産経記事2
前記事の続きです。以下(というかブログ内容全て)あくまで野田個人の考えであるので、それが客観的な正当性を持つかどうかは、各自ご判断願います。
最近はもうほとんど無くなりかけているんですけど、取材に対しては大体次のようなことを言っています。
「現在の物質社会が袋小路状態だから、若い人が対立する精神世界の価値観に傾倒するんです。現代社会の制度自体が、土台から崩れ去ろうとしている大問題が存在しているんです。それを、『オウム・カルトに走る若者が危ない』というと、問題の視点が逆になります。そういう取材なら伝えて頂かない方がマシなのでお断りします」
今回、産経の記者さんが、どこまで小生の主張を理解下さっていたのかは定かではありません。ただ少なくとも、前記事で触れた最後の一文を入れることで、「完璧に逆の意味」にならないよう、帳尻を合わせてくれたんだと思います。
別に産経の記者さんを批判しているのではなく、「人間ってそういうもんだろう」と考えています。これは小生自身も含めて。「人間ってそういうもの」の意味は、
薄々違うんじゃないかな、おかしいんじゃないかな、と思いつつ、「長いものに巻かれろ」「寄らば大樹」というところに落ち着く
オウムの中でも、多くない社会経験においても、これを身にしみる程味わってきました。やっている本人達は、何の悪気もなくやっているわけです。集団の中での自分の居場所、自分の立場を優先するわけです。小生含め、内部あるいは外部の誰が、「その集団、変な方に行ってるよ」「やばいよ」と言ったとしても、その対象の人生について何ら責任を持たない以上、当然でしょう。
一般大衆の「寄らば大樹」思考があるからこそ、「今更ハルマゲドン」は起こるのではないかと考えています。拙ブログの主張要旨である、陰陽の転換が起こるということです。陰陽転換を噛み砕いて述べるなら、例えば「善だったものが悪に変わる」「人間を幸福にするはずのものが、不幸をもたらすものになる」となります。善だったものが悪に変わる途中で、大抵の人は「おかしいんじゃないかな」「何か違うんじゃないかな」と感じます。しかしそれでも立ち止まれないので、もの凄く痛い目に遭うところまで暴走するに至ります。その自滅に至る過程で、善とされる価値観はより精鋭化された形になります。
四半世紀前、オウムに集ったのは、純粋に仏教・ヨーガの思想を実践しようとする若者達でした。戒律の遵守によって自己を律するだけではなく、利他行によって功徳を積もうとする。いわゆる一般的な「善人」「いい人」が大半でした。
それがあのような凶悪犯罪に至るまで暴走したのは、「麻原への帰依」のみが正義と集約されたことに要因があります。途中の過程で疑問を持つことがあっても、結果的には「寄らば大樹」の思考でかき消されてしまったわけです。勿論、麻原は殺人をも肯定しうる教義を、輪廻転生等の仏教思想を背景に構築していたという点も重要です。それが「人類救済」という大義を掲げて、事件に突き進む強力な後押しをしたからです。
95年のオウム事件に至っても、麻原思想の危険性・誤謬性は明確にはならなかったと考えます。 教団武装化自体が、ごく一部のものにしか共有されなかったことも、その要因です。 教団が事件を起こしたと知りつつも、今なお麻原への帰依を固持する原理主義者もいますし、10年ちょっと前までは小生もそうでした。
しかし丁度10年前からの教団分裂騒動で、それはほぼ全ての出家信者には明確になったと考えます。端的に言えば、教団における正義を貫けば貫く程、最初に志していた筈の素晴らしい仏教思想・ヨガ思想とはかけ離れた人間になっていったわけです。麻原への帰依を貫こうとすればする程、人に対する優しさ・思いやりとか、他を利するという気持ちをそぎ落とさざるを得なくなるわけです。
いやそんなことは、出家して親兄弟を捨てる段階で分かったはずじゃないか、という人がいるかも知れません。出家者が親兄弟・社会を捨てたのは、麻原の構築した仏教理論を信じたからです。そこには、社会を捨てさせるに十分な理論構築があったと考えます。小生も当然その理論を理解し信じていましたし、その上でその一部(全てではない)を否定するわけです。
麻原信仰が最初に目指したモノと矛盾するということ。これについて、小生は教団にいた最後の正味4年強(途中逮捕拘留があった)、数え切れないくらい信者らに語りかけてきました。その話を聞いて団体を去っていったものもいます。が、大半は、一部理解を示しながらも、結局麻原信仰を選択肢続けたわけです。それは教団における自らの居場所を確保させるものであり、これまでの人生を正当化する上でもどうしても捨てられないということでしょう。
教団内にも教義を背景にした、親兄弟以上の信頼関係は個別にありました。しかし個人が麻原信仰を貫き通すために、そぐわない関係を切り捨てることは、既に親兄弟・社会を捨てた出家者には難しくないことでした。その結果として小生も、上祐氏も、教団を離れるに至ります。教団は麻原原理主義で、全てをそぎ落としていくわけです。
では翻してみて、現代の社会はどうでしょうか?「麻原」を「お金」に、麻原原理主義を拝金主義に置き換えてみると、全くそっくりな状況が現出しています。金のために企業が人を蹴落とす。小生が説明するまでもなく、そんな話はニュースで連日報道されています。
経済とは、経世済民という言葉から来ています、つまり世の人々を救うこと。それとは全く逆の現在について、「おかしい」と思わない人は一体どれ位いるでしょうか?そうであるに関わらず、「結局お金だよね」となるしかない。
連日政治家は、バカみたいに連呼しています。
「景気回復、景気回復!」
教団が危うくなる度に
「グルを意識しましょう、帰依を強めましょう」
と麻原信仰ばかり掲げていた小生の姿とダブります。みんなそれしか考えられないのです。
お金の信仰に焦点を置きましたが、民主主義も含めて考えると、個人主義・個人のエゴと広げてもいいかもしれません。近代合理主義の個人主義です。
民主主義が混乱して税金の無駄遣い垂れ流しに終わるのは、古代ギリシャで証明済みです。にもかかわらず、現代人がそこにこだわるのは、現実にとらわれているとしか言いようがありません。近代合理主義に洗脳されているということでしょう。
人類史を俯瞰してみても、この近代合理主義はわずか400年程の歴史しかありません。それ以外の価値観・社会制度があったことは、歴史を勉強したことがある人なら誰でも分かります。
ではこの近代合理主義・個人主義という洗脳から人類は解き放たれるのか、新たな社会システムは構築できるのか?これについては、オウムの脱洗脳よりも、遥かに難しいでしょう。オウム事件で当事者達が死刑含めてもの凄い痛い目を見て、目が覚めた。その比ではないくらいの大惨事を経なければ、新たな価値観は芽生えないだろうと考えています。これが小生の「今更ハルマゲドン」説です。
昨日のコメントへの回答です。
>資本主義の全否定では、非現実ではないでしょうか。資本主義の利点をいかしつつ、いかにその欠点を社会的にコントロールするか?それがポイントだと思います。
貨幣自体は無くならないと思います。しかし現代の資本主義は、再生不能状態に至るまで破壊されるでしょう。その過程で十億単位の人間が死ぬと思います。その過程を経なければ、新たなシステムなど、受け入れられる余地がありません。
>その段階で資本主義が効率よい経済システムでありえるのか?それに変わりうるシステムはあるのか?そのシステムにわがままなホモサピエンスはついていけるのか?
恐らく新しいシステムは、現代の資本主義より遥かに効率が悪いでしょう(全く別の視点で効率がよいが、それは現代人には意味がないもの)。わがままな欲望が効率を追求してきました。そのわがままな欲望は、オウム事件の何千万倍(死者数で)レベルの自滅を引き起こすでしょう。それと引き替えに、新たなシステムにおいてこれまで忘れ去っていたものを取り戻すでしょう。その破壊から再生の過程で、わがままなどを言う余地など、条件的・環境的・物理的にないと予測します。
このような「今更ハルマゲドン」説は、一般的には荒唐無稽に見えるでしょう。これは仏教理論から逆算したものに過ぎませんので、せいぜい東日本大震災程度しか起きていない現状において、到底当たっているとは言い難いものです。
それが当たろうと当たろうまいと、小生はどちらでも構わないのです。むしろ当たらない方が、左団扇の大家業を続けられます。皆さんが、社畜、じゃなかった企業戦士として資本主義を支えて下さっている以上は。
しかし、どぉ~~~~~~~う考えても永続するとは思えない、皆さんが苦しんでらっしゃる現代のシステムについて、「絶対破綻するから止めた方が良いよ」と主張するわけです。「おかしい」と思いつつも声を上げず、教団の暴走を止められなかったという事件の反省を込めて。
身銭切って人助けしなさい。
>教団が危うくなる度に
「グルを意識しましょう、帰依を強めましょう」
いいんだよ!企業でも鼓舞してるだろ。
いつまでも貧窮ビジネス肯定したいがために資本主義を
批判為さるな。