<「福島第1には、6基の原子炉があります。ひとつの原子炉が暴走を始めたら、もうこれを制御する人間が近づくことはできません。そのために次々と原子炉がやられて、当然、(10キロ南にある)福島第2原発にもいられなくなります。ここにも4基の原子炉がありますから、これもやられて10基の原子炉がすべて暴走を始めたでしょう」>
『週刊現代』に載っている東京電力の吉田昌郎元福島第一原発所長の言葉である。享年58。吉田元所長の早すぎる死は、深い悲しみとともに、あの頃の『悪夢』を再び思い起こさせた。
吉田さんのインタビューをしたジャーナリストの門田隆将氏によれば、食道がんの手術をして抗がん剤治療を終えた吉田さんに会ったのは2012年の7月だったという。184センチの長身でやや猫背気味の吉田さんの容貌は、ニュース映像とはまったく違っていた。だが、吉田さんは人なつっこい笑顔で「私は何も隠すことはありません」といい、「チェルノブイリの10倍です」と続け、冒頭の言葉になる。門田氏はこう書く。
<「吉田さんたち現場の人間が立っていたのは、自分だけの『死の淵』ではなく、日本という国の『死の淵』だったのである」>
吉田さんは全電源喪失の中で、暴走しようとする原子炉を冷却するには海水を使うしかないと決断し、すぐに自衛隊に消防車の出動を要請して原子炉への水の注入ラインの構築に着手した。
<彼らは、放射能を遮断する全面マスクをつけて原子炉建屋に何度も突入し、この作業を展開している>(門田氏)
吉田さんらしさが最も出たのは、官邸に詰めていた東電の武黒一郎フェローから、官邸の意向として海水注入の中止命令が来たとき、敢然と拒絶したことである。しかし、東電本店からも中止命令が来ることを予想した吉田さんは、あらかじめ担当の班長にこういった。「テレビ会議の中では海水注入中止をいうが、その命令を聞く必要はない。そのまま注入を続けろ」と。この機転によって、原子炉の唯一の冷却手段だった海水注入は続行され、何とか最悪の格納容器爆発という事態は回避されたのである。
門田氏は<「奇蹟のように日本を救い、風のように去っていった男」吉田さんに「お疲れさまでした。本当にありがとうございました」>と結んでいる。
電力各社は赤字を理由に原発再稼働を申請し、安倍首相は認める方針だ。彼はまた原発を世界に売り歩いている。原発事故の現場で何度も死ぬ寸前までいった吉田さんは、どういう思いでこの日本の『あさましい』姿を見ていたのであろう。
猛暑日が続く中、参議院選挙で「脱原発」は争点にも上らない。再び原発事故が起きなければ、福島を除く日本人の多くは原発の恐ろしさに目覚めないのかもしれない。だが、その日が来れば、この地に人が住めなくなるのは間違いないのである。
(続く)
元木昌彦プロフィール
1945年11月24日生まれ/1990年11月「FRIDAY」編集長/1992年11月から97年まで「週刊現代」編集長/1999年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長/2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(現オーマイライフ)で、編集長、代表取締役社長を務める
現在(2008年10月)、「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催。編集プロデュース。
【著書】
編著「編集者の学校」(講談社)/「週刊誌編集長」(展望社)/「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社)/「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス)/「競馬必勝放浪記」(祥伝社新書)ほか
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