「違法だから悪いこと」は本当なのか

2013/07/14


子どもができたこともあるのか、最近「善悪」について考えています。


「なんで人を殺してはいけないの?」

たとえば、みなさんのお子さん、甥、姪、孫、教え子などなどから「なんで人を殺してはいけないの?」と問われたとします。

まずあり得る回答は「法律で決まっているから」というもの。しかし、これは答えとして十分ではありません。法律は時代、環境によって変わるものですから、「人を殺してはいけない」絶対的な理由にはならないからです。

たとえば敵討ちが許される法律の元でなら、「人を殺してもいい」ことになってしまいます。あとは戦争の最中とか。善悪というものは相対的なものだ、という意見もわかりますが、ぼくは人間として生きる上で絶対的な真理は存在すると考えます。

もうひとつあり得るのは「あなたも殺されたら嫌でしょ?人に嫌なことは他人にもしてはいけないんだよ」という説明。これも不十分です。もし本当にそうなら、「殺されても嫌ではない人」は、人を殺してもいいことになってしまいます。たとえば「たくさん殺せば確実に死刑になるし、道連れは多いほうがいい」と語ったとされる、宅間守死刑囚などはその一例でしょう(参考)。

突き詰めて考えると、こういう基本的な問いにすら、ぼくらは答えを持っていないことがあります。さて、「なんで人を殺してはいけないの?」みなさんならどう答えますか(ぼくの答えは、またいずれ別の記事にて)。


「違法だから悪いこと」は本当なのか

この記事で特に伝えたいのは、「法律が禁止しているから特定の行為を行ってはいけない」というのは、端的にいえば「嘘」だということです。

先日紹介したドキュメンタリー作品、「マザーズ 「特別養子縁組」母たちの選択」にも、ちょうど、そんなことを考えさせられるエピソードが紹介されています(7:20〜)。

動画の中で紹介されているのは、菊田医師の「違法な赤ちゃん斡旋」。

産婦人科医として中絶手術をする中で、7ヶ月の胎児の中絶をきっかけに自身の行為に葛藤を持ち始める(当時は妊娠8ヶ月未満までの中絶が可能だった)。

様々な事情から人工妊娠中絶を求める女性を説得して出産させる一方で、地元紙に「赤ちゃん斡旋」の広告を掲載し、生まれた赤ちゃんを子宝に恵まれない夫婦に無報酬で斡旋した。

その際には偽の出生証明書を作成して引き取り手の実子としたが、それは産むわけにはいかない実親の戸籍に出生の記載が残らないよう、また養子であるとの記載が戸籍に残らないよう配慮したためであった。その人数は約100人に上った。

1973年に告発される。出生証明書偽造で罰金20万円の略式命令、厚生省から6ヶ月の医療停止の行政処分を受ける。所属関係学会を除名され、優生保護法指定医を剥奪され、国会にも参考人として招致される。不服の訴えは最高裁で敗訴。

しかし、この事件を契機に、人工妊娠中絶の可能期間が短縮され、1987年には養子を戸籍に実子と同様に記載するよう配慮した特別養子制度が新設された。

菊田昇 – Wikipedia

さて、菊田医師が行った「赤ちゃん斡旋」は当時、間違いなく「違法」でした。しかし、それが「悪いこと」かといえば、ぼくはそうではないと感じますし、実際、彼の行為は後に法的に正当化されます。

善いこと、悪いことの判断が法律に依拠しているとしたら、わずか数十年で、善悪の基準が変わってしまうということになります。これは、かなり違和感がある話です。

善悪意識というものは、もっと根本的なもので、「法律」はむしろ、人々の善悪意識を二次的に表面化したものであると捉えるのが自然です。「法律で決まってるから悪い」のではなく「多くの人が悪い(善い)と考えるから、事後的に法律で決められた」のです。

子どもたちに「違法だから悪いことだ」と教えるのは、こうした構造を見落とすことになり、善悪感覚を外部に依存させることになります。

みんなが悪いと思うから、私も悪いと思う、という順番になってしまう、ということですね。そうした態度が不健全で「悪い」ことは、特段の説明もせずともお分かりになると思います。


個人レベルの善悪感覚を陶冶する

善悪の判断は、法律や社会といった外部が規定するのではなく、本来、個々人が決断していくものです。

場合によっては、菊池医師のように「違法覚悟」で「善いこと」を行うことも出てくるでしょう。この態度は法律を軽んじているのではなく、むしろ法律を重視しているとすらいえます。覚悟をもって法律と向き合い、その上で違反しているわけですから。

ぼくらは「善悪」を与えられたものだと考えてしまいがちです。そうではなく、善悪はぼくらが考えるものです。あなたがそれを行う理由があるのなら、一般的に悪いとされていることすらも、善いこととして行うことも出てきます。

善悪感覚は、「答えのない問い」に向かい合うことで磨くことができます。「なぜ人を殺してはいけないのか?」「なぜ自殺してはいけないのか?」「なぜ人のものを盗んではいけないのか?」などなど。法律という枠組みを一旦取り外し、ゼロから考えることで、自分の中で論理が組み立てられていきます。


ちなみに、こういうことを考えるのが、いわゆる「哲学」だそうです。そんなわけで、最近哲学にハマっています。入門にはベストセラー本の「14歳からの哲学」がおすすめ。


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