人間に礼を言われたのは初めてだった、恐らくこれが最初で最後になるだろうが。
一時はどうなる事かと思ったが何とか危機は脱して、もう後は大人しく終幕の日を待つばかり。
正直な所俺は健永に触れたいけれど、当の本人が拒絶するので無理強いはしたくない。
恐怖心が身体に残っているみたいで、抵抗を捩じ伏せる事は容易だがそれでは何の意味もない。
それこそ現世に未練というか、何一ついい思い出がないまま死ななければならなくなる。

「…ん、‥っ」

久しぶりに動いたので疲れたのか、健永はいつもよりもずっと早く眠りについてしまって。
ベッドに腰掛けて髪に触れると小さく身じろがれて、起こしてはまずいと思い手を離した。
寝込みを襲うつもりは毛頭無かったけれど、込み上げてくるものを押さえ切れずに唇に触れるだけのキスを落として。
寝床にしているソファへと身を寄せるため寝室の壁をすり抜けた時だった、名を呼ばれたのは。

「タカシ」
「!?っ…ユータ」

聞き覚えのある声に驚いて振り返ってみれば、同族のユータがいつもの仏頂面で仁王立ちしていた。
仕事も特別な用事もなしに下界に下りる事は禁止されている、しかも数ある罪の中でも重罪の部類に入るもの。
だから俺に会うためにわざわざ来たのだったら、直ぐにでも追い返そうと思ったのだが…。

「何しに来たんだよ、一体」
「別にお前が心配で来たわけじゃねーよ、任務のついでに寄っただけで」

どうやら仕事で来たらしいが確かユータの寿命はまだあったはず…大方直訴して他の奴の仕事を奪って来たのだろう。
心配して損した、なんて下らない事を言っている場合ではない。
そんな自分勝手な言い分で大魔王が仕事を与えてくれるなんて、とてもじゃないが思えない。
だとしたら他に理由が必要…そんなの俺の状況を視野に入れて考えれば直ぐに分かる事だった。

「あ、そ…でも、何か聞きたい事あんだろ?」

顔に書いてる、そう言ってやれば相手はふいっと目を逸らして我が物顔でソファへと腰を下ろした。
俺と同じように背中に生えている黒い羽根を閉じてしまえば何ら人間と変わりない容姿、勿論俺にも言える事。

「お前、何考えてんの?」

こちらから話さなければならない事は何も無かった、だからユータが口を開くのを待っていた。
でもいざ問われた問いは余りに大雑把で、どう答えていいのか困る程だった。
何を聞きたいのかは分かっている、でもその原因も目の前の相手は分かっているはずで。
それでも尚聞こうとするのは、俺がしようとしている事も検討が付いているからだろう。

「何って…俺は別に」
「嘘吐くなよ!お前今自分が何しようとしてんのか分かってんのかっ!?もう反省文どころの話じゃねーんだぞっ」
「、‥ぅっせーな、健永が起きるだろ。静かにしろよ」

健永には俺達死神同士の会話さえ聞こえてしまう、だから注意を促しただけなのに。
言い方にも問題があったらしく相手の顔はこの上ないくらいに歪んで、俺は無言で隣に腰を下ろした。
下界に来てからもう何個罪を犯したかなんて覚えていない、一々数えていないしほんの些細な事でも罪になるから。
両手は既に越えているのは確かだが両脚まではいっていないはず、どちらにしろお叱りの域は超えてしまっている。
最も既に戻る気の無かった俺には全てが愚問、最早何をしたって怖くなんかない。
大方ユータは止めにでも来たのだろう…一死神がどうなろうと天上界では知った事ではないのに。
何百という死神の管理はきちんとなされているから仕事も与えられるのだが、どうするかは本人次第。
罪を犯せば罰せられるのは最初から分かっている、俺がこうなったのは運命の悪戯に過ぎない。

「俺はただ健永の傍に居たいだけで、他に理由なんかねぇよ」
「…だから、ふざけた事言ってんじゃねーよっ!」

会うべくして会ったわけではない、偶々見かけた相手が気になってしまっただけの話。
あの日から健永遠の事を忘れた日なんて一度も無かった、まさか自分が担当する事になるなんて夢にも思わなかったが。
指令を貰った時点でもう決心はついていた、誰に何を言われたってそれは揺るがない。
怒鳴り声と共に胸倉を掴まれ、殴られると思い目を固く瞑ったものの一向に衝撃はやって来なくて。
恐る恐る目を開けてみれば、目の前の相手は俺のシャツを固く握り締めたまま肩を震わせていた。

「な、で…なんで、だよっ…」
「ユータ‥」
「なんで…、どうしてよりによって、人間なんだよ…っ」

泣いていたんだ、普段余り感情を表に出したりしないユータが、多分…俺なんかのために。
泣いた所を見るのは恐らく二度目、一度目は確か‥。
死神と人くくりにしても様々な種族がいる、俺達は中でも一番人間に容姿が似ている為あの世とこの世の境目で仕事をしている。
歳も近かったためか俺達二人は一緒に行動する事が多かった、まるで本当の兄弟みたいに。
余り会話は無かったから傍から見れば仲が悪そうに見えたかもしれない、だが決してそんな事は無かった。

「しょーがねぇじゃん、惚れた相手が人間だったんだから」

呆気らかんと言ってやれば涙は止まったみたいで、今度は唖然とした表情をされてこっちは苦笑い。
そう、惚れた相手が悪かっただけ…ただそれだけ。
望むことが何もないといえば嘘になるが、それが健永を苦しめる事になるのだったら我慢だって出来る。

「ありがとな、心配してくれて。でももう決めたんだ…健永の傍にいるって」
「ッ…、勝手にしろっ」

止めたって無駄な事は分かっていたはず、ひょっとしたら最後通告だったのかもしれない。
聞き入れるつもりなんて毛頭ない、今更自分のしようとしている事を止めるともりも無かったし…それに。
ユータだったら分かってくれると思っていた、アイツも前に人間に想いを寄せていた事があったから。
最も自分の気持ちに気付いたのはソイツを葬ってからで、全部終わった後は部屋に篭って暫く姿を見せなかった。
健永と然程歳の変わらない奴だったと思う、違いと言えばずっと病院にして既に本人が死を悟っていた事くらいか。
ユータに会えて良かった、その人間はそう言って最後まで笑ってくれていたらしい。
俺もそんな風に言って貰えたら…そう思う気持ちはあるが、言われれば逆に未練が残ってしまいそうで。
当の本人にはどうしてあの時に殺してくれなかったんだと言われたが、それはまだ俺が健永の存在を知る前の話。
もし洗い浚い全部ぶちまけたら、一体どんな顔をするのだろうか。
母親の死に涙したように…俺のために、泣いたりしてくれるのだろうか。

「…って、俺なんかのために泣いてくれないよな、」

自嘲気味に呟いた台詞は、静かな部屋に吸い込まれるようにして消えていった。







back