主要参考文献



1.ジャンヌ・ダルク 竹下節子 講談社現代新書 1997年

 ジャンヌダルクはフランスにとってどんな存在かp14−15
 “1996年5月のオルレアン解放記念の日、かの地に赴いたフランス大統領ジャック・シラクは、ジャンヌ・ダルクが残したメッセージは「彼女の名においてときどき繰り広げられる不寛容や拒絶、暴力のディスクールとはまったく反対のところにある」と述べた。これは、ジャンヌ・ダルクをナショナリズムのシンボルとして外国人排斥の旗印にしている極右政党を、暗に批判したものだ。
 *1493年にリヨンのカード職人が、ジャンヌ・ダルクをテーマにしたトランプを作った。ヒロインであるジャンヌ・ダルクは、「スペードの女王」を割り当てられた。暗い運命の女神のイメージである。
 *1804年、まさに皇帝の座に就こうとしていたナポレオンは、「フランスに危機がくる時にはジャンヌ・ダルクのような英雄が出てくるのは不思議ではない」と自分を正当化した。

 ジャンヌ・ダルクは七つの顔をもつ。
 *私はジャンヌ・ダルクについて、鎧をまとって白馬にまたがり兵を率いて颯爽と戦う少女というイメージをもっていた。それだけでもずいぶん魅力的だけど、フランスで暮らすようになってから驚いたことがいくつもある。
 まず、ジャンヌ・ダルクが、フランスの英雄であるだけでなく、ヴァティカンに公式に宣言されたカトリック教会の聖女であること、その結果としてフランス中の教会にジャンヌ・ダルクの勇姿を飾ったチャペルがあることだ。
 同時に、カトリックとも宗教とも縁の薄い、きわめて散文的実務家的なタイプの何人かのフランス人が、ジャンヌ・ダルクは少年時代の憧れの人、初恋の人だったと語るのを聞いたことがある。
 どうも、ジャンヌ・ダルクのいる風景が、フランス人の精神的な原風景にぴったりと重なるらしいのだ。しかも、その核には、百年戦争でシャルル七世を助けイギリス軍を破ったという歴史的存在のジャンヌというより、神の「声」を聞きそれに従ったという神秘的存在だったジャンヌが住んでいる。
 ジャンヌ・ダルクが救国の戦いに立ち上がったきっかけは、田舎の家の庭で聞いた天のお告げだったといわれている。
 彼女は「フランスを救え」と命じたお告げのことを、始終「声」と表現していた。この「声」は単に英雄譚につきものの伝説ではなくて、公式の文書に言及された証言だ。この「声」は、ジャンヌの物語の中で唯一の超常的な部分なのだが、このエピソードは伝説以上の重みをもってフランスに根付いた。”  

 b.魔女として焼かれるp110−112
 “もっとも、目立つ説教師や女性だけが異端のレッテルを貼られるわけではない。ブルゴーニュ派とアルマニャック派は互いを異端呼ばわりしていたのだから、どちらの側でも、敵に与する者は、説教師であれ貴族であれ、そのまま他方から異端だと決めつけられるのは当然だった。
 ブルゴーニュ公の勢力下に入って以来、パリではノートルダムの大行列の際に、すべてのアルマニャック派とそのシンパを、具体的な貴族たちの名前を挙げたうえで破門するというような集団ヒステリーが見られるようになっていた。つまり、そこで名を挙げられたような人物ならだれでも、捕まれば火刑台に送られる可能性があったわけだ。
 その意味ではジャンヌ・ダルクは何も不幸な例外であったわけではない。彼女はアルマニャック派のシャルル七世についた時点から、ブルゴーニュ派にとっては立派な魔女候補生だった。
 実際、彼女がコンピェーニュで逮捕された同じ年の3ヵ月後にも、やはりコンピェーニュで逮捕されてパリで裁かれた2人の魔女がいた。そのうちの1人はブルターニュのピエロンヌというやはり自称「見神者」だった。ピエロンヌは白い長衣を着た神と友のように語ったことがあると言い、1日に2度聖体拝領したことがあることも認めた。この人は神の名において、ジャンヌは間違ってはいず、神の命によって行動したのだと断言したので、魔女としてノートルダムの広場で生きたまま焼かれた。
 この時同時に裁かれたもう1人が、前に述べたカトリーヌ・ド・ロッシェルだった。ジャンヌ・ダルクの後でシャルル七世に取り立てられたカトリーヌは、シャルル七世の軍を勇気づけた魔女として、やはりパリのブルゴーニュ派によって焼かれた。
 同じ時期、ジャンヌが火刑に処せられたルーアンでも、イギリス軍が、戦場でシャルル軍の兵士たちを力づけていた2人の女を捕まえて死刑にしている。
 当時の戦争には慰安婦が従軍することが多かった(ジャンヌ・ダルクは神の意に反するこの悪習を自軍から一掃していた)。その中には、士気を高め兵士を鼓舞する巫女のような機能ももった女たちがいたのだろう。いたるところであらゆる女たちが処刑されたということから、彼女らのカリスマがいかに大きな影響を戦局に与えていたかということが逆に類推されよう。
 ジャンヌが処刑された1431年以後も、政治がらみの異端狩りは続いた。ちょうど一年度にローマで火刑にされたトマ・クエットというル・マン生まれのカルメル会修道士も有名だ。
 この人は、多くの弟子を引き連れて町から町へと渡り歩き、賭け事を攻撃し、女性の華美を批判し、サイコロやトランプや三角帽を供出させた広場で焼くなどという派手なパフォーマンスをした。それは「虚栄の火刑」と呼ばれていた。群衆は彼の歩いた土に接吻するほどの熱狂の仕方で、町や村も公的な喜捨を受けた。
 このトマ・クエットも、ジャンヌ・ダルクを擁護し、またジャンヌにアドヴァイスを与えたのだと噂された。彼が処刑されたのも、勢力争いと陰謀の結果だった。”

c.p183
 “問題となった男装は、もともと馬に乗るために貸与されたものだった。またその後の戦場生活や牢獄生活では必需品だった。牢獄では甲冑こそつけていないが、胸をすっかりおおって後ろでとめるようになっている袖つきの胴着と、脚にぴったりした厚いタイツのようなものが、「男装」だった。”

d.p184
 “実は、ジャンヌが書名させられた宣誓書には、読み上げられた事項と違うことが書いてあったのだ。それによると、ジャンヌは神の声を聞くという嘘をついたことを認めることになっていた。
 教会に反抗し、悪魔に従ったかのように書かれていた。この事実は、後の復権裁判の時に明らかにされ、異端審問の無効性の根拠のひとつとなった。ジャンヌは身に起こったことが理解できず、怒り、後悔した。しかも、長いワンピースを着せられたジャンヌは牢番から暴力をふるわれるようになった。イギリス貴族に襲われそうになったこともある。ジャンヌは身を守るために男の服を再び所望し、身につけた。わずか三日後のことだ。これはコーションの思うつぼであった。
 司教はジャンヌに男の服を渡すことを見逃した。一度「改悛」してからの不服従は「戻り異端」であり、問答無用で死刑にすることができるからだ。イギリス軍はジャンヌの死を望んでいるのだ。ジャンヌも、もう迷わない。女の服を着て、一生男の看守に乱暴に扱われたり、イギリス貴族に襲われたりするくらいなら死んだほうがましだった。牢獄に詰問にやってきた司教に、ジャンヌはもう男装を手放すつもりはないとはっきり答えた。”

e.p191
 “カトリックでは、女性信者の服装をチェックしてアドヴァイスを与えるのは司祭のれっきとした役目のひとつで、そのためのマニュアル本まで存在していた。男女の服装の規定は、カトリックの教義や教会法について検討する公会議のレベルで何度も成文化されていた。ジャンヌ・ダルクの頃も同様で、教会法の中では、「もし女性が服を取り替えて男装するならば、破門される」という一項が確かにあった。
 戦闘服ももちろんで、「人類の劣等な方の半分(女性のこと)が、本質的に男性的である戦士の服装をつけることは特に禁じられる。脚の付け根を強調する鎧用の金網状のズボン、股当て、臑当てなどである」とされた。
 1960年代の第二ヴァチカン公会議でカトリシズムの服装の規定が緩やかになったとはいえ、教会の中で女性のヴェール着用が義務づけられている地方はまだ多いし、ノースリーブやショートパンツの観光客がカテドラルの中に入ることが許されないケースは今でも存在する。”

f.p200-201
 “ジャンヌが煙で窒息し、刑用の長衣が燃えた時、申し合わせの通り、いったん火が遠ざけられた。少女が天使の助けによって脱走もせず、確かに死んだこと、一部で言われていたように少年でもなく両性具有者でもないことを群衆に見せるためだ。
 また、遺体の確認という法的手続きのためでもあった。灰になるまで焼いてしまったのではもう何も残っていないからだ。やがて再び火が放たれ、ジャンヌの姿は炎と煙の向こうに見えなくなった。”


2.女のエピソード   澁澤龍彦  河出書房  1990年

a.p70
 “歴史のなかに出てくる実在の女性にも、こうした処女神に対する信仰と結びついたものがある。たとえば、フランスの愛国心のもっとも純潔な象徴であって、しかも、イギリス軍に怖れられ、魔女として焼き殺されたジャンヌ・ダルクの場合がそれだ。”

b.p72-74
 “王太子から少数の軍隊をもらうと、ジャンヌは白い馬にまたがって、その軍隊の先頭に立った。手にした軍旗には、百合の花の刺繍をした。ご存知の方もあろうが、百合の花はフランス王家の紋章である。
  この勇ましいジャンヌの姿を目にすると、にわかにフランス軍の兵士たちはうるい立って、英国軍に包囲されていたオルレアンの町を解放した。それからというものは、ジャンヌのひきいるフランス軍は、まるで奇蹟のように、連戦連勝の勢いであった。ジャンヌ自身は、神のお告げによって行動しているつもりなので、絶対の信念がある。その信念によって、フランス軍兵士の士気はますます鼓舞され、逆に、イギリス軍兵士は、彼女をひどく怖れるようになった。魔女だという噂が流れ出た。
 だから、ジャンヌが味方の裏切りによって、イギリス軍にとらえらえると、さっそく宗教裁判所に引渡された。何とかして彼女が魔女だという証拠をつかむため、75人の裁判官が、5ヶ月もかかって、あの手この手の訊問を行ったのである。ところが彼女の応答たるや、じつに立派なもので、陰険な裁判官たちも困ってしまうほどだった。
 まだ19歳になったばかりの、若い無知な百姓女が、こんな理路整然たる受け答えをする! しかし裁判官にとっては、それも魔女の証拠なのだった。 結局、ジャンヌは異端者の宣告を受け、1431年5月30日、ルーアンの広場で、生きながら焼き殺された。”


3.詳解 世界史 吉岡 力著 歴史教育研究所補訂 旺文社 1988年 

 百年戦争と英・仏の中央集権化p209-211

 “1328年フランスのカペー王朝の正統が絶え、傍系のバァロワ(Valois)家のフィリップ6世(Philippe W、在位1328〜50)が王位を継承してバァロワ朝(1328〜1589)が成立すると、カペー朝のフィリップ4世の娘を母にもつイギリス王エドワード3世(Edward V、在位1327〜77)は王位継承権を主張し、フランドルの内乱を契機に英仏百年戦争(1339〜1454)が始まった。
 この戦争は、最初エドワード3世が皇太子エドワード(黒太子)とともにフランスに上陸し、クレシー(Crecy,1346)・ポワティエ(Poitiers,1356)で長弓を装備したイギリス平民軍が重装備のフランス騎士隊に大勝したのをはじめ、概してイギリスが優勢であった。フランスの国土は戦乱で荒廃し、黒死病の流行やジャックリーの乱(1358)などもおこった。
 国王にはまだ国民的勢力を結集する力がなく、こと15世紀にはいると、国王シャルル7世(Charles Z、在位1422〜61)の派に対抗して封建貴族の一派(ブルゴーニュ派)がイギリス側と結んで国内は二つに割れ、フランスの大半はイギリス軍に占領され、敗色は濃かった。
 このとき、愛国少女ジャンヌ・ダルク(Jeanne D‘arc 1412〜1431)がたってオルレアン包囲を解き、シャルル7世の戴冠式を挙行させた(1429)。彼女はまもなくブルゴーニュ派に捕らえられてイギリス軍にひき渡され、1431年ルーアンの宗教裁判で魔女として処刑されたが、その熱烈な信仰と戦闘精神はフランス軍をふるいたたせた。
 シャルル7世もはじめての常備軍を編成して軍事力の強化を図り、イギリスとイギリス側フランス貴族との占領地の支配をめぐる争いも手伝って、以後フランスは連勝し、カレー(Calais)を除く全国土からイギリスの勢力を一掃した。
 百年戦争の結果、両国の封建社会の崩壊は急速に進み、中央集権の機運が大いに促進された。まずフランスでは、戦争を通じて諸侯・騎士の勢力が著しく衰えた。そのうえ国土からイギリスの勢力を一掃し、戦争末期には国民的意識が高まって王権がいちじるしく強化された。
 すなわち、シャルル7世は大商人ジャック=クール(Jacques Coeur1395ころ〜1456)を登用して財政を改革し、また傭兵軍隊の欠点をおぎなう常備軍を創設し、官僚制を整え、さらに、ブルージュ詞勅で教皇から独立を宣言して国内の教会を王権の支配下においた。その結果、ルイ11世(在位1461〜83)、シャルル8世(在位、1483〜98)のとき、はじめてフランス全土は国王の主権下に統一され、絶対主義国家への第一歩をふみ出した。 

ブルゴーニュ公国の消滅:
 一時イギリスと同盟していたこの中間勢力は、1477年シャルル(突進公)の戦死により男子がなく断絶、遺領のブルゴーニュはフランス王家に、フランドル・ルクセンブルグはドイツのハプスグルグ家に分解され、王権の強化を促進した。”


4.フランス三昧     篠沢秀夫  中公新書 2002年

a.第4章14. 国家概念の芽生えは百年戦争p64
 ”ランス大聖堂での戴冠式。サリック法典。この二つの鍵で激動の歴史を解こう。
 サリック法典の厳密適用は、イングランド国王エドワード二世に嫁いだカペー本家の王女イザベルを排除するためだった。
 名君フィリップ四世(美男王)の娘だったイザベルは、カペー本家の直系が絶え、彼女の父の弟の息子が分家のヴァロア家初代の「見つけられた」王フィリップ六世として即位した1328年、自分の方がフランスの王位継承権があると言い出した。
 当時イザベルは幼くして即位した息子エドワード三世の摂政だった。1337年、彼女の息子エドワード三世はイングランド国王であると同時に自分がフランス国王であると公布した。フランスの諸侯と博士たちがこれを認めないと宣言した。
 理由は二つ。まず女性は彼女自身が持っていない権利を伝えられないからだ(サリック法万歳!)。第二が新しい。国民意識の芽生えだ。フランスにおいては国民はイングランド国王の臣下であることを欲しないからだ。
 「百年戦争」の始まりだ! 1453年まで続いたのでその名がある(「英仏」を付けるのは日本での習慣。フランス語ではただ「百年戦争」ゲール・ド・サンタン)。” 

b.p68
 “何十年も断続的に戦っているうちに内輪揉めがあり、ますますヴァロア家のフランス国王の力は弱まる。そこで国王のシャルル六世の精神状態が普通でなくなり、その妃イザボーは元の東フランクの南部、バイエルン王国(今のBMWは「バイエルン自動車工業」のこと)出身で、なんとイギリス王ヘンリー五世に娘カトリーヌを嫁がせ、やがて生まれる王子を二つの国の国王にするトロア条約(1420年)を夫の名で結んだ(このイザボー・ド・バビエールには悪女のイメージがある。薄絹のベェールだけの全裸でパーティに出たなど)。
 この王の崩御とイングランド王の崩御が同時期だったから大混乱!あとを継いだ若いシャルル七世は、トロア条約からすればフランス国王ではない!ランス大聖堂は敵の手中にあり、戴冠式もできない!彼の姉でイングランド王妃カトリーヌは王子を生んでいた!まだ二歳にならないが、これを摂政カトリーヌがイングランド国王にしてフランス国王を公布する。またイングランド国王の口出しだ! だがどちらもフランス人という感覚はとっくにない。”


5.ジャンヌ・ダルクと蓮如   大谷暢順 岩波新書 1996年 

a.p38
 “フランスは、騎士道の陋習に縛られて、身動きができない状態だった。軍の体制まで国や社会と同じようにすっかり硬直化していたのである。グレシー、ポワティエの開戦当初の二大敗北の教訓が、70年後になってなお生かされていないでいて、三たびその徹を踏むことになったのであった。
 アゼンクール以後、フランス軍はまったく無力となった。ヘンリー五世は、思いのままにフランスの国土を蹂躙して廻った。野戦で英軍に勝負を挑む者はもういなかった。いくつかの勇敢な都市が、城門を閉ざして抵抗を試みた。しかし防ぎきれず陥落したり、長い篭城の末、食料尽きて降伏した場合には、容赦ない殺戮、暴行、掠奪が加えられた。
 オルレアン公ルイの暗殺後、一転ブルゴーニュ公ジャンと結んだ王妃イザボーは、パリー大学をも語らい、トロアにおいて1420年、イングランドに屈辱的な降伏をした。
 王妃は、後にシャルル七世となる息子のドーファン(dauphin 太子)を否認し、娘のカトリーヌをヘンリー五世にめあわせ、彼をフランス王位継承者と認めた。すなわち、シャルル六世の死と同時に、ヘンリー五世がフランスおよびイングランドの王位に就くように定められたのである。 この時、ジャンヌ・ダルクは八歳となっている。 もうフランスは無くなったも同然である。”

b.P47-48
 ”ドンレミー周辺の直轄地だけを残して北部フランス全域を、英国ヘンリー五世の軍隊が、思うがままに荒らしまくりつつ、その支配下に収めていったことは前に述べたが、百年戦争中いつも負け戦さのフランス側は、ありとあらゆる恥辱と苦渋をなめてきた。 例えば、百年戦争中、エドワード三世の時にはイングランド側がカレーを包囲して攻めたてたが、城が堅固でどうにもならないので兵糧攻めにした。フランス側は食糧が尽きてとうとう降伏するのだが、イングランドは降伏を認めない。どうしても降伏したいのなら、支配者たちがおのおの自分の首に首枷をかけて出て来い、と要求した。それで、市長たちはみな、自分で首枷をかけてイングランド王の前に犬のようにひれ伏した。しかし、彼は「こんなに長く抵抗したのはけしからん、許すわけにはいかないから市長をはじめ皆殺しにする」と言ったのであった。
 この時、后が来て、「そんな残虐なことはしないでほしい」と嘆願したので、エドワード三世はようやく許すのだが、それでも、カレーにいたフランス人を全員追放して、イングランド人だけがカレーの町に住むようにした。こうして、カレーは長くイングランドの支配下に置かれることになる。
 しかし、過去のエドワード三世の時より、この度のヘンリー五世の征服戦の方が、ずっと非道であった。かつては、敗者にも敬意を失わない騎士道の名残りがあった。ところがヘンリー五世は、狂疾を発したシャルル六世治世下のフランスを侮りきっていた。彼には、抵抗する諸都市の攻略戦にこの狂王を同行して、観戦させるという嗜虐性すらあった。従って、前述のように、抗戦の後力尽きて降伏した町々には、容赦ない掠奪、暴行が待っていた。
 孤立無援のまま、いつまでも国王に忠実であり続ける、ヴォークールール、ドンレミー一帯の地域どうなるのだろう? ヘンリー五世が、このまま赦すだろうか? 南部のフランス王軍の壊滅は、もはや時間の問題であることは誰の目にも明らかである。
 そうなった時、イングランド軍が、この直轄王領を占領するのは当然であろう。それが平和裡の進駐で済むとはまず考えられない。“

c.p48−49
 “ジャンヌ・ダルクの未来に対する恐れは、十分根拠のあることだった。
 と言うのは、ボーヴエーの司教で、パリ大学の教授でもあったピエール・コションという者が、ヘンリー五世の弟で王の亡き後イングランド方のフランス摂政をしていたベドフォード公爵に、ヴォークールール王領の取潰しを提言したからである。”

d.p174
 “ジャンヌがボードリクールに会いに行く一ヶ月前に、ブルゴーニュの軍はムーズ川流域に戦線を拡大していたし、また一ヶ月後の7月には、ヴォークールール攻撃軍が編成された。ボードリクールは、急いで降伏状に調印して、六ヵ月後に城を明け渡すことを約した。
 ジャンヌの村ドンレミーを含む王領が、敵軍の占領下に入らなければならぬ破局は、今や目睫に迫った。王領内の住民たちは震撼したに違いない。彼女に聞こえた天の声も、彼女自身の抱いた危機感と、決して無縁ではあるまい。天使の矢のような催促は、彼女の焦燥でもあると私が考えざるを得ない。”

e.p177
 “「声」のしたがってジャンヌ・ダルクが目ざしたのは、フランス王国の復権であった。彼女の立ち上がる1429年の9年前に締結されたトロア条約など、まったく彼女の眼中になかった。それによると、イングランド王が、フランス王になるのであった。
 中世の論理からすれば、これは何も問題もないことだったろう。しかしそれでは、フランス国民と国土に幸福は約束されない。封建制度はもう時代に適合しなくなっている。
 ジャンヌ・ダルクは、ボードリクールに向かって明言した。 「・・・・王国は太子のものではない。彼の主人たる神様のものである。けれども御主人は太子が王となって、この王国を預かることを望んでおられる。太子の敵は多い。それで太子は王になります。私が太子を戴冠式を挙げるためにお連れしましょう」
 「太子」とは、ロワール河畔のブールジュの城に難を避けているシャルル七世のことである。
 フランス王后イザボー・ドゥ・バヴィエールも、ブールゴーニュ公フィリップも支持しているイングランド王ヘンリー六世は、だからフランス王と認められていないことになる。王国は神のものであるが、その神の命によって、太子が国を治めなければならぬーというジャンヌの整然たる道理を聞いて、ヴォークールール守衛官は、おそらく目を白黒させたことだろう。
 こんな理論を彼はいまだかつて聞いたことがなかった。彼女の方にしても、人から習ったわけではない。お告げが彼女に教えたのだった。二百年も後になって現れる王権神授説のような言葉が、ロレーヌの一百姓娘の口からこの時吐かれたのは奇跡というべきか。ジャンヌ・ダルクは、ここに、一人の君主、一つのフランス、とも言うべき近世国家論を宣明したのだ。
 このように、ジャンヌ・ダルクは、事を起すに先立って、彼女の生きた中世の終わりを堂々と予知し、予告した。その時代の常識ではなく、「ジェジュ・マリヤ」(Jesus Maria)の法にしたがって、フランスが、多くの入り組んだ領土を所有し複雑な主従関係にたつ多数の封建諸侯の支配を脱却すること、したがって王冠に反抗するブールゴーニュ公、ブルターニュ公などは、即刻帰順すべきであること、外国イングランドの軍は、英仏海峡の向う岸へ退却すべきであることを提唱したのだ。
 それは中世と訣別して、近世へ向かって歩みだすことだった。これ以外にフランスは、幸福を見いだす方法はないと彼女は確信した。それは同時に、キリストの教えを恢復することでもあった。”


6.魔女と聖女 池上俊一 講談社現代新書 1992年

a.p9−10
 “魔女は悪魔の幻術によって幻を見るし、聖女は聖なる幻視を見る。魔女も聖女も不可思議な洞察力(予言、占い)で他人の心や未来を読める。ともに空中を飛ぶことができる。魔女は、悪魔からもらった膏薬をからだに塗り、箒にのってサバトへと飛んでいくであろうし、聖女は聖なる身体浮揚または二所同時存在の奇蹟によって、その力を示すだろう。さらに彼女たちは、ともに身体に超自然的な印をさずかる。一方は悪魔や男夢魔のつけた印、他方は、聖痕である。したがって、このように裏腹の関係にある魔女と聖女は、ときに見分けのつかないこともあった。これは教会にとっては、非常にやっかいな問題であった。だから、聖女として崇められるべき女性が、異端や魔女として処刑されることも少なからずあったはずである。 フランスを救った聖処女ジャンヌ・ダルク。彼女はいまでは列聖されて聖女の仲間入りをしているが、当時は魔女として処刑されているのである。”

b.p49−50
 “悪魔学者たちは、諸権力が絶対主義を確立させるのにも貢献した。なぜなら絶対主義のためには、権力は異端を根絶するとともに、非常にきびしい司法=刑事機構をつくりあげねばならなかったが、これを悪魔学が助けたからである。
 権力の伸長に大きな役割をはたしたこれらの著作は、政治的文脈に位置づけられる。
 「魔女の鉄槌」は教皇権を擁護し、ジャン・ボダン、アンリ・ボゲ、ピエール・ド・ランクルは、絶対王政、公共秩序、辺境(境界)などを擁護した。 悪魔学が生まれた時代は、農村社会が変貌しつつある時代だった。つまり人口が増加し、貨幣経済が進展して経済が変容し、農村の内部が階層分化して農村の共同体が解体し、人々が危機意識にとらえられた。
 その危機をのりこえるための犠牲の山羊として農民たちが選んだのが、アウトサイダーの女たちだった。
 しかし、それを司法機構や教会が利用することによってはじめて、魔女が生まれたのである。さらに、彼女たちはエリートの脅迫観念の犠牲者でもあった。”

c.p190
 “女たちは、巡礼者としてはともかく、十字軍兵士としては、なにをしたのか。男たちの足手まといにならずに、なにか積極的な役割をはたしたのであろうか。かなりの数の女性は自ら鎖かたびらを着、兜をかぶり、剣をあやつった。たとえば、シチリア島のノルマン人たちの妻がそうであり、そのほか、オーストリアの辺境伯夫人イダも自ら武器をとり、1101年、バイエルン公ヴォルフとともにパレスチナに旅たった。そのほかにも、勇敢に戦い、剣をふるい、矢をはなち、弩を敵に向けた貴族の女は数多い。”


7.ジャンヌ=ダルク 堀越孝一 朝日文庫 1991年 

a.p21−22
 “その点、左の絵には肖像画を作ろうという作為が感じられ、これが一応いちばん「信用のおける」ジャンヌ像とされている。おそらく、はじめてオルレアン市内にはいったジャンヌ=ダルクを想定して描かれたものであって、もともとは、シャルル=ドルレアンの詩集の写本飾り絵であったと考えられている。鎖帷子を着込み、甲冑をつけたこの「男装」の画像に見られる考証の確かさは、肩にかついだ旗の紋様が、のちに宗教裁判の法廷でジャンヌ自身が証言したとおりに描かれているという一事によっても知れる。”

b.p36−38
 “事態はソールズベリ伯の計算どおりに運んでいる。彼は24日、「レートゥーレル」に出向き、塔にのぼって対岸の市街を遠望し、いかにしてこれを攻むべきか想を練った。そのとき不慮の事態が発生した。
 年代記家アンゲラン=モンストルレはこう伝えている。
 そのとき、伯はくだんの窓際にいたのだが、突然、くだんの市街から大砲の石弾が飛来して窓を壊し、窓に寄っていた伯は、石弾の空を切る音に気付いて部屋の中に身をむいたのだが、にもかかわらず、弾に当たって致命的に傷つき、顔面の大部分がもぎとられたのであって、伯のそばにいたさる貴人は、この打撃で即死したのである。

 石弾は例の中洲から飛来したともいい、市街の城壁の一角からともいう、いずれにせよ、大砲係の小者の過失による誤射であったと記録は報じている。マンーシュールーロワールの本営に運ばれたソールズベリ伯は11月3日に死んだ。神の裁きだと人々は噂した。
 なにしろソールズベリはマンーシュールーロワール近郊の巡礼聖地ノートルダムードークレリを掠奪したのだ。なにしろかれは、シャルル=ドルレアンがロンドンに捕囚の身だというのに、その領国オルレアン候領を狙っているではないか。捕虜にしたものの領地の保全。これは封建倫理の根幹をなす掟である。ソールズベリ指揮下のイギリス軍のオルレアン攻囲は、なによりもまず、この封建倫理の侵犯と受け止められたのである。オルレアン市民5000は、その領主シャルル=ドルレアンのために戦う、まず王太子のために、「フランス」のためにではない。その点を錯覚してはならない。
 神の裁きかどうかはともかく、ソールズベリの死は、有能な指揮者の喪失という意味で、イギリス軍にとってつまずきとなった。
 オルレアン攻囲は、以後、トーマス=スケールズ、ウィリアム=サフォーク、ジョン=タルボット三者の集団指揮下に継続されたが、結局のところ、なにか最終的なつめにおいて欠けるところがあったとの印象がぬぐいがたいのである。
 このつまづきさえなかったら、とイギリスの歴史家は考える。歴史における偶然の契機についての古く、また新しい議論に、これはひとつの材料を提供するのである。“

c.p207
 “1431年1月3日付の書簡において、ヘンリー六世は、ジャンヌをコーションに引き渡すことに同意した。ただい、それは無条件ではなかった。「要求されたときにはいつでも」ジャンヌを引き渡すという、いわばその都度の引き渡しであり、ということは、ジャンヌがいぜんイギリス軍の牢獄につながれることを意味する。
 さらに問題であったのは、この書簡の結びの一句である。「しかしながら、ジャンヌが上述の訴訟事由ないしそれら訴訟事由のひとつふたつ、またあるいはわれらが信仰にかかわるなんらかの事由によって起訴され、有罪の宣告を受けることのないばあいには、くだんのジャンヌの、われらが手によって再逮捕され、とりもどされるべきこと、ここにわれらが意図がある」。
 上述の訴訟事由とは、男装、殺人、神意に通じていると民衆をだましたこと、カトリックの信仰にとって危険な独断的主張などとされている。
 これら信仰にかかわる罪状によってジャンヌを処断せよ、さもなければイギリス側は独自の立場でこの女を処断すると、イギリス政府はコーションを脅迫しているのである。イギリス政府がこれほど気をつかっているとは興味深い。この書簡は、コーションの主宰するジャンヌ審問にイギリス政府が必ずしも全面的な信頼をおいていなかったことを裏側から示している。”

d.p211
 “このイザンバール=ド=ラ=ピエールの復権訴訟における証言は、ピエール=コーションの立場をみごとに浮き彫りにするエピソードをひとつ紹介している。ジャンヌがいったん罪状を認めたのち、ふたたび罪を否認し、いったんは捨てた男の服をふたたび身につけたときのこと、からは牢獄の戸口のところで、コーションがウォーリック伯に向かって、高いはっきりとして声で、笑いながらこういったのを聞いた。
 「やれやれ、これで終わりだ、お祝いしなさい」。
 ド=ラ=ピエールは、これをコーションのウォーリック伯に対する迎合の言葉と解したがっているようだが、これこそまさしく、コーションの代表する宗教裁判所のイギリス政府に対する敵対の言葉ではなかったかと、オランダの歴史家ヨーハン=ホイジンガは考える。わたしもまた、ホイジンガの理解に同調するものである。イギリスの劇作家バーナード=ショーの戯曲『セント・ジョーン』を批判したホイジンガの論文「バーナード=ショーの『聖女』」は、ゆたかな共感と深い洞察をもってジャンヌ・ダルクとルーアンの宗教裁判の実相をついている。”

e.法王の政治的処理p222−223
 ”以下、わたしはゴチックの活字でいいたのだが、現在にいたるまで、ローマーカトリック教会は、ジャンヌ告発を取り消してはいないのである。1450年代に行われたいわゆる復権訴訟は、ジャンヌの人となりを称揚する証言をくどくどといたずらに積み重ねただけで、この肝心の告発についての有効な反撃をなしえなかった。もともと教会側にはその気がなかったからである。復権訴訟の幕閉めともいうべき、56年7月4日付の法王教書は、これになんらふれず、判断留保の意思を明示した。裁判はなかったことにしよう、ひらたくいえばこれが法王のはなはだ政治的な処理であった。
 ルーアンの裁判を非難弾劾することに情熱を燃やす歴史家レジーヌ・ペレヌー女史にしても、この事実はさすがに冷静に受け止めている。かの女は復権訴訟の結果を「消極的」なものと認めているのである。「復権訴訟」は実は二度目があった。19世紀から20世紀にかけて、フランス人の愛国の想いが高揚した時期に、ジャンヌは聖女の座へと押し上げられたのである。
 1920年5月16日付の法王書簡がジャンヌを聖列に加え、法王は、パリの法王特使館の返還を受けた! もちろん、このふたつの事件のあいだにはなんの関係もないとする意見も十分傾聴にあたいする。
 それはともかく、ジャンヌを聖女とするには、なんの困難もなかった。フランスの世論がそれを期待していたし、奇蹟が証明できれば聖人は生まれる。証明するのは法王である!この茶番劇の評価は、この書物のかかわるところではない。さしあたりジャンヌ聖列の根拠が、ただひとえにジャンヌ生前の徳行に求められたという事実を確認しておけばよい。
 ローマーカトリック教会は、頑迷にも、ルーアンの裁判については沈黙を守ったのである。ジャンヌ告発の趣意について判断留保の姿勢をかたくなに守りつづけたのである。あえて断る必要があろうか。「頑迷にも」だの、「かたくなに」だのといった言葉つかいは、これは反語的表現とお受けとりいただきたい。”

f.p239“『パリの一市民の日記』にパリでの伝聞の報告を聞こう。

 そしてかの女は、漆喰仕立ての木組みの台の上の杭に縛りつけられた、そして火がつけられた、かの女はすぐ死んだ。衣服はすっかり焼けた。次いで火が遠ざけられた、群集はまっぱだかのかの女を、女にあるはずの、なければならないはずのかくれた部分をくまなく見た、民衆の疑いをとりはらうためのことだ。心ゆくまで気がすむまで、民衆が、すっかり死んで杭にしばりつけられているのを見るのを見はからって、処刑人は、このあわれな死骸の上に盛大に火をかけた、正しい主君のために死んだのだというものもあり、また、他の連中は、いやそうではない、かの女をかくも用いたものはまちがっていたのだ、とのいっている。だが、いかなる悪行あるいは善行をなしたとしても、ともかくかの女は、この日、焼かれてしまったのだ。“


8.中世を生きる女たち アンドレア・ポプキンズ 原書房 2002年 森本英夫監修 朝香佳子訳者代表 p19 前掲


9.ジャンヌ・ダルク アンドレ・ボシュア 白水社  1969年 新倉俊一訳

p94−95“
 
だれの目にも見えるようにいちだんと高い石膏台上の薪にくくりつけられると、いよいよ死刑執行人が火をつけた。彼女が絶息すると、イギリス軍は炎を遠ざけさせて、裸のジャンヌを人びとに見せ、本人であることに疑いの余地が残らないようにした。それから、これで永劫に滅ぼせると信じて、彼女の灰をセーヌ河に投げすてさせたのである。
 彼らの恐怖も彼女とともに消えつつあった。伝えられるところでは、1429年12月以来ラ・イールが占領していたルーヴィエ〔ユール県エヴルーにある〕を包囲するために、彼らはジャンヌの死を待っていたのであり、生きているあいだは包囲敢行できなかったらしい

*このへんの消息は後出『パリの一市民の日記』269頁以下に詳しい。 しかしながら、彼女の死は不完全な解決でしかなかった。というのも、彼女は自白を撤回してしまったのであるから、裁判と同様に火刑もまた、彼女の使命が神に由来しなかったという証明にはならなかったのである。”


10.ジャンヌ・ダルクの実像 レジーヌ・ペレヌー 白水社 1995年 高山一彦訳

a.p92
 “1月3日付の右の書簡は筆者の意図を包み隠すことなく語ってくれる。
 イギリス国王はここで、ブルゴーニュ公から買い取った女性捕虜を正式にボーヴェー司教に託すことを明らかにするのであるが、その目的はこの女を異端裁判にかけることにあった。
 しかし、と彼は明記している。「万一このジャンヌが、我らの信仰にかかわる上記諸条件いずれかに関して、その罪状を暴かれず、異端その他の罪で処罰されぬような場合は、余はジャンヌを再び余の許に引き取る意志であることを明らかにする」と。したがって、イギリス国王としては、ジャンヌを異端裁判にかけるために「教会」に引き渡しながらも、この捕虜は自分の餌食であって、裁判の結果がどうなろうと、彼女を自分が準備した運命に従わせるつもりであることを、ここで明らかにしているものといえよう。”

b.p121
 ”イザンバール・ド・ラ・ピエール修道士はこの最後の瞬間にたちあって、こう語っている。「彼女は私に、傍らの教会(=サン・ソヴール教会)に行って十字架を持ってきてくれるよう、そしてキリストが掛けられた十字架が自分の息ある限り目の前にあるよう、死の瞬間まで自分の目の前に高くかざしていてくれるよう頼みました・・・・・。
 ジャンヌは火が薪につけられるのを見た時高い声で、イエズス様、イエズス様と叫びました。そして死の瞬間までイエズス様と呼んでおりました。その場に居合わせた者は皆この声を聞くことができました。ほとんどの人が哀れんで泣いていました・・・・・彼女が息絶えた時、イギリス人たちは彼女が逃げうせたと言われるのを恐れたので、死刑執行人に命じて火を遠ざけさせ、見物人が彼女が死んでいるのを見えるようにしました」と。”

c.p124
 ”このニュースはかなり広まったもので、パリ国王裁判所のクレマン・ド・フォーカンベルグはこの事実を、5月30日と日付も正確に、執務記録に残しているし、また『パリの一市民の日記』はジャンヌの死と処刑の情況を長々と語っている。 さらに付け加えればコーションは、―用心深すぎるということはないー6月12日にはイギリス国王側から自分自身と陪席者のために「保証書」を手に入れている。
 「国王陛下の言葉により、裁判自体にせよ、関連する業務にせよ、前記裁判において働いた者たちに対し・・・・我らは我ら自身の経費により、これらの裁判関係者に報い、報いさせようとするものである。」”

d.p152“
 一方、この時期に描かれたジャンヌ・ダルクの肖像についても同様な指摘をすることができる。オルレアンではロワール川に架かる橋の上に建てられてれた記念碑は、1562年の宗教戦争に際して新教徒であるユグノーの手で破壊された。そののち記念碑は再建され、オルレアン市の吏員たちは1581年にジャンヌの肖像画を注文して制作させた。この肖像は市の博物館に保存されてきており、また近代になってつくられたコピーも市庁舎に展示されてきた。
 ところで、胴体を締めあげた優雅な胴着と羽飾りのついた帽子を被った形で表されたこのジャンヌの肖像は、その後特別な運命を辿ることになる。
 すなわちジャンヌのあらゆる肖像はこの後19世紀に至るまで、同じような羽飾りの帽子を被ったものになった。”

 

                16世紀にオルレアンの橋上に建立された少女の記念碑(「聖ジャンヌ=ダルク」大谷暢順、河出書房新社 1986年、p346より)

 

 


11.美しき拷問の本 桐生 操 角川ホラー文庫 H28-1 1994年 p75 前掲


12.ジャンヌ・ダルク  J.ミシュレ  中公文庫  1987年  森井真、田代葆 訳 p132−133 前掲


13.魔女拷問・日本の場合はどうだったのか? 八切 止夫 ベストセラーズ 1970年 p48−p49 前掲


14.ジャンヌ・ダルク暗殺 藤本ひとみ 講談社 2001年 p504-505  前掲


15.図説 拷問全書 秋山裕美 筑摩書房  2003年 (原書房 1997年刊行)

a.P304
 “「歴史的に有名なジャンヌ・ダルクの火刑は、残されている絵画では薪の上に支柱が立てられているが、実際には積み上げられた薪の内部で行われたという。”

b.P304−305
 ”薪の束の中に立てられた柱にジャンヌを縛ると、刑吏はその場をあとにして隙間を薪で埋めた。ほどなく四隅に火がつけられ、ジャンヌの火刑台は炎に包まれた。しかし、薪と炎が邪魔になり、群集はジャンヌを見ることができなかった。
 そのため、処刑が始まってしばらく経ったあと、刑吏がジャンヌを囲む薪の一部を取り除いた。そこにはすでに窒息したジャンヌの姿があった。熱と炎で服は燃えたが、まだ肉体は燃えていなかったため、裸の死体が人目にさらされる結果となった。
 刑吏はジャンヌが焼かれる様を群衆に見せるためわざわざ火刑を中断したのだった。
 ジャンヌの場合は「生きながら焼かれる」という裁判の宣告通りに処刑されたが、実際には「お慈悲として」刑吏の手で事前に絶命させられるケースもあったという。
 刑吏の独断だけでなく、判決の下の追加事項として「受刑者があまり長く苦しまないように」と指示されていることもあった。
 が、これはあくまで秘密事項であって、判決の際には読み上げられなかった。その「お慈悲」の方法にはさまざまな記録が残っている。たとえば、薪に火をつける前に目立たないように絞殺する。心臓を一突きする。撲殺する。火薬を入れた小袋を受刑者の首にかけておくなどがそうである。
 また、複数の死刑が宣告されたときに、他の刑を先に行い、死体を火刑に処すというのは一種の「お慈悲」であった。すべての処刑のなかで、生きながらの火刑はもっとも過酷な刑の一つとされていたからだった。”

c.p168−169
 “国家に対する反逆は、一人の人間が犯すことができる犯罪としては最も重い罪に数えられてきた。なかでも重く扱われてきたのは、帝国や共同体、都市への反逆だった。
 また、忠誠を尽くす義務のある主君を裏切ったり、主君の財産を敵の手にこっそり渡した者も反逆罪として裁かれている。
 中世の人々の理解によれば、この罪の適用は、必ずしも公的な組織への反逆に限らなかったのである。「反逆者イコール政治犯」とみる近代の刑法と比べると、その適用範囲は、はるかに広い。このため政治的に不穏な時代には、権力者から疎まれているものは、ささいな口実からいつ「国家に対する反逆罪」を宣告され、葬り去られるか知れなかったという。
 古来、反逆罪は死刑をもって処せられた。すでに古代ゲルマン人のあいだでも、した反逆罪は木に吊るされて処刑され、死体は鳥がついばむにまかせていたという。中世では、反逆者を絞首、溺死、斬首、火刑、車刑などで罰し、十四世紀以降になると、政治犯には四ツ裂きの刑が加えられた。次いで15世紀から16世紀になると、さらに罰は厳しくなり、四ツ裂きは政治犯だけでなく、あらゆる反逆者へと適用の範囲
が広げられた。

 <カロリナ法>も、この罪には次のような厳しい刑罰を科している。
 「さらに、悪意の背叛をもって非行をなす者は、慣習に従い四つ裂きによりて死へと罰せられるべし。しかれども、それが婦女なるときは、彼女は溺死せらるべし。またかかる背叛が大いなる損害または毀損を招来することありて、それが、ラント、都市、彼自身の君主、配偶者または最近親族にかかわるときは、その刑は、曳き摺りまたは舌裂きによりて加重せられ、かくたるのち、死刑に至らしめらるるをう。(後略)」(第124条)
 男性の反逆者には四つ裂き、女性の反逆者は溺死という極刑を定めるだけでなく、刑場までのひきずりや舌抜きを加えるなど、最大級の重罪扱いである。また、アウグスブルグの都市法でも、自白した反逆者は斬首にされ、犯行を否認した場合には謀殺者と同じく車刑が科せられた。
 また、物質的な被害だけの場合は、被害者に対して被害額の二倍の額を、そしてその守護に10ポンド払えば、死刑を免れることができたという。しかし、反逆者に支払い能力がない場合、その被害分だけ財産を盗んだと見なされ、窃盗罪が成立。やはり死刑となったのであった。
 なお、不敬罪も「国家に対する反逆」に含まれた。なぜなら国王や皇帝の身体、精神、名誉、財産は特別に保護されるべきであり、敬意を表さないのは忠実義務の違反と見なされたからだった。ほかに市参事会の名誉を傷つけるような演説、公に掲示された当局の命令をはがす、市壁に損傷を与える、市民権を主張するなども、不敬罪に該当した。そして不敬罪も、他の反逆罪と同じく死刑に処された。が、恩赦によって切断、追放、禁固などの刑に緩和されることもあった。また帝国の有力者への不敬罪には「平和喪失刑」という重い刑が適用された。これは法の保護の打ち切りを意味し、この宣告をうけた人間を殺しても罪に問われないという厳しい刑罰だった。“

d.p317−320
 “中世から近代のヨーロッパでは、車刑や火刑と同じように生身の人間に四つ裂きが行われる場合と、斬首などによってすでに絶命した死体に対して行われる場合があった。
 もちろん、刑罰としては前者のほうが重い。大きな流れとしては、古くは生身の受刑者に行われたが、のちに「お慈悲として」執行に先立って斬首されたあとに、この刑が科せられる傾向にあった。しかし、国王の暗殺など最大級の罪人に対しては「お慈悲」はなく、大きな苦痛が伴うよう受刑者は生きたまま引き裂かれたのだった。
 この恐ろしい刑は、フランスでは国王の暗殺という最も凶悪な犯罪にのみ科せられた。
 オーストリアの<テレジアナ法典>でも、内乱罪にこの刑が科せられ、イングランドでも「血の法典」でこの刑は認められていた。主に誓いに背いた貴族、裏切り者、脱走兵、略奪を行った集団の首謀者など、すなわち内乱罪や元首の殺害罪など国家にとって重大な罪に科せられた罰だった。  生きたまま引き裂く場合とは、すなわち最も重い刑罰の宣告であった。それは次のように行われた。まず受刑者は、群衆の目にさらされるため刑場まで幌のない馬車につないだ橇のような板で引きずられて連行された。ときに群衆から石を投げられることもあった。また途中で刑吏によって灼熱の鉗子で腕や胸などを挟まれるなど、いくつもの刑罰が加重されることが多かった。 刑場は、斬首や車刑などと同様に、他の教会や役所の前など、たくさんの人が集まる広場が選ばれた。ここで受刑者は衣服をはがされ、処刑台に仰向けに寝かされ固定され、身体に布がかけられた。
  しかし、このあとすぐに刑が執行されるのではなかった。台に固定された身体にさまざまな虐待がなされたのだった。焼いた鉗子で腕、胸、ふくらはぎなどを焼かれたり、溶けた鉛、煮えた油、火のついたタール、硫黄などをかけられたり、あるいは身体を切り刻まれたり、その内容は罪の重さに比例して残虐さを極めていく。
 そのあと、受刑者の手足は四頭の馬につながれて、刑吏の助手たちが鞭で馬をそれぞれ反対の方向へ走らせる。このとき単純に引き裂くだけでなく、両足を不自然な方向へ引っ張り脱臼させるために、途中で馬の向きが変えられることもあった。
 やがて四肢が引きちぎられて、受刑者は苦しみのうちに絶命する。 しかし、刑はこれでは終わらなかった。死体がバラバラにされ、両手両足は絞首台のような人目につく場所に吊るされ、頭は杭を打たれてさらされた。また、受刑者の内臓が取り出されることもあった。集まった群衆は死体を奪い合い、切り裂き、焼いて食べたという記録も残っている。
 忌まわしい罪を犯した者の場合、四つ裂きのあと、火刑に処せられることもあった。この刑の宣告をうけたが「お慈悲」をもって事前に斬首が執行されたケースが『ある首斬り役人の日記』に見られる。“


16.拷問の歴史 川端 博監修 河出書房新社 1997年 

a.p36
 ”古代から存在処刑方法で、姦通、親近相姦、同棲愛、獣姦などの性犯罪や、妖術、異端など信仰に反した罪で有罪判決を受けた者は火刑が課された。“

b.p36
 ”「オルレアンの少女」と通称されたジャンヌ=ダルクの火刑が代表的である。 火刑台の形は時代や国によって異なるが、この頃のイギリス、フランス、イタリアなどに多く見られたのは、藁や薪で受刑者が見えなくなるまで覆うというもので、受刑者は火に焼かれるまえに窒息死した。”


17.人間はどこまで残虐になれるかー拷問の世界史 D・P・マニックス 講談社+α文庫1999年 吉田誠一訳

 a.ジャンヌ・ダルクの処刑法p149―150 
 “火あぶりは、中世における拷問死の中でもっとも多く用いられたものであった。スペインの異端審問所の用いた方法はすでに述べたとおりである。もっとも多く用いられた方法は、犠牲者を火刑柱にくくりつけてから、その女(犠牲者はたいがい女だった)のまわりに薪の束をめぐらせるものであったが、ときには、あらかじめ火刑の柱を薪の山で円環状に取り囲み、囚人を入れるために一ヶ所だけすきまをあけておくばあいもあった。
  囚人が中にいれて柱にくくりつけられると、すきまがふさがれる。芸術的効果を高めるために、通常、薪の山のてっぺんに縛り付けられたように描かれているが、ジャンヌ・ダルクはこのように死んだのであった。
  薪の束はうずたかく積み上げられていたので、彼女の死後、群集が黒こげとなった彼女の遺体を見て「魔女」が魔術を用いて逃げはしなかったと納得がゆくように、処刑吏は鉈鎌で薪の山を切り崩さなければならなかった。
  ときおり用いられたもう一つの劇的な方法は、四頭の馬を用いて引き裂く方法であった。それぞれの馬に犠牲者の四肢を一本ずつくくりつけ、それぞれ反対の方向へ馬を駆り立てる。急激にぐいとひっぱらせてから制止しなければならないので、この拷問はいつ果てるともなく長引くことがあった。5,6時間かかることもしばしばあった。ついに、馬に鞭をあてて駆り立てると、まだ生きている胴体を残して、四肢が完全にもぎ取られる。人体の腱は驚くほど強靭なので、処刑吏が犠牲者の筋肉を切断して馬の労力を軽減してやらなけらえればならないこともしばしばあった。” 

b.p164
  “自白を得る手段としての拷問がイギリスにもたらされたのは、1307年フランスのフィリップ四世がローマ教皇の支持を得て、テンプル騎士団(十字軍時代の三大騎士修道会の一つ)に対する攻撃に乗り出したときであった。
 テンプル騎士団は莫大な富を有する組織となっており、フィリップ四世も教皇もその広大な保有地をほしがっていた。拷問を加えられた騎士団員は、「バホメット」なる偶像を崇拝し、魔術を行ない、同性愛にふけっていることを告白した。
  英国においても、テンプル騎士団員に拷問を加えよとの命令が発せられたのだが、拷問吏の数が不足していたので、拷問吏育成のための「速成プログラム」を発足させなければならなかった。
  それ以来、大憲章(マグナ・カルタ)によって禁じられ、慣習法によってつねに不法とされていたのもかかわらず、拷問はしばしば用いられた。
  異端審問所と同じように、星法院は何人ともいえどもみずから手をくだして死にいたらしめることは、けっしてしなかった。そこでは、被告が罪を告白するまで拷問にかけられるだけであって、死刑の宣告をくだすのは一般法廷だった。
 イギリスの拷問吏愛用の道具は、「伸張拷問台(ラック)」だった。これは1447年にエクセター公によってはじめて取り入れられ、「エクセター公の娘」という呼び名で知られた。伸張拷問台は操作しやすく、簡単に持ち運びでき、犠牲者に少しも痕跡を残さないーこれはしばしば重要な政治的要件だった。”

c.p167
 “エリザベスは王位につくと、英国全土を新教に改宗させ、宗教問題を解決しようと思い立った。ちょうどメアリーが英国全土をカトリック教に改宗しようと思い立ったのと同じように。在位中にエリザベスは123人の聖職者を、あるいは絞首刑に、あるいは臓抜き刑に、あるいは四ツ裂きの刑に処した。

d.p168
 “有名なイエスズ会士にして詩人のロバート・サウシュェル神父は、王女に対する大逆罪を自白せよと迫られて、十四回も拷問にかけられた。”

e.p193−194
 “重罪犯は生きたまま火あぶりにされた。この刑罰は1790年までつづいた。英国の法律家ブラックストンは、特に女性にはこれが望ましいとして、次のように指摘している。「体をむきだしにして公衆の面前で切りさいなむのは、風紀上よろしくない。処刑場までひきずっていき、そこで火刑に処すべきである」 ひきずっていくというのは、普通は、馬のしっぽに囚人をくくりつけて処刑場までひきずっていくことだったが、この点について、ブラックストンは次にようにつけ加えている。
 「英国民の慈悲により、刑の軽減が認められ、橇またはすのこ橇の使用が認められている」 英国人はまことに慈悲深い国民だったのである。
 18世紀には、火刑に処せられるのは反逆罪を犯した者に限られていたが、反逆罪には、偽金つくり、異端信仰、夫の毒殺(妻の毒殺はかまわなかった)も含まれていた。法によれば、貨幣偽造は国王への権威に対する挑戦であり、異端は神に対する挑戦であり、妻は夫に対して神に対するのと同じ関係にあった。”


18.乱世の日記   渡辺一夫  大日本雄弁会講談社 1958年 

 p199−200
 “ 「カクシテ、全群衆ニヨツテ、ソノ全裸体ノ姿ハ見ミラルルニイタリ、女性ノ身ニソナワリ得ル或ハ具ワルベキ一切ノ秘密ガ悉ク明ルミニ出サレ、コノ為、人々ノ疑惑ハ除カレタリ。」

 この一文は、わざとジャンヌ・ダルクの着物が燃え切った時に、裸体姿が群衆に見えるようにしたという意味だろうと思いますが、雄々しい働きをしたジャンヌ・ダルクも、結局は、一介の女性にすぎないことを公衆に実証してみせた残忍な行為に外なりません。こうした「実見」がおこなわれてから、ジャンヌ・ダルクの死体は、−既に窒息して死んでいましたがー再び火がかけられたのです。

 「コノ女性ハ、正シキ主君ノ為ニ殉教セルナリト言エル人々モ、各所ニアリタルガ、マタ他ノ者ドモハ、否、シカラズ、コノ女性ヲ味方トシテ止メオキシ者ハ道ヲアヤマリタルナリトモ言エリ。人々ハ、カクノ如ク言イケルガ、イカナル悪行或ハ善行ヲナセルトシテモ、件ノ女性ハコノ日ニ焼カレタルナリ。」“


19.死刑全書完全版 マルタン・モレスティエ 原書房 2002年 吉田晴美、大塚宏子訳

a.p140「下から」焼けるのを見る
 “ジャンヌ・ダルクの火刑台についてしばらく検証してみよう。ジャンヌ・ダルクの処刑がどのような状況で行われたのかほとんど知られていないが、それは歴史上例のないものであった。
 ジャンヌ・ダルクはきわめて不公正な判事たちによって裁かれ、「魔女、背教者、異端者、偶像崇拝者、嘘つき、占い女、神の冒?者」といった罪状で火あぶり刑を宣告されたのち、1431年5月に、ルーアンのヴィユー・マルシェ広場に連れてこられた。   そこには町の正式な死刑執行吏であるシモン・デリが作った特別な火刑台が用意されていた。その火刑台は漆喰と石の基礎を持つ巨大な舞台の上に組み立てられ、かなりの高さまで薪が積み上げられていた。それは、はるか遠くからでも炎が見えるようにするためではなく、のちに理由を説明するが、すべての者が下から受刑者を見ることができるようにするためであった。”

b.p140−141
 “処刑には非常に長い時間がかかった。作者不詳の「フランスの司法と裁判」は次のように伝えている。
 「火が英雄的な娘を四方八方から包み、その体に到達して、窒息はしただろうがまだ燃えつきていないと思えるころ、「民衆の疑いをはらすため」炎を上げる薪の一部が引き出された。「群衆が燃えさかる火のまんなかに、柱の縛られた死体をしっかり見とどけると」、執行人は再び火の勢いを強めた・・・・」 このように処刑を一時中断してまで残酷な措置がとられたのは、火刑の歴史においてもこのとき一度きりだったが、イギリス人はそうする必要があると考えた。ジャンヌ・ダルクは妖術を使ったかどで裁かれた。火は彼女になんら影響を与えないだろうといううわさが民衆のあいだに流れていたので、イギリス人は彼女が火刑台から無傷で降りることなどできないことを示そうとしたのだった。”

c.p141
 “この受刑者が処女であることは、それを確かめる役目を負った産婆たちによってはっきり確認されたといわれるが、その一方で、裁判所が「確たることとして」、彼女は悪魔と通じたと断言しており、処女ではそのようなことはありえない。
 そこで、「パリの市民」の言葉を信じるなら、べドフォード公はジャンヌ・ダルクの性器が燃えるのを、つまり悪魔とたしかに関係したことを民衆に見せようと考えついた。それで火刑台を通常より高くし、すでに指摘した通り、だれでも下から見ることができるようにしたのである。
 「パリの市民」は次のように書いている。「公はこう考えられた。最初に服が燃え、死刑囚はずっと裸のままでいるから、『民衆の疑いははれるだろう。火をしばらく遠ざければ、だれもが娘を見ることができる。そうすれば、女が持つことができる、いや女が持っているはずのすべての秘密を見ることができるだろう。そうして淫らなところを民衆にしかと見せたら、執行人はこの哀れな人間の屑を再び炎上させるのだ』」”

d.四ツ裂き刑p238
 “六世紀のゴート族の歴史家ヨルダネスによると、アマラリク王は脱走兵の妻を荒馬で四ツ裂きにさせたという。それから一世紀ほどのちのこと、アウストラシアの女王ブリュヌオーもしくはブリューネヒルトは613年に、80歳の高齢にもかかわらず、戦いを交えたクロタール二世の命令により同じ刑に処された。
 しかし歴史家のなかには彼女がそのような最後をとげたことを否定するものもあり、一頭の荒馬の尻に縛りつけられずたずたにされたという説を唱えている。中世ヨーロッパでは、誓いに背いた貴族、裏切り者、脱走兵、掠奪を行った軍団の隊長が四ツ裂きに処せられた。
 この刑罰はカール五世によって、神聖ローマ帝国で用いられていたカロリナ法典に正式に導入され、裏切り者と脱走兵に科されていた。イギリスでも、四ツ裂きは19世紀まで用いられたかの有名な「血の法典」に記載されていた。ロシアでは訂正時代の法典にこの刑罰が定められており、ニコライ一世の治世下に、「デカプリスト」つまり「一二月党員」と呼ばれた革命派の首領たちがこの刑を宣告された。
 しかし皇帝は、四ツ裂きは野蛮であると考え、かわりに絞首刑に処した。フランスでは四ツ裂きはもっとも恐ろしい死刑とみなされ、実際に最もおぞましい犯罪とされていた君主殺しのみに科された。歴史家のアンクティルによると、ルイ11世は、シャルル無謀公の命令で国王を毒殺しようとしたと認められた男を四ツ裂きにさせた。いわゆる「大逆罪」は君主だけではなく王族にも適用された。”

e.p243
 “高等法院では、1600年にニコル・ミニョンのテロがおきたのち、法的手続きの問題が生じた。「慎み」をもって、女性を四ツ裂きにできるだろうか? 何度も検討を重ねたが、答えは否定的であった。彼女は絞首刑にされた。”

f.p150
 “イギリスでは1790年まで、反逆罪は四ツ裂きで罰せられた。女性の場合は四ツ裂きはむごすぎると考えられ、かわりに火刑に処された。火刑はフラバラ卿が主張していた通り、「ただの絞首刑より見ているものにより強い印象を与える刑罰である」。”

g.絞首刑P294
 “ヨーロッパの至る所で何世紀にもわたって、平民、下層民が絞首刑の対象とされてきたのに対し、貴族には斬首刑が認められてきた。フランスの古い諺に「貴族は斧、百姓には綱」とある。貴族の名誉を傷つけた場合には、その地位や生まれに見合った方法で処刑されてから、死体を吊り下げた。”

h.p91
 ”フランスでは中世を通じて、女性は「慎み」を理由に絞首刑には処せられなかった。女性が縄の先で「身をくねらせ」たり、目のまえで足を動かしたりするのを見るのは不作法とされたのである。そのため女性は生き埋めにされたのである。犯罪や刑罰に関する文書を集めた古文書館には、この刑罰を宣告した裁判記録がいくつも保存されている。
 一つだけあげると、コレット・ド・サン=ジェルマンという女が役人に盗みをはたらいたかどで、1420年にアブヴィルで生き埋めにされている。膝のところでスカートを体に巻きつけておくことを条件に、女性が絞首刑を受けるようになったのは、1449年以降のことである。宗教戦争によって、プロテスタントであれカトリックであれ、この種の略式処刑がさかんにおこなわれるようになったのである。”


20.インターコース アンデレア・ドウォーキン 青土社 1989年 寺沢みずほ訳

a.p159
 “5月9日、彼女は拷問にかけると脅されたー拷問部屋に連れて行かれ、拷問の諸道具を見せられた。5月12日、裁判官たちは、彼女を拷問にかけるか否かを非公式に協議した。彼らは、拷問は「現時点では適切ではない(21)」と決議した。5月19日、ジャンヌは、パリ大学の偉い学者たち、神学者たちから、異端者として有罪宣告された。そして、今やパリ大学によって正式に認定された、彼女に対する12条の告発文が、5月23日にジャンヌに対して読み上げられた。
”(21)The Trial of Joan of Arc Being the Verbatim Report of the Proceedings from the Orleans 
 Manuscript, trans. W.S.Scott(Westport, Conn:Associated Booksellers,1956),p.153   

b.p170
 ”男の欲望は、女を女として性的に認識することであり、また性交は、彼女は現実に女なのだから、自分は彼女を使用できるのだという、経験主義的な証明なのである。
 このイデオロギーによれば、欲望のないところに美も存在しないことになる。だから、バーナード・ショーはジャンヌについて次のように書くことができた。

 ジャンヌに関する本で、彼女を美女として記述するところから始まるものは、どれも即座にロマンスとして分類してかまわない。ジャンヌの仲間たちの中に、村であれ王宮であれ兵舎であれ、また、彼らが彼女を賞めることで王の機嫌をとろうと懸命になっている時でさえも、彼女を美人だと言った者は一人もいなかった。
 この問題についてほのめかしている男たちは皆、次のことを非常に強調しているのだー彼女が若さの絶頂期にあることを考慮すれば、ありえないほど奇妙に思われるかもしれないが、彼女は魅力的でなかった。だが、さりとて、醜くぶざまで、ぶかっこうだったわけでもなく、不愉快な人物でもなかった。
 (38)” (38) Bernard Show, Saint Joan (Baltimore,Md.:Perican Books, 1966 p11)  

c.p171
 “またアラルソン公爵はこう述べた。 「軍隊では、時として、私もジャンヌや兵士たちと一緒に、皆わらにくるまって(a la paollade)寝ることがありました。そんな折、彼女の寝支度を見ていますし、美しい乳房を見たこともあります。しかし、決して彼女に対して肉欲は感じませんでした(43)”
 (43)Regine Pernoud , Joan of Arc, trans. Edward Hyams(New York: Stein &  Day, Publishmers, 1966),p.63  

d.p181−182
 “体を守るために再び男の服を着た。おそらく、この時彼女は死にたかったのだろう。いや、それよりも男の服を着ることが、即座に死刑につながることを彼女は理解していなかったし、それを説明されても、もはや死刑など意に介していなかったという方が、当たっていると思われる(そして今日に至るまで非難され続けているように、男の服を独房に残しておいた兵士なり審問官なりの罠にかかったことも、明らかである)。
 彼女は強姦されたことは決して認めなかった。強姦未遂を認めることだけでも、彼女には充分すぎるほどの屈辱であったし、また、もし裁判官にその気があったとすれば、それだけでも彼女を助け出す十分な理由になったからである。
 さらに、処女であることは、この時点でもなお、彼女が慈悲を求められる唯一のチャンスだったからである。いったん強姦されてしまえば、彼女は何ものでもなくなり、ただただ低劣な「普通のレベルの女」でしかなくなるが、それこそがまさに宗教裁判所の望むところだった。女である英雄的離脱を達成した後で、彼女は、強姦と火あぶりで二回女にされた。
 裁判官は、彼女が再度男の服を着たことで死刑に処すという判決を言いわたし、つづけて「犬が自分の吐瀉物のところに戻るのにも似て、おまえは再び堕落した。こう述べなくてはならぬのは、神の代理人の我々にとって悲しみの極みである」と述べた。彼女はこの時再び、聖カタリナと聖マルガリータ(二人とも強姦に抵抗して死んだ殉教者)の声を同時に聞いた。
 裁判官はその声を悪魔のものと見なし、ジャンヌに「異端」「汚染された羊」の烙印を押した。死刑で、彼女は長く苦しまずに速やかに死んだ。そして彼女が絶命して、彼女の衣服が焼け落ちた時、「火が取り除かれ、人びとの心からあらゆる疑いを払うために、彼女の裸体とことごとくの女の秘部が、人びとの目の前にさらされた・・・・」。
 このように、絶命の後に、性器を含めた彼女の裸体が人びとの目にさらされ、彼女は三度女になったのである。それから火が再びつけられ、彼女は「間もなく焼き崩れて、肉も骨も灰になった」。”


 21.ジャンヌ・ダルク処刑裁判 レジーヌ・ペレヌー 白水社 2002年 高山一彦編訳

a.3月3日p116
 
同女に似せた絵や肖像画を見たり、作られたりしたことはないか、と問うと、アラスで一人のスコットランド人が肖像画を持っているのを見た。それは自分の武装した肖像で、書翰を国王に差し出しながら膝まずいている姿を描いたものであった、と答えた。その他には自分に似た絵や肖像画を見たこともないし、作らせたこともない、と述べた(7)。 
 編訳者の注釈3月3日 註7 ジャンヌの肖像 p375

 
この箇所のジャンヌの供述にもかかわらず、十五世紀に描かれたジャンヌの肖像で現存するものは、裏面にシャルル・ドルレアンの詩が記載されている羊皮紙断片に記された、同世紀と推定される精密画だけである。(本訳書表紙カバー参照)
   しかし、少女への賛美を忘れないオルレアンでは、十六世紀に入って幾つかの肖像や彫刻がつくられたらしい。フランス王国における新旧両教徒の動乱期に、聖者崇拝を弾劾する新教徒の手で破壊されたため、オルレアン市の吏員達(エシュヴァン=echivins)は動乱の収まる十六世紀の末に、某画家に依頼してジャンヌの肖像画を描かせた。
 羽飾りのついた帽子に婦人服を着た美しい婦人の肖像画は「エシュヴァンの肖像」と呼ばれ、以後十九世紀の初めまで、版画や油彩画に描かれるジャンヌは
エシュヴァン系以外のものは見当たらない。これが凛々しい少女戦士、あるいは神に祈る乙女の姿に描かれ、刻まれるようになるのは、キシュラの資料集が出版されて以後、七月王政の国王オルレアン公ルイ・フィリップの王女マリー・ドルレアンの彫刻が世に出て以後のことである。
 なお或る人は、彫像に限っても、公共の場所に置かれたジャンヌの像は二十世紀に入る時点で二万に達すると数えている。

 

                                                    16世紀にオルレアンの役人達が注文したジャンヌの肖像画

 

b.3月17日p165

 “同女がミサに与りにゆけるよう提供された女性の服について、同女の申し立てを訊ねると、次のように答えた。女性の服については、わが主の思し召しにかなわぬ限り着るわけには行かない。もしこのまま処刑場に曳き出され、そこで脱がされるようなことになるなら、女性の長い下着と頭に被る頭巾を与えてくれるよう、教会の偉い方達にお願いする。
 また、わが主が自分にさせようとしたことを否認するくらいなら、死ぬほうがましであり、わが主は自分が憐れな状態におちるようなことにはしておかれないし、自分は奇蹟によって間もなく救い出されるであろうと固く信じている、と。
 同女が神の命令で男の服を着ているというなら、どうして死ぬ間際になって女の下着を要求するのかと問うと、「長いということが私には大切なことです(1)」と答えた。”
 編訳者の注釈3月17日 註1
 「服が長いといことが私には大切・・・」 前に注記したように、十五世紀の女性の衣服は、階層により素材に差はあっても極めて長く、逆に男性の上衣は一般に非常に短かった。

c.5月12日p285
 “余
前記司教は、前回水曜日に行なわれたところを改めて報告し、今後とるべき処置、とりわけジャンヌを拷問にかけることの適否に関し、陪席者の意見を求めた。
[最初に前記
ウラール・ルーセル師は、今日まで完全に執行された裁判に対して中傷が行なわれることを危惧する故、不適切である、と述べた。
ニコラ・ド・バァンドレス師 拷問の執行は、差し当たって不適切。 

アンドレ・マルグリー師  同じく、差し当たっては不適切。                                          ギヨーム・エラール師  拷問にかけないでも、被告に対する非難の材料は十分にある。

ロベール・ル・バルビエ師 不適切である。ただし再度教会への服従を勧告したうえで被告が拒否した場合、次の措置を考えるべきである。

ドニ・ファスティネル師 不適切である。     

オーベール・モレル師 被告の虚言を述べたことについて真実を知るため、拷問にかけるのは適切である。

トマ・ド・クールセル師 適切である。教会に服従するか否か、さらに訊問の余地がある。

ニコラ・クープケース師 不適切である。さらに一度教会の決定への服従を勧告すること。
ジャン・ル・ドゥー師   前者と同じ                                          

イザンバール・ド・ラ・ピエール修道士 前者と同じ。地上の教会への服従を最後にもう一度勧告すること。

ニコラ・ロアズルール師  被告の霊の救済にためには拷問にかけるのは適切と思う。ただし前者の意見に準ずる。       ギヨーム・エートン師  (討議の最中に入廷。)被告を拷問にかける必要なし。                

異端検察官代理ジャン・ル・メートル師  地上の教会に服従するか否かを、もう一度ただす必要がある。*]

 各位の意見を聴取し、ジャンヌが前回水曜日に答弁したところを考慮し、同女の霊、意志、ならびに状況を考慮したうえ、余は以上の件につき同女を拷問にかけることは必要ではなく、且つ不適切であること、ならびに余が今後とるべき処置をさらに進めること、決定した。”
 訳注部分  “以上の〔 〕内は『ラテン語記録』には見当たらず、法廷で記されたフランス語記録を写したものと見なされる『ユルフェ写本』に見出されるものである。明瞭な拷問賛成者三名中の一人が『ラテン語記録』の編者トマ・ド・クールセルであることがこの箇所の削除と関係ないとはいえないであろう。(本訳書の解説20頁参照)。各陪席者の意見のうち二人目のニコラ・ド・バァンドレス以下の意見は要旨のみの訳にとどめた。

解説p20
 “最後に、以上の『フランス語原本』系ニ写本と裁判所が後で編纂した『ラテン語記録』間の相違について触れておきたい。結論からいえば、ラテン語への変換はほぼ正確に行なわれていて、形式のうえでも大きな変更はない。
 だが、ジャンヌを悔い改めさせるために拷問にかける討議で、編纂責任者のトマ・ド・クールセルが少数タカ派的意見を述べているにもかかわらず、その部分がラテン語記録では削除されているとか、其の他僅かにせよ微妙な表現の変更等を考え合わせる時、全カトリック信徒に語りかける形式を整えた『ラテン語記録』編纂の意図の中には、「正統な信仰の擁護」と同時に「当裁判の正義」を謳う特殊な意図を感じざるをえない。
 敢えていうなら『処刑裁判記録』とは背後に政治的意図を秘めたかつてのジャンヌ裁判の”弁明の書“だとも言えるのではないか。これが、長い年月『裁判記録』の諸校訂版や関係諸文献に接し続けた筆者の実感である。”

d.編訳者の注釈5月30日 註5 ジャンヌの最後について p391
 
ヴィル・マルシュ広場におけるジャンヌ火刑の情況については、この場に立ち会っていた審理陪席者たちの「復権裁判」における証言でかなりな程度に推定できる。
 諸証人の一致している証言は、火刑台からジャンヌが十字架を求め、付き添いの修道士がサン・ソヴール教会から運んだ十字架を少女の目の前にかざしてやったこと、炎の中で息絶えるジャンヌが最後に何度か「イエズス様」と叫んだことである。
 立ちのぼる煙の中から鳩がフランス国王のいる方向に飛びさったとか、死刑執行人が「俺は聖女を焼き殺してしまった。もう駄目だ。」と泣き崩れたとかいう証言となると、既にかなりな誇張が感じられるし、焼け跡の灰の中の心臓だけが残って脈うち続けていたという証言に至っては、ジャンヌの死後二十五年に既に生まれていた聖女的伝説というべきであろう。
 なお、ジャンヌにまつわる魔力や、逆に大衆により聖者視される危険を怖れてのことであろうか。遺骸の灰は悉くセーヌ川に投げ捨てられたという点でも証言は一致している。従ってジャンヌの身につけた遺物は現存せず、またその墓もない。
 本裁判記録を含めて同時代人の手による記録史料以外に、ジャンヌの存在にからむ
遺物としては、ジャンヌ自筆の署名をもつ口述書簡三通だけである。(口絵参照。) かつてキシュラは、ジャンヌのリオン市民宛て書簡に付された朱色の蝋の封印に、ジャンヌのものと推定できる一個の指跡、一本の濃い髪の毛を発見してことを報告している。が、この封印自体が欠け落ちて現在ではもうない。


 1930年代以降、フランスのジャンヌ賛美者の一部に根強い「ジャンヌ私生児論」の分派 「ジャンヌ生存論者 surviviste」(王女ジャンヌは火刑に処されたのではなく、密かに釈放されてロレーヌの某老領主の妻として生涯を終えたと主張する人々)は、火刑に処されたのは替玉で、ルーアンに捕われていた呪術を弄ぶ女だったとし、その論拠を某年代記の「火刑台に上がるジャンヌは被り物を深くかぶせられた」という記述に求め、被処刑者がジャンヌだった確証がないことを強調するが、この年代記作者自身は処刑の場に居合わせておらず、右の推定は論拠すら確かでない。(「ジャンヌ生存論」については拙著『ジャンヌ・ダルクの神話』参照)

f.p398−400関係参考文献(抜粋)[作家達による文学的著作等]
 (「ジャンヌ私生児論」「同生存論」とその反論―近著のみあげる)

Pierre ds Sermoise, Les Missions Secretes de Jehanne la Pucelle paris, 1970.

Etienne Weill−Raynal, Le Double Secret de Jehanne la Pucelle paris, 1972.

右の緒論に対する反論 

Yann Grandeau, Jeanne insultee Paris,1973


[邦訳・邦語文献、文学的作品]

ジャンヌ・ダルク

1951年 岩波書店

A・カルメット著、川俣訳

伝統的な国民的ジャンヌ賛美を濃く反映する中世史家の著。

ジャンヌ・ダルク

1975年 清水書店

堀越孝一

―同時代の政治情勢の分析面で独自な記述に富む。

ジャンヌ・ダルクの神話

1982年 講談社

高山一彦

ジャンヌの死後今日まで変遷してきた様々なジャンヌ観の紹介とその根拠の検討。

ジャンヌ・ダルク展図録 

1982年サンケイ新聞社 

高山一彦監修

同年「ジャンヌ・ダルク研究センター」主催、「東京ジャンヌ展」出品諸資料の解説カタログ。

オルレアンの乙女 

 

 シラー

  明治の半ばから何度も邦訳されている。

聖女ジャンダーク

 新潮社 1963年

 バーナード・ショー
福田・松原訳

 

ひばり

白水社 1967年

アヌイ(鈴木訳) 

 

ジャンヌ・ダルクの愛の神秘

主婦の友社 1978年

Ch・ペギー(島朝夫訳)

 

オルレアンの解放

白水社 1986年

R・ペルヌー著、高山訳

 

ジャンヌ・ダルクの実像

白水社 1995年

R・ペルヌー著、高山訳

 

ジャンヌ・ダルク

東京書籍 1992年

R・ペルヌー、M・V・クラン共著、福本直之訳

<ジャンヌ・ダルク事典>とも言える、ジャンヌ関係万般にわたる大冊の全訳である。

 

 なお邦語文献に関して、明治時代に遡るとジャンヌをテーマにした作品は以外に多い。
  国会図書館の所蔵するものだけでも単行本十数点を数えうる。何れも啓蒙を目的とする物語以上のものではないが。刊行時の社会的雰囲気や著者の立場を強く反映して、

(イ)ある時は未知の西洋英雄の一人として賛美され、
(ロ)ある時は女性運動のチャンピオンに取り立てられ

(ハ)ある時は良妻賢母主義の流れに取り込まれ、

(ニ)またある時は、シラーの「オルレアンの乙女」が大名のお家騒動の渦中に活躍する勧善懲悪の女傑に翻案される

など、ジャンヌの変容ぶりは興味をそそるものがある。

 以下に(イ)〜(ニ)それぞれを代表する著作若干をあげておく。

(イ) 河津祐之・山内徳三郎『仏朗西国女傑如安之伝』 英蘭堂 明治八年。

(ロ) 宮崎湖処子『オルレアンの少女』 民友社 明治三十一年。

(ハ)女子之勁林園『ジャンダーク』 東洋社 明治三十四年。

(ニ)わらび山人『勇ましき少女』(原名「オルレアンの少女」) 岡村書店 明治四十四年。 


 22.ジャンヌ・ダルクとその時代 清水正晴 現代書館 1994年

 a.p10
 
第二の説は、この幼児がシャルル六世の私生児だとするものである。
 相手の女性はオデット・ド・シャンディヴェールという名の、宮廷の馬子の娘で、イザボーも認めた愛人だった。彼女は、しばしば狂気の発作をくりかえすようになった王によくつくしたので、王も彼女を深く愛するようになったという。
 ふたりのあいだには娘が二人あったといわれ、長女マルグリットは1407年に生まれて、王の認知を受け、ピカルディの騎士アルバダンヌに嫁いでいるが、もうひとりの娘については、はっきりとしてことがわかっていない。
 この二番目の娘がひそかにジャック家に運びこまれて養育され、ジャンヌとなったのだというのである。
 両説ともほとんど滑稽無稽というしかないものだが、ジャンヌ王女説がしきりにくりかえされるのは、オルレアン解放という偉業をなしとげたのが下級階層の娘にすぎないことをこころよく思わない王党派歴史家たちに、彼女の出自をすこしでも王家の周辺に置きたいという願望があることのあらわれではないかと思われる。

b.p190−191
 
奇妙なことに、当時の年代記などで、ジャンヌの顔かたちについて記述しているものは、ほとんど見当たらない。十五世紀のフランスでは、有名人の肖像を描くことが流行していて、その表現方法も繊細かつ多彩となり、王族や領主、貴婦人たちの正確な肖像画が数多く残されているのだが、どうしてかジャンヌを描いたものはほとんど残っていない。
 そのなかでわずかに一枚だけ、注目すべき精密画が残されている。現在パリ国立古文書館に所蔵されている「旗印を持つジャンヌ・ダルク」と呼ばれる作品である。
 これは豪華に装飾をほどこされた写本に挿入されていたものが、なんらかの理由で切りはなされて保存されているものだといわれ、元の写本がどのようであったか不明だが、一説によると十五世紀に制作されたシャルル・ドルレアンの詩集だった可能性があるという。
 しかし、シャルル・ドルレアンは、自領の首府の奪回の恩人であるはずのジャンヌについてふれることはなかったというから、詩集の挿画としての必然性はとぼしい。しかし、ここで描かれたジャンヌは、鎖帷子を着たうえに甲冑をつけ、右手に剣、左手に旗幟を持つ男装姿で直立している。
 左横顔をみせた彼女の表情はきりりとしまった理知的なうつくしさにあふれていて、とりわけすみきったおおきな瞳が印象的である。細部にわたってかなり正確に表現されていることから、作者はオルレアン入城当時のジャンヌを実際に見ていたのではないかと思われ、現在この肖像画が、いちばん本人に近いのではないかといわれている。

c.ランス:p208
 
しかし、これまでは得意だったはずの野戦で手ひどい打撃を受けることになったイギリス軍の士気は極端に低下して、ほとんど戦闘意欲を喪失してしまい、各地の守備隊はつぎつぎと王軍に降伏するありさまだった。
 神の召使だというジャンヌへのおそれも、イギリス軍をうちのめしていた。
 ベドフォード公は本国への報告書のなかに「処女を名のる悪魔の弟子が出現するまでは、すべては順調だった」記している。

d.ランス:p214
 
式典はほぼ五時間にわたってとりおこなわれ、午後二時頃に終了した。この瞬間から、ブルージュの王はまぎれもなく、フランス王国のただひとりの国王であった。
 これにより、イギリス国王がフランス国王を兼ねることを協定したトロア条約は、神と伝統の名によって否認されたのである。
 宗教がすなわち法であった時代では、このことのおよぼす政治的効果は絶大であった。イギリス国王ヘンリー六世は依然としてフランス国王を自称していたものの、彼は当時わずか七歳であり、しかもロンドンを離れたことはなかったのである。
 イギリス側は犯した誤りに気がついて、少年王を二年後にパリへ送りこんで聖別させるが、すでにおそきに失していた。
 イギリスの支配する地域にあっても、禁令を犯してシャルルを国王と呼ぶようになっていた。「神の恩寵によって国王、というきまり文句が、かつてこれほど適切にもちいられたことはなかった」(ボシュア)のである。 聖別式がとりおこなわれるあいだ、ジャンヌがどこにあって、どのように行動していたのかについては、正確なことはなにひとつわかっていない。当然大聖堂の内陣にあって盛儀を目のあたりにしていたとするのが一般的な見方だが、彼女が列席していたことを確認するものはないのである。

 f.コンピエーニュ:p241
 
国王はジャンヌの功績をたたえて貴族に列し、デュ・リスdu Lysの姓を下賜するとともに、百合の花と王冠と抜身の剣を組み合わせた紋章もあわせてあたえた。
 リスとは百合のことであり、百合はフランス王家の紋章である。シャルルとしては、最大級の感謝の表現であった。ジャンヌの両親と兄たちも同時に貴族に列せられた。そしてその家系は、男子系だけでなく、フィリップ美男王の時代から慣習化している女系による爵位の継承も可能ということまで付記されていた。

 

g.コンピエーニュ:p242
 
ジャンヌ自身は、このような栄誉を懇請したのは兄たちであって、自分ではないと断言しているし、下賜された称号や家紋についてもまったく無関心で、積極的にこれらを使用した形跡はみられない。
 だが、なぜこの十二月という時点ににわかに授爵がおこなわれたのかについては疑問が残る。ジャンヌはラ・シャリテの戦場から逃げ帰った直後であり、宮廷は作成の失敗に深刻なショックをうけ、その善後策に追われていたし、ジャンヌは敗軍の将としてその責任を問われる立場にあった。
 彼女が栄誉をうけるのにいちばんふさわしいのは、七月のランスでの戴冠式の直後だったはずである。不利な立場にある現在の彼女にたいして、あえて授爵にふみきっているのは、なにか別の意図の介在を感じさせる。
 とにかく為政者は、それまで重用してきた人物をしりぞけようとするとき、表面上はあらたな栄誉をあたえて、敬して遠ざけるという方法をとることを好むものである。シャルル七世はジャンヌを遠ざけようとした。

 

h.ルーアン:p340−341
 “ジャンヌの身につけている衣服が燃えつきるころに、死刑執行人は一時火をジャンヌから遠ざけた。
 カクシテ、全群集ニヨッテ、ソノ全裸体ノ姿ハ身ラレルコトニナリ、女性ノ身ニ具ワリ得ル或イハ具ワルベキ一切ノ秘密ガ悉ク明ルミニ出サレ、ソノタメ、人々ノ疑惑ハ除カレタノデアル (『パリ一市民の日記』渡辺一夫訳)
 死刑執行人が見物人にたいして、ジャンヌの性別を確認させるためにとった措置は、ひとびとに強烈な印象をあたえたと思われ、実際にこの火刑を目撃していないパリの一市民が、日記にこのように記録するほどのなまなましい現実感とともに、パリにまでつたえられたのである。
 執行人は四時間のあいだ、薪をつぎたし、風をおくる作業をつづけた。すっかり焼きつくされたあと、灰はワォーリック伯の命令で、拾いあつめられてセーヌ川に運ばれ、投げ棄てられた。民衆が聖遺物として礼拝の対象とすることを恐れたからである。”  


 23.中世の秋  上 ホイジンガ 中公文庫  1967年  堀越孝一訳

a.p136
 
十五世紀フランスに成長し始めた国家的、軍事的英雄崇拝は、なによりもまず、勇敢で打算的なブルターニュの軍人という人間像に対象をみいだした。当時に人々の考えでは、ジャンヌ、ドンレミ村出身の百姓出身の娘より、かの女とともに、あるいはかの女の敵として戦った将官のほうがはるかに重要な人々であり、はるかに栄誉をうけるにふさわしい地位を占めていたのである。ジャンヌについて語る人の多くは、感動したからではない、敬意もまた、払われていない。むしろ、好奇心からであった。

b.P337
 
もちろん、例外ということはある。もっともはっきりしている例は、大天使ミカエル、聖女カトリーヌ、聖女マルグリットの三人が、ジャンヌ・ダルクにあらわれて、かの女に助言した、という聖者幻視のケースだが、どうも、ジャンヌは、もともとそうはっきりとした聖者幻視とはいえない自分の経験を、しだいしだいに、そういうかたちで解釈するようになった、という感じが強いのであって、わたしは、かの女がそう考えるようになったのは、裁判の審問の過程においてだったのではないか、と思っている。
 最初、かの女は「おつげ コンセイユ」とだけ語っていたのであって、聖者の名は、口にしていなかった。のちになって、ようやく、かの女は、特定の聖者と結びつけて、「おつげ」のことをいうようになったのである。
 


 24.ジャンヌ・ダルク 失われた真実 レオン・ドゥニ ハート出版 2003年 浅岡夢二訳

p5-7
 
ミシュレ、ワロン、キシュラ、アンリ・マルタン、シメオン・リュス、ジョセフ・ファーブル、ヴァレ・ド・ヴィリヴィル、ラネリ・ダルクといった19世紀の偉大な歴史家たちは、ジャンヌ・ダルクを褒め称え、彼女を天才的ヒロイン、国家的な救世主とみなしてきた。
 ジャンヌに対する批判的見解が聞かれるようになったのは、20世紀に入ってからである。時に、その批判は非情に激しいものとなった。大学教授のタマラはさすがに、ある種の文書にみられるように、ジャンヌを「ふしだらな女」とまで呼ぶことはしなかった。
 『ジャンヌ・ダルク 歴史と伝説』の中で彼の批判は、それなりの節度を保っており、礼を失してはいない。彼の視点は唯物主義的であるに過ぎないのである。
 彼はこう言っている。「ジャンヌは天才ではなく、ただの神経症の少女にすぎない。ゆえに、ジャンヌは単なる良心の声を聖人たちの声と取り違えたのだ、という批判すら我々は行わない」。
 しかし、フランスじゅうで行われた講演において、彼はもっと過激なことを言っている。教育連盟主催でツールにおいて行われた1905年4月29日の講演会において、タラマは、自分の先生であるロバン教授の見解を引用している。
 それは、ジャンヌは実在の人物ではなく、ジャンヌをめぐる話は神話に過ぎない、というものであった。タラマ自身は、多少ぎこちない様子ではあったが、ジャンヌが実在することは認めた。
 しかし、ジャンヌをやたら褒めちぎる人々が言及するような事実はなかった、としたのである。彼は、ジャンヌの役割を矮小化することに巧みであったが、ジャンヌを罵倒することによって、みずからを貶めるようなまねはしなかった。
 ジャンヌ自身の働きによって成しとげられたことは、まったく、あるいはほんの少ししかなかった、と主張したのである。たとえば、オルレアンが解放されたのは、ジャンヌの働きによるものではなく、市民の活躍によるものである、というように。
 アンリ・ベランジュやその他の作家もだいたい同じ見解をとる。そして、公教育においてもほぼ同様の見解が採用されている。
 小学校の教科書では、ジャンヌに関する叙述から霊的な要素を含む部分が注意深く除かれているのだ。彼女が聞いたとされる「声」は、常に単なる「良心の声」とされているのである。
 


 25.図説 世界の発禁本 ヨーロッパ古典編 青木 日出夫編 河出書房新社 1999年

 ヴォルテール「オルレアンの乙女」 1755年、1762年:p81
 “フランス革命に大きな影響を与えた、思想家、劇作家、風刺家と才気に溢れたヴォルテール(1964−1778)はフランス王とジャンヌ・ダルクのパロディ化した艶詩を発表し、物議をかもした。まことに奇想天外な話で、フランス王太子が美人にうつつを抜かしている間に、イギリス軍に城を囲まれてしまう。そこへジャンヌ・ダルクが現われ、危機を救うことになる。
 処女のジャンヌ・ダルクは何度も貞操の危機が訪れるが、危ないところで逃れ、最後には、天馬と結ばれる。人獣交歓、サドマゾ、同性愛と、さまざまな性行為と同時に神や地獄が登場して一大ページェントを繰り広げるのである。” 

最後は天馬と結ばれる。
ピエール・デュフロ画18世紀。


 26.ヘンリー六世 ウィリアム・シェークスピア 白水社 1983年 小田島雄志訳

 

a.P44-45第一部第1幕第5場 オルレアン市の前
 
ふたたび急を告げるラッパの音。トールボットが皇太子を追って登場し、退場する。乙女ジャンヌがイギリス軍を追って登場し、退場する。トールボットふたたび登場。

トールボット:どこへ失せた、おれの勇気は、おれの力は? わが軍は敗戦し、おれには引きとめるすべもない。鎧をつけた女一人のために追いまくられる一方だ。      

乙女ジャンヌ登場

トールボット:おお、きたな。さあ、おまえ相手に一騎打ちだ、悪魔だろうが悪魔のおふくろだろうが容赦はせぬ、おまえの血を流してやるからな、魔女め、そしておまえの魂を主人の魔王のもとへすぐに送り返してやる。
乙女:かかってらっしゃい、私相手に恥をかきたくなければ。

二人は戦う。
トールボット:畜生、地獄の手先がこんほど手ごわいとは! 勇気をふりしぼったあまりこの胸が張り裂け、この両腕が肩からもぎ離されようとかまうものか、おれは断じてこの傲慢な淫売をうちころしてやる。
 二人は再び戦う。
乙女:ここまでにしましょう、あんたの最後のときはまだきていないわ。私、オルレアンに食糧をはこばなければ。“

b.p175-176第一部第5幕第4場 アンジューにあるヨーク公の陣営 

ヨーク:よしよし。さあ、女を刑場にひったてろ。 

ウォリック:そして、いいか、小娘だからといって薪を惜しむことはないぞ、山のように積んでやれ。縛りつける柱には脂をたっぷりとぶっかけておけ、それだけ女の苦しむが短くすむだろう。

乙女:なんとしてもその非情な心を変えないのか?  ではやむをえまい。

ジャンヌはその弱みをあかし、法律が保証する特権に訴えることにしよう。

実は、私は身ごもっているのだ、いくらおまえたちが残忍な人殺しだとしても、おなかの子まで殺すことは許されぬ、この私をどんなに残虐な殺しかたをするにせよ。

ヨーク:これは驚いた! 子をはらんだ聖処女か!  
 ウォリック: これこそおまえのなした最高の奇蹟だ! きびしく戒律を守った結果がこうなるのか?                  ヨーク:こいつはシャルルとよろしくやっていたからな。最後の口実がこうなるだろうと想像しておった。
ウォリック:甘く見るなよ、私生児など生かしておくものか、特にシャルルが生ませた子となればなおさらだ。
乙女:それは誤解だ、おなかの子はシャルルの子ではない、アランソンだったのだ、私の愛をかち得たのは。  
ヨーク:アランソン、あの悪名高いマキャヴェリ野郎か!あいつの子なら一千のいのちがあっても生かしておけぬ。
乙女:いや、悪かった、いま言ったのは嘘だ、シャルルでもなく、アランソン公爵でもなく、ナポリ王レニエだったのだ、私が心を許したのは。 
ウォリック:女房もちか! こいつはますますがまんができぬ。
ヨーク: なるほど、たいした小娘だ! 相手が多すぎて、だれに責任をおしつければいいのか、自分でもわからんのだ。
ウォリック:それこそ淫乱放逸であったなによりの証拠だ。
ヨーク: それなのに純潔な処女だと!やい、売女、おまえの自白でおまえの子供も死刑と決まった、いまさら嘆願してもむだだぞ、どうぜ聞く耳もたぬ。 
乙女:では連れて行け、この呪いのことばが置きみやげだ、 おまえたちの住む国には太陽も姿を見せず、つねに暗黒と死の影がおまえたちを包むだろう、そしてついには、不幸と絶望に駆り立てられ、おまえたちはみずから首をくくるにいたるだろう!
ヨーク:きさまなど灰になって風に吹き飛ばされるがいい、この汚らわしい呪われた地獄の使者め!“                


  27.尼僧と悪魔 吉田八岑 北宋社 1991年
 

a.p243
 
またジャンヌ収監についても、当初は教会の獄舎という話もあったのだが、それではあまりにも無用心だと、英軍占領地区にあったルーアンの城中に監禁されることになったのである。
 そして道中彼女は鉄製の檻に入れられて護送されたのだが、その檻の広さも、立つのがやっとの大きさで、しかもその中で彼女は首枷をはめられたうえ、両手両足も鎖に繋がれていたのである。

b.p252
 
その頃ジャンヌは長い拘留と不健康な生活が続いたため、遂に獄通で病に犯されてしまったのである。しかし当事者たちはただちに医者を呼ぶと、慎重に彼女を看護させ、恢復させたのだ。
 但し、彼女の生命は同情から救われたのではない。当時、ワーウィック公がさる報告書のなかで、「・・・・イングランド国王は、これまでにも彼女のために多大な出費を惜しまれなかった。それというのも、彼女が生きながら焙り殺されるのを見たいがためであった」と述べているように、ひどく打算的な下心があった。

c.p256
 
彼女の短い入牢に始めには、「苦しみのパンと苦汁の水」を求めたにもかかわらず、決して教会の牢に入れてもらえなかった。従って城内の牢に幽閉されている間中、絶えずイギリス兵士たちから好色なまなざしでぬめ廻されていたため、ジャンヌは耐え切れず、とうとうもとに男の服装に戻らざるを得なかった経緯を記して置こう。
 だが彼女の執ったこの行動は、教会に対しても決定的な陥穽を自ら掘ってしまう結果を招いてしまったのである。即ち、教会的な解釈によれば女が男の形をするなどとはもはや許し難い異端であり、ましてこの乙女が以前も男装で戦場を駆け廻っていたことを考えれば、牢内の男装は、いわば、
再犯を意味していたからである。
 確かに彼女の処刑後25年経った1456年に行われた名誉回復裁判では、この問題についての偏見は逆転して、彼女の名誉を回復させるのに大きく役立った事実だが、当時の法廷では、この問題は全く別の観点から論及されていたのである。
 


 28.世界の拷問・処刑残酷史 岡田英男 にちぶん文庫 2001年

p143−146
 
ルーアンの町の執行人は、特別仕立ての火刑台を設計した。それは、かつてない高さの舞台の上に立てられ、かなり遠くからでもはっきりと処刑の様子が見えるように工夫されていた。
 やがて、ジャンヌが杭に縛り付けれ、高々と掲げられると火が放たれた。だが、途中、ジャンヌが苦悶しているが、死にいたっていないという段階で、執行人は一度、薪を何本か抜き出し、わざわざ火の勢いを弱めている。これは、炎につつまれるジャンヌをしっかりと群衆に見せるためだった。
 火あぶり刑は歴史上、数かぎりなく行われたが、途中、わざわざ火の勢いを弱めたことはジャンヌの場合だけだった。こうすれば、囚人の死の苦痛はそれだけ長引くことになるのはいうまでもない。
 そればかりではない。処刑の前に、ジャンヌは産婆によって局所を診察され、処女と確認された。裁判所は悪魔と通じたという理由で死刑を宣告しておきながら、一方でこうしたいやがらせを行ったのだ。 そのうえ、火刑台は、下からあおぎ見る高さになっていた。これは、時の権力者ベドフォード公がジャンヌの性器が焼けていく様子を民衆に見せようと考えたためだという。
 ジャンヌが死にいく過程で受けた辱めは、これだけではない。どれほど、炎になめられても、ジャンヌの心臓が燃えないのを見て、群集は、「やはり、ジャンヌは聖女だったのだ・・・・」。口々にそういうと、騒ぎだした。群集たちの攻撃は、ジャンヌの処刑を言い渡した桟敷席のお偉方に向けられようとした。
 すると、お偉方の一人がつかつかと台に登ると、執行人に何事か言いつけた。 やがて、執行人は灰の中の彼女の遺体から、焼けただれたジャンヌの秘部を取り上げ、群集に向けて高く掲げて見せるではないか。 「聖女なんかじゃない! このように、(お前らと同じ)いやらしい女性自身をもった、ただの女だった」といいたかったのだ。 それから急いで彼女の遺骸をかき集めてセーヌ河まで運ぶと、橋の上から投げ捨てた。通常は、処刑後、遺体見聞人が遺体を弔うことになっていた。だが、遺体がジャンヌを信じる人の手に移れば、新たな暴動の火がつくことも考えられる。そこで、ただちに河へ投げ捨ててしまったのだ。
 


 29.ジャンヌ・ダルク  村松 剛  中公新書   1967年 

a.109−110“
 兵力のうえでは、イギリス軍は決して多くはなかった。イギリスがフランスに常時おいていた兵力は、四千をこえなかったといわれている。王太子派はそれより多数の人員をあつめたが、寄せあつめの兵で規律も低かった。
 オルレアンでは五千の市民が、王太子派の軍協力している。だが篭城戦が長びくとともに、食糧は市民の手にまでわたらず、彼らは飢えていた。問題は市民たちに活気をあたえ、軍に戦闘意欲をとりもどさせることだったのである。可愛い乳房の聖女は、まさにその役割を果たした。
 おびただしい食糧をたずさえて、神の使者を名乗る少女が現れたことはーしかも彼女は学者たちの認可をもらっているー市民をふるい立たせた。向こう見ずな彼女は、敗北主義にとりつかれた騎士たちをひきずっていった。イギリス軍の方は、馴れない土地で冬を越し、すでに疲れていた。”

b.P137
 
カトリック教会の立場で言からいえば、人間は教会を通じてのみ、天国につながるのである。各人が勝手に聖書を研究することは、プロテスタントは許すが、カトリックは禁じていた。
 まして神の声を、教会をすどおりして個人がきくなどということは、許しがたい傲慢さだろう。もしもその傲慢さを放任したら、道徳についての個人主義的な判断と解釈とは、跳梁を見るにいたる。カトリック教会は、存在の意味を失うのである。
 ジャンヌは神の使者として人びとのまえに立ち、その確信にみちた態度によってフランス人を動かした。シャルルは自身をとりもどし、大衆は熱狂した。宗教が、人びとを団結させたのだった。
 だが彼女のその奇蹟ともいえる成功が、同時に彼女の命とりとなった。シャルルの宮廷の貴族たちは、彼女の大衆的人気の大きさをおそれた。
 ジャンヌを支持したシャルルがわの聖職者も、彼女のおかげで地位が恢復されると、たちまち彼女に冷淡になった。ジャンヌはじぶんでは知らなかったはずだが、その行動は、カトリック教会と貴族制とを二つの軸とする中世の枠、すでに逸脱していたのである。
 その意味では、まさに彼女は異端的だった。古い枠にとらわれなかったからこそ、彼女は成功したのだろう。それにしても彼女は成功しすぎた。十五世紀は中世の末期だから、異端めいた人間はほかにもいたにしても、彼女はあまりに目立つ存在となってしまった。異端者は、殺さねばならない。ソルボンヌ神学部は、彼女がパリで裁かれるべきことを要求した。

c.p151−152
 
異端者に対する審問、処刑は、ヨーロッパに古くから存在した。すでに四世紀の末に、スペインで異端者が死刑に処せられたという記録がある。 
 しかし、ローマ教会は、はじめのころはむしろ、異端者を殺すことに反対していた。異端者に発言を封じることはカトリックのために必要だけれど、殺すことはいけないと、ある高僧はいった。
 「それは地上に、おわることのない犯行を、みちびきいれるのみだろう。」
 異端審問は中世の末期以降にさかえ、制度化されていった。中世は、「暗黒時代」だったという公式的な見方が、19世紀いらいつくり出され、それと「魔女狩り」の陰惨な心象がかさなりあって、異端審問の嵐は、中世全般を通じて吹き荒れていたように思われがちである。だがじっさいには、火刑台の火勢は、中世の緒制度の弛緩と正比例してたかまっている。

d.p152
 
リヨンの近くでは、騎士達のあいだに、のちのプロテスタンティズムに近い教えがひろまった。エルサレムから帰った騎士たちがつくっていた「神殿騎士団」は、異端ということでみなごろしにされた。もっとも「神殿騎士団」の場合は、あまりにその勢力がつよくなったため、フィリップ美男王のねたみを買ったのである。異端の罪状は、大方が捏造だったらしい。

e.p161
 
ジャンヌはイギリス軍の牢獄にいれられ、鎖で杭につながれていた。宗教裁判の被告は、本来なら司教館か教会の牢にいれられるはずなのにである。彼女を城の牢におき、男の牢番に見はらせる不都合さは、僧侶たち自身が気がついていたようである。しかしイギリス軍の意志に逆らうだけの、勇気をもつものは入なかった。
 予審のまえに、少女はふたたび処女であるか否かの検査をうける。二年まえの審査の、くりかえしなのである。
 こんどの場合は、ベッドフォード公妃の側近の女たちが、その役をうけもった。
(ベッドフォード公自身も、ひそかにその場にしのんで、検査を見ていたということが伝えられている。)
 
 
ジャンヌの処女性は証明され、ベッドフォード公妃、少女の純潔を守ってやるようにと、兵士たちに言明した。鎖につながれ、男の牢番に見張れている少女にとって、この命令は大きな救いであったにちがいない。もっとも命令は、いつも守られるとはかぎられないのである。

f.p166
 
怒った僧侶たちは、拷問をもって彼女を脅迫した。ルーアンの市内に、十三世紀はじめの城の遺構である古い塔がある。空壕にかこまれた大きな円形の塔で、今日「ジャンヌ・ダルクの塔」と呼ばれている。第二次世界大戦までは、ジャンヌをそれで脅かしたという拷問器具と称するものが保存されていたそうだが、ドイツ軍が持ち去ってしまったと、番人はこぼしている。
 ジャンヌはおどされただけで、じっさいには拷問にあわなかった。しかし連日の訊問による過労と、牢獄のつらい生活から、彼女は病気になる。

g.p172−173
 
五月三十日の朝、ジャンヌは牢獄に、二人の修道僧がはいってくるのを見た。一方が少女に、いよいよ最後のときだから用意をととのえるように、といいわたした。ジャンヌはこれをきくと、髪をかきむしって泣き叫んだ。
 「ああ、どうしてこんなにおそろしい、むごいいじめかたをするのかしら。私のこの身体、汚れを知らないこのきれいな身体を、焼いて、灰にしてしまおうなんて。ああ・・・・・そんな風に焼かれるより、七回でも首を斬られる方がましだわ」
 もし自分が敵軍の牢でなく、教会の牢に入れられていたなら、こんな目にあわなくてもすんだろうに、と彼女はいった。
 「あれほどいやだといったのに、牢のなかに牢番や男たちを勝手にはいりこませて、乱暴のかぎりをつくさせたのだわ・・・・」
 間もなくコオションが、その場に顔を見せた。ジャンヌは彼に、「司教さま、あなたのおかけで私は死ぬのです。」といった。

 

h.p174−175
 “焔がジャンヌをつつんだとき、イギリスの指揮者たちは、「火をとおざけよ」と命じた。
 兵士たちまでが動揺しているのを見て、彼らは少女が、天使の助けによってこの場を脱走していないこと、彼女がまちがいなく死体となっていることを、示そうとしたのである。そのほか彼らのねらいとしては、衣服が焼けたあたりで彼女の姿を公衆に見せ、ジャンヌが要するにひとりのあたりまえの女にすぎなかったことを、知らせようという意図も、あったようである。
 『パリの一市民の日記』には、次のような記述がある。
 「カクシテ、全群集ニヨッテ、ジャンヌノ全裸体ノ姿ハ見ラルルニイタリ、女性ノ身ニ具ワリ得ル或ハ具ワルベキ一切ノ秘密ガ明ルミニ出サレ、コノ為、人々ノ疑惑ハ除カレタリ」(渡辺一夫訳)  ジャンヌは裸の屍体をこうしていちど展示されたのち、もういちど焼かれた。執行人は四時間にわたって、薪に油を注ぎ、風を送る作業をつづけた。イギリス兵はジャンヌの灰をあつめて、セーヌ川に棄てた。遺品が残って礼拝の対象となるのを、彼らはおそれたのである。 ジャンヌの心臓だけは、どんなに油を注いでも燃えないで残った、という伝説がある。イザンバール修道士が、執行人のひとりの報告として、記載しているはなしである。”
 


 30.奇跡の少女ジャンヌ・ダルク レジーヌ・ペレヌー 創元社  2002年 塚元哲也監修 遠藤ゆかり訳

 a.p84−85
 
コーションは、あきらかに最初からジャンヌを殺すつもりだった。だが彼は、それを必要な手つづきを欠かさない「立派な裁判」よって行おうとしていた。
 しかし、実際には、いくつもの重大な規則違反があった。たとえば「予備審査」の過程で、ドンレミなどの調査によって数々の証言が集められたものの、それらがすべてジャンヌに有利な内容だったため、コーションはそれを記録として残さなかった。
 また異端裁判の慣例に反して、ジャンヌには弁護士がつけられなかった。そのため彼女は、60人もの陪席判事がいる法廷で、自分の弁護をひとりでしなければならなかったのである。
 もっと問題だったのは、異端裁判の被告は教会内の牢に入れられるが、女性の場合には、牢番も女性でなければならないという決まりがあった。それなのに、ジャンヌは戦争捕虜としてイギリス軍が支配する城の牢に入れられ、足に鎖をつけられたまま、男性の牢番によって見張られていたのである。
 さらに、尋問ははじめは規則どおりに城内の礼拝堂で公開されていたのだが、3月上旬からは牢内で非公開でおこなわれるようになった。これは、異端審問所の規則に完全に反していた。
 また裁判開始からほどなく、ベッドフォード公の夫人(彼女はブルゴーニュ公の妹でもある)の監視下で、ジャンヌは処女検査を受け、その結果処女であることが確認されたが、奇妙なことにその事実は裁判記録のなかに記されなかった(この時、ベッドフォード公夫人は、ジャンヌに暴力をふるわないよう、イギリス人の牢番に命じている。)

b.男装の問題p90−91
 
裁判は長引いた。審理は思うように進まず、コーションや陪席判事たちは失望を重ねていった。ジャンヌは彼らの質問に、いつも臨機応変に対処したため、教会に対する不服従の片鱗さえかきらかにすることはできなかった。このような状況では、彼女を異端の罪で処刑することなど、とても不可能と思われた。
 そこで3月の下旬になると、どう考えてもこっけいそのものだが、異端の根拠として「男装の問題」までがとりあげられるようになった。だが、男物の服を身につけていることに関して、ジャンヌは質問を一蹴している。「この服は私の魂まで変えるわけではないし、これを着ていても教会に逆らうことにはなりません」。
 予備審理は3月25日に終了した。コーションは、男装の問題をジャンヌの教会に対する不服従のしるしとして、争点の中心にすえることを決めた。たしかにカトリックの教義では、女性が男装することは罪とされていた。しかしこの問題は、本来とるにたらないものだった。というのも、ジャンヌがシノンにいるシャルルへ会いに行くためにヴァォークルールを出発したとき、住民たちは彼女が馬にのれるよう男物の服を贈っている。これは、馬にのって険しい道を行く女性が「男装」することは、ごく自然なことだったからにちがいない。それにもかかわらず、コーションはこの問題を大きくとりあげたのだ。
 

c.p91
 “法廷に立つジャンヌージャンヌはおそらく城の主塔のなかで、真実を話さない場合は拷問するという脅しを受けたようだ。だが、拷問執行人のルパルマンティエによると、「そのとき彼女は少し尋問されたが、非常に注意深く答弁し、列席者たちはその答えに感心していた。結局、私と同僚は彼女に肉体的な苦痛をあたえることなく、その場をあとにした」という。”


d.p128
 “1762年に出版されたヴォルテールの詩については,(略)おそらくなにも言わないほうがよいだろう。この作品が嘆かわしいものであることは何度も論じられてきたので、どのような点で批判されるべきかということを、わざわざ指摘しようとする人はすでにいない。
 おそらくヴォルテールは,自分の反宗教的な活動のために、ジャンヌの奇跡と使命の物語を利用するつもりだったのだろう。
 そのこと自体は非難すべきものではない。彼が作品のなかで好色な表現をちりばめたことも問題ではない。(略)この作品がひどいのは,(略)ヴォルテールが登場人物にあたえた性格と、歴史上の人物の性格が、まったく重ならないからなのだ。
 たとえばジャンヌの父親は「いたるところで神の奉仕者をつとめている/土地の司祭」に姿を変えている。それですら、まだましなほうなのだ。実際の出来事をあまりにもこっけいに歪曲して、いったいなんになるというのだろう。
 ヴォルテールはジャンヌの輝かしい冒険を下品でみだらな言動に、英雄的行為を下品な冗談に変質させ(略)、その処女性の最後には、ろば(これが神話的な意味だという点は認めよう)に奪わせているのだ。
 だが、なによりも嘆かわしいのは、これほど悪意に満ちた作品が、当時の人びとに拍手で受けいれられたということである。当時は学識豊かな聖職者たちでさえ、ジャンヌが受けた啓示の現実性を、もはや擁護できないと感じていたのが実情だった。(略)” [ジャン・バスティエール『ジャンヌ・ダルク裁判』より M.エステーヴ編]”


e.p157
 104◎牢内のジャンヌ 浅浮彫り ヴィタル=ガブリエル・デュプレ作 ドニ・フォアイアティエ作のジャンヌ騎馬像の装飾 マルトロア広場 オルレアン" 本文「牢獄の風景」を参照のこと。
 


 31.ヨーロッパ中世を変えた女たち 福本秀子 NHK出版 2004年

 p146
 
女性の服を、また男性の服に着替えるのを余儀なくさせるには、コーションの意を受けた男性が牢内に入りこみ、ジャンヌに襲いかかるだけで十分でした。その男はブルゴーニュ派の騎士エーモン・ド・マシといい、恥知らずにもこう言っています。
 「何度も彼女の乳房に触れてやろうと、手をのせようと試みましたが、ジャンヌはありったけの力で私をはねのけました。ジャンヌは言葉づかいといい、ふるまいといい、実にりっぱでした。」
 


 32.ジャンヌ・ダルクまたはロメ 佐藤賢一 講談社 2004年

 ルーアン:p138
 
「決まっています。女の服を着ると、それだけで乱暴されてしまうのです。」
 「乱暴とは・・・・」よく意味が取れず、しばらく私は混乱した。顔を殴られたことは、すぐ察せられたものの、それとも意味が違う気がしたからだ。
 ジャンヌ・ダルクは続けた。改悛すれば、鎖を外してもらえるのえはないのですか。もっと親切な牢に移されるのではないのですか。看守も女に替わる約束です。なにより教会に迎えられて、聖餐式に出られるはずだったでしょう。
 「それは・・・」 私に言葉はなかった。いや、言葉を失うのが怖くて、ろくな考えもないままに、急いで先を続けてしまった。
 ええ、努力はしています。そうなるように私も働きかけていました。けれど、あなたが男の服などを着ては、それも台無しになってしまう。
 「だいいち、男の服など、どこからもってきたのです」
 「朝になると、牢に投げ入れられていました」
 「投げ入れられていたって・・・。それまでに着ていた女の服は」
 ジャンヌ・ダルクは虚ろな目を少しだけ動かした。慌てて追うと、切り裂かれたボロ布のようなものが、床に長々と流れていた。
 その布地は緋色だ。改悛のときに着替えた服も緋色だった。それが破り取られたとすれば・・・。
 「あなたは裸だったのですか」
 今朝になって、男の服を着るまで、あなたは・・・。そうした自らの呟きが数秒の空白を招いた。ハッと我に戻るや、最初に気がついたことは、ジャンヌ・ダルクの髪があたりまえの女のように、もう長く伸びていることだった。
 なるほど、女だったのだ。 してみると、ジャンヌ・ダルクの服装は断じて認められないものだった。なんとなれば、ぴったりと張りついて、脚の形を窺わせてしまうからだ。脚を露にしてよいのは男だけだった。というより、女は隠さなければならない。キリスト教徒の風紀を紊乱するからだ。
 禁断の果実を恥じ入らなければならないからだ。つまるところ、罪なきアダムを堕落させた、淫婦イブの末裔であるからだ。
 「そういうこと、なのか」 目が動いたことはわかった。が、それを私は止められなかった。
 ジャンヌ・ダルクが小さく床に屈みこむほど、黄土色の股引きは流れるような線画を用いて、むっちり張り詰めた太腿を、豊かに盛り上がる腰まわりを、果ては妖しく窪んだ欲望のありかまでを、すっかり暴いているではないか。
 「・・・・・・・」 私は踵を返した。というより、逃げたといったほうが、たぶん正しいだろう。
 


 33.魔女狩り 森島 恒雄 岩波新書  1970年
 

a.p56−57
 
「処刑の日(1431年5月30日)、ルーアンの広場に集まった群衆に示されたジャンヌ・ダルクの異端の内容は、「妖術者」、「迷信者」、「悪魔の祈祷師」等々であった。この時期はまだ新しい魔女の概念は完成されていなかった。もう一世紀おくれていれば、ジャンヌ・ダルクの異端審問はもっとはっきりとした形の魔女裁判となり、新しく確立した魔女の概念に即した「自白」が引き出されたであろう。
 これらの例は、政治的配慮から、異端者に魔女的色彩を意識的に施して行われた過渡的もぐり魔女裁判であった。

 b.p61−62
 
 第三部は、「魔女及びすべての異端者に対する教会ならびに世俗双方の法廷における裁判方法について」であり、裁判の開始、証人、投獄、逮捕、弁護、拷問、訊問、判決―などについての詳細な指示と助言が与えられている。
 これは、すでにエイメリコの「異端審問官指針」やトルケマダの「異端審問教程」などが指示し実行している方法を土台に「魔女」というという「格別に危険な異端者」を裁くにふさわしい方法を具体的に説明したものであり、その支持の入念さはエイメリコ以上である。
 (例) 「役人が裁判の準備をしている間に被告を裸にせよ。もし、被告が女であれば獄房に連れて行き、正直で立派な婦人の手で裸にせよ。妖術に用いる道具を被告が着衣の中に縫いこんでいるかもしれないからである。なぜなら、彼らは悪魔の指示に従って、そうした道具を未洗礼の幼児の手足から造るからである。
 これらの道具の始末が終わったならば、みずから進んで真実を自白するように裁判官自身が被告を説得し、また信仰厚い正直な人たちからも説得させよ。もし自白しそうになければ、被告を綱で縛り拷問にかけるように役人に命じよ。役人はただちにその命に従わなければならぬ。ただし、嬉しそうにではなく、むしろおのれの役目に困惑しているような素振りでなければならぬ。
 そのとき、被告の拷問を免じてほしいと誰かに熱心に嘆願させよ。ここで拷問を免じてやり、さらに説得を重ねよ。説得に応じさせるためには、自白すれば死刑は免ずるといえ・・・・。」
 


 34.フランス残酷物語 桐生 操 新書館 1997年
 p34
 
ジャンヌ逮捕の知らせを聞いても、シャルル七世は彼女を救おうという努力さえしなかった。
 それどころか彼の側近たちは、「ジャンヌは成功に酔いしれ、誰の意見も聞こうとしなかったから、神に見捨てられたのだ」と悪口を言う始末だった。
 ジャンヌを捕らえたイギリス軍は、異端裁判でジャンヌを魔女として裁き、フランスの勝利が悪魔のおかげであることを、諸国に喧伝しようという作戦をたてた。結局、ジャンヌがカトリックの教義に反して、あくまで神の声を聞いたと主張したことが有罪の決め手となり、つぎのような嫌疑で死刑をいい渡されることになったのである。
 「魔女、占い者、贋女預言者、悪霊を呼び起こしたもの、魔法使い、迷信にとりつかれたもの、妖術使いの一味、カトリック信仰を疑う者、教会分離論者、神と聖徒を冒涜し誹謗した者。また治安をみだし、平和をやぶって、戦いを煽動した者。不作法で恥知らず。諸侯と人民を惑わした者・・・」
 


 35.拷問と刑罰の歴史 カレン・ファリントン 河出書房  2004年 飯泉 美恵子訳

a.p32
 
“1431年、イングランドで火刑にされ、1920年に聖者の列に加えられたフランスの聖女ジャンヌ・ダルクも犠牲になった一人だ。

b.p32
 
カトリック復活のために。五年間の在位中に火あぶりにした人数はおよそ三百といわれ、聖職者、富豪から貧乏人、女、そして多数の子供さえもが含まれていた。
 この恐るべき所行から、「血のメアリー」とあだ名された。1849年、ロンドンのセントバーソロミュ―病院が隣接するスミスフィールド市場の掘削作業中に、黒こげになったオークの火刑柱、股釘、鉄の輪が人骨と灰の中から発見された。
 この場所はかつて、メアリーの命により、43人が殉教したか火刑場だったのだ。
 イングランドでは、後世になって、社会的儀礼から、女性の処刑には四つ裂き刑ではなく、火刑を用いるようになった。つまり、国家や国王らに対する大逆罪を犯しても、夫などの目上のものを殺す小逆罪を犯しても、女であれば、一貫して火刑に処せられたのである。

c.p92
 
イギリスとヨーロッパ大陸では当時、一般庶民が絞り首にされたのに対し、身分の高い者は斬首にされた。

d.p102
 
ヨーロッパでは、身分の高い人の死刑には剣が用いられた。 


36.<<ドラキュラ公>>ヴラド・ツェペシュ 清水正晴 現代書館 1997年

p153
 "串刺し刑はヨーロッパでしばしばみかける処刑方法であり、イギリスでは薔薇戦争のさいにウスター伯ジョン・ティプトフが行った記録があるが、彼はトルコ人からその方法をまなんだといわれている。
 当時の君主たちはあらそって新奇な処刑を考案してみせる傾向もあったようで、フランスのルイ十一世はこうした斬新で残虐な処刑方法を考えだすことを趣味としていたといわれる。こうした時代にあって、ヴラドが処刑に串刺し刑を採用したからといって、彼だけがほかの君主たちより性格が残忍であったとするにはあたらない。
 だた、彼の場合は、彼がおかれた政治的環境もあって、その処刑した人数が多数にのぼるところがおおきな特徴であり、そのために彼はブラド・シェペシュと呼ばれるようになる。
 シェペシュはルーマニア語で串刺しのことである。 ワラキア領内の地主貴族たちは、ヴラドが政敵を串刺し刑によっていっきょにほうむりさったことに戦慄するとともに、はげしいいきどおりをおぼえた。杭に突き刺してさらす処刑方法は磔刑の一種とみなされたから、本来は身分の低いものにたいして、しかも極悪な犯罪をおこなった場合のみ適用されるはずのものであって、本来は貴族がそうした方法で処刑されるなどあってはならないことであるとさえされていたからである。
 磔刑はキリストが二人の兇暴な盗賊といっしょに処刑されたことにより、汚辱にまみれた処刑方法とされてきたのである。貴族への極刑は、ヨーロッパにあってはもちろんのこと、トルコであっても斬首とさだめられていた。死刑にも封建時代らしい身分による差別が存在したのである。
 


 37.エロティシズムの世界史2 福田和彦 久保書店 1966年

a.p76
 
中世封建社会における領主たち=貴族階級、豪族、聖職者階級の地主たち=の独裁権は絶対的なものであった。領主は裁判官であり、警察官であり、徴税官であった。その領地内では服従強制権をもち、追放権を行使することもできた。
 したがって、農民=ほとんどが農奴といわれる隷属的な農民である=は賦役と貢納にあえいでいた。
 領主が行使する初夜権も、領主に対する貢納の一種であった。 初夜権とは、ビルダー・レキシントンの解説によると、西欧中世から十六世紀半ばまで、明確な主従関係の存在にもとづき、女奴隷(農奴)が結婚する場合に、その夫に代わって領主が初夜権を行使することになっていた。
 これは領主の所有権が、隷属する農民の肉体にまで及んでいたとみなされよう。これは初穂(最初の収穫物である)や若い家畜に対する所有権と同様なものだと考えられていたのである。
 この権利は、公文書で認められていたこともしばしばであった。1538年チューリッヒ州が発行した公文書では、初夜権を次のように述べている。
 「農地を所有するものは、領地内の農民が結婚する際、もし、領主がその花嫁と初夜を過ごそうと望むときは、花婿は領主に花嫁を提供しなければならない。もし、これが嫌ならば花婿は領主に四マルク三〇ペニッヒを支払わねばならない。」

b.p79
 
フランスでは、初夜権を「腿入れ権 ドロア・ド・キユイサージュ」などと異称した。こうした領主の初夜権行使は十三世紀から十六世紀まで存続した。

c.p79−80
 
領主にとっては農奴の若い娘は、<金のいらない娼婦>であり、<不特定多数の嬖妾>であった。
 領主たちは、こうした若い娘の鮮度を保つために農奴にたいしては、キリスト教の信仰心を植えつけ、その道徳律を苛酷なものにした。むろん、婦女暴行などには死刑に等しい刑罰をもってのぞんだ。
 ひっきょう初夜権とは領主たちの浅ましい愛欲のなにものでもない。かれらのエロチィズムのエゴイスティックな充足と飽食でしかないのである。
 女が「イヴの存在」であることは、女が快楽の道具であり、子供を産む器官でしかないのだ。愛とは肉欲と同義であった。
 


 38.あぶない世界史 U 桐生 操 福武文庫 1996年

p120
 
騎士たちの気晴らしは狩りだった。
   彼らは暇があると、猟犬の群れを従えて森にでかけ、夢中でクマやイノシシを追い回した。捕らえた獲物は、はやくもその晩のディナーのテーブルに並ぶ。
 貴婦人たちも、男顔まけで、勇敢に馬を乗りこなして参加した。だから当時の貴婦人は、色白美人とはほど遠く、みな健康優良児のように日焼けしていた。
 


 39.遊びの中世史 池上俊一 ちくま学芸文庫 筑摩文庫 2003年

a.p93
 
戦争は、美しい季節(5月から9月)に、しかもあまり頻繁でなく行われた。戦争は、浮世の出会い多数挟み込まれた愉悦にみちた機会、自分の労力と他人の財産を楽しく消尽する機会、たいして危険のない冒険行にほかならなかった。
 これはかれら騎士たちにとって、祭りでありオルギア(ディオニソス的祝祭)であった。
 さて、かような特質を有する戦争がそうであったように、中世においては、騎士たちの遊びもまた、かれらの特権的身分を誇示するという性格が濃厚であった。かれらの特権としての代表的な遊びには、「狩り」と「騎馬槍試合」があった。

b.p97
 
まったく武器をもちいない平和的な狩りである鷹狩りは、女性の人気を集め、したがって男女交際の機会となり、宮廷の宴会の遊興として行われた。 


 40.世界風俗史2 パウル・フリッシャウアー 河出書房新社  1983年 関 楠生訳 

p151

 当然のことながら、キリスト教の道徳と、以前あれほど好まれ、ならわしになっていた楽しみとを結び付けようと、さまざまなこころみが行われたが、本質的には成果をあげずに終わった。
 教会が命ずるような生きかた、愛しかたをしない者は罪びとの烙印を押され、永劫の罪を受けたとみなされたからである。
 支配者や身分の高い人々だと、教会のお気に召したり、あるいは教会の役にたちそうだと思われた場合には、もちろん例外とされた。自分自身を断罪しようとは思わなかったか、それでも人生のあらゆる喜びを味わった司教その他の聖職者たちについても同様である。
 こういうわけで、身分の低い者には禁じられていることを高い者には許す二重底のモラルが習慣を支配し、宮殿や館では前と変わらずに行われていた享楽好きの放縦な生活は黙認され、高い、より高い、そしてもっとも高い身分の人たちに対してなされた目こぼしは、個々の司祭の寛容度に応じて、「低い」住民層にも及ぼされた。
 ある種の生活習慣は、人間の本性に属するということで司祭に許容され、けっして人間の本性に属さない、むかしからのしきたりも、なかには、十分に考えたうえで残されたものがある。たとえば「初夜権」がそれで、これを廃止すれば領主の影響力がいちじるじくそこなわれるであろうという理由から、このみだらな慣習法は保持された。
 結婚するまで処女を守ることも、取り消すことができないおきてとされた。結婚前に性交渉を持った娘は「堕落した」ものとみなされた。
 


 41.王妃カトリーヌ・ド・メディチ 桐生 操 福武文庫 1995年 

 p79−81
 
このもとフェララ貴族ゼバスチアーノ・ディ・モンテククリ。彼が王太子の暗殺者として疑われる条件は揃っていた。
 お決まりの拷問が始まる。モンテククリは王太子に捧げた飲み物に鶏冠石という砒素の硫化物を混ぜたことを認め、自分にこの行為を命じたのはカルロス五世だと自白する。共犯者として皇帝の二人の臣下の名が挙げられる。フェルディナンド・ゴンザークとアントワヌ・ド・レープである。
 モンテククリの自宅で砒素の粉と、彼自身の手になる毒物に関するメモと、ド・レープの通行券が発見されたと当時の記録は伝えている。
 死体解剖の結果は王太子の死の明くる日、七人の医師、外科医、理髪師の手で行われた。その調書は今も残っているが、毒物の発見されたことを立証するものは何もない。近代の医学者たちはいずれも、毒殺説を否定するほうに傾いている。カバネス博士によると肋膜炎、ウィトコウスキー博士に言わせれば、結核性肉芽の激発・・・。いずれにしても、日頃からあまり丈夫でない王太子が、激しい運動のあとで一気に冷水を飲みほしたというのが一番の原因らしい。
 けれどもこのくらいの結論ではおさまらないのが、当時の人々の心である。国王の憎しみを一手に引き受けるためにモンテククリという加害者がでっちあげられ、それに命じた張本人として、宿敵カルロス五世の名が挙げられる。
 モンテククリはリヨンのグルネット広場で四頭の馬に手足を括りつけられ、生きたまま八つ裂きの刑に処せられた。彼のばらばらとなった死体は二日がかりで、子供たちの慰みものになった。鼻を切りおとされ眼球をくりぬかれ、歯や顎の骨は石ころで叩いて砕かれた。四散した胴体は、なおも細かく切り刻まれた。そのばらばらになった肉片は街の四つの城門に釘で打ちつけられ、頭は槍の先で突き通して、ローヌ河の橋の上にさらされた。
  


42.ヨーロッパの中世  鯖田豊之  河出文庫 1989年

p362
 
城主はすでにイギリス軍の捕虜となっていた。城主のいない都市を攻撃するのは、騎士道的戦争では思いもよらないことだった。もっとも、城主のいなくなった都市を守ることも同じだったが、攻撃がわのイギリス軍将兵にしてみれば、そこまで考えがおよばなかった。
 かれらはなにか不吉なことが起きるのではないかとの疑心暗鬼にとらわれながら、攻囲戦を続行した。
 そこへ「神のお告げ」を叫ぶ少女がのりこんできたのである。イギリス軍が総崩れとなっても不思議ではない。
 いいかえれば、ジャンヌ・ダルクは奇跡の少女とよばれるが、かの女の勝利は奇跡でもなんでもない。要するに、騎士道的戦争がようやく終わりを告げだしたとき、イギリス軍の心理的盲点をついただけのことである。してやられたイギリス軍にすれば、彼女への憎悪がもえあがるのはあたりまえだった。
 


43.中世の森の中で  堀米庸三編著 河出文庫 1991年

 a.p141
 
しかし、彼らの性情が、ややもすれば残忍に傾くのも自然である。1210年、シモン・ド・モンフォールがプラムの町を攻略した時、騎士・町民を問わずことごとく捕虜100名の鼻を削ぎ、両眼を抉り取って数珠つなぎにした。ただ一名のみは片目を潰すにとどめ、行列の先頭に立たせた。
 『アルビジョア年代記』は、これをしも「楽しい一行」と呼んでいる。両眼を刳貫く話は、中世の年代記の至る所にある。

b.口絵捕虜への扱い:P141
 
敗軍の将ツェラン・ド・ボルチュガルが荷馬車にしばりつけられ、パリに護送される図である。敵の大将ともなると、身代金がとれるから殺しはしなかったが、身代金の対象とならない兵隊の捕虜は残酷に殺傷された。


 

inserted by FC2 system