ヴァージニア大学の慣習
テーマ:文化差前回、「先生」なる呼称がいかに便利かという話をしたが、
この呼称、もちろん「○○先生」と名字をつけて呼ぶ場合だけでなく、
「先生」だけで十分呼びかけになるところも便利だ。
「先生、今晩空いてる~? そこらでちょっと一杯やって行かん?」
といった気安い会話でも何の違和感もなく使えるのだ。
会社などでも役職名だけで人を呼ぶことはあるが、
(「社長」は別として)自分の部下とか取引先関係の人からではなく、
まったく関係のない人に「課長」などと呼ばれたら、あまりいい感じは
しないのではないだろうか?
(「先生」という呼称は「その上に想定されているものがない」というのが
一つの大きな利点なのだ)
これに関して、一つ思い出がある。
私が小学校2~3年のころであろうか・・・・・
父といっしょに金魚屋に行ったとき、そこのおかみさんが父のことを
「社長、社長」と呼ぶので、ビックリしてしまった。
おとうちゃんは課長やったはずやのに、
いったいいつから社長になったんか・・・!!
と。
全身をクエスチョンマークにしていた私に対する父の答えは、
「あの人は誰に対しても"社長"と言うんや」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こども心に、ますます混乱するのみであった。。。
(家に帰ってから、母にしつこく問いただし、もう少し詳しい
説明をしてもらって、やっと少し納得したことを覚えている)
今もまだ日本でこういう言い方が残っているのかどうかはよく
知らないが、むかし、(少なくとも関西では)商店などの店員が
ある程度以上の歳の男性客に対しては「社長!」と呼びかける
という習慣があったのである。
あ、そうそう。
「上がない」と言えば、前回書き忘れたことが一つあった。
(写真左はヴァージニア大学のMinor Hall、右は宗教学の中で、東洋宗教やイスラーム
関係の研究室が集まっているHalsey Hall)
実は、私のいるヴァージニア大学に特有の慣習 というのがあり、
学内では普通、教員スタッフのことを「教授(professor)」や「博士(doctor)」と
呼ばず、「ミスター(Mr.)」や「ミズ(Ms.)」を使うのだ。
これは、創始者であるトマス・ジェファーソンが
自らを「ミスター・ジェファーソン」と呼ばれることを好み、
ずっとその呼称で親しまれてきた、ということに由来するらしい。
「教授」や「博士」だと、「ミスター」よりも敬意が強くなってしまうため、
ヴァージニア大学では、誰もジェファーソンより「エラく」はない、
ということを示すためにそういう呼称を使わない、ということである。
まあ、ジェファーソンはこの大学の創始者であるばかりか建築設計者
でもあり、シャーロッツビルという街の象徴でもあるので、
大学にとっては、永遠の名誉学長のような存在なのだろう。
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1 ■社長と先生
飲み屋では、お金もってそうなお客は「しゃちょうさん」、貧乏そうなお客は「せんせい」と呼ぶ、という話を誰ぞのエッセイで読んだような記憶あり。
この「先生」という語、語尾が投げやり気味の「せんせえ」、頭にアクセントをおく「せんせ」、色っぽい声で「せーっんせっ」、素っ頓狂に「せんせー」など、発音で意味合いが千差万別でおもしろい。
しかし、子供の頃、落語で「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という言葉を聴いて、自分は将来先生と呼ばれる馬鹿になど絶対なるまいと心に誓ったのに・・・。