、その話題の大きさと人気の高さによってか、批評する人は褒める人も貶す人も(特に貶す人)、ほとんど浮き足立ったヒステリックなものになってしまっている。もっと直裁に言えば「見当違いなもの」になってしまっている。この映画が冷静に評価されるには、少なくとも10年は冷却期間が必要なのではないか――そんなふうにも思わされる。「千と千尋の神隠し」もそうだったが、この映画も、誰も冷静に批評しようとしないのだ。
そこで今回は、この映画を見た人がいかに冷静さを欠いており、その結果見当違いの批評をくり広げているかというのを、「超映画批評」というサイトに掲載された記事をサンプルに見ていきたい。
超映画批評「風立ちぬ」40点(100点満点中)
冷静さを欠いた批評その1
「勝手な予断を抱き、それが裏切られたことに対して恨みを抱く」
「この夏、どころか本年度ナンバーワン候補筆頭である本作は、「紅の豚」(92年)以来の飛行機映画ということで、強く期待されている。何しろ宮崎駿監督が無類の飛行機マニアであることは、いまや一般の人でも知る有名な事実。本作も監督の趣味全開、伸び伸びと作った楽しい作品になるだろうと思うのは当然だ。しかし、そんな風に素朴に期待する人にとって本作は強力な地雷になりかねない(「超映画批評」より抜粋)」
「宮崎駿監督が無類の飛行機マニアである」というのは、どうやら「有名」なことらしい。確かに、これまでの作品には、飛行機が印象的に登場するものが多かった。
しかしそのことをもってして、「風立ちぬ」が「監督の趣味全開、伸び伸びと作った楽しい作品になる」というのは、けっして「当然」なことではなく、評者の身勝手な「予断」というべきものだろう。
第一、映画の制作者たちは、作品の前宣伝で、むしろそうしたイメージを払拭することに取り組んでいたくらいだ。なにしろ、監督自らが、飛行機好きが勝手に抱く堀越二郎像を否定するような映画になる――と言明しているのだ。
それにもかかわらず、「伸び伸びと作った楽しい作品ではなかった」と怒り出すのは、言いがかりもいいところだ。そんな子供じみたことを平然と言ってのけられるほど、評者は冷静さを欠いているのである。
冷静さを欠いた批評その2
「映画を見るための知識が不足している」
「ノンフィクションベースということは、まともな人間ドラマを作らねばならないということ。だがこの主人公は、相変わらずの子供向けアニメのステレオタイプ。人間社会の膿とは無縁の、一切の汚れがない優等生だ。正義感にあふれ、弱気にならず、常に前向き。パズー少年となんら変わるところがない。ファンタジー世界を冒険するには違和感がないが、戦争前夜の日本で最重要兵器たる戦闘機を開発する成人男性としてはあまりに非現実的に見える(「超映画批評」より抜粋)」
この評者は、現実世界にも「人間社会の膿とは無縁の、一切の汚れがない優等生」がいることを知らないらしい。だから、そういう人物が登場すると、どうしたって「非現実的」に見えてしまうのである。
しかしそれは、単に評者自身が現実を知らないだけであって、作者が批判されるようなことではない。もちろん、知らないのが悪いわけではないが、しかし知らないなら知らないで、「非現実的」と批判することを控えるくらいの理性は持ち合わせてもらいたいものだ。
それに、たとえ現実世界でそういう人物に会ったことがなかったとしても、この映画では、そもそも「堀越二郎」がモデルだと明かしているのだから、少なくともその人はどういう人物だったか、調べるくらいはできたはずだ。そしてもしそれを調べたなら、堀越二郎が実際に「人間社会の膿とは無縁の、一切の汚れがない優等生」タイプだったということが分かるので、こうした批判にはつながらなかったはずである。
ここで評者は、そんな最低限のマナーも守れないくらい、冷静さを欠いてしまっているのだ。
冷静さを欠いた批評その3
「憎しみのあまり話を盛ってしまう」
「おまけに演じているのがエヴァンゲリオンシリーズで知られるアニメ監督の庵野秀明ときた。いうまでもなく声優でなければ演技者でもない。言葉は悪いがずぶの素人である。おかげでキスシーンも初夜シーンもすべて棒読みで、気になって画面に集中できない。せっかくの感動も台無しである(「超映画批評」より抜粋)」
ここで評者は「おかげでキスシーンも初夜シーンもすべて棒読みで、気になって画面に集中できない」と書いているが、実際の映画の中では、最初のキスシーンには台詞がないので、いわゆる「棒読み」は気になりようがない。だから、もし正しく批評するとしたら、「他のシーンで棒読みだったから、キスシーンにも集中できなかった」となるはずだ。
しかしそれでは、おそらく評者の憎しみを十分に表現できなかったのだろう。そのため、つい話を盛ってしまって、上記のような事実誤認をおかしているのである。
しかしこれでは、単なるウソつきだ。そしてこのようなウソをついてしまうと、批評そのものの信頼が損なわれるのももちろん、評者自身の信用さえガタ落ちになってしまう。そんな自らの首を絞めるような愚を犯すくらい、評者は冷静さを欠いているのだ。
冷静さを欠いた批評その4
「明らかな論理矛盾をきたす」
「ところでこの映画は、監督が「矛盾」とどう対峙するかというのが一つのテーマになっている。(中略)ただ(中略)、それがこの映画の中で説得力を持って示されることはない(「超映画批評」より抜粋)」
上の引用文は、長いので端折ってある。正確を期されたい方は原文に当たって頂きたいのだが、意訳すると「この映画は『矛盾』が一つのテーマになっている。ところがその矛盾はちっとも説得力をもって説明されていない」となっているのだ。
これはしかし、説明するのがあほらしくなるくらい「当たり前」のことだ。そもそも「説得力をもって説明されない」ことを「矛盾」というのであって、そこに説得力が認められれば、それはもはや「矛盾」ではなくなる。つまり、ここで一番矛盾しているのは他ならぬ評者自身なのだ。
しかしながら、評者はそんな単純な過ちにすら気づかないくらい、冷静さを欠いているのである。
このように、「風立ちぬ」を批評する人々は冷静さを欠いてしまっている。
そこで今夜のニコ生では、そうした状況を少しでも整理するために、映画を取り巻く状況を概観した上で、「冷静な批評とは何か」ということについて語っていきたい。
よければ見てください。
岩崎夏海のハックルテレビ#42「緊急特集! 誰からも理解されない『風立ちぬ』」
宮崎駿監督の最新作である、映画「風立ちぬ」が公開された。
ところが、その話題の大きさと人気の高さによってか、批評する人は褒める人も貶す人も(特に貶す人)、ほとんど浮き足立ったヒステリックなものになってしまっている。もっと直裁に言えば「見当違いなもの」になってしまっている。この映画が冷静に評価されるには、少なくとも10年は冷却期間が必要なのではないか――そんなふうにも思わされる。「千と千尋の神隠し」もそうだったが、この映画も、誰も冷静に批評しようとしないのだ。
そこで今回は、この映画を見た人がいかに冷静さを欠いており、その結果見当違いの批評をくり広げているかというのを、「超映画批評」というサイトに掲載された記事をサンプルに見ていきたい。
超映画批評「風立ちぬ」40点(100点満点中)
冷静さを欠いた批評その1
「勝手な予断を抱き、それが裏切られたことに対して恨みを抱く」
「この夏、どころか本年度ナンバーワン候補筆頭である本作は、「紅の豚」(92年)以来の飛行機映画ということで、強く期待されている。何しろ宮崎駿監督が無類の飛行機マニアであることは、いまや一般の人でも知る有名な事実。本作も監督の趣味全開、伸び伸びと作った楽しい作品になるだろうと思うのは当然だ。しかし、そんな風に素朴に期待する人にとって本作は強力な地雷になりかねない(「超映画批評」より抜粋)」
「宮崎駿監督が無類の飛行機マニアである」というのは、どうやら「有名」なことらしい。確かに、これまでの作品には、飛行機が印象的に登場するものが多かった。
しかしそのことをもってして、「風立ちぬ」が「監督の趣味全開、伸び伸びと作った楽しい作品になる」というのは、けっして「当然」なことではなく、評者の身勝手な「予断」というべきものだろう。
第一、映画の制作者たちは、作品の前宣伝で、むしろそうしたイメージを払拭することに取り組んでいたくらいだ。なにしろ、監督自らが、飛行機好きが勝手に抱く堀越二郎像を否定するような映画になる――と言明しているのだ。
それにもかかわらず、「伸び伸びと作った楽しい作品ではなかった」と怒り出すのは、言いがかりもいいところだ。そんな子供じみたことを平然と言ってのけられるほど、評者は冷静さを欠いているのである。
冷静さを欠いた批評その2
「映画を見るための知識が不足している」
「ノンフィクションベースということは、まともな人間ドラマを作らねばならないということ。だがこの主人公は、相変わらずの子供向けアニメのステレオタイプ。人間社会の膿とは無縁の、一切の汚れがない優等生だ。正義感にあふれ、弱気にならず、常に前向き。パズー少年となんら変わるところがない。ファンタジー世界を冒険するには違和感がないが、戦争前夜の日本で最重要兵器たる戦闘機を開発する成人男性としてはあまりに非現実的に見える(「超映画批評」より抜粋)」
この評者は、現実世界にも「人間社会の膿とは無縁の、一切の汚れがない優等生」がいることを知らないらしい。だから、そういう人物が登場すると、どうしたって「非現実的」に見えてしまうのである。
しかしそれは、単に評者自身が現実を知らないだけであって、作者が批判されるようなことではない。もちろん、知らないのが悪いわけではないが、しかし知らないなら知らないで、「非現実的」と批判することを控えるくらいの理性は持ち合わせてもらいたいものだ。
それに、たとえ現実世界でそういう人物に会ったことがなかったとしても、この映画では、そもそも「堀越二郎」がモデルだと明かしているのだから、少なくともその人はどういう人物だったか、調べるくらいはできたはずだ。そしてもしそれを調べたなら、堀越二郎が実際に「人間社会の膿とは無縁の、一切の汚れがない優等生」タイプだったということが分かるので、こうした批判にはつながらなかったはずである。
ここで評者は、そんな最低限のマナーも守れないくらい、冷静さを欠いてしまっているのだ。
冷静さを欠いた批評その3
「憎しみのあまり話を盛ってしまう」
「おまけに演じているのがエヴァンゲリオンシリーズで知られるアニメ監督の庵野秀明ときた。いうまでもなく声優でなければ演技者でもない。言葉は悪いがずぶの素人である。おかげでキスシーンも初夜シーンもすべて棒読みで、気になって画面に集中できない。せっかくの感動も台無しである(「超映画批評」より抜粋)」
ここで評者は「おかげでキスシーンも初夜シーンもすべて棒読みで、気になって画面に集中できない」と書いているが、実際の映画の中では、最初のキスシーンには台詞がないので、いわゆる「棒読み」は気になりようがない。だから、もし正しく批評するとしたら、「他のシーンで棒読みだったから、キスシーンにも集中できなかった」となるはずだ。
しかしそれでは、おそらく評者の憎しみを十分に表現できなかったのだろう。そのため、つい話を盛ってしまって、上記のような事実誤認をおかしているのである。
しかしこれでは、単なるウソつきだ。そしてこのようなウソをついてしまうと、批評そのものの信頼が損なわれるのももちろん、評者自身の信用さえガタ落ちになってしまう。そんな自らの首を絞めるような愚を犯すくらい、評者は冷静さを欠いているのだ。
冷静さを欠いた批評その4
「明らかな論理矛盾をきたす」
「ところでこの映画は、監督が「矛盾」とどう対峙するかというのが一つのテーマになっている。(中略)ただ(中略)、それがこの映画の中で説得力を持って示されることはない(「超映画批評」より抜粋)」
上の引用文は、長いので端折ってある。正確を期されたい方は原文に当たって頂きたいのだが、意訳すると「この映画は『矛盾』が一つのテーマになっている。ところがその矛盾はちっとも説得力をもって説明されていない」となっているのだ。
これはしかし、説明するのがあほらしくなるくらい「当たり前」のことだ。そもそも「説得力をもって説明されない」ことを「矛盾」というのであって、そこに説得力が認められれば、それはもはや「矛盾」ではなくなる。つまり、ここで一番矛盾しているのは他ならぬ評者自身なのだ。
しかしながら、評者はそんな単純な過ちにすら気づかないくらい、冷静さを欠いているのである。
このように、「風立ちぬ」を批評する人々は冷静さを欠いてしまっている。
そこで今夜のニコ生では、そうした状況を少しでも整理するために、映画を取り巻く状況を概観した上で、「冷静な批評とは何か」ということについて語っていきたい。
よければ見てください。
岩崎夏海のハックルテレビ#42「緊急特集! 誰からも理解されない『風立ちぬ』」
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