【萬物相】韓中は「人文共同体」

【萬物相】韓中は「人文共同体」

 朝鮮王朝の世宗大王(在位期間1418―50年)の時代から壬辰倭乱(じんしんわらん、文禄・慶長の役)までのおよそ200年間、朝鮮王朝と中国の明は韓中の歴史の中で珍しく穏やかな関係を維持していた。その土台にあったのは両国の知識人や王朝の間で行われていた「詩文外交」だ。1450年に明は新しい皇帝の即位を朝鮮に伝える使臣として、文筆家が集まる翰林院の学者・倪謙を派遣した。それまでは朝鮮には主に明の宦官(かんがん)が使臣としてやって来て、横柄に振る舞っていた。世宗は当時の朝鮮で最高の文士だった鄭麟趾(チョン・インジ)、成三問(ソン・サムムン)、申叔舟(シン・スクチュ)に命じて倪謙を出迎えさせた。

 両国の文士らは最初は相手の腹の内を探り合っていたようだが、すぐに互いの教養と品格を理解した。倪謙は朝鮮に来て感じたことを詩で表現し、朝鮮の3人の文士らも詩でこれに応えた。このとき倪謙は15編、鄭麟趾と申叔舟は6編、成三問は5編の詩を残した。倪謙は帰国してから鄭麟趾に「あなたとの対話は10年かけて本を読むよりも役に立った」と敬意を表し、また申叔舟と成三問とは義兄弟の契りを交わした。

 その後、明は朝鮮に送る使臣として文士の中から特に優秀な人材を選抜した。一方の朝鮮では、明からの使臣と交わした詩を集めて文集をまとめるのが慣例になった。明が滅亡するまで、文集が発行された回数は24回、冊数にすると30巻に達する。中国が詩文を周辺国との外交の手段としたのは非常に珍しいことだ。当時は中国が東アジアの宗主国として各国の上に君臨する時代だったが、明の朝廷は「朝鮮は間違いなく外国だが、読書をする人間が多く、礼儀を知っている」「学問する人間を使臣として派遣すれば、中国の体統(体面、メンツ)をおとしめることなく、人心を失うこともない」と高く評価した。

 韓国と中国は互いに争い対立することも非常に多かったが、その一方で学問、思想、芸術などの文化交流も幅広く行われ、共感を深めてきた。韓国は中国の文化を受け入れて韓国式に昇華し、時には中国よりも洗練され優れた文化を生み出すこともあった。

 朴槿恵(パク・クンヘ)大統領は韓中首脳会談で孔子の論語を引用し、北朝鮮に対して変化を求めた。習近平国家主席は、新羅末の文人、崔致遠(チェ・チウォン)=857-?=が唐に留学し、帰国する際に詠んだ詩を引用して韓中両国の特別な関係について言及した。両首脳は「韓中人文交流共同委員会」を立ち上げ、これを毎年開催することで合意した。個人同士の関係でも「力が強い」「金持ち」という評価以上に名誉なことは、相手の精神面での品格を理解し、これが認められることだ。韓国と中国が文化という共通分母を持ち、互いに理解し尊重する努力を今後も続けていけば、両国の関係が一層深まるのは間違いないだろう。

金泰翼(キム・テイク)論説委員
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