1989年天安門事件関係論文

その2 歴史学会『史潮』新36号、1995年3月発行掲載

「天安門広場の虐殺」伝説の創出・伝播とその破綻

村田忠禧

 

1 天安門広場での虐殺伝説の創出過程

 

 1989年6月3日から4日未明にかけ、中国の首都北京では戒厳部隊の投入による、天安門広場を占拠している学生・市民らを強制排除するための軍事行動が実施された。この過程で少なくとも双方合わせて 319人の死者(中国政府が公式に表明した数)が発生するという、中華人民共和国建国以来かつてない大惨事が生じた。事件は当時、テレビを通じてほぼリアルタイムに近い形で西側世界に報道され、人々は耳目を疑わせる事態の発生に、テレビの前に釘付けとなった。

 周知の通り、中国では、中国共産党の指導する人民解放軍と人民との関係を、魚と水との関係にたとえる教育がなされており、軍隊と人民が衝突する事態の発生などありえないことと思われてきた。しかし現実に発生した衝突は「人民の軍隊=人民解放軍」という定式を覆す出来事として、中国人はもとより、中国に関心を抱く世界中の人々に強い衝撃を与えた。

 本論では、戒厳部隊による軍事制圧という予測外の衝撃的事態の発生によって、人々がどのように過剰反応を示したかを明らかにするため、問題点を「天安門広場での虐殺」に絞ることにする。今では天安門広場から学生たちが排除される過程で死者が出なかったことは明らかにされている。しかし事件発生当時、多くの人々(筆者も含めて)はそのように思わなかった。また広場以外の場所で多数の死傷者が出たことは疑いない事実である。広場の排除過程と他の地域での死傷者の発生の問題についてはすでに別稿(「89年天安門事件における『虐殺』説の再検討」『東京大学教養学部外国語科紀要』第41巻第5号、1994年3月25日発行)で検討したので本論では言及しない。別稿を併せて読んでいただけると幸いである。


A 新聞による虐殺伝説の創造

 これまであまり重視されていない事実だが、『朝日新聞』は事件発生当初、北京支局発記事として、天安門広場から学生が無事に撤去したことを報じていた。6月5日付け同紙朝刊は、4日夜までに、銃撃などによる死者の数は 150名以上にのぼったこと、また戒厳部隊側にも数十名の死者が出たと報道するとともに「『悔しい』涙のむ学生」との表題で、天安門広場から退去する学生たちの様子を紹介する北京支局発の記事を掲載した。

 これは伝聞による記事ではなく、記者自身の取材に基づく記事である。『朝日新聞』の記者は広場に最後まで居残り、学生たちの退去する模様を見届けていた。見届けた記者は少なくとも2人おり、朝日教之カメラマンと永持裕紀外報部員である。彼らは『朝日新聞』の社内誌『朝日人』89年8月号にその時の経緯を紹介している。

 まず朝日教之カメラマンの回想を紹介しよう。

 永持裕紀外報部員も次のように取材記を書いている。

 当時、北京は戒厳令下にあり、天安門広場は立入り禁止で外国人記者は自由な取材活動ができない状態にあった。実際にアメリカCBS放送の記者とカメラマンが広場周辺で戒厳部隊が群衆に発砲する場面を取材をしていたところ、戒厳部隊に身柄を連行される、という事件すら発生した(『読売新聞』6月5日)。したがって天安門広場に居残り、そこで発生した事態を目撃した『朝日新聞』の2記者は大スクープ記事をものにしたことになる。事実、6月5日の『朝日新聞』は天安門広場を制圧した装甲車群の写真付き(4日午前5時45分)で、前述の記事に大きな紙面を割いている。

 広場に居残ることのできなかった『読売新聞』北京支局は6月5日朝刊に、死者の数を1400人から3000人近くまでと『朝日新聞』の推定より一桁多い説を紹介し、次のような記事を発信した。

 『読売新聞』は翌6日に「天安門、北京大生が手記」と題する北京大学学生の手記を掲載した。前日の「学生たちによると」という伝聞記事の根拠を示したつもりなのであろう。北京大生の手記には次のような部分があった。

 この北京大生の手記は最後に「天安門広場では数百人が殺されたとみて間違いない」と書いている。

 やはり広場に居残ることができなかった『毎日新聞』北京支局の6月5日報道は、死者の数を2600人以上とする説を紹介したうえで次のような記事を送っている。

 以上の事実から『読売新聞』や『毎日新聞』の報道では6月5日の段階で、うわさに基づく「天安門広場での虐殺」像が創り出されたことが分かる。

 北京での取材が困難であったため、日本を含む西側報道機関は香港から発せられる情報にかなり依存した報道体制を敷いていた。そのため、さまざまな意味で香港情報の影響を受けた。香港の新聞はいずれも戒厳部隊による鎮圧を厳しく非難したが、なかでも注目すべきことに、左派系新聞として中国政府の立場を代弁してきた『大公報』が6月5日の紙面トップで、戒厳部隊が市民にたいして発砲した事実を非難する北京4日未明3時半発の特電記事を紹介し、以後、中国当局の措置を厳しく非難する論陣を張っていった。

 さらに同日の香港『文匯報』(これも左派系新聞)が「天安門広場から九死に一生を得た清華大学学生の血涙の告発」と銘打った手記を掲載した。この手記は6月7日に東京・渋谷で中国人留学生が中心となって開いた追悼集会で読み上げられ、取材した『朝日新聞』吉田実記者が6月8日朝刊に転載した。そこでは次のように述べられている。

 この清華大学学生の手記は、前述の北京大生の手記と同様、彼が直接体験したことの記述とともに、思い込みで書いている部分、あるいは誇張・虚偽の部分が含まれており、天安門広場での虐殺伝説の創出に決定的な役割を果たした。伝聞に基づく「広場の虐殺」像の報道合戦の大合唱のなかでに、広場撤退の状況を比較的冷静に報じていた『朝日新聞』も、東京本社の判断によって、北京の現場に居合わせた自社記者の記事よりも、より刺激的で俗受けする清華大学学生の手記を掲載することによって、マスコミの大勢に合流していった。手記を書いた北京の学生たちが感情的になっていたのと同様に、日本の報道関係者も戒厳部隊の発砲の事実から衝撃を受け、冷静な判断ができない状態に陥っていたのである。

B テレビによる虐殺伝説の視聴者の脳裏への刷り込み

 前述した通り、6月4日の北京の出来事はテレビという媒体によって映像・音声がほぼリアルタイムに近い形で日本に届いてきた。しかし戒厳令下で外国の報道機関の取材は大幅に制約されていたため、送られてくる映像は断片的かつ部分的なものでしかなく、放映されたものの多くは一度編集したものを繰り返し使っているにすぎなかった。天安門広場での学生が撤退する場面を撮影した映像が実は存在したのだが、それは重視されず、放映された映像のほとんどは前段階である戒厳部隊が天安門前の長安街を強行占拠する時のものであった。しかし視聴者に衝撃を与えるにはそれだけで十分強烈であった。パン・パンと鳴る銃声、真っ暗闇を引き裂くように飛ぶ銃弾の光、逃げまどう群衆、負傷し血だらけになって担ぎ込まれる人、鉄柵を押し退けて前進する装甲車、群衆によって止められ火責めにされる装甲車、石膏製の「民主の女神」像が倒される現場などなど、いずれも信じがたい戦場の光景がそこにはあった。

 そのような衝撃的映像を背景にして、ニュースキャスターなどから、中国の党内や軍同士の対立について真偽のほどの疑わしい解説がなされ、前述の香港情報、例えばケ小平重体説、李鵬狙撃説、戒厳軍同士の撃ち合い、といった今日からすれば明らかにデマ情報といえるものが、何の裏付けもなしに紹介された。視聴者は知らぬ間に中国政府とそれを指導する中国共産党は野蛮で暴虐で常軌を失した狂乱状態にある、との印象を植えつけられていった。さらに混乱した情報の洪水に「信憑性」を与えたのが、いわゆる中国問題の専門家のテレビ出演であった。中嶋嶺雄・東京外語大学教授は6月5日のテレビ朝日の「ニュースステーション」の取材に応じ次のように述べた。

 実際には当時、噂されたような大学への軍隊の進駐は存在しなかった。中嶋嶺雄が演じた役割は、専門家というよりは、デマ情報の煽動家でしかなかった。

 6月6日になると、中国政府当局のスポークスマンである袁木が記者会見を行って、当局側がこれまで掌握した状況の説明をする。袁木によると解放軍側の負傷者は5000人余り、民間側が2000人余り、死者は双方合わせて 300人近く、学生の死者は23人、という。軍隊の側の負傷者の数が民間のそれの倍以上に達する、という一般的常識からすると信じがたい数の報告に本来着目すべきなのだが、西側マスコミはそれを当局の行動を正当化するデマ宣伝として一蹴してしまった。武器を持ち、また実際にそれを使用した軍隊が、どうして市民より多く負傷するはずがあろうか、というのである。

 NHK総合テレビは6月6日夜9時の番組「ニュース・トディ」で、中国当局側が作成した「暴乱真相」と題するテレビ番組の一部と中央人民放送局の全国向けニュース(ラジオ)を紹介した。「暴乱真相」には西側報道ではほとんど知られなかった西長安街における群衆側が戒厳部隊に攻撃をしかけている場面を記録した映像が紹介されていた。しかしNHKの平野謙ニュースキャスターは、このような中国当局の報道を中国の一般市民が信ずるはずがない、と断定して、ニュースとしての価値を否定した。彼がそう断定する根拠とは、中国の民衆はアメリカのVOAや日本のラジオジャパン、イギリスのBBCなどの国際放送を聞いており、それによって「真相」が伝わってゆくためである、とのことである。あくまで西側のみが真相を伝えているのであって、中国側の報道は当局に都合のよい宣伝にすぎず、中国の民衆すらが信用しない、という観点を平野は公然と出していた。確かに当時の北京市民は、人民の軍隊が人民に銃を向け発砲し、犠牲者を出したことについて、憤激の念をあらわにし、外国の報道機関の取材にも積極的に応じて怒りの声を表明していた。民衆が政府を公然と非難することは中華人民共和国の歴史において前代未聞のことである。

 このような形で、中国当局の報道はデマ宣伝にほかならず、香港情報や西側の報道のみが真実を伝える、という幻想が人々の脳裏に刷り込まれていった。

 一方、中国では6月9日にそれまで動静が不明とされてきたケ小平が戒厳部隊の軍以上の幹部を接見し、戒厳部隊の行動への支持を表明したことが報道され、北京市内は安定化の方向に大きく前進した。市民の中から政府当局の呼びかけに応じた「暴徒」摘発の動きが盛んになり(日本のテレビなどは当時、これを「密告」の奨励である、として恐怖政治が始まったものと見なした)、戒厳部隊に攻撃を仕掛けた人物が相継いで逮捕され、奪われた武器類が当局側に押収されていった。日本のマスコミは北京市民の対応の急変ぶりに、理解に苦しむ驚きを表明したが、中国当局の動向や主張をきちんと追っておれば、市民の対応の変化は本来十分に理解しえる類のものであった。

 

2 虐殺伝説の拡大化過程

 

 資本主義社会においては新聞やテレビなどマスコミは時間との戦いの中にある。時々刻々変化してゆく状況を、素早く伝達することを主たる任務としており、必ずしも真相が解明された段階で報道する、というわけにはいかない宿命にある。その不充分な点を補い、あるいは誤りを正す役割は専門家の研究を待たねばならない。

 中嶋嶺雄は早くもその役割を買って出たが、89年8月21日に発行された『中国の悲劇』(講談社発行)において

 と、真相の究明どころか、虐殺伝説をマスコミの報道以上にデマ宣伝に熱を上げた。

 彼はさらにトーンを上げ「身に寸鉄を帯びず全く無抵抗・非暴力の『平和的請願』に徹していた民主化要求の学生や市民を、人民の軍隊であるべき人民解放軍が無差別的に銃撃し、装甲車や戦車が逃げまどう学生や市民をひき殺すという暴挙は、ヒトラーやスターリンさえなし得なかったことである」(10頁)と中国当局者の「暴挙」をヒトラーやスターリン以上に野蛮なものと糾弾した。そして「中国当局の状況認識はあまりに時代錯誤的であったがゆえに当面の鎮圧には成功し、『血の日曜日』の悲劇を招いたのであるが、やがていつの日か反・革命が再びより大きな権力批判、本物の反・革命となって、中国共産党の独裁体制を揺るがし、中国社会を大きく変革してゆくことになると思われる」(39頁)と中国社会主義政権の崩壊を予言した。

 6月4日に天安門広場に居残って写真を撮り続けた日本人が『朝日新聞』の記者以外にいた。フリーカメラマン今枝弘一であり、彼は『新潮45」89年8月号に「血塗られた天安門広場撮影記」と題する文章を書いた。この文章はのちに『天安門・撮影日記 1989.5.25 〜6.8 』 (話の特集90年3月1日発行) と題する写真集にも一部修正のうえ掲載された。『新潮45』の 102頁には「虐殺の現場を捉えた、世紀のスクープ写真」とのキャプション付きで天安門広場で人民英雄記念碑に向かって前進してくる装甲車群の写真が載っており、それに対応する今枝の文章は次の通りである。

 「私がみたのは大小さまざまな形のテントが踏み潰されている光景であり、『戦車と戦車の間からは約三十メートル前方でゆっくりと倒壊するテントと、その側らで人間らしきものがテントのテントの布に包まれて踏み潰される光景がはっきりと目撃できた』」。 アンダーラインの部分(筆者注 ネットワーク用にアンダーラインは『 』で囲んである部分、以下同様)は『天安門・撮影日記』に収められる段階で削除された箇所だが、しかし同書97頁のキャプションは相変わらず同様の主旨で書かれている。

 「天安門の毛沢東肖像下より毛主席紀念堂方面に向かい進んで来る装甲車群。人民英雄紀念碑の周囲に設営された学生たちのテントが無残に踏み潰され、『死体が横たわっている。』装甲車はテントをまったくよけようとせず直進。整然とした、一糸乱れぬ軍事行動だった。『まだ学生全員がテントから脱出したわけではないはずなのに』……。ほんの30分ほど前、僕が見た学生たちはどうなってしまったのだろう。学生と一緒に広場を撤退するまで、とうとう向こう側から来る学生を一人も見なかった。」 (アンダーラインは筆者による)

 前述した通り、清華大学の学生が兵士の広場清掃作業を、ビニール袋に死体を詰めているものと見なしたのと同じように、今枝は学生たちが広場に残したテントなどのゴミの山に、学生が埋もれているものと思い込んでいる。そのような予断をもって今枝の撮影した写真を見れば、そのように見えなくもない。しかし当時、広場で取材を続けたスペイン国営放送テレビのレストレポ記者の証言によれば「広場はスピーカーの音や演説や戦車の音などでとても寝てられるようなものではない」(蒼蒼社発行『蒼蒼』51号6頁)状況であり、テントの中に学生は残っていなかった。

 天安門広場に最後まで残って撮影をしたという非常に貴重な業績を挙げながら、今枝は他でもトンチンカンな話題を提供した。90年7月25日の日本テレビの「EXテレビ」という深夜番組が「激写・天安門に最後までいたカメラマン」と題する番組を作成した時のことである。この部分の記録は矢吹晋著『ペキノロジー [世紀末中国事情] 』  蒼蒼社 (91年6月4日発行)  201頁に収録された「天安門に最後までいたカメラマン、抱腹絶倒の珍問答」に掲載されているので、そこから転載しよう。なお矢吹晋にこの話題を提供した「友人」というのは筆者のことである。

 「友人がビデオから作ったメモをまずご紹介しよう。
 天安門広場周辺の実写フィルムのなかに発砲音が聞こえ怪我人を運ぶ場面が写る。Jiuhuche! Jiuhuche Kuaidianr! の声が録音されている。
 司会の男『いゃあ、すごい映像ですけどねぇ」。
 アシスタントの女「すごーい」。
 男『今、ジューホー、ジューホーって言っていたんですか。とういうことはどういうことなんですか?この銃ですか?』(と銃を撃つまねをする)。
 今枝弘一『いえ、自由、フリーダムです』。
 男『ああ、そうですか。自由ですか。自由を!  自由を!  と言っているところにバッバッバッとやったわけですか』−−」 (以下引用省略、なお矢吹晋のこの文章は90年8月10日蒼蒼社発行『蒼蒼』33号に初出)

 Jiuhuche! Jiuhuche Kuaidianr! を漢字で表せば「救護車!  救護車 快点児!」となり、日本語に訳せば「救急車を、早く救急車を」と叫んでいるのであり、怪我人を救出しようとする人々の叫び声に他ならない。「銃砲を!」でもなければ、ましてや「自由を!」でもない。

 このようなでたらめな会話を臆面もなくテレビで放送するとは、あまりに視聴者を愚弄したものである。筆者は翌日、日本テレビの担当者に抗議の電話をかけたが、訂正報道をしたということを耳にしていない。当時は天安門事件を魚にして中国政府を悪く言うことならどんな嘘でも大手を振ってまかり通っていた。

 

3 はたして「天安門広場の虐殺」は存在したのか

 

 天安門広場の学生リーダーであった柴玲、封従徳らを先頭とする学生の一行は6月4日日午前9時、北京大学の近くにある海淀区中関村に戻った。

 柴玲は広場から最初に撤退したグループの一員であり、広場の最後の状況を目撃していない。その彼女が中国国内を潜伏中の6月8日午後4時に、録音テープにメッセージを録音し、6月10日に香港のテレビ、ラジオで紹介され、日本のテレビなどでも大きく紹介された。このメッセージの一部を紹介すると次の通りである。

 一方、6月6日に国務院スポークスマンの袁木などが中南海で行った記者会見において、不完全な統計と断ったうえで、死者の数を軍隊と民間側双方を合わせて 300人近くに達することを明らかにした。その席で戒厳部隊某部政治部主任の張工(彼は当日、現場にいた)が発言し、6月4日の4時半から5時半、広場を正常化させる過程で、学生や大衆を一人も殺したことはない、と言明した。

 この発言は学生側(前述の北京大学や清華大学の学生や柴玲)の発言と明らかに対立する。いずれが正しいか、広場に居残った第三者の証言を集めることが必要となる。

 前述した通り、『朝日新聞』は6月5日の段階で、現場に居合わせた記者の報告をもとに広場から学生たちは虐殺されることなしに撤退したとの報道をしていた。今枝弘一が撮影した写真も予断を持たずに見れば、天安門広場での虐殺を立証するものは何も存在しない。しかし彼らは北京の学生たちが創り出した「虐殺」証言に惑わされ、あたかも広場で虐殺があったかのように思い込んでしまったのである。

 西側の報道機関で最初に天安門広場での「虐殺」の存在を明確に否定したのは、アメリカのABCテレビの6月27日夜10時の「天安門の悲劇」と題する番組である。ニューヨークから共同通信社の小笠原特派員はさっそくその情報を発信した。共同通信の記事の一部は次の通りである。

 アメリカの人権組織である「アジア・ウォッチ」のリサーチ・ディレクターであるロビン・マンロー(Robin Munro)の「天安門広場の最後の光景」が9月23日の香港『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト』紙に掲載されたが、これはアメリカの人権組織の発行する『ヒューマン・ライツ・ウオッチ』第3号 (89年9月) からの要約である。

 マンローはこの文章のなかで、自分自身が最後まで広場に居残り、学生とともに撤退していった様子を冷静に描写している。「そこにはパニックを示すようなものはなく、なにか虐殺が起こったことを示すような微かな兆候さえもなかった」(『チャイナクライシス重要文献』第3巻、蒼蒼社89年12月発行 173頁)。

 広場に学生と共に居残った4人の知識人の一人である侯徳健は、8月17日に新華社記者のインタビューに答えるなかで「一人の学生も、一人の市民も、また一人の解放軍兵士も殺されたものは目撃しなかったし、戦車や装甲車が人の群れに突っ込んで行ったのは見ていない」(同上書 167頁)と証言した。

 同じく居残っていた劉暁波も「私は戒厳部隊が群衆に向けて発砲するのを見てはいない。彼らが発砲したのは、空に向けてか、スピーカーに向けてだけだった。また、私は一人の死者も見なかったし、まして天安門広場で流血が河を成したなぞということを見ていない」(同上書 169頁)と語った。

 侯徳健、劉暁波の証言を報道したのがいずれも『人民日報』など中国の国営報道機関であったため、西側マスコミ、あるいは「民主化運動」を支援する人々、そして中国研究者の大半から、検討するに値しないものであるかのように扱われ、無視され続けた。

 日本でも89年12月4日『読売新聞』夕刊で矢吹晋が、天安門広場における「虐殺」が幻想である、ということを明確に指摘した。さらに彼は90年6月出版の『天安門事件の真相』上巻(蒼蒼社)で、中国側が公開した『戒厳一日』などさまざまな資料を元に、戒厳部隊の暴乱鎮圧過程を詳細に再現し、戒厳部隊の側の被害状況を紹介するとともに、「テレビ画面に写った燃えあがる装甲車や銃弾の曳航、銃声から推察して、天安門広場の整頓過程において、大量の「虐殺」が生じたものと、多くの日本人(いや世界の人々)はイメージしたであろう。虐殺情報の発生源は学生側からのものが多い」(217頁)としたうえで、それらが信憑性に欠けるものであることを指摘した。同じく『天安門事件の真相』下巻の白石和良論文「『デマ』と『錯覚』の『天安門事件』」は実に詳細にわたって当時流された各種の「デマや噂の真相」を解明し、デマが官製報道よりも威力を発揮する中国社会の体質を明らかにした。筆者自身も『チャイナ・クライシス「動乱」日誌』(蒼蒼社  90年8月発行)を編纂する過程において、同様な観点に立って日誌を作成した。竹内実は90年5月25日の新日本文学会のシンポジウムで「学生・市民と戒厳部隊の兵士を同じ次元でとらえる」という視点を提起した(『朝日新聞』90年6月26日夕刊。同7月12日夕刊掲載の「中国理解に『中華』の尺度を」と題する竹内実の論文)。この視点に立って藤本幸三・野沢俊敬は戒厳部隊の兵士たちの行動を記録した『戒厳一日』(解放文芸出版社89年10月刊)を中心にまとめた記録集『解放軍兵士の証言』(作品社 90年7月)を編訳出版した。

 以上のように天安門広場での「虐殺」なるものが存在しないことは、事件発生後1周年前にすでにさまざまな人々から明白に主張されていたにも関わらず、その主張が正論として日本および西側世界で受け入れられることなく、世間一般では「天安門広場の虐殺」伝説が継承され続けた。

 この虐殺伝説の創出に関与した海外に逃亡した学生リーダーたちが事件2周年後の91年7月16〜24日にパリに集結して開催した「八九年民主化運動の歴史的回顧と反趨セミナー」において、「虐殺伝説」を否定した。そのセミナーの模様は月刊『現代』91年10月号の「『天安門事件』パリ秘密会議の全容」で、ジャーナリストの林澄が詳細に紹介している。林澄の論文のうち「『大量虐殺』報道は事実無根」とする章の一部を紹介すると次の通りである。

 学生運動のリーダーたちは事件後、2周年で真相を冷静に見る目を持つようになった。これに対し、マスコミ自らが「天安門広場の虐殺」伝説を否定したのはNHKで、事件の4周年にあたる93年6月3日9時30分からの「クローズアップ現代」という番組においてその再検討をした。番組では天安門広場に西側テレビ局として最後まで残って撮影を続けていたスペイン国営放送のレストレポ記者の特ダネ映像と彼へのインタビュー、広場に残って学生の平和撤退のために奮闘したシンガーソングライター侯徳健へのインタビューが紹介された。とりわけ意義があったのは西側テレビで唯一広場の最後の状況を撮影したスペイン国営放送のビデオ映像を公開したことである。この時のインタビュー記事の内容は、取材にあたった加藤青延NHK北京支局長の解説とともに『蒼蒼』(蒼蒼社  93年8月、10月発行)51〜52号に掲載されている。レストレポ記者は広場から学生が排除されてゆく過程を次のように回想している。

 レストレポ記者の証言によると、彼が撮影したテープは翌朝、アメリカのABCテレビの関係者が飛行機で香港に運び出した。彼はその映像素材を見ないままに北京からスペインのマドリードに電話リポートを送った。ところが「電話リポートを送るときに、マドリードの私の同僚たち〔スペイン国営放送局〕が他の国と同様に『天安門広場の虐殺』という決まったイメージを持っていた」ということにレストレポ記者は当時気付かなかった。「マドリードにいる同僚たちは、『天安門広場の虐殺』というステロタイプの見方しか持っていませんでした。おまけに彼らが受け取ったテープも色々なものが順不同に混ざったものだったので、よく理解できず、結局彼らは国際通信社やプレスが言うことに立脚したコメントを付けてしまいました。結果として、スペイン・テレビのニュースは事実を歪めるものになってしまったのです。残念なことですが、逆説的なことに、この特ダネ映像が混乱した状況において、事実とは違った事件の話を作り上げることになってしまいました。香港の編集マンはわけが分からなかったかったのでしょう。戦車、死体……やはり虐殺だ、と。」(同上6〜7頁)。

 スペイン国営テレビは天安門事件一周年に特集番組を作ったが、その時にレストレポ記者は「私の見た通りの事実を再現したいと思っていました。しかしこの番組のディレクターは『天安門広場の虐殺』にこだわり、私が見た通りのことを言っているにもかかわらず、聞き入れませんでした』(同上7頁)。こうしてNHKテレビが再発掘するまで、この貴重な映像フィルムは価値を見いだされることがなかった。

 事件から4年経ってようやく「天安門広場における虐殺」は存在しなかったこと、当時の報道が誤りであったことをNHK自身が認め、その是正を行ったのである。ただしNHKは広場以外のところでは「虐殺」があった、との認識を繰り返している。画竜点睛を欠く番組と言わざるをえない。

 

4 マスコミと研究者の責務

 

 上述した通り「天安門広場での虐殺」は存在しなかった。それではなぜ幻の「虐殺」伝説が長い間、多くの日本人、とりわけマスコミや中国研究者に信じられてきたのであろうか。あるいは今でも多くの日本人がこの伝説の呪縛から解き放たれていないかも知れない。その原因を探り、教訓を汲み取ろう。

 A 映像の衝撃

 まず第一にあげなければならないのは、6月3日から4日未明にかけて戒厳部隊がとった行動があまりに強烈な衝撃をわれわれに与えたことである。数万を越す群衆を天安門広場周囲から排除するために、彼らは非常に手荒な措置をとった。実弾発砲や戦車、装甲車の出現は、人々を突如戦場の真っ只中にたたき込んでしまった。実はそれらは数万の群衆を広場周囲から排除するためのかなり計算された軍事行動であったのだが、群衆の側にそのような意図が伝わるはずがない。流れ弾に当たって死傷する人が続出した。広場の照明が消され、暗黒の恐怖の時間が経ってから照明が灯った時に、武装した大量の兵士や装甲車や戦車がどっと天安門広場の周囲(東南の方角以外)に出現したことも、人々をして広場に居残った学生たちの犠牲を推測させることになった。広場に入り込むことができず、ましてやそこからの映像は伝わって来ないので、銃声や絶叫の渦巻く長安街での混乱した映像から類推するしかなかった。そのような状況下で広場に居残った学生が犠牲になった、と当時思い込んだことは無理からぬことかも知れない。ただ思い込みや伝聞情報にのみ頼ることがいかに危険なことであるかを教訓とする必要がある。

 B いわゆる「民主化運動」への肩入れに偏り、客観的に中国情勢を把握しようとする意識に欠けていた。

 中国の学生たちの運動が、西側資本主義社会の民主制度を美化し、あるいは当時、ソ連のゴルバチョフが主張していたペレストロイカに共鳴していたため、西側世界には受けがよかった。中国共産党の主張からすれば、党の指導を否定する「ブルジョワ自由化」の運動であるが、そのような動きを積極的に支援しようとする姿勢が西側報道には明白に現れていた。したがって中国当局の主張は耳障りなものとして映り、積極的にその主張に耳をかそうとする姿勢が欠如していた。これは極めて偏った報道姿勢である。

 この点は中国研究者の大半にも言えることであって、前述した中嶋嶺雄の発言はその極端な事例である。研究者は客観的に分析することを任務とすべきことは言うまでもない。そのためには事物を総合的に掌握する必要があり、「玉石石石混淆」(中江要介著『残された社会主義大国中国の行方』KKベストセラーズ出版40頁)の香港情報を無批判的に用いることは慎むべきである。また中国当局が当時公表していた声明や戒厳部隊の通告などについても、きちんとした分析を加えるべきである。

 今回の件でとりわけ大きな過ちは6月6日の国務院スポークスマン袁木らの記者会見を検討するに値しないものと決めつけたことである。さらに重大な過ちは、6月9日のケ小平の戒厳部隊の軍以上の幹部への講話の内容を吟味しなかったことである。このケ小平講話は事件の本質を知るうえで第一級の資料であるにも関わらず、むしろこの講話にたいして大方のマスコミや研究者は、ケ小平が事態を掌握できていない証拠のような反応を示した。これが誤った対応であったことはその後の事実が証明している。

 天安門広場では「虐殺」と称すべき事態が発生しなかったことが争う余地のない事実であることが明白になった時点で、筆者はある研究会においてこの事実の重要性を主張したことがあるが、他の研究者たちから冷やかな反応を受けるのみであった。広場の死者の有無について話題を限定することは、少なくとも数百人の死者が発生したという大問題を矮小化するものではないか、中国当局の弾圧を正当化するための論に過ぎないのではないか、と。しかし筆者は、「虐殺」幻想から解放されることの重要性は、他の地域での死傷者の問題を検討するうえでも重要な要素である、と考える。他の地域でどのような人が、どのような形で、どれだけ死んだか、なにゆえに死んでしまったのか、をより具体的に検討するためには、まず第一に天安門広場の真相を明確にすることが不可欠である。さらに単に死傷者の問題だけでなく、この事件の本質を考えるうえでも欠くことのできない前提条件であると考える。

 C 党内、軍内の対立・分裂を過大評価した

 西側報道機関や一部の研究者は、戒厳部隊を投入して天安門広場から学生を強制排除したことをもって中国共産党の支配の脆弱性の現れと見なし、あたかも共産党政権が崩壊するかのような推論をした。これは中国における共産党の支配をあまりに過小評価し、党内・軍内の派閥の対立というものを過大に評価した初歩的な過ちである。

 中国は中国共産党が執政党として指導的役割を果たしており、現段階でこれに取って代わる在野勢力が存在しないことは明白な事実である。中国共産党には民主集中制という原則があり、党内で個人の見解を述べる自由はあっても、党として一旦決定した事柄は断固執行しなければならない。北京の一部地域に戒厳令が発布されるや、全国・全軍の党組織が相継いでそれへの支持を表明したが、この時点でもはや党内や軍内での対立や分裂の可能性はなくなっていた。もちろん6月9日のケ小平の講話が明らかにしている通り、党内や軍内の一部に今回の措置を理解できていない個々の党員がいたことは事実であり、実際に事件を契機に離党した人々もいた。しかし組織として決定に反した行動に出ることはありえなかった。決定を改めるにはそれなりの組織的手順が必要であり、それ以前は決定に従った行動を取ることが党員としての当然の務めなのである。

 しかもその後の中国共産党のこの事件についての評価は、92年10月12日の中共第一四回全国代表大会における江沢民の報告(『求是』92年第23期)においても「反革命暴乱」と明言し、それを粉砕したことを公然と正当化している通り、今日にいたるまで事件についての認識に変化は見られない。「天安門事件の名誉回復」とか「趙紫陽の復活」などということは、共産党の天下が引っ繰り返らない限りありえないことであろう。

 

 どんな社会でも結局は民心の向背がすべてを決定する。民心を失った政権はいくら堅固な軍事力をもっていても必ずや崩壊することは、古今東西のの歴史が証明している。もし「虐殺」と表現すべき暴挙を中国の政権が行ったのであるなら、人民の心の奥底に怨念は残り、民心は必ず政権から離反し、サボタージュ、テロ行為、大衆デモなどが頻発し、政治は不安定となり、経済は停滞し、世界からも孤立化することは間違いない。

 しかし現実の中国はどうか。東欧やソ連の社会主義政権が相継いで崩壊してゆくなかを、中国はそのような激変する世界の動きを他山の石とすることはあっても、社会主義の旗を堅持し、自国の政治的安定と経済的発展を追求する道を進んでいる。現在、中国の経済的発展は世界中から注目を浴びている。これを政治改革や民主化は棚上げにしたまま、経済発展のみに力を注いでいる結果などと見ることはできない。民心を得ることなしに経済の活力は生まれない。この現実からも「天安門広場の虐殺」伝説から解放される必要があることが分かろう。

 われわれは常に日本人の主観的思い込みから中国を見ることがないよう心掛けなければならない。客観的に存在する中国の現実から出発する、という視点が常に要請されるのである。

                     1994年5月28日

歴史学会『史潮』新36号、1995年3月発行掲載原稿


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