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“燃える闘魂”が18年ぶりに国政復帰だ!! 第23回参院選は21日、投開票され、日本維新の会の比例代表候補・アントニオ猪木氏(70)が当選を確実にした。橋下徹共同代表(44)=大阪市長=の慰安婦発言から維新に吹いた“逆風”を「猪木にしかできない選挙戦」ではねのけた。「熱い期待を感じています。人ができないことをやらせてもらう」と大暴れを誓った。
当選の第一声は、やはり、これだった。「元気ですか! 元気があれば当選もできる」。開票開始早々の午後8時13分。NHKテレビの画面で当確の文字が出ると、大きな拍手が湧き上がった。猪木氏もトレードマークの真っ赤なマフラーを持ってのガッツポーズ。万歳三唱の後、満面の笑みで、ダルマに目を書き入れた。
テレビ局との中継中には、猪木コールも起きた。「例のヤツをやらないと締まらない」と言うと、恒例の「1、2、3、ダー」で支援者との喜びを分かち合った。
当初、自民党から出馬の話もあった。だが、猪木氏の選択は逆風が吹く維新から。「やんでしまった風をもう一度吹かせたい」との思いだった。選挙戦前には維新から「ビンタはダメ、ダーもダメ、テーマ曲もダメ」と“三禁”の通達があった。だが、“猪木流”を貫いた。
猪木氏の選挙戦略は「乱入」と「渦」だった。選挙カーでの街頭演説は短め。車を降りて、直接握手することを重視した。「渦」ができ、もみくちゃにされても握手し続けた。「腕がカチカチになっちゃって」と言うが、力を込めて握り返した。「チラシも25万枚全部なくなった」という地上戦を展開。「ビンタは1000発ではきかないな…。何万人と握手したので、期待に応えられるようにしたい」と決意を表明した。
インタビューに答えるため、壇上に登る際につまずいた。70歳になった猪木氏。17日間の選挙戦で疲れていた。終盤には「5キロやせた」という。それでも北海道や関西、九州など全国を飛び回った。握手での地上戦に加え、ヘリコプターで富士山を周遊するなど、派手さも忘れなかった。
18年ぶりの復帰で、やりたいことを問われたら、真っ先に「国際外交」と答えた。中東や南米、北朝鮮など独自のチャンネルを持つ。「外務省が動かせないものを猪木なら動かせる。燃える闘魂、俺の生き様、背中で見せる」と言い切った。「70歳からの旅立ち」に、キャッチフレーズ通り「国会に闘魂注入」を狙う。
◆政治家・猪木メモ
▼89年 「スポーツ平和党」を結成し、党首に就任。「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」のキャッチコピーで、同年の参院選に比例代表から出馬した。99万3989票で初当選。国会では民社党と統一会派を組んだ。
▼90年 湾岸戦争中にイラクで人質になった日本人など41人の救出のため、チャーター機で現地に渡航。イベント「平和の祭典」を開催した。直後に人質は全員が解放された。
▼92年 元阪神投手の江本孟紀氏がスポーツ平和党から出馬し、当選。
▼94年 金銭問題などが週刊誌に掲載され、スキャンダルに発展。江本氏と党運営をめぐって対立。
▼95年 参院選比例代表で2選を目指すも落選。選挙後に江本氏が離党。
▼98年 参院選で、スポーツ平和党からの候補が全員落選。同党は政党要件を満たせなくなり、政治団体に転落。
▼13年 6月に日本維新の会から参院選出馬を表明。「維新伝心ジェット・シン」と意気込み。
◆アントニオ猪木(あんとにお・いのき)本名・猪木寛至(かんじ)。1943年2月20日、横浜市生まれ。70歳。11人兄弟の六男。14歳の時に一家そろってブラジルに移住。17歳でスカウトされ、60年4月に日本プロレス入門。72年に新日本プロレスを設立。89年、スポーツ平和党を結成し参院選で当選。95年の参院選落選後、98年4月にプロレスラーを引退した。
(2013年7月22日06時03分 スポーツ報知)
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