「高齢者のパーソナリティ障害」についてです。
「親御さんの言動で困っている方」で、ご参考になるかもしれません。
実は、高齢者で境界性をはじめとした「パーソナリティ障害」というのは、ほとんど存在しません。ほとんどそういった診断はされません。
境界型を始め、パーソナリティ障害の診断基準の「出来た」のが遅いです。70年代です。約40年前ですね。
戦後60年余り。戦後から20年「しか」経ってないくらいの時期。
昭和20〜30年代を想像してください。映画「3丁目の夕日」(でしたっけ?)そんな社会光景です。
その頃、10代後半〜30代で「発症」していたとしても、診断をされた方というのは稀です。現在50後半〜70歳代ですね。
受診したとしても、せいぜい「うつ病」「自律神経失調症」「躁うつ病(双極性障害)」「分裂病(統合失調症)くらいにしか、診断されなかったはずです。
現在困っているお子さん側は、20〜50代の方々。情報化社会に育った年代でしょう。
高齢者の場合、「健常者」でも境界型に近い状態になることも多いです。
認知症でなくても、環境などですね。
それと、高齢になると「人格の先鋭化」といって、その人の「良くない面」が大きく出てきてしまうことが多いです。
人生の末期による、見捨てられ不安や虚言など、高齢者には「ふつうに」起こることなので、区別がつきません。
例えば、「誰かがウチを覗いている・監視している!」や、「あの人が悪い!」って騒いでも、それが境界性の症状なのか、妄想なのか、認知症の前駆症状なのか、人格の先鋭化によるものか、はたまた高齢特有の寂しさからの「構って欲しいから」言っているのかが、判別出来ない。
ですから、「もともと境界型であったとしても、老後は全員一緒」です。
重篤な精神疾患を除いて、精神障害はほぼ全部そうです。「高齢者」は高齢者という「くくり」があるのです。
治療は問診、心理査定、知能査定などを経て、「以前からの言動」など、ご家族のお話を参考にしつつ、現時点での症状をみて、「それなりの診断」を医師はしますけど、治療はほぼ「無駄足」になったりが多いです。
何より医師を馬鹿にするというか・・・どうしても「医師が患者より年下」になることが多いので、ハナっから話を聞かないことが多い(苦笑)
「あんな若造になにが解る」ですね。
というわけで、「病識が無い方」の受診以上に、高年齢の方の受診は難しいです。
逆説的に言えば、病識が無いまま「ここまで来れた」ってことです。
つまり「この言動を何とかしなければ」と、「必死に」思わなくて良かった(または自分で何とかしてきた)ので、受診しなかった(治す努力をしなくて良かった)わけです。
現時点まで生活が破綻してない・しなかったってことは、難点があろうと、どう人が迷惑しようと、「社会生活は出来ていた・出来ている」となるんですね。
何とか「食べていけた」ということです。
それは、昔は「働く(食べていく)のが当たり前」で、引きこもりなどが許されない時代でした。「抑うつだ」とか「眠れない」なんて言ってられない。身勝手なことを言ったら、即、社会から捨てられます。人に構っている余裕が、大方の人が持ってない時代です。
今より「世間の波」が厳しかったと思います。
そういう中で何とか「社会」でやっていかなくてはならない。
それと、「家族の形」なども、今とは比較にならないものです。
今だったら虐待でも、昔は「しつけ」で通ったり、逆に美談になったりですね。
男性は「妾(愛人)の1人もいなきゃ甲斐性なし」とか。
女性が理不尽な扱いに耐えて耐えて・・・なんて当たり前。(すいません、男性ばかり悪者になってますが)
そういう時代ですから、それで言動やパーソナリティが「病的に」歪んだとしても、それは引き継がれていく「だけ」なんですね。
自分が「されたこと」を、下に「する」という構図で、綿々とつなげていくだけ。
誰もそれに疑問を持たなかった(持っていても何も言えない)時代です。
ですから、成育歴で「ひどい目」にあったとしても、それで認知が歪んだり、境界性に「近い」症状を持っていても、 それは「持ったまま」、とにかく「食べていける」ようになる「だけ」です。
それはそれで、パーソナリティ障害には、ある意味でとても良い「治療」になるんですね。「社会に揉まれること」自体が、認知の歪みを取ることに、大きく影響します。
つまりある程度は「良くなる」ということです。
でも、根本が良くなっていない(心理的に封印したり、成育歴的問題を乗り越えて無い等)と、「社会生活では何とかなる困った人」というのが、出来上がってしまいます。
当人は社会でやっていけても苦しいですから、何らかの発散をしなければならない。
その発散先が「家族」なんですね。
だから、よく見られる「外では何とかやっていくのに、家族には罵詈雑言」なんてことが起こるのです。
今は、精神障害の知識も情報も、広く知られてます。
ネットが普及してからも、かなりの変化が起こりました。
「ウチの親がおかしい・困っている」というご相談も、劇的に増加しました。
(昔はあまり無かったです)
「高齢者の心理」は日々研究はされてます。
増加する高齢者の介護の問題で、そういったことに関わっている方が大変困っているのと、受け入れる施設・制度で「受け皿」が無い為です。
今でも精神科の入院病棟で、フロア全部が「老人病棟」というところも多いんです。
もともと境界性などの「認知の歪み」が元になっている障害は、「治療」=「思考方法の訓練・やり方の矯正」が主になります。
「ふつうの人」も、人生において「己のやり方や考え方」が変わっていきます。
境界性や自己愛性などの「パーソナリティ障害」は、それを医療という補助のもとに、管理してやっていくだけなんですね。
「何十年、もしくは一生かけて、己を見つめ直していく障害」ってことです。
高齢者にはその時間がありません。
「今までやってきたこと」を、全て「無」に返してやり直すのは不可能・・・と言って構わないのではないでしょうか。
人間、やってきたことが間違いだったと考えたり認めたりするのは、とてもつらいものですし。
具体的に治療ですが。
まず「困った言動の高年齢の方」の精神科単独受診は難しいです。
ほとんど、別な疾病などで、他科からの紹介や入院で、受診されます。
まず問診や心理テスト・知能テストなどをします。
そして、過去のエピソードなどもお訊きしますが、どんな「ひどい」エピソードがあっても、上記の通り、精神医療系の診断名がつくのは「まれ」です。
せいぜい「老人性うつ」とか、「○○障害の可能性が高い」などです。
「だってこんなに困っているのに!昔からです!○○なことや××なこともあるんですよ!今も・・・!」「治療してください!」と、よく言われます。
ご家族が困っている・今まで困ってきた・苦労してきた・・・というのは、とても理解できます。
「少しでも」治療をして効果が出てほしい。
親ですから、そう思うのも痛いくらい解ります。
そのせいで、例えばお子さん側が「うつ」になって、それが引き続いている為、「その主因である親の病理を何とかしたい」というのも解ります。介護もあるでしょうし。
日々、「原因」を相手にしなければならないのでしたら、とても大変です。
ですが、診断名を付けたとしても、治療がほぼ不可能です。対症療法しかないです。
あとは当人を「どう介護(対応)するか」ということしか、残されてないのです。
残念ですが、病院は「過去を清算する・できる場所」でも、「何とかしてくれる魔法の国」でもありません。医師は魔法使いではありません。
どんな名医がいようと、何をしようと、もうすでに親御さんはあなたに何も与えてくれません。
「親としての」全て。人間としての謝罪も認めることも回顧も思い出もです。
高齢になるということは、そういうことです。
あなたと、あなたの親御さんの関係性は、医療というものが手を出すには大きくて深すぎる、「時間」という壁があります。
いま、苦しんでいる方達に、こんなことを書くのはどうか、とも思いましたが、私自身が親の問題を抱え、子どももいて。
そんな中で、心理補助をしていて、精神医療やこれからの高齢者問題なども見えてくると、すごく考える問題なのです。
皆様にとって「良い道」が見つかるよう、願ってます。
私も努力します。
春様
いつも参考になる助言をありがとうございます
まさに私にタイムリーなお話です。
私自身ふと、境界性人格障害の疑いのある我が母と、頑固な老人とどう違いがあるのかと、ふと思う事があります。
そう考えると、あれもこれもBPDとつながってしまい、母は至って普通の老人なのではないかとか。
実際になにもBPDに縁がない方は「おかあさんはさみしいのね」とおっしゃいますし、医者でさえ「ただのヒステリーですね」と言う場合があります。
ただ、はっきり言える事は、70を過ぎた母はもう、治る事は無く、何を言っても聞き入れる訳ではなく、こちらが変わってしまう事が楽だと言う事です。
今現在、母はどうやら前回の結婚(40年以上前)で、なにかしらの精神疾患をかかえ、通院していたらしい事、それが原因で離婚をしたらしい事が分かってきました。
それを、母方の親戚や知り合いはうすうす分かっていたため、今現在(母から)絶縁している事など...
でも、父も私も30年以上の家族。それが今更分かったからどうこう出来る訳ではありません(出来るかも知れませんが、究極の選択でしょう)
まだまだ私も父も暗中模索。これからどんな試練が待っているか分かりませんが、母の為に周りが不幸になる必要はないと言い聞かせて生きています。
春さん、はじめまして?(私も記憶が定かでなくなってます 笑)
>「親御さんの言動で困っている方」で、ご参考になるかもしれません。
正しく私のことです。
72歳のわがまま全開ばあさまと同居を始めて、ほぼ1年です。
別居時代に以前こちらで、母が境界性人格障害かもしれなくて、振り回された事をいろいろ書き込みしていましたが、今はやっと本当に諦めたと言う一言です。
当時は何とか良くなってもらいたい(本人より家族の為)、藁をもすがる気持ちだったのでしたが、何度も修羅場(包丁・破壊・家出騒ぎ・放火未遂・慰謝料の要求?等)をくぐりぬけてくると、こちらももう腹をくくると言うか、開き直るしかないのですね。
最近は幸い、母も体力が無くなり(暴れられない)、認知症からか記憶も定かでなく、最近はその日が無事越せれば由となりました。
一応、精神科がかかりつけとなっていて、躁うつ病と診断名がついてはいますが、本人には理解が出来ないまま、自分はうつ病だと思い込んでいます。
でも、別に良いのです。
今でも相変わらず、理不尽な要求や、無理難題も出てはきますが、のらりくらりとかわしているうちに、何とかなっていくものです。
でも、その分すごく冷静すぎる自分が怖いです。
年とともに弱っていく親を見て、可哀想とは思いつつも、親身になって上げられない冷淡な娘。
あっちこっちが痛い(異常は無い)と訴える母を、またかと冷たい視線で見てしまう。
次は自分の番なのに。
母を見ていると、歳をとることが怖くなります。
横やり失礼致します
>ありりんさん
ありりんさんのお母様、72歳なのですね。
うちの母も72歳です...やはり双子ですね...
私も母を見て、自分の老後が怖いです。
母は「死んでもお前の世話になるもんか。そんな日が来たら土下座でもしてやるわ!」と鼻で笑っていたのに、今は酷い有様、自分のお尻も拭けなくなってしまいました。
私も謙虚な意味で子供に世話をかけたくないなぁ、と切に思いますが、母の様に年をとってあんなくそババァ?になってしまうのかと思うと、将来を悲観してしまいます。
年をとったらどこかに身を隠してしまおうかなぁ、でも孫にお小遣いを与えたり一緒に公園に行きたいなぁなんて(笑
私も、距離の置き方に不安がありますよ。
近づき過ぎると巻き込まれるし、遠ざかりすぎると人でなし!って言われるし。
母に絶縁を言い渡されてる時が一番平穏かもしれません。(父はぼろぼろになりますが...)
春さん、ごぶさたしています。こちらのスレッド、興味深く拝読しました。
また、半年前には、大変お心のこもったレスをいただき、ありがとうございました。
(前のお話についての返事もあわせて書かせていただくので、長文になります。)
たった今、こちらの掲示板に来る前に、「過保護の親(マザーコンプレックスの問題)」
について、ある心理カウンセラーがネット上に書かれた文章を読んできました。
自分は、母から(虐待もあったけれど)過保護に扱われたことがあると思ったので、
タイトルに興味を惹かれて読んでみたんです。
そこには、「過保護だった親の心理には子供から感謝されたいという思いがあるので、
子供からすれば、大きくなっても親に巻き込まれたら恐ろしいと感じるのは当然だが、
それでも逃げずに感謝を伝え続けることが大切で、感謝により親との友情が芽生える。」
ということが書かれていました。私は、親から距離を置いているので、
おもわずドキリとして不安になりそうになりました。
「やはり自分の感謝の不足によって、現在の親子関係の問題が生じているのではないか」
と、繰り返し、こういう時には、考えてしまうんですよね。まったく、堂々巡りです。
私は、母に尊敬と感謝だけで接し、要求や質問を一切しないような対応をしましたが、
数年の間、それを続けたら、親がまるで赤ちゃんみたいになってしまって(苦笑)、
たぶんそのせい(私が助長したせい)かなと思いますが、大きな経済問題に発展しました。
私は自分も豊かではないので、経済的には甘やかしてあげることなど、とてもできず、
今は、こちらもどうしていいか分からなくなって、ほぼ縁を切ったと同じ状態です。
以前、SNSのほうにお邪魔していたとき、親御さんに何千万円という単位のお金を、
財テクで稼いで渡している方に出会ったことがありますが、すごいですね。
同じACとはいっても、本当にすごい方がいらっしゃいます。
私もそんなふうな甲斐性があったらよかったのですが。
母に幸せな時間をプレゼントしたい、という思いはあっても、
私には、それは全くできないんだ、という、自分の限界がわかりました。
母が子供の頃の私の幼児性に対応できなかったのと同じように、
私も、年取った母の幼児性に対応することができなかったのです。
中途半端に親を甘やかした私は、やっぱり悪いことをしたんだろうという気がします。
仕返しをするつもりはなかったのに、結果としては仕返しをしてしまったわけです。
現実としては、私は今、親から(主に経済的な意味で)食い物にされないために、
自分を守るように行動していかなければならないという状況があります。
春さんから、前にいただいたレスの中で、「ゆるす」という言葉がありました。
「ゆるす」という言葉の理解が、私の場合、他の人々と大きく違っているのが、
自分でも以前からよく分かっていたのですが、それがどのように違っているのか、
それを、ちょうど考えている時でしたので、大いに参考にさせていただきました。
私には「ゆるす」という言葉の語感を「ま、いっか」「ちょー適当」「ユルさ」と、
関連づけて捉えることが、とても難しいと思われました。
私にとっての「ゆるす」という言葉は、春さんのおっしゃる、その言葉の語感の、
まるで対極に位置するような気がしました。
私の場合、「愛する」「信じる」「ゆるす」という言葉を初めに覚えたのが、
三歳の頃から所属していた宗教教育機関の中でのことでした。
「ゆるす」という言葉に、血を流し刑罰に耐える裸の殉教者の姿を見てしまいます。
私利私欲を抑え人類のために尽くす犠牲、克己心といったものと結びついたものとして、
「ゆるす」という言葉を、自分を傷つけ、辱め、殺す、痛みを伴うものという具合に、
無意識のうちに理解していたことに気づかされました。
そして、そのためにカウンセリングでつかわれている「ゆるす」という言葉も、
私はいつのまにか自分流に解釈して、本来の意味と反対の方向へ進みがちだったようです。
同時に、「愛する」「信じる」という言葉も、いまだに私は一般的な理解とは違う意味に、
受け取っているのではないかと、思うのです。その語感には、私に於いては、
憂鬱で孤独で几帳面な感じ、自分を卑下する感じ、試験を受けているような緊張感が、
多く含まれるのです。その語感の中に、喜びや感動や希望があまりないようです。
「愛する」「信じる」ということが、私にとっては、そのまま試験や裁判を意味するのです。
そして、たぶん私には、何か不安な状況になればなるほど、
「私がもっと愛してさえいれば」「私がもっと信じてさえいれば」と、
自分の精神的美徳のハードルを上げていくような思考の癖があり、
その克己心的な思考の癖が、ある意味「幻想」をうんでいたのではないか、と思いました。
その幻想が、共依存を支えていたのでしょう。
愛せなくっても仕方がないし、信じられなくっても仕方がない。
許せなくっても仕方がない。そういった「部分」を少しでも自分の中にもつということが、
私にとっては、ものすごく恐ろしい、死ぬことよりも、はるかに怖いことだったのです。
でも、そのような「部分」を、少し安心して持てるようになると、
きっと、春さんのおっしゃる意味での「ゆるし」が訪れ、
ぱぴぷぺぴぽさんの「ま、いっか」「超てきとう」が実現できるのかもしれないのです。
夏目漱石の小説に「道義欲」という言葉が出てきますが、精神的美徳を求める心の動きを、
自分の数ある「欲」の一つと捉えたときに、愛や信を相対化できるのかもしれません。
食欲や物欲や性欲と同じ水準に、精神的美徳を求める「道義欲」を(=愛や信や赦を)、
並列して、その上で各欲望の充足の割合を決めていけばいいのではないかと考えています。
そうすることで、神ではなく親ではなく、自分が自分の主導権を握れるのではないかと。
とはいえ、理屈ではなんとでもいえますが、「おかあさんはさみしいのね」
というようなことを、ひとから言われると、どうしても心が痛みます。
でも、これは、(春さんも以前指摘してくださったように)私自身の痛みなんですよね。
相手ではなくて。それが今では分かります。
そして、よく考えてみれば、愛せなくて辛い、信じられなくて辛い、許せなくて辛い、
と本当に自分が苦悩を感じる対象は、そう多くないのかもしれません。今までの私は、
親「さえも」愛することができないのだったら、他のものを本当に愛せるはずがない、
と、無意識のうちにアタマから決めていたから、辛かったのではないかと思うのです。
一般的には、「家族との絆が全ての人間関係に繋がるのだから、まず家族を大切に」、
という意見があります。が、そういう意見に影響を受けるかどうかは、
まず、私自身が決めてかまわないわけですからねえ。
ところで、私は外国住まいです。私の住む国では、お年寄りの生き方が日本の場合と、
大変違っています。年をとることによって、確かに、多少は被害妄想が出たり、
意固地になったり、痴呆が出たりということは、もちろん誰しもありますけれど、
基本的に心が自立していて、若い人の自由を奪うようなことは決してしないんです。
社会の仕組みとして、そういう習慣になっているみたいです。
それでいて、行きずりの他人同士が、本当に気軽に助け合ったり、
困ったときには、助けを求め合ったりするようなところがあります。
普段は全くべたべたしないので、孤独ではあるかもしれませんが。
フランスの若い女性が日本に行って、日本のお年寄りの性質の悪さに度肝を抜かれた話を、
ノンフィクションの小説で読んだことがありますが、ちょっと分かる気がします。
日本人同士なら「年寄りだからしょうがいない」と笑って済ませるようなことでも、
きっと、人の心に土足で踏み込んでくるような、ずうずうしい感じを受けるのでしょう。
そうは言っても、東洋の思想や習慣からうまれた、自他の境界の「いい意味での曖昧さ」は、
西洋の文化人たちが、尊敬の眼差しをもって、研究しているところでもあります。
個人主義だけでは到達しえないものを、すでに日本人は身につけているところがあります。
春さんは、ここでも「私も努力します」などと書いておられますが、本当に勉強家で、
よく頑張っていらっしゃって、すごいですね。この前も、他のサイトを読んでくださり、
その上での貴重なアドバイスをくださって、本当にありがとうございました。
心理の専門家の方も、魔法使いなどではなく、常に結論のないものを探求し続けておられる、
永遠の研究家でいらっしゃるのだということが、私には、大変よく理解できました。
分かっていないことを、「分からないんです」と言える先生というのは、
ごく少数の、本当に学のある、研究熱心な方だけですから。
ところで、私は最近、引越しをして、日当たりと風通しのいいところに住んでいます。
ここへ引っ越してから、うつ状態になることは少なくなりました。
春さんも、いつか、うつに関して日照の話をされていましたが、環境も大切だなあ、
と、実感しています。今はちょうど、日照時間の一番長いときですし、
私もここで、少しリラックスして頑張っていけたらいいなあと思っています。
今、風邪を長引かせてしまっているので、それを治すのが先決ですが(笑)。
>みのりゆたかさん
おお!お久しぶりです〜!
お元気そうで安心しました。
そうそう、日照、大事ですよ。
日光を浴びて怒る人はあまり無い(笑)
私もこの前、仕事に引っかけてダンナと旅行を楽しんできました。
大きな大陸の端っこで、とても日差しがきれいで、楽しかったです。
空を見ていると、雲が生まれてくるんですよ。大きな。
土地的にも国民性もとても気に入りました。
そちらの国がみのりゆたかさんに合っている土地柄だといいですね。
いろんな国の高齢者を見てますが、どの国も「戦争時期〜現代」を生きることになってしまったお年寄りが、一番しんどい。日本も大正〜平成ですからね。
あまりにも時代の変化が激しすぎて、医療が追いつかないのもありますし。
これからもどんどん変化していくでしょうし、その中を私たちは「高齢者」として生きていくようになるわけです。
とりあえず、いろいろと心的な変遷と経緯があったようですね。
人間、毎日「こうかな?こうかな?」で進んでいくもんだと思います。
ゆっくりと考えてみて、だんだんと答えに「似たもの」が見えてくるんじゃないでしょうか。
>ありりんさん
はじめましてでしょうか、私もうろ覚えです。ごめんなさい(笑)
あの頃、やはり「親子間」のスレッドが多かったように覚えてます。
あれは何年か前なのに、今も変わらない。どこかで誰かが困っている。
親子の問題は、いつの世も変わらないってことでしょうね。
>その分すごく冷静すぎる自分が怖いです。
それは3つ考えられますね。
一つは「封印」。
考えないようにフタをしているってことです。感情を殺しているのかもしれません。
その場合は要注意です。後でどーっと来たりします。
一番要注意なのは、「根元の不在」ですね。
親の死です。
その後にいろいろと問題が出てくる時がありますから、もっともっと感情の整理とか、現状の対応の仕方に工夫をするというか。
そういうことが必要かも知れません。
二つ目はある種の「燃えつき症候群」というか。
体調不良などが見られなければ大丈夫かもしれませんが・・・。
もちろん、今までの経緯で様々な精神と体の変調もあったでしょうから、その区別などは、ご自身で確認なさるか、信頼がおける医師などに相談なさってくださいね。
三つ目は、私と同じ可能性です(笑)
私はもともと感情の波がとても小さい。無いに等しいんですね。それで悩んだ時期もありましたが。
よく言えば冷静沈着。要するに冷たい(苦笑)
人間、人格も脳も、とても可塑性が高い。いくらでも変わりますし変われます。
環境が「冷静沈着」を望んでいるのだったら、それも必要なこと。
もともとが「にぎやかで喜怒哀楽に富んだ性格」でも、静けさや冷静さが必要不可欠なら、そう変わっても良いということです。
「もともと」を変化させなきゃないって、割と「嫌なこと」に部類されそうですけど、人間、そうやって生きていくように出来ています。
そうじゃなきゃ滅んでしまう(笑)
人と人が関わっての人生ですから。
もしありりんさんが「私って冷たくなったなぁ」なんて思うのでしたら、ぜひともそれを別な「良い方向」へ利用なさってください。
案外と、他の対人関係とかパワーバランスで、良いことが起こるかもしれません。
冷たいってことは、「熱さ」とか「暖かさ」が無いってことではありません。
単に親子関係において、(この場合絶対に)必要なこと。
そう思いましょう。
私もそう思いながら、親と接してます。
特に問題ありません。何を言われても、何をされても気にならないですし、心配になるほど感情の波が立たない(笑)
私は年寄りになったら、大迷惑をかけて生きていこうと思ってます(笑)
カゴか何かでかついでもらって、綾小路きみまろのライブなんかに行きたい(笑)
「正しいわがまま」が出来る年寄りですね。理想です。
>こひつじさん
母は私の反面教師です。
こんな事言うのも変かもしれませんが、私は認知症になる前にさっさと早死にしたいと、本気で思っています。
本当に、母のようになることが怖いのです。
子供たちには、私のような苦労をさせたくありません。
>春さん、ありがとうございます。
可能性のうち、自分で一番思い当たるのは3個目の>三つ目は、私と同じ可能性です(笑)
かもしれません。
ただ、昔から感情表現の激しかった母に育てられ、3人兄弟の一番上という生い立ちからか、感情表現が下手と言うか、抑えてしまう事が当たり前になってこの歳まで来てしまいました。
とすると、一番目もありですね。(要注意?)
と言うより、一番目の影響で三番目になってしまったようにも思えます。
先日、夢の中で『どうして私ばっかりこんな目に会うのっ!!!』と絶叫していたことがありました。危ない前兆?
でも、いまさら後悔は無いのです。
くよくよするのがつまら無い事を、母との修羅場を経験してからは、なるようになれと開き直りを身につけ、ケセラセラです。
本当は、こんな経験ないほうが良いに決まってますが。
>「正しいわがまま」が出来る年寄りですね。
良い言葉ですね。
春さん>
はじめまして。
ちょうど母親のことで悩んでいたのでとても参考になりました。
愚痴を書かせてください。
高齢者の場合、「健常者」でも境界型に近い状態になることも多いです。
それと、高齢になると「人格の先鋭化」といって、その人の「良くない面」が大きく出てきてしまうことが多いです。>
そうなんですね。
私の母はとても劣等感とプライドが高く、意地っ張りで寂しがりです。
前はそれほどでもなかったのですが、父親はすでになくなっており、
母は定年してからすっかりひがみっぽくなり、体も痛くなり、
経済的にも多少不安があり、世間から取り残された感が満載です。
私は離婚して少々不安定なところがあり、心配もかけているし、
生活費は入れていますが、親の家に住まわせてもらっているので
大きなことはいえないのですが、
新しい彼氏が出来てからというもの・・・文句と不安がありありとみえます。
親孝行はならやっぱり一緒にすむものよねとか、どうせ人生は一人だしとか。
いい身分よねーといってみたり、
遊びに連れて行かないと無言の怒りをぶつけてくるし。
前は生活が出来るようになったら出て行けといっていましたが、
最近は別に無理して出て行く必要なんてないわよね、親と住んでいたって
精神的に自立していれば、と言い出すようになりました。
この人は私の幸せはどーでもよくなっちゃったんだなぁと寂しく思います。
散々世話になって甘えておいて、今更自由になりたいんなんて我侭だよな、と思います。
私は母がとても好きで尊敬していたので年老いてひがみっぽくなる母をみると
とても哀しく、もう人生ささげるしかないのかなと思うようになりました。
頼むから友達を作って欲しいんですが・・・母親は年寄り嫌いなんだそうです(笑)
きっと自分のことが嫌なんですよね。
でも、体も痛くて、寂しくて、お金も少々不安でといろんなことがあるんだから、
落ち込むのも偏屈になるのも当然だし、今更なおせと言っても無理ですね。
私は現状がどうであっても、はっきりそれを知るほうが救いになるんじゃないかと思いました。
長々といきなり大変失礼しました。
このスレッドをみて、どうにもならないと思ったら、
少し気が楽になりました。
ありがとうございました。
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