認識消滅3
認識の消滅ということで、小生がやっていることで、皆さんもやれば必ず利益があることを。
ちょっと前に上祐氏の悪口(と思われる内容)をコメントしている人がいた。本人はそう認識しなかったのかも知れないが、小生にはそのように解釈可能だった。しかしコメントした通り、
「上祐氏が非難されるとしたら、小生も同じ扱いになるのは言わずもがな。自分で彼を非難することなど到底出来ない。」
だが小生が非難しないのは、上祐氏や(元)オウム関係者だけではない。必ずしも100%実行できているワケではないが、どういう人であっても、非難・攻撃しないようにしている。但し、ごく一部、「こいつはカルマ落としてやらんと成長しない」という対象に対してだけは、積極的に罵倒をしたりする。これについては、破壊と再生を参照のこと。
なぜ人に対する非難攻撃をしないかというと、端的に自分にカルマが返ってくるから。「カルマなど存在しない」というのは、我が師匠の1人苫米地氏の弁だが、これについては後ほど言及。
ここで言う返ってくるカルマとは、自己認識の部分。具体的に言うと、例えば小生が上祐氏やオウム関係者のことを、一般の人と同じように全力で悪意を込めて悪口を言ったと仮定する。一般の人が見ているように
「オウムは悪でどうしようもないヤツらだ、日本から地球から出ていけ」
みたいな思いを共有したとする。小生も元オウム幹部なので他人事ではない。その排斥的な思いが、ひとたび自分に向けられたとする。すると今まで自分が攻撃していた矛先が自分に向くわけだから、痛くない筈がない。自分が「日本から地球から出て行け」という肩身の狭い存在になってしまう。だからそのような攻撃の矛をわざわざ鋭いものにする動機が持てない。
別の例。昔何度か実際に思ったことです。計算ミスばかりしている人がいた。その人を見て、
「こいつ、計算ミスばっかりして、ホンマにアホやな」
とバカにしていたことがあった。しかしその後自分が計算ミスをしたとき、否応なく落ち込むことになった。
「自分が散々バカにしていた、その『アホ』になってしまった」
意図してそう考えた訳ではなかったが、「計算ミスするやつはアホ」という認識を埋め込んでしまった以上、当然自分自身がミスすればそこにはまってしまう。もし、「計算ミスは誰でも犯しうるものだ、頑張って欲しい」という思考であったとするなら、落ち込まなかった筈。だからそのような後で攻撃の矛先が返ってくるようなことはしないってこと。
これはニュース報道なんかを見ても、絶えずそういう風に思考実験をしている。それがどんな犯罪者であろうとも。最近はもう政治家であっても、総理であっても、ボロクソ言われる。小生は、前の野田総理が非常に好きだった。好きというのは、何となく人格的に丸っこいところもいいわけだが、何より名字が同じところがよかった。
「ドジョウ野田」
「野田ブタ」
「野田売国奴」
「無能な野田」
とか悪口を散々言われているのを見て、自分自身に置き換えやすかった。名字が同じだから。
それを見て、自分が悪口言われているように想像していた。
「ああ、総理大臣って大変だな」
「俺もアレフで色々言われたな」
「野田っちも頑張って欲しいな」
ということで、連日総理の悪口が報道されるのを、(別の意味で)楽しんで見ていた。
ちなみに野田前総理時代は、別の意味でも色々便利だった。小生は、発声が明確な方では無いので、名前を言ってもよく聞き返されることがある。
「お名前は?」
「野田です」
「戸田さんですか?」
「野田です」
「小田さんですか?」
「野・田・で・す!」
「小野田さんですか?」
そうじゃなくて、最初から
「総理大臣の野田です」
というと一発で分かったが、今後は使いづらくなる。今は「前の総理の野田です」と言っている。
更に話がそれるが、名前を覚えてもらうのにも便利だった。小生、下の名前の「なるひと」は、皇太子の名前をとってつけたもの(浩宮徳仁親王)。
「総理大臣と皇太子を足して二で割った偉そうな名前です。」
(野田佳彦+皇太子なるひと親王)÷2 =野田なるひと
(全然関係ない話で終わったけど、話を戻してつづく)
でも、オウム教義の核の部分のタントラヴァジラヤーナはそれを一見否定する内容ですからね。
チベット密教も大体は同じではないですか?
まあ、チベット密教行者の苫米地氏も「否定」スルのは理解できます。