◆津波襲った浜名湖北岸
宝永地震から50年を経ても潮水が引かなかったとされる旧気賀伊目村付近=浜松市北区細江町で
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有史以来最大の南海トラフ地震とされる一七〇七年の宝永地震で、浜松市北区細江町気賀(きが)の浜名湖北岸付近が沈降して津波に見舞われ、沿岸部の一部では半世紀を経ても地形が戻らず潮水が引かなかったとみられることが分かった。矢田俊文・新潟大教授(地震史料学)が複数の古文書を照らし合わせて確認した。
これまで宝永地震をめぐっては、天竜川付近から御前崎にかけて海岸が隆起した一方、浜名湖周辺が沈降して津波被害に見舞われたことが地質調査でも知られていたが、浜名湖北岸の詳細な復旧状況は不明だった。矢田教授は「地域の特性を知った上で自然災害に備えたり、建物を建てたりするための参考になるのではないか」と話している。
矢田教授によると、旧気賀村の庄屋らが地震の翌年、連名で領主にあてた願書に「気賀村は二六〇〇石余りのところだが、地震の津波で一七〇〇石余りが荒れ地になり今も潮が引かない。百姓は生活しがたく、飢え死にするしかない」という趣旨の記述があった。
さらに、旧気賀村の一部で沿岸部にある旧気賀伊目村について地震から四十九年後の一七五六年に記された「気賀伊目村差出明細帳」を検討。地震で浜名湖の水面下になり、その後も高潮時に水に漬かって耕作できない田地が「田方海成荒地」と位置づけられ、村全体の石高の79%に上っていた。
細江町史によると、気賀では一七六六年ごろ、潮水に漬かった田地でも可能なイグサ栽培が導入され、畳表の生産が盛んに行われるきっかけになった。
県は六月に公表した第四次地震被害想定で、浜名湖北岸がある浜松市北区について津波高を最大一メートル、浸水面積を最大一・八平方キロメートルと推計。県危機政策課によると、こうした津波被害の試算値は付近で最大六十五センチ程度の沈降を見込んだ上ではじき出している。
<宝永地震> 江戸時代の宝永4年10月4日(新暦の1707年10月28日)午後2時ごろ、遠州灘から紀伊半島にかけての太平洋沖を震源に起きたマグニチュード(M)8・6程度の地震とされる。全国の死者数は最大2万人が定説だったが、矢田教授は尾張徳川家に伝わる古文書などをもとに大坂(現・大阪)の中心部だけで2万1000人以上が犠牲になったと発表した。宝永地震の49日後に富士山が噴火した。
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