セイントフォーの軌跡

~デビューから解散まで~

 

 1982年「あなたもスターに!」というダイレクトメール形式のオーディションに応募した3万人の中から、板谷裕三子、浜田範子、鈴木幸恵、岩間沙織(立ち位置順)の4人が選ばれる。2年に及ぶ厳しいトレーニングの後、40億円ともいわれるプロモーションにより、1984年11月「不思議TOKYOシンデレラ」でシングルデビュー。アクロバットを含む派手なダンスパフォーマンスと、それまでの女性アイドルと一線を画した曲調で注目を浴びる。また、同時に主演映画「THE AUDITION」も公開される。翌年3月に出したシングル「太陽を抱きしめろ」がスマッシュヒット(オリコン最高15位)、当時多くの歌番組に出演し、一躍メジャーアイドルの仲間入りをする。 ST4-2

 しかし、3rdシングルをリリースする際に、所属事務所(日芸プロジェクト)とレコード会社(リバスター音産・橋幸夫副社長)の間でプロデュース方針の違いによるトラブルが発生。それまでの派手なパフォーマンス路線を続けたい事務所側に対して、正統派アイドル路線に方針を切り替えたいレコード会社側が対立。結局、セイントフォー以外に知名度のあるタレントが所属していない弱小プロダクションである日芸がリバスター側の圧力に負け、路線変更した3rdシングル「ハイッ!先生」を発売。この曲は売り上げが伸びず、わずか2ヶ月後に(当時としては異例)元の路線に戻した4thシングル「ハートジャックWAR」をリリースする。またこの頃、印税の未払い問題でも日芸とリバスターがもめ、後に裁判沙汰になる。さらにリバスターがセイントフォーの引き抜きを画策していたことも発覚。ファンの間でも解散説、メンバー不仲説などが噂されていた。さらにメンバーの給料の一部未払い問題(後述)まで週刊誌(東スポだったかな・・・)などに暴露され、まさに満身創痍。その後、日芸とリバスターの間の問題は、リバスターが引き抜き問題の責任者を解雇し、契約解除を了承することで一旦は和解することになる。

 再スタートにむけて新曲や全国ツアーの日程を発表し活動を再開するが、リバスター側が事態を再燃させ、契約解除を拒否。当然ながら、契約を続けたからといってリバスター側が新曲の発売を了承したわけではないから、新曲は宙に浮き、ツアーも中止という事態に・・・そして、メディアへの露出も減り、人気も一気に下降していった。(当時のアイドルは歌番組以外の番組に出る機会が少なく、事務所に力があるか、レギュラー番組でもないかぎりは、新曲をリリースすることでメディアへの出演の機会を得て、人気を維持していた。)

 この当時セイントフォーのメンバーは、ライブなどの活動を行っているが、元々経営状態の良くない事務所は、さらに状況を悪化させ、社員の給料も遅れがちになる。実はこの状況を作り出した原因は、リバスターとの関係悪化以外に事務所の体質そのものにあり、少し脱線することになるがそのことについて述べておく。

 日芸は元々タレントの養成学校であり、セイントフォーがデビューしてからもそちらの運営は続いていた。というより養成学校の方の収入で成り立っていた。この養成学校の集金システムに大いに問題があり、後にメンバーにも影響を与えることになる。最初に述べたようにセイントフォーがデビューするきっかけになったオーディションはDM形式だったが、これと同じように事務所は、デビューしたセイントフォーと映画「THE AUDITION」を宣伝材料に全国の女の子にDMを送りつけ、オーディション参加者を随時募集していた。そして応募してきた参加者から高額な受験料を取り、さらに合格者からはレッスン料として大金を支払わせるということを行っていた。(実はセイントフォーのメンバーが参加したオーディションの際にもすでに同じようなことが行われていたらしい・・・)この様な実情が長く続くはずもなく、噂が広まり、多くのレッスン生が去り、オーディション参加者もいなくなった。こうして事務所の経営状態は悪化の一途をたどる。そしてさらに経営状態が悪化すると、メンバーの親にまで多額の金を何度も要求し、振り込ませるというようなことをやっていた。(参考までに、当時のメンバーの給料は契約上は月10万だが、貯蓄の名目で最高5万までしか支払われず、その後も、解散後に取り立てに成功した沙ST4-1織以外は、貯蓄名目の給料はうけとれなかったらしい・・・)そして社員の給料もついに未払いに・・・

 このような実情を事務所のスタッフから聞かされていた一部のメンバー(沙織と裕三子)のうち、一番人気の裕三子が(当時、世間では範子の方が評判は高かったが、ファンクラブの会員の間では裕三子ファンが圧倒的に多かった)、そんな状況に見切りをつけ、「学業に専念し進学する」という理由でセイントフォーを脱退し事務所を去る。しかし、その後すぐ「元セイントフォー」という看板を掲げて別事務所からグラビアデビューし、引き抜きが発覚する。この事態にメンバーや事務所のスタッフに大きな衝撃が走る。マスコミへの露出がない中で裕三子が「元・・・」の看板で世間に出るということは、セイントフォーの存在自体を誤解されることにもなりかねないし、それ以上に、信頼していた仲間に裏切られた形になったメンバーのショックは相当なものだった。

 この緊急事態に事務所は、当時セイントフォーのメンバーの後輩で、ソロデビューに向けてレッスンしていた、いわお潤(現・岩男潤子)を急遽メンバーに加え、新たなセイントフォーとして活動を再開する。がしかし、このころの日芸とリバスターの関係は泥沼化し、裁判沙汰にまで発展していた。レコード(CD)は出せない、マスコミでの話題は裁判のことばかり(メンバー交代のことですら、取り上げられることがほとんどなかった)、こうした逆境の中、メンバーの4人は、全国ツアーなどの活動を精力的に行っていた。(この当時のコンサートを見に行ったが、残念ながら客席には空席が多かった)こんな状況で事務所は、大きな賭けに出る。レコード会社移籍成立後のプロモーションの目玉商品として映画「やるときゃやるぜ!~COME BACK HERO~」の製作である。しかし結局、裁判に決着がつかず、上映のめどが立たなかった。そんな中でまたしてもトラブルが発生する。ある事情で潤が事務所を去り、事実上脱退してしまう。(事務所側は公表せず)

 そしてついに1986年12月のライブで解散宣言。翌87年1月18日、日仏会館での解散ライブ。このライブは異様な雰囲気でした。第一部の開場が電気系統の故障で1時間以上遅れたのですが、誰一人その場を後にせず、抗議をすることさえせずに、みんなじっと並んでました。会場は満席、最初から全開モードで2時間半歌いっぱなし、MCさえほとんどなかったです。3人しかいませんでしたが、彼女たちとファンが一体になった最高のライブでした。この日を最後にセイントフォーとしての活動はピリオドをうちますが、この年に東宝が救済に立ち「やるときゃやるぜ!~COME BACK HERO~」の上映が実現し、ビデオも発売されました。

 これ以降のメンバーの活躍については、彼女たちのページを見てください・・・

 

 管理人あとがき・・・

 彼女たちがデビュー前の厳しいレッスンに費やした期間が約2年、グループとしての活動期間がたった2年2ヶ月。このうち半分以上がトラブルに巻き込まれ、まともに活動できない状態にありました。わずか半年あまりしか全力投球できなかったのです。解散時の年齢も最年長の範子でさえ22歳になる直前でした。トラブルの原因が彼女たちにあったならまだしも、そのすべてが回りの大人たちにあり、裕三子の脱退・移籍事件でさえ、その結果にすぎません。彼女たちは私利私欲にまみれた大人たちに、人生の一番多感な時期をめちゃくちゃにされ、夢をうちくだかれたのです。今思い出しても激しい憤りを感じます。こんな状況での解散は本当に悔しかったと思います。そしてまた、応援していたファンも不完全燃焼でした。マイナーアイドルでもいいから存続していて欲しかったです。何年か後でみんなに祝福されて解散し、また集まれるようなグループであって欲しかったです。本当に残念です。でもまだ終わったわけではありません。今現在芸能界で活躍されてるメンバーもいるし、セイントフォー自体もまた日の目を見る機会があるかもしれません。その日を夢見てこれからも応援して行こうと思っています。完全燃焼できるまで・・・

      最後に、解散時に救済に立って映画を上映してくださった東宝関係者の方々に深く感謝します・・・ 

 

 ※このサイトのこのページを作るにあたって過去の記事を調べ、幾つかのサイトを参考にさせていただきましたが、事実に反することがある様でしたら管理人までメールをください。

saint4@saintf.net

TOPに戻る

1