原爆症認定集団訴訟・近畿の公判傍聴日誌K
小佐古証人(国側)、「知らない」連発
司法判断への無責任な姿勢を露呈
(2005年3月2日)
2005年2月23日(水)・大阪地裁
驚いた。そして、無性に腹が立った。2月23日、大阪地裁202号法廷で開かれた原爆症認
定集団訴訟・近畿の第11回公判。被告・国側がこの裁判で総論的観点から立てた唯一の証
人、小佐古(こさこ)敏荘・東大原子力研究総合センター助教授に対する原告側弁護団の
反対尋問が終わりに近づいたころ。長崎の被爆者・松谷英子さんの原爆症認定申請を国が
却下したことを、最終的に不当と判断した2000年7月の長崎原爆訴訟最高裁判決についての
質問に、小佐古氏から、投げやりで無責任な答えが次々に返ってきたのだ。
尾藤廣喜弁護士 あなたは都合の悪いことは「分からない」という。
(放射線による急性症状の一つの典型、脱毛について、国が使ってきた原爆放射線線量評
価システム・DS86の機械的な適用では、爆心地から2・45kmで被爆した松谷さんも発症した
事実を説明できなくなる、と最高裁判決が重く見ている点をふまえて)
最高裁判決が指摘したDS86の問題点について読んだか。
小佐古証人 読みました。
尾藤弁護士 どういう点が問題点だと指摘したと思うか。
小佐古証人 いまだに分からない。
尾藤弁護士 最高裁判決で指摘された問題点について検討したことはあるのか。
小佐古証人 立ち話程度の話はした。
尾藤弁護士 DS86は放射性降下物について広島、長崎ともごく一部地区しか取り上げて
いない。あなたは「黒い雨」の範囲を知っているか。小佐古証人 はい。
尾藤弁護士 実際に被爆者に聞き取りしていった増田善信氏の調査で、それが約4倍に広が
ることが分かったことを知っているか。小佐古証人 知らない。
尾藤弁護士 「黒いすす」のことは知っているか。DS86の中で議論されたか。
小佐古証人 すすは議論していない。
……
小佐古氏に対する原告側反対尋問はこの日午後3時すぎから同5時40分まで行われた。原
告側は藤原精吾・弁護団長を先頭に、中森俊久、三重利典、稲垣眞咲、豊島達哉、有馬純
也の各弁護士がつなぎ、しんがりを尾藤弁護士がつとめた。
藤原団長がまず、放射線防護の基準を設定する上で線量と疫学的知見が「二輪車」だと
小佐古証人も言っていたことを再確認。反対尋問の前半は、DS86やそれを見直したものと
国側が説明するDS02の問題点を、計算値と実測値のずれの問題を軸に質していった。小
佐古氏はDS86、DS02の妥当性に固執したが、DS02については、3年が経過したいまもまだ総
括ができていないことを認めた。
被爆者の症状の問題に移ると、小佐古氏はとたんに口が重くなった。国側が無視してい
る遠距離被爆者の発症について、稲垣弁護士が、日米合同調査団や東京帝国大医学部の調
査データなどを突きつけ、爆心地から2・1−2・5kmでも脱毛の急性症状が出ているではない
か、と迫ると、「私の専門ではない」「知らない」「脱毛についての所見は、私は答えら
れない」などと繰り返した。豊島弁護士が入市被爆者の発症に関するデータを提示して質
問すると、「入市被爆者の問題があるということは存じていたが、具体的データは知らな
い」。
こうして、冒頭の尾藤弁護士と小佐古証人のやり取りに至ったのである。尾藤弁護士は
、同証人が言った「二輪車」のうちの疫学には「興味がないのか」と皮肉ったあと、「被
爆の実態を見ずして、DS86あるいはDS02の妥当性を議論することはできないのではないか
」と最後のダメを押した。小佐古氏は「疫学の立場からするとそうなると思う。DS86、DS
02は線量の側面から考えている」と答えるのがやっとだった。
「二輪車」を運転できない小佐古証人の発言を聞いていて、これは被告国側の被爆者切
り捨ての審査基準そのものの論理破綻を象徴しているのだと、あらためて気づいた。
国に対して最初から抱いていた疑問に立ち返ってみる。原告弁護団は2003年10月10日付
の「求釈明申立書」で、長崎原爆訴訟に勝利した松谷さん、京都原爆訴訟で勝訴をかち取
った広島の被爆者、故・小西建男さん(2000年11月、大阪高裁判決)について、裁判所が
いずれも国に否定されていた原爆放射線起因性を認めたのだから、それに合致する認定基
準を定め、それに従って認定審査を行う必要があるはずだが、新しく見直したという国の
「審査の方針」によれば、「各人の認定された病名につき、どのような要素が判断対象と
なり、推定した被爆線量の値はいくらであり、また、原因確率の数値はいくらになるのか
、さらに、どのような判断経過のもとで認定されることになるのか、ならないのか」を明
らかにせよ、と追及した。
これに対して、国側は2003年12月10日付の「被告ら第2準備書面」の中で、要旨次のよう
に答えたのである。
@二人の申請疾患は「右半身不全片麻痺及び頭部外傷(脳損傷)」(松谷さん)「肝
臓機能障害、白血球減少症」(小西さん)であり、審査の方針において原因確率が示され
ている疾病ではないため、原因確率を算定することはできない。A仮に審査の方針に基づ
いて判断するとすれば、起因性については「申請者の既往歴、環境因子、生活歴等」を総
合的に勘案して個別に判断すべき事案であり、治癒能力への影響についても、医療分科会
の各委員の専門的知見にゆだねられ、個別に判断されることになる。Bなお、被告厚生労
働大臣は、松谷訴訟の最高裁判決、京都原爆訴訟の大阪高裁判決の拘束力により、二人の
申請疾患(ただし京都原爆訴訟については白血球減少症)については放射線起因性がある
との前提に立って、両原告に原爆症認定を行ったものである。
これはもう、驚くべき開き直りの論理というほかない。ひらたく言えば、審査の方針か
らすれば認定できないが、裁判の判決という拘束力があるので、しょうがないから認定す
る―というに等しいのだ。審査の方針自体に問題があったのでは、との疑問などさらさら
抱かない。そして、「総合的勘案、個別的判断」の具体的内容は、返答不能である。司法
の権威―「法の支配」をも愚弄しているといっても過言でないのだ。
しかも、この理不尽な国の姿勢は現に続いている。昨2004年3月末、東京地裁で勝訴した東
(あずま)原爆裁判の原告で長崎の被爆者、東数男さんのケースについても、国は控訴。
東さんは本年1月29日、76歳で亡くなった。日本被団協など3団体が出した声明は「控訴理
由は、一審判決が退けた、被爆の実態を無視した非科学的な主張の蒸し返しにすぎません
でした」と指摘、「東さんはついに自分の病を原爆症と認定されないまま、無念の死を迎
えたのでした。私たちは、東さんの死に深く哀悼を捧げるとともに、東さんを死に追いや
った戦争と原爆と、国の被爆者行政をきびしく糾弾します」と怒りをぶつけている。
話を元に戻す。この日は午前11時に開廷、昼休み休憩をはさんで午後2時半までは、原告
側の証人、広島の被爆者(当時13歳)でもある沢田昭二・名古屋大名誉教授(素粒子物理
学専攻)に対する被告国側の反対尋問があった。国側弁護団は、主として、沢田氏がこの
裁判に提出した意見書(2004年11月15日)の中で展開したDS86やDS02批判を中心に反論を
試みようとしたが、沢田氏から引き出した証言は、かえって沢田意見書のポイントを裁判
官にも、よりかみくだいて説明する場と化したように思える。国側反対尋問は失敗した。
沢田氏は、自分の尋問を終えてからも、ほぼ満席に近い傍聴席の最前列に陣取って、小佐
古証人への原告側反対尋問を午後5時50分の閉廷までじっと見守った。
次回公判は4月22日(金)、次々回は5月20日(金)、いずれも午前11時―午後4時半と決
まった。次回からは個別原告の証拠調べに入る。沢田意見書は「被爆以前の健康状態と被
爆後の健康状態との変化についての検討、被爆後半世紀以上にわたる健康状態や病気の状
況などを総合的に検討することによって放射線影響を判断することが、残留放射線による
内部被曝と被爆者の放射線感受性の問題も含めてもっとも適切」と主張した。個々の被爆
者の立場に立った裁判を求めていく新たな戦いの始まりだ。
閉廷後、弁護士会館で、短時間、報告集会があった。沢田氏は「弁護団がよく勉強してが
んばってくれた」と労をねぎらった。弁護団からは「原告全員が勝利できるような裁判を
めざそう」と引き続く力強い裁判支援を訴えた。公正な裁判を要請する署名は3633筆分追
加提出されて、累計25724筆に達した。5月15日には、原爆訴訟支援近畿連絡会がこの裁判
の原告全員を励ますつどいを大阪で開く(場所・大阪保険医会館、時間未定)。以上
この国は被爆者を放置する
(2005年2月7日)
以下に引用するのは、近畿原爆症集団認定訴訟の原告の
お1人についての記事です。
この方は、厚生労働省から、右目の白内障については原爆
によるものだと「起因性」が認められながら、もう治らないから、
「要治療性」がないとされ、原爆症でないと却下されました。
左目も白内障なのですが、これについては、「起因性」がない
という理由で却下されました。
同じ原爆の閃光を浴びて、右目と左目で、原爆の影響がある
かないか、変わるなんておかしいだろう!
そう追及され、とうとう、被告厚生労働省は、裁判の途中まで
は、片目について原爆による「起因性」を認めていたのに、それ
は、「要治療性」で却下する時の書類を間違って使ったもので、
本当は最初から両目とも「起因性」がなかったのだ、と、抜け抜
けと主張を変えてきたのです。
いかに、国が被爆者を愚弄して省みないかがわかります。
以下引用
原爆症認定申請:
却下理由を誤通知 厚労省、
1年半後訂正
被爆者援護法に基づく原爆症の認定申請を02年に却下され、厚生労働省に処分
取り消しなどを求めて大阪地裁で係争中の兵庫県の女性(77)に対し、同省が却
下理由を誤って通知していたことが分かった。同省は当初の理由を「原爆との因果
関係は認めるが治療は不要」としたが、通知から1年半たった昨年1月の弁論で
「因果関係なし」と訂正した。同省は「事務的なミス」と説明しているが、女性の
代理人弁護士は「被爆者の苦しみを理解して慎重に対応してほしい」と憤ってい
る。
訴状によると、女性は看護学生だった45年8月6日、爆心地から約1.7キロ
の寄宿舎で被爆。直後から下痢や発熱が続き、76年ごろには右目を失明。左目も
白内障で通院を続けているという。
原爆症の認定には、(1)原爆の放射能との因果関係(起因性)(2)治療の必
要性(要治療性)−−が検討される。認定を受ければ医療費を国が負担する。ま
た、別の申請で月約13万8000円の医療特別手当が支給される。
女性は01年9月に認定を申請。02年7月に「起因性はあるが要治療性なし」
として却下され、同年9月、「因果関係を認めながら、治療の必要がないと判断す
るのはおかしい」と異議を申し立てた。さらに03年5月、処分取り消しなどを求
めて提訴した。
ところが、昨年1月の弁論で、同省は女性の却下理由を「起因性がなかった」と
突然訂正。さらに昨年10月、女性の異議申し立ても同じ理由で却下した。同省は
「別の様式の通知書を使ってしまった。事務的な手違いで反省している」と釈明し
ている。これに対して、女性は「なぜ、こんな間違いをするのか。被爆が原因は明
らかなのに」と怒っている。
日本原水爆被害者団体協議会によると、原爆症認定者は03年度末で2271人
で、被爆者健康手帳所持者のうち約0.8%に過ぎない。【堀川剛護】
毎日新聞 2005年2月4日 15時00分
東さんへの弔辞
(2005年2月6日)
日本被爆者団体協議会事務局の伊藤さんからメールが来ました。
下の二つの記事に書いた、東京の原爆症訴訟、東訴訟の原告だった被爆者東さん
の死に関するお話です。
伊藤です
本日東さんの告別式が無事に終わりました。
各地の弁護団、支援する会、被団協からの弔電ありがとうございました。
東弁護団を代表して池田先生が行なったあいさつ(弔辞)を添付します。
ちょうど判決2ヶ月まえに死んでしまった東さんのの死に新たな怒りを覚えます。
東数男さん
こんなに早くお別れすることになるとは。本当に悔しいです。
あなたは、昨年3月31日の全面勝訴した東京地裁判決の後、喜びの声をあげるわれ
われ弁護団の前で、「おそい。私の身体はボロボロだ。国は被爆者が死ぬのを待って
いる。絶対に控訴しないで欲しい」と、悲痛な訴えをされました。しかし、国は非情
にも控訴しました。
それから一年。心待ちしていた、3月29日の東京高裁の判決を待たずに、そのち
ょうど2ヶ月前に原爆に殺されてしまいました。
肝機能障害で原爆症の認定申請をされてから11年。それが認定されていれば、もっと
穏やかな生活ができたことでしょう。しかし、国はあなたの申請を却下しました。あな
たは「絶対に我慢できない」と6年前に提訴されました。
本当に国は死ぬのを待っていたのです。
東さんは60年前の原爆で殺されたのです。
われわれは、人生を狂わし、健康を破壊した原爆を憎む、あなたの気持ちを受け止め、
裁判の勝利を必ず勝ち取ります。
そして、今だに多くの被爆者を苦しめ続けている核兵器の廃絶のために努力することを
誓います。
東数男さん 長い間本当のご苦労様でした。
もうゆっくりお休みください。
東 訴 訟 弁 護 団
東さん、死す
(2005年1月29日)
東京から以下のような訃報が届きました。
原爆症集団認定訴訟の前から、ただ1人、東京地裁で原爆症訴訟を提起された原告でした。
東裁判の原告東数男さんが本日1月29日入院中東京代々木病院で、午後1時18分なく
なられました。
昨年3月31日の勝訴判決の喜びもつかの間、控訴されそれからはまさに一瀉千里に病状
が悪化。肝硬変、肝臓がんとの診断もされ、8月31日から代々木病院に入院されていま
した。
入院中は、「もうやめてもいいけど、皆のために頑張らなくちゃ」といい続けていまし
た、最近は、「皆頑張っているから、頑張ろうね」というと、朦朧とする意識の中で、「
俺はもう勝ったんだ」と何度も言っていました。昨年12月肝硬変が心配。長くて1年半
、肝臓がんは2年。肝癌の治療をするか同化を聞かれた家族は、最後まで手を尽くしたい
と希望され、今年1月15日からラジオ波によるがん治療を始める予定でしたが、今年に
なって、腹水が溜まり、ラジオ波治療は断念せざるを得ませんでした。薬による利尿を図
りましたが、腹水の増加に勝てず、昨日から食べられなくなり、本日最期を迎えられまし
た。
3月29日の判決までは頑張るといっていましたが、残念です。
最期まで意識はありました。本日午後1時に主治医から点滴治療をするかなど、家族の
意思確認のために病院に家族が行ったのですが、それを待っていたかのように静かに息を
引き取られました。
「何か言うことある」と問うと、「ありがとう!」と言いたかったように、すでに薄れ
る意識のなかで、「ありが......」と何度も言っていました。
東京 東訴訟控訴審 結審報告
(2004年12月25日)
原爆症・全国弁連 事務局長 殿
東京弁護団 各位
東訴訟の控訴審は昨日結審をしました。
判決期日は,来年の3月29日の午後2時よりと決まりました。
判決後には,様々の企画が予定されておりますので,当日は
是非全国からお集まりをおねがします。
判決前後の行動予定は,決まり次第,逐次
お知らせします。
24日の弁論は,国側の準備書面に対する反論を宮原が
総括的な意見を池田先生が,特に裁判所に対する要望(勧告的な
意見を判決の中に盛り込む)を高見澤弁護士が,そして最後に
長崎の中村弁護士が,松谷訴訟を踏まえた意見を述べました。
とりわけ中村先生の陳述は,自らが被爆者であること,そして
19年前に父親を食道癌なくしたが,父親の死は
原爆放射線によるものであると確信しているこという話から
はじめられ,力のこもった,重みのある意見陳述でした。
そして,数万人の被爆者がいればそこにはそこには1つ1つ異なる
数万例の原爆被害があり,1人の被爆者がいれば,
そこにはその人の生まれ育った人生があり,家族という絆があり,
地域社会や職場があり,その人の夢と希望がある。
原子爆弾はそのような人間としての存在を根こそぎ奪い去り,その人
の人生を根底から覆してしまったとされました。
最後に,意見陳述は,勇断をもって厚生労働大臣に鉄槌を下す
判決を下されことを切望する,と結ばれています。
大変感動的な意見陳述で,傍聴席からは
意見陳述の終了と同時に大きな拍手が巻き起こりましたが,
裁判所はそれを制止しません(できません)でした。
傍聴には140名近い人が詰めかけ,東京地裁最大の
法廷は立錐に余地もなく埋め尽くされ,法廷の外にはなお40名近い
人が待っていました。
裁判の後に厚労省前には200名を越える人が集まり
報告集会を開き,その後有楽町マリオン前で
サンタの赤い帽子をかぶって,チラシをまいたり
路上のライブを行いました。
原爆症認定訴訟・近畿の公判傍聴日誌J 京都支援の会作成
沢田(原告側)小佐古(国側)証人の主尋問
(2004年12月19日)
2004年12月15日(水)・大阪地裁
原爆症認定集団訴訟・近畿の第10回口頭弁論は、12月15日、大阪地裁本館2階202号法廷
で開かれ、原告側が申請した被爆者で名古屋大名誉教授の沢田昭二氏と、被告国側申請の
東大原子力研究総合センター助教授、小佐古敏荘氏に対するそれぞれの主尋問が行われた
。
原告側にとっては、被爆の実相を踏まえた原爆症認定制度への根本的転換を求めるこの
集団訴訟を総論的に裏打ちするため、すでに証言台に立った肥田舜太郎(被爆者、医師)
、安斎育郎(立命館大教授・放射線防御)両氏に次ぐ3人目、そして締めくくりの証人であ
る。国側にとっては、認定基準が正当だと主張するため立てた唯一の証人である。午前11
時10分から午後4時40分まで、昼食休憩をはさんで、双方約2時間ずつ、それぞれの立場を
全面展開する場となった。
今回は、国の不当な認定基準の支柱となってきた原爆放射線の線量評価システム、DS86
と、それを「見直し、科学的合理性もある」と国が主張するDS02の問題点も、理論的側面
を含め突っ込んで論証される。「論証された」と過去形にしないのは、次回公判で、もう
一度、両証人に対し、原、被告双方から反対尋問が行われることになっているからである
。したがって、主尋問と反対尋問をくぐった二人の証言から何が明らかになったかは、次
回公判後に整理することにして、この日の両証人の証言の骨格をまず書き留めておく。
原告側の証人、沢田氏は、素粒子物理学が専門の科学者であると同時に、広島の被爆者
である。主尋問の前半を担当した舟木浩弁護士の質問に答え、被爆時の模様を最初に語っ
た。つぶれた家屋の下敷きになり、自分はもがいて運よく這い出せたが、母が逃げ出せな
い。火事嵐で炎が強くなったそのとき、「いますぐ逃げなさい」と下敷きの母に強い調子
で言われ、「お母さん、ごめんなさい」と言ってその場を離れた。3日後、焼け跡から母の
骨を見つけた――つらい体験を、静かに、淡々と話した。
ついで質問は、沢田氏が理論的側面から精力的な批判活動を行ってきた認定基準の問題
点に移り、同氏はDS 86 について、▽残留放射線、とくに放射性降下物についてほとんど
考慮していないのが大問題。入市被爆者などは残留放射線の影響のほうが大きいのだから
、それをきちんと評価しなければいけない。▽理論的推定線量が、爆心地から遠距離にな
るほど実測値との乖離が生じてくる問題が解決できないままである。▽乖離が生じる原因
として、ソースターム(原爆が爆発したとき、爆弾の表面から放射される放射線の総量、
エネルギー分布、方向分布)の計算にも問題がある。軍事機密の壁で正確な計算ができな
い――と指摘。DS86を見直したとされるDS02に関しても、▽爆心地点を多少ずらしたこと
などで、近距離については一定の補正がなされたが、遠距離の乖離については依然として
何も解決されていない。▽何よりも、DS02は内部被曝の問題を度外視しているのが致命的
欠陥だ――などと証言した。
後半は有馬純也弁護士が引き継ぎ、認定に当たって内部被曝を重視することの重要性、
新たな認定審査の物差しの一つ「原因確率論」の不当性を沢田氏の証言で浮かび上がらせ
た。同氏は、▽黒い雨だけでなく、黒いスス、放射性微粒子も広範囲に降っており、これ
らが体内に取り込まれてDNA損傷など人体に影響を及ぼしている。▽こうした内部被曝は、
現在の科学の力で外側から物理的に測定するのは難しい。▽原因確率論は、統計的なもの
を個別事例に適用する点に無理がある。すべての人が平均値のところにあるなら別だが、
実際は、放射線の感受性もばらつきが大きく、その影響は多様なのだ。また、放射線影響
研究所(放影研)の疫学調査を基礎にしているが、被爆者と対比するための比較対象群「
非被爆者」として被爆者を選ぶ間違いを犯している――などと述べた。
沢田氏は最後に、核兵器廃絶運動に取り組む世界の科学者の組織「パグウオッシュ会議
」の会議を日本で初めて開いたときのこと、原爆資料館を見学した後、外国から来た参加
者が頭を抱え、「自分たちはきのこ雲の上から考えていた」と語ったという思い出を語り
、「科学者であるなら、きのこ雲の下から考えていかなければならない。きちんと目を開
いて、想像を超える被曝の実相を踏まえ、判断してほしい」と訴えた。
この日の公判を振り返ると、沢田氏の締めくくり発言は、次に証言台に立った国側証人
、小佐古敏荘氏への痛烈な批判となっていた。
国際放射線防護委員会(ICRP)の専門委員などもつとめている小佐古氏から、国側弁護
団は、大半の時間をDS86とDS02とのかかわりに絞って証言を引き出した。同氏は結論とし
て、@DS02の線量評価システムは、ガンマ線など各種測定結果から、その正当性が検証さ
れた。ADS86とDS02は方法論も同じで、不正確と指摘された最初の評価システムT65DとDS
86の間には「革命的」な違いがあったが、DS86とDS02は「兄弟」のような関係にある。基
本的部分はほぼ共通しており、改善を加えた。線量評価では、よい一致をみた。Bよって
、DS02の科学的合理性は検証された。C2km以遠の問題については、そこまで合っていた
ものが、突然変わるとは思えない――と語った。
国側弁護団の質問にも、小佐古氏の証言にも、「きのこ雲の下」で無辜の市民がどんな
に苦しんでいたか、そのことを踏まえた話はまったく出なかった。ひたすらDS02の「正当
性」なるものを言いたいがために2時間もの持ち時間を費やしたとしか考えられない。
なぜだろうか。ひょっとすると国側は、原告勝訴となった松谷英子さんの長崎原爆訴訟
最高裁判決(2000年7月8日)の中に書かれていた一言にしがみつこうとしているのではな
いか。「DS86もなお未解明な部分を含む推定値であり、現在も見直しが続けられているこ
とも、原審の適法に確定するところであり」というくだりである。最高裁判決もそう言っ
ており「線量推定方式としてのDS86の科学的合理性自体を否定しているものではない。そ
して、見直し作業が進められた結果、DS02の策定により、DS86の科学的合理性が改めて証
明された」と、すでに2003年12月10日「被告ら第2準備書面」の中で主張しているからであ
る。
もし、本当にそう考えているのだとすれば、それは、最高裁判決のとんでもない読み違
いである。判決は被爆の実相――現に生じた重い事実から出発して、DS86の限界を認めた
のである。裁判所が認定却下は不当だと認めた松谷さんや、京都原爆訴訟に勝訴した小西
建男さん(故人)=2000年11月7日、大阪高裁判決、確定=が、国の新たな基準でも認定さ
れないことになる矛盾を、国側は説明できないままではないか。
閉廷後、裁判所近くのいきいきエイジングセンターで開かれた報告集会で、沢田氏は「
大勢支援の傍聴に来ていただき、力づけられた。裁判官には何とか分かっていただけたの
ではないかと思っている」と話した。弁護団の人たちは「次回公判が大きな山場になる。
小佐古証人への反対尋問をしっかり準備したい」と決意を述べた。私たち支援者の任務は
、次回法廷傍聴席を埋め尽くして、原告・弁護団・沢田証人を励ますことである。その次
回は、明2005年2月23日(水)午前11時から午後4時半まで、大阪地裁202号法廷。以上
原告からの手紙
(2004年10月27日)
近年にない台風の為毎日大変なことと存じ上ます。
先金曜日の日に大阪裁判の議事録お送り頂き有難う存じました
私も肥田先生と同様に毎日苦しいが看護婦として使命の為にと働きました
今の若い人には不思議と思われるようなことも一生懸命でした
昭和の初めに生れた私達は自分のことより自分にかせられた仕事と云うかそれがあたり前
と思うように教育されてきていたのだと思います
いろいろなことを裁判のことを読みましてつくづくと入退院の繰返しをしていた15年度
を想い返しています
そして12月には,いていた所もよく見えなくてころび大きいかがとにひびを入れてギブ
スで2ヵ月半も過ごしました
入院してリハビリで泣く想いを致しましたが負けずに退院して今はボトボトと云う感じて
歩いていますそして昭和20年の8月のことを思ひ出しています
18才と若かったので出来て来たと思っています
肥田先生もいろんなことが有られたと思います
一度お逢いしていろいろと話しをと思います
家屋の下敷きからはい出して外を見た時は夕方のようにうす暗いことでした
何時間か全然わかりませんでしたが本館の方へと歩いて行く時何度倒れたかわかりません
が自分の本当の使命の為にと歩いて行きました
友達に逢い胸の名前を見て「高橋」助かっていたの早くと云って顔や手足に繃帯を巻かれ
てそこの木の下にと云われ少し休みましたが皆が懸命に働いているのにと動きました
本当に夢中でした
夜になっても外側の建物が燃えて明るかった
そして本館の前の広場へ行くと沢山の人です
水を水をと云う声や私たちが白衣を着ているので看護婦さん処置をと云われますが繃帯も
薬も有りませんが水だけは有りました
コンクリートの上に寝かされている人たち次々に死体の山です
翌7日近くの消防団の人が死体を1ヶ所に集めて,火葬されますが場所があくとすぐに人
です8日の朝になり,生徒に集合がかかりました
私たち甲看100乙看100名当時50名と1年生もいましたが集合したのは60名も居
りませんでしたがそれでも懸命でした食事も8日から配られたと思います
私たちも水だけで働いていたと思います
水を飲むと死ぬとは思っていましたが今一生懸命にと云う思いだけでした
国の為にと云う思いだけで生きて来ました
私の右眼は閃光の為に眼底がやけて段々に見えなくなったのです
今は左の眼だけの生活ですがこれも少しずつ悪くなって来て居ります
その中に何も見えなくなるのではと心配しています
又被爆障害で内分泌も悪くなり糖尿病になっています
これは中途位です
此の為食事療法運動療法に懸命です
今から何年生きて悲しみ苦しみをすごすかと思うとたまりませんが,今はただ生きて来て
59年,少しは親の為に動いたのかなと思っています
今も道を歩くときは端に寄って自動車等が通り過ぎるのを立ち止まって待っています
それでも少しでも見えることに感謝はしていますが,小泉さんに戦争は反対,自衛隊派遣
は反対と叫び続けたいです私たちのような人間は作ってほしく有りません
裁判にも出ずにと思いますが,遠くへは行けませんし,家族もガンで寝ていますので悪い
けど御免なさいと云うだけです
私の為に外に出やすいようにテスリや道をなおして頂きました
車椅子になっても困らぬようにして頂きました
介護抜きです
人の力を持っていては死んでからだと思いますので
本当に議事録有難うございました
お礼申し上げます
不自由な眼ですので,乱筆御免下さいますように
先生御前に
深谷
追伸
被爆時の急性症状抜毛頭全部抜け代りました
そして発熱40度出血,下痢
その時は緊張していたのかブラブラ病にはなりませんでしたが,30才余りで全部歯は抜
けて今は総入歯です本当にきたない字で御免なさい
原爆症認定集団訴訟・近畿の公判傍聴日誌H
「被爆の実相無視した科学者のごうまん」
安斎育郎証人、認定審査基準を批判
2004年10月1日(金)・大阪地裁
原爆症認定集団訴訟・近畿の第9回口頭弁論が、10月1日午後、大阪地裁であった。今回
は、閉廷後、大阪弁護士会館3階会議室で行われた報告集会でのことをまず書き留めてお
きたい。弁護団などの話が一段落したとき、原水爆禁止京都協議会(京都原水協)事務局
の田淵啓子さんが立ち上がり、「9月27日早朝、原爆症認定を申請中の京都の被爆者、
大坪昭さんが亡くなられました」と報告したのだ。
大坪さんは、あの日、17歳の少年志願兵として広島にいた。夜間訓練で山中におり直接
ピカは免れたが、現在の原爆ドームの北にあった西連兵場での被災者仮救護所で連日、救
護と整理作業に従事した。戦後2年ほどして脱毛が激しくなり、痛みがないのに歯磨き時
に血が出る、立ちくらみも頻発する。やがて、被爆のせいだと自覚するに至る。それから
というもの、胃潰瘍、貧血症、心臓病、肝臓、腎臓の疾患、変形性脊椎症等々、手術や入
・通院を繰り返す人生だった。
それでも、熱心な語り部として、また京都原水爆被災者懇談会の世話人として活動を続け
てきた。
田淵さんによると、大坪さんは今年3月13日、京都で開かれた「原爆訴訟を支援する映画
と交流のつどい」に参加したのが活動の場へ顔を見せた最後。つどいの直後に体調が悪化
し、救急車で病院に運ばれた。入院中のある日、「ちょっと話したいことがあるんや」と
呼ばれ、「今までいろいろと病気をして生きてきたが、このまま死ぬのはあまりにも無念
や。認定申請したい」といわれた。田淵さんの手伝いで、書類が整い、国に申請書を出し
たのが5月10日。病名は骨髄異形成症候群。「大坪さんは、いつ来るやろ、いつ来るやろと
国からの返事を待ち続けていました。私たちはこのような被爆者をどう救ったらいいので
すか。本当につらい。どうしても裁判に勝利しなければならないと思います」。田淵さん
は自分に言い聞かせるように話した。
神奈川県在住の被爆者7人が9月30日、横浜地裁に提訴して、原爆症認定を求める裁判は
全国12地裁に広がり、原告者数は17都道府県計161人となったが、広島や長崎などで提訴後
に判決を聞けないまま亡くなった原告もいる。この人たちもまた、大坪さんと同じように
無念だったに違いない。そして、裁判には至っていないが、国の冷たい行政をうらんでい
る無数の被爆者がいることを忘れてはいけないだろう。
この日の公判は、午後1時半から本館2階の202号法廷で、傍聴席をほぼ満席にした被爆者
や裁判支援者ら注目のなか、原告側申請の二人目の証人、立命館大教授の安斎育郎氏に対
する尋問が行われた。安斎氏は立命館大国際平和ミュージアム館長、原水爆禁止世界大会
・起草委員長など長年、核兵器廃絶・平和運動に携わってきたが、同時に放射線防御の専
門家である。この日は科学者の立場で証言台に立った。宣誓書朗読の後、西川知一郎裁判
長の指示に従っていすに座って証言した。
前半は原告弁護団の三重利典弁護士を中心とした主尋問が展開された。弁護団はまず、
安斎氏がかつて行った、被爆後の長崎に駐屯した米海兵隊員の被曝線量評価に関する調査
を素材に、残留放射線問題の見解を尋ねていった。
1945年9月23日から翌年6月まで、多いときには約1万人の海兵隊員が長崎に入市し、調査
活動や瓦礫の片付け作業などに従事した。ところが約30年経った1970年代半ば、これらの
元駐屯海兵隊員の間で多発性骨髄腫の発症が取りざたされた問題である。
質問に答え、安斎氏は、@原水爆禁止世界大会に、多発性骨髄腫にかかった元海兵隊員
本人や遺族が参加していて、ほかにも同じような発症があることが分かった。A入市日か
らいって火の玉からの「直曝」ではありえないから、考えられるとすれば残留放射線。そ
こで彼らの疾病が長崎駐屯による残留放射線被曝と関係があるかどうか、検討を要請され
、日本原水協の専門委員会を中心に総合的検討を行った。B検討結果は日本放射線影響学
会で口頭報告。東大医学部放射線基礎医学教室、岡田重文教授の目にとまり英語に翻訳さ
れて一部で配布された。アメリカ大使館からもほしいと要請があり提供した。C1980年代
の後半、アメリカで放射線被曝した復員軍人への補償法ができ、対象疾患の中に多発性骨
髄腫も入ったので、あるいは自分の研究もいくばくか役にたったのかもしれないが、はっ
きりしたことは分からない―などと説明。この研究から言えることとして、▽放射線被曝
には、体の外から放射線を浴びる「外部被曝」と、体内に取り込まれた放射性物質が体内
で放出する放射線を浴びる「内部被曝」があるが、実際に海兵隊員の被曝状況を検証しよ
うとすると、誘導放射能による被曝、放射性物質の降下による被曝、放射線汚染された飲
食物の摂取による被曝、さらに汚染地区にどれほど滞在したかなど様々な角度から検討し
なければならず、多くの不確定要因があるといわざるをえない。▽だからといって、何も
分からないのだから多発性骨髄腫と残留放射線被曝は無関係という態度をとるべきではな
く、さらに詳細に検討する必要がある―ということだった、と述べた。
弁護団の質問は残留放射線被曝のメカニズム全般に移り、安斎氏は、放射線被曝は「内
部被曝と外部被曝の合わせ技で起こる」のだと説明、さまざまな事例をあげて内部被曝の
重要性を強調した。そして、国の原爆症認定審査がこれまで「直曝」に基づく放射線量評
価システム・DS86を基礎に行われてきたことについて、「広島・長崎のような非常に複雑
な被爆の実相を考える上では、要因の一つに過ぎない直曝だけで判断しようなどという単
純化は、科学者のごうまんといわざるをえない」と国の審査のあり方を厳しく批判。DS86
の欠陥を補うものとして国が打ち出しているDS02についても「まだ公式のものとして報告
されていないし、依然として実測値とのずれの問題が解消されていないといわれている」
と指摘。審査方法の見直しの柱とされる「原因確率論」も「被爆者の切捨てであり怒りを
感じる」と証言した。
10分ほど休憩の後、午後3時25分から被告国側弁護団が反対尋問した。長崎駐屯米海兵隊
員の被曝線量調査問題について若干ただしたほか、放射線が人体内に入ってDNAなどを損傷
、破壊するメカニズム、核爆発に伴い発生する電磁パルスの問題などを取り上げたが、前
者の問題では紫外線とDNA破壊の関係、後者では携帯電話と電磁パルスの関係といった、何
を答えとして引き出そうとしているのか傍聴席からは理解しにくい質問が多かった。被爆
者に特有の脱毛とストレスとの関係についての質問が出て、そうか、要するに国側は原爆
による放射線被曝以外の要因によっても障害は起こるのだと、なんとなく印象付けたかっ
たのだろう、と思うほかなかった。一言でいえば、国側弁護団はこの裁判の核心に深入り
するのを避けている印象が強い。DS86については「あなたは関与したことがあるか」と尋
ねたきりだった。安斎氏は「メンバーでない」とぴしゃり。
あれっ、と思ったのは、田中健治裁判官が熱心に補充質問したことだ。外部被曝と内部
被曝の問題に焦点を当て、▽被爆の影響が現れる「しきい値」を考える場合、内部被曝で
も同じように考えていいか▽きめこまかい評価のメルクマールとして何かあるか―といっ
た質問がいくつか続いた。原告弁護団がすかさず追加質問に立ち、「裁判所からの補充質
問は、しきい値を内部被曝でも共通の物差しとしていけるのでは、との考えに立ってのも
ののようにうかがわれる」と牽制。安斎氏は、評価の技術的方法などいまだに確立されて
いないし、まして半世紀以上前に被爆した人たちに対して、限られた数値で原爆症かどう
か決めていくのは許されない、認定制度のあり方としては、ある一定の条件下ではすべて
起因性を認めるのが妥当と思う―と締めくくった。午後5時、閉廷。
報告集会では、三重弁護士が「今日は、多くの被爆者を診てきた肥田先生(舜太郎氏)
の前回公判での証言を、科学的に裏打ちする証言をしていただけた」と挨拶。安斎氏は「
ああいう反対尋問しかできない国を持つのは悲しいね」とひとこと感想を述べた。支援者
代表からは、公正な裁判を要請する署名がさらに集まり、2万を突破して20088筆に達した
、と報告があった。
次回公判は11月17日(水)午後1時半から。9月3日に追加提訴した原告被爆者の訴えにな
る予定。その後の日程として明らかにされたのは、12月15日(水)に原告側申請の沢田昭
二・名古屋大名誉教授と被告国側申請の小佐古敏荘・東大原子力研究総合センター助教授
の証人尋問(それぞれの主尋問)。2005年2月23日(水)に両氏に対するそれぞれの反対尋
問。藤原精吾・弁護団長は「最終的にわれわれは原告一人ひとりの原爆症認定を勝ち取ら
ねばならない。そのために必要な各種資料をいろんな方面にお願いしているが、支援をよ
ろしく」と呼びかけた。以上
肥田舜太郎先生が大阪地裁で証言された記録です。
(2004年9月27日)
京都原爆訴訟支援ネットからお許しをいただいて、
ご報告いたします。
http://www.geocities.jp/kyo_genbakusosyo/
原爆症認定集団訴訟・近畿の公判傍聴日誌G
ヒバクシャと向き合い続けた59年の重み
被爆医師・肥田舜太郎氏を証人尋問
2004年9月3日(金)・大阪地裁
全国11地裁で審理中の原爆症認定集団訴訟のうち、大阪地裁を舞台にした近
畿地区の裁判は9月3日、第8回口頭弁論を迎え、全国のトップを切って証人調
べに入った。この日は、原告弁護団が、現行制度の根本的欠陥を追及し被爆の
実相を見据えた被爆者行政への転換を―との主張を総論的に立証するため申請
した3人の証人の一人、医師で被爆者の肥田舜太郎氏=日本被団協原爆被害者中
央相談所理事長=に対する尋問が行われた。
本館2階の202号法廷前には定刻の30分以上前から被爆者支援の傍聴希望者が
どっと詰めかけた。学生ら若者も多い。100人弱の傍聴席はたちまち埋まり、2
0人ほどが入れなくなる。原告弁護団の一人が傍聴席に向かって「すみません。
規定で座席数以外は無理なんです。午前の部を聞いたら午後は代わるなりして
、みんなが傍聴できるよう、やりくりしてください。静かに交代するなら審理
中でも構わないと認めていただきました。ご協力をお願いします」と訴える。
各地で戦っている原告弁護団の関心も高く、北海道、千葉、東京、愛知、熊本
からも代表がかけつける。始まる前から廷内は熱気に包まれた。
午前11時すぎ、開廷。西川知一郎裁判長が「それでは今日から証人調べに入
ります」と告げた。この日は午前11時―正午の1時間と、昼食休憩を挟んで午後
1時半―2時半の1時間計2時間を原告弁護団による主尋問に、午後2時半―4時半
の2時間を被告国側弁護団による反対尋問に、それぞれあてる時間表で進められ
た。
肥田舜太郎氏は大正6年1月1日生まれ、今年87歳である。さすがに証言台では
、宣誓書読み上げの時以外は座って話したが、声には張りがあり、終始、意気
軒昂だった。原告弁護団は佐藤真奈美、徳岡宏一朗、愛須勝也の3弁護士の順
で午前から午後へと、質問をつないでいった。肥田氏は西川裁判長の目をしっ
かりと見据えながら、語っていく。3人の尋問が引き出したのは、広島のピカド
ンの日から59年間、数え切れないほどの日本の被爆者、世界各地の核汚染の被
害者と向き合ってきた肥田氏の生き様そのものだった。
<軍医として広島で体験した生き地獄>
1945年8月、軍医として爆心地から近い広島陸軍病院に配属となる。たまたま
6日早朝、爆心地から約6km、広島市郊外の戸坂村(へさかむら)に子供の往診
に行き、診療中に原爆が炸裂、火球を目撃した。つむじ風が村の中にも流れ込
み、小学校の屋根瓦が舞い上がる。ともかく病院へ戻ろうと、自転車を飛ばし
て広島へ向かう途中、ぼろを引きずり、両手をぶら下げ、両目が飛び出した異
様な姿に出くわした。こわくて自転車から飛び降りる。目の前で相手が倒れた
のを見て「生きた人間だ」と気づく。脈を取ろうとしたが、触るところがない
。ぼろと思ったのははがれた生皮。初めて見た被爆者の最期だった。
広島市街地から逃げてくる同じような人たちの列がずっと続いている。病院
へ戻るのはあきらめ、村へ引き返して他の軍医、看護婦、衛生兵と共に医療活
動に従事した。自分は死んでいる人間と生きている人間の「見分け役」という
つらい役目だった。
<焼けてないのに同じ症状で死んでいく>
3日目あたりから被災者にびっくりすることが相次いで起こった。まず発熱。
扁桃腺かと思い口を開けさせると、くさい。生身が腐っていく、なんともいえ
ぬにおいだった。そして、出血、紫斑、脱毛。最後に口やお尻から血を出して
死んでいく。
焼け爛れた負傷者だけではなく、焼けてない人にも同じ症状が出た。松江の
実家に帰って出産した後、広島の被災を聞き、1週間後、県庁勤めの夫を捜し
に広島に戻り、戸坂村の避難先でやっと巡りあえた若い女性がいた。土蔵に寝
ていた女性の胸元に紫色の斑点を見たのは4日後。初めて詳しい話を聞いて分
かったのは、2週間、夫を求めて市内の焼け跡を歩き続ける毎日だったこと。
女性は吐血し、頭髪が抜けて死んでいった。あとから考えると、彼女こそ「入
市被爆者」だったのだ。(肥田氏も原爆投下の翌日、軍の命令で報告のため広
島市内に入っている)
<5千人下らぬ被爆者を診てきて>
その後、広島を離れ、1947年3月まで国立柳井病院で被爆者の医療にあたった
後、東京に出て、東京や埼玉で診療所長、病院長などを歴任、被爆者医療に携
わる。89年、院長退任後も現場で診療・医療相談を続けてきた。「何人診てき
たか、正直いって分からない。広島・山口で2千〜3千人、東京に出てきてか
ら3千人は下らないと思う」。
被爆者との付き合いは、診療もさることながら人生相談みたいなものだった
。とにかく話を聞いた。「原爆ぶらぶら病」に象徴される特有の「だるさ」、
倦怠感の訴えが多かった。もう一つ、被爆者は、生身が、あるいは死体が焼か
れたときの、あの強烈な「におい」の体験を共有していた。悲惨な状態の被爆
者の救済を、アメリカ占領軍も、日本政府も長期間、放棄してきたことは許せ
ない。
<「内部被曝」に確信深めた海外との交流>
1975年から、海外渡航32回延べ33カ国で被曝の実相を語り、核兵器廃絶を訴
える(原告弁護団が傍聴席に配布した肥田氏の経歴書データから)。1976年、
国民代表団に参加して国連に行ったとき、アメリカの学者、アーネスト・スタ
ーングラス博士からもらった本を読み、低線量放射線障害の問題の重要性に目
を開かされた。89年、アメリカ・ボストン郊外で、被曝米兵を多数診ているド
ンネル・ボードマン医師に会った。先の国連行きの際、事務総長に提出した広
島原爆に関するペーパーを贈ったところ、読むやいなや「おれの考えたのと同
じものが広島にあった!」。原爆ぶらぶら病のことだった。
チェルノブイリ原発事故やアメリカ・ハンフォード原爆工場風下地区など各
種核施設の被害者の聞き取り、現地訪問も行った。外国のことを知れば知るほ
ど、いつまでも被爆者を苦しめ続ける「内部被曝」の重要性を認識することが
大事だと思うようになった。
原告弁護団の3弁護士の質問に答える形で、こう述べてきた肥田氏は、国の
これまでの原爆症認定制度の基準とされてきたDS86や原因確率論を「誤りだ
」ときっぱり批判。「被爆者手帳を持っている人は基本的に放射線被害者とし
て認めるべきだ」と主張した。
途中で小休憩もあって、被告国側弁護団の反対尋問は午後3時すぎに始まった
。傍聴席に流れる一瞬の緊張。だが、最初の質問を聞いて、私は唖然とした。
「これまで所属した学会や学位があるか」と尋ねたのだ。肥田氏「ありません
」。そして、次の質問。「放射線の人体に対する影響について書かれた著書は
あるか」。肥田氏「ありません。チャンスもなかった」。私は、マイケル・ム
ーア監督が昨年、米アカデミー賞授賞式の壇上でブッシュ大統領を名指しで語
った有名な一言を思い出していた。「恥を知れ!」。日本で、戦後59年間、被
爆者を診つづけてきた医師は極めて少ない。被爆者こそすべての肥田氏にとっ
て、学位だとか学術著書だとかの権威が何の意味を持とう。質問はあまりに低
次元で、裁判官の心証に訴えるには逆効果ではないか。今日の勝負はついた、
と私には感じられた。
その後の尋問も核心をつくものは何もなかったので省略する。反対尋問は持
ち時間の半分ほどを使っただけで終了した。逆に追加尋問に立った原告弁護団
に「裁判官にもう一度訴えることがあれば」と促されて、肥田氏は述べた。ま
さに、締めくくり発言だった。
「大きなことを言うようだけど、広島・長崎の原爆の本質は人類にとって何
だったのか、結論を出さなきゃいけない。これまで4千年間、自然の放射線と
は共存してきたが、人類の存続にまで重大な影響をもたらす核兵器というまっ
たく意味のない人工的放射線を作り続けている。人類はこれをどうするつもり
か。考える出発点は被爆者だ。被爆者を大事にし、その言い分をよく聞いてほ
しい。裁判官のみなさんも、どうか大きな視野に立って判断していただきたい
」。
午後4時15分、閉廷。次回公判は10月1日(金)午後1時半―4時半、原告側申
請の2人目、安斎郁郎・立命館大教授(物理学・放射線防御)の証人調べ(主尋
問と反対尋問)と決まった。
大阪市中央公会堂会議室に場所を移しての報告集会は充実感にあふれていた
。肥田氏も「反対尋問は拍子抜けだったな」とにこにこ笑っていた。藤原精吾
・弁護団長は「今日の証言内容はぜひ本にして、沢山の方に読んでもらおう」
と話した。原爆訴訟支援近畿連絡会から「近畿原爆症裁判・資料集(1)」(
訴状、原告意見陳述書)がすでに刊行されている。一部800円。大阪地裁への要
請署名が累計19137筆になったとの報告もあった。
なお、この日、京都2人、大阪、兵庫各1人の計4人が大阪地裁に追加提訴、
近畿の原告は全部で13人となった。追加提訴のうち京都市内の女性(79歳)は
長崎で被爆者の救護活動中に放射線の影響を受けた。このケースは法律上、「
3号被爆者」と呼ばれ、今回の集団訴訟の原告に加わったのは初めて。今後の
戦いが注目される。以上
厚生労働省の控訴断念にご協力ください!
(2004年4月4日)
3月31日に東京地裁で勝訴した東訴訟で、被告厚生労働大臣が
控訴せず、すみやかに原爆症の問題の解決に取り組むことが、
日本の核政策の転換にもつながります。
下のような要請文をぜひ、厚生労働省にメールで送ってくだ
さい。
http://www.mhlw.go.jp/getmail/getmail.html
坂口 力 厚生労働大臣 殿
控訴断念を要求します!
厚生労働大臣は、東数男さんに対する2004年3月31日の
東京地方裁判所判決を尊重し、控訴をしないで下さい。
そして、現在、全国10地裁に提訴している131人の原告の
認定却下処分を撤回し、高齢を迎えつつある被爆者が安
心して生活できるよう、「原因確立」という非科学的で非人
道的な認定基準を直ちに撤廃してください。
被爆者の願いは、「自分たちのような苦しみを最後にした
い」、「核兵器を容認する国の姿勢の根本とかかわる核
兵器被害の過小評価を許さない」ということです。
厚生労働大臣は、被爆者行政を抜本的に改め、核兵器
廃絶に向けて真摯な取り組みをしてください。
2004年4月 日
住 所:
氏 名
東さん、勝利す!
(2004年3月31日)
2003年3月時点で被爆者手帳を持つ全国の27万9174人のうち、原爆
症と認定されたのは2223人。認定率はわずか0・8%弱にすぎません。
そこで、全国で始まったのが、原爆症集団認定訴訟。現在、10地方裁判所で
131人の原告が闘っています。
この集団訴訟の前に、二人の被爆者が戦いを始めていました。北海道の安井さ
んと、東京の東さんです。
東さんは16歳のとき、爆心地から約1.3キロの長崎市内の兵器工場で被
爆した。2週間後から、脱毛や下痢などを発症。その後、肝機能障害を患い、
94年に原爆症認定を申請したが、「C型肝炎に基づくものだ」と却下され、
99年に提訴した。提訴後の00年には別の病気(肺がん)を理由に原爆症認
定されました。しかし、学徒動員中の長崎市で被爆し、肝炎になったのに、
原爆症と認められなかったのは不当だと、東京地裁に提訴したわけです。
今日の判決で東京地裁の市村陽典裁判長は「爆心地近くで多大の放射線に被爆
したことが、C型肝炎の発症・進行の原因になった」と被爆と病状の因果関係
を認めて、不認定処分を取り消しました。
判決は、被爆がC型肝炎の発症や進行を促進した可能性を指摘した論文があ
ることや、被爆の状況、症状などを全体的、総合的に判断した結果、被爆と病
状の因果関係を認めたのです。
厚生労働省の機械的な認定基準はまたも否定されました。2000年に確定し
た京都小西訴訟、長崎松谷訴訟で地裁から最高裁まで(京都は大阪高裁で確定通
算5連敗。今回で6連敗です。
もう、厚生労働省はあきらめて、真に被爆者救済の道を歩み始めるべきです。
一気に原爆症認定制度自体を変えてしまう運動を展開しますので、ご協力ください。
急がなくちゃ
(2004年3月7日)
ごめんね。休みの日なのに。
あのね、先生から「ガンが腹膜に転移した…」と言われたの。
「やりたいことは、みんなやっておきなさい」って、はっきり言われた。
私ね。放射線治療のために腸が癒着したらしいの。腸が細くなって、食べたものが
胃から下がらないの。食べると苦しくて、吐くと少しさっぱりして、また食べられる
んだけど…。47キロだった体重が35キロに落ちてしまったの。
ごめんね。裁判、最後まで見届けたいと思っていたけど…。
毎日、点滴のために病院に通ってるんだけど、自宅で点滴をできるようにしてくれ
るそうです。そうすれば、短い旅行くらいできるそうです。そのために、あしたから
1週間入院します。
先生も『できるだけのことはするから』とおっしゃってくださいました。
あたし、大丈夫よ。がんばるから。でも、行動とか、裁判とか、出られないことが
増えると思います。みなさんに、よろしくお伝えください。
────────────────────────────────────
S子さん。1941年4月生まれ。まだ62歳。
4歳のとき、被爆後5日目の広島の立ち入りました。90歳を迎えたお母さんは大変に
健康。入市しなかった妹さんも。「入市した姉と私だけがガンにかかって…」と法廷
でも証言されました。
一昨年に東友会常任理事を退かれるまで、明るくて、かわいらしくて、しなやか
で、東友会の輝ける請願部のアイドルだったS子さん。やはり請願部員のお母さんと
一緒に、都議会や国会をまわって、国家補償の被爆者援護法制定を訴えてきた方で
す。
いそがなくちゃ。ほんとうにいそがなくちゃ。
(東京都原爆被害者団体協議会(東友会)相談員の村田さんより)
2003年8月8日 近畿訴訟団 第一次訴訟 第1回口頭弁論期日
(2003年8月11日)
原告2名、第2次原告2名(次回併合予定)、代理人弁護士17+宮原先生。
傍聴者90名(10名以上法廷に入れず)
(第2回期日 10月10日 午前11時 202号大法廷 1時間に決定)
第1回期日
1 弁論の内容
@ 原告の訴状陳述
(1)代理人意見陳述(各10分)
ア 藤原精吾弁護団長
被爆の実態を受けて、援護に関する法律の前文があり、その精神は国家補償・被爆
者救済にある。
よって、原爆症認定もそのような運用がなされるべきであるのに、極めて形式的か
つ厳格な運用がなされているのは、法の趣旨にあわないこと。
本件は日本国憲法の趣旨と国家補償の精神にのっとりさらに被爆者の高齢化に鑑み
た、歴史の審判に耐えうる充実した審理でなければならない。イ尾藤廣喜幹事長
京都訴訟・松谷訴訟の勝利を受け、自分は実際に厚生省の担当官と話をした。その
際、担当官は審議会にはかり、審査基準の見直しを検討中であるといいながら、被爆
者に有利な方向での見直しがどうかは答えなかった。案の定、不利な方向での見直し
になっている。
前基準であるDS86は、その形式性・非科学性が裁判で明らかになったが同時に
、審査のあり方が一人数分という個別事情など全く考慮しないいいかげんなものであ
ったことが判明した。
今回の原因確率論も、すでに破綻したDS86が根幹に利用されている事だけでは
なく、残留放射線が殆ど無視されていること、非暴露群に被爆者が混在しており疫学
手法として破綻していることなど、非科学的なものである。
この裁判の審理は被爆者の実態に即したものでなければならない。
ロ 梅田章二副団長
援護に関する法律は、国家補償の精神から解釈されなければならない。原爆投下が
国際法違反であることは下田判決や国際司法裁判所の勧告的意見からも明らかである
ところが、国は国家賠償請求権を放棄したのであるから、国家補償責任は当然ある。
さらに、アメリカ・日本両政府への証拠の偏在、被爆者の被害の惨状などからして
起因性の立証責任は軽減されるべきであり、特段の事情がない限り、被爆者の疾病
は放射線に起因するものとの認定がなされるべきである。
湾岸戦争で使用された劣化ウラン弾がまたもイラク戦争で使われ、放射能被害を広
げたように、広島市長が8月6日の平和宣言で述べたように、今、まさに黒い雨が降
る前のような情勢にある。
そのような中、この訴訟は核兵器廃絶と世界平和のために重要な意義を有する裁判
である事を踏まえて、審理を進めてもらいたい。
(2)被爆者意見陳述
イ 葛野さん(長崎 73歳 女性 爆心地から3・3キロ、甲状腺機能障害)
昨年10月には乳がんの手術も受け、抗がん剤も飲んでいます。今なお障害に苦し
む多くの被爆者のため、核のない理想の世界に近づけるためにも、力になりたいと立
ち上がりました。
ロ 木村さん(広島 66歳 女性 爆心地から2キロ 胃がん)
昨年、胃がんで胃の3分の2を摘出しました。被爆者に残された時間はあまりない
イラクの戦争を見ても、大阪大空襲や広島と同じだと思った。世界平和につながる
事だと考え、二度とあんなむごいことをさせてはならないと訴えていきたい
2 被告答弁書陳述
3 原告求釈明
原告
(1)各原告が具体的にどのような根拠に基づき、どのような審査過程で申立を却下
されたのか、答弁書では全く明らかでない。
(2)被告の証拠として提出した審査基準、いわゆる原因確率論が、いかなる科学的
根拠を持ち、どのような具体的データに基づいて作成され、どのような過程を経て妥
当な審査基準であるとされたのか、答弁書では全く明らかでない。
以上の点を次回準備書面で明らかにされたい。次回期日前に提出されれば、原告側
も対処する。
被告
立証に必要な限りで、次回、主張立証する。
裁判長
それが十分なものかは、また、別の問題なのでさらに検討することにする。
4 報告集会
テレビ5社、新聞・ラジオなど全部で10数社が参加。
参加者は約50名。
藤原団長の報告、原告二人の報告に続いて、第2次訴訟の原告井上さんと佐伯さん
にも参加してもらいました。
井上さん(広島 1・8キロ ケロイド上に皮膚がん)
佐伯さん(広島 2キロ 喉頭がん摘出で失声)
佐伯さんの感謝のメッセージは西先生が代読。井上さんは力強く、学徒動員という
本来保護されるべき少年達が国のために働きながら被ばくし、地獄を見たのに、認定
されない事に強く抗議され、皮膚がんにより失った指をカメラに見せておられました
。
5 マスメディアの反応
入庁シーン、廷内シーン、報告集会をすべて撮らせました。
報告集会後も地方局のサンテレビが葛野さん井上さんを独自取材していました。
が、超大型台風情報が多く、民放三社で4回ニュースに流れた事しか確認していま
せん。
夕刊では、朝毎読が報道し、朝日には8月9日の被爆者110番の電話番号が掲載
されていました。
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