敦煌壁画で確認された古代韓国人の姿とは

鳥羽冠をかぶっていた百済人、白い長ズボンをはいていた新羅人・高麗人…

 中国・敦煌の石窟に描かれた壁画で確認された古代韓国人のうち、最も注目を集めているのは、莫高窟第61窟の主室西側の壁に描かれている超大型の壁画「五台山図」に含まれる韓国関連の壁画4点だ。高さ3.5メートル、幅13.5メートルの「五台山図」は、仏教の聖地として有名な五台山(中国・山西省)の様子を描いたもので、五代十国時代(907-960年)末期に描かれ、敦煌壁画の中では最も大きく、細密な作品に挙げられる。

 「五台山図」には、新羅と高麗が中国に送った使節団が共に登場する。これは、新羅(紀元前57-935年)と高麗(918-1392年)が共存していた時期に下絵が描かれたからだ。五台山図の右下部分にある「新羅送供使(新羅が送った供養の使臣)」という画題の絵には、通訳員、使臣、2人の官員、馬方の計5人が登場する。5人は、頭に「ボク頭(ボクは『僕』のにんべんが巾へんになったもの)」と呼ばれる冠をかぶり、首周りが丸い「団領」と呼ばれる服を着ている。その左下にある「高麗王使」という画題の絵には、連絡官、使臣、荷物持ちの3人が登場する。こちらの3人は、頭にカッ(笠子帽。韓国の伝統的な帽子)をかぶり、丈が短く首周りが丸い上衣と、膝まで届く「長袍」という服を着ている。また新羅の使節団と高麗の使節団は、官服こそ違うものの、どちらも同じスタイルの白い長ズボン(パジ)をはいている。

 「五台山図」の下部に描かれている「新羅王塔」とは「新羅の王族出身で五台山で修行した僧侶」が建てた塔のこと。敦煌研究院の李新研究員は、この塔の主人公について、新羅の貴族出身で7年間唐で学び、五台山も訪れたことがある慈蔵(590-658)と推定した。また「菩提之庵」という画題の壁画は、慧超(704-787)の居所だった菩提寺の跡に再建された庵を描いたもの。慧超は、晩年に五台山で修行・勉学している。

 敦煌のほかの石窟でも、壁画に描かれた古代韓国人が多数確認された。高句麗人は普通、鳥羽冠に羽を2本差していたが、3本または4本差すケースもあった。寒さに耐えるため、襟巻きや帯を身に着けることもしばしばあった。百済人は頭に鳥羽冠をかぶり、寒くはないため衿を外側に折り曲げた「飜領」という服を着ていた。

 敦煌石窟の壁画に古代韓国人が多数登場する理由として、李新研究員は「仏教の伝来」と「高句麗・百済遺民の敦煌移住」を挙げた。敦煌壁画は、隣接諸国が仏教に帰依する様子をよく描いていることから、自然と高句麗・百済・新羅人も登場するというわけだ。また百済と高句麗の滅亡後、敦煌地域には少なからぬ数の遺民が移住し、この遺民が石窟作りや仏教の信仰活動に参加したため、石窟の壁画でも表現されたという。

 古代韓国人の姿が壁画で確認された敦煌石窟は、唐代初期(618年)から作られ始め、宋代初期(1035年)まで続いた。韓国国内には、この時期の人物画はあまり残っていない。

 5日に開かれた国際学術会議で李新研究員の発表を聞いたイム・ヨンエ慶州大学教授(中央アジア学会会長)は「これまで韓国の学者が自由に近づけなかった敦煌石窟の古代韓国関連資料が多数公開された、という点は肯定的に評価できる。とはいえ、鳥羽冠に分類された絵の一部に安易に同意できないところがあるなど、学問的に掘り下げるべき部分もかなりある」と語った。

李先敏(イ・ソンミン)先任記者
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