日本軍慰安婦歴史館 Hermuseum 日本軍慰安婦問題に対する真相究明と後世に伝える正しい歴史観確立に向け.
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歴史的背景

 ビルマの松山(=拉孟・中国雲南省、中国―ビルマ国境地帯 )で連合国軍の捕虜にされた4人の「日本軍性奴隷」の女性と中国国民党軍の兵士が避難所の前に立っている。右端の妊娠中の女性が、北朝鮮の朴英深(パク・ヨンシム)さん(2006年8月7日死亡)
日本軍慰安婦とは
						1930年代初めから、日本が太平洋戦争で敗戦した1945年8月にかけて、日本軍の性的慰安のため集団的に動員され、管理された女性のことをいう。
日本は1931年 満州事変 1) と1937年 日中戦争 2) を起こして大陸侵略を本格化し、1941年には 真珠湾 3) を奇襲攻撃して 太平洋戦争 4) を挑発、第二次世界大戦へと突き進んでいった。
1932年満州国樹立以来、日本帝国はすでに満州に日本軍専用の慰安所経営を認めており、同年、上海では、日本海軍によって慰安所が設置・運営されていた。
日本軍は、日中戦争後の1937年末、 南京占領 5) 時に大規模な民間人虐殺を行う一方で女性に対する強姦事件を起こしていたため、国際的に非難を浴び、日本帝国として日本軍内の性問題を体系的に管理する必要があると判断した。
戦争の規模が拡大され長期戦に移行すると、日本軍による強姦や性病の拡散防止が必至となり、日本帝国は軍隊慰安所制度を拡大するに至った。慰安所の設営は、軍の士気高揚と効果的な軍事活動を図るなど、また別の主要な目的もあった。
具体的に、日本軍が兵士たちの性欲解消のため慰安所制度を作った重要な歴史的背景として、日本における長年の 公娼制度 6) が挙げられる。日本の公娼制度は、 台湾や朝鮮にも次々と導入され、中国と朝鮮など植民地の女性たちも日本の公娼制度の枠内に組み込まれていった。このような背景のもとに設置された日本軍慰安所における強姦行為は、強制的に慰安婦にさせられた多くの女性に対する性的暴力であり、女性を「非人間化」するものだった。
満州事変
日本の国家元首の称号。天皇の名前は、その天皇の治世の年号と一緒に死去後に贈られる。天皇という名称は、奈良時代(710~784年)初期に初めて使用された。日本の伝説によると、日本の皇室は、紀元前660年、太陽の女神「天照大神」の直系子孫で、伝説的な存在である「神武天皇」によって創始された。3世紀前後に皇室一族は、日本の中央と西部地域の宗主権を確保し、皇室制度は2000年間続いた。しかし、12~19世紀には天皇の権力を貴族や武家が実質的にすべて掌握した。

1868年、明治維新を主導した指導者たちは、皇室の直接支配を回復すべきであると主張し、天皇を国家統一の象徴として掲げ、中央集権的な国民国家を建設した。天皇に実質的な政治上の責任はほとんど与えられなかったが、天皇への忠誠は、神聖な義務であり、愛国的な責務であると認識された。

1945年第二次世界大戦で敗戦し、国家神道は解体され、翌年元旦、天皇は、いわゆる「人間宣言」詔書を通じ自らの神格性を否定した。1947年に制定された日本の憲法は、天皇を国家及び国民統合の象徴に位置づけた。皇位の世襲と天皇が担当する国事行為を定め、天皇は政治上の権限を持たない儀礼的な存在となった。
日中戦争
1937年7月7日、北京付近の蘆溝橋で起きた日中両国軍の武力衝突事件に端を発し、中国と日本が全面戦争に突入するようになり、両国間の戦争は1945年まで続いた。

当時、日本側はこの戦争を「支那事変」と呼んでいたが、日本人が使っていたこの「支那」という言葉は、中国人にとって自分たちを蔑視する意味に捉えられていた。

一方、日本側で中国との戦争を「戦争」ではなく、「事変」と呼んでいたのは、戦争に関する国際法が適用されるのを回避しようとした思惑があったためだ。

一方、中国側では日中戦争のことを「(中国人民)抗日戦争」、または「8年抗戦」と呼んでいる。戦争勃発の原因をめぐり、依然として両国軍のどちらが先に発砲したかをめぐって、歴史家の間で議論が続いている。日中戦争中の兵士を含む中国人死者数について正確な統計は集計されていないが、少なくとも約2千万人が犠牲になったとする説もある。
真珠湾
米国ハワイ州オアフ島にある軍港で、パールハーバーとも呼ばれる。近くに米国太平洋海軍基地やヒッカム空軍基地、パールハーバー海軍飛行場、キャンプH.M.スミス、米国太平洋艦隊司令部など、軍事施設が密集している。
太平洋戦争
1941年12月8日、真珠湾に停泊中の太平洋艦隊に対し、日本の飛行機と潜水艦が奇襲攻撃を加え、米国が第二次世界大戦で連合国軍に加わる直接の動機となった。

この攻撃により8隻の戦艦と13隻の海軍船舶が沈没し、188隻の飛行機が破壊され、数千人に及ぶ死傷者を出した。現在は国立史跡となり、アリゾナ号が沈没した場所に記念碑が造られ、日本が降伏文書に調印したミズーリ号は記念艦として保存されている。
南京占領
日中戦争勃発(1937年7月)後、日本軍は中国において戦線を拡大し、ついに中国国民党政府の首都「南京」を攻略した。当時約20~25万人の人口がいたと推定れる南京では、1937年12月から翌年初めにかけて日本軍による略奪、強姦、放火が続き、民間人と中国国民党軍の捕虜に対する無差別的殺害事件が相次いだ。当時、南京に滞在していた英国ロイター通信の記者は12月13日の講演会で、「彼らは組織的かつ徹底的に略奪した。」と日本軍の蛮行に対して語った。

中国女性に対する日本軍の強姦を目撃した、ドイツ・ナチ党党員のジョン•ラーベさんは、12月17日付の日記に「女性が暴行を加えられ、銃剣で刺されて怪我をした」とし、「夕べは千人もの人が暴行を受けた」という風評を聞いたと記録している。 日本国によって行われた南京虐殺の原因について、歴史学者、藤原彰氏は次のように説明する。

まず第一に、中国を後進的で分裂した国に位置づけ、捕虜の待遇などに関する国際法を適用する必要はないと判断した。第二に、このような国際法を無視する傾向が自然な形で民間人保護の不備につながった。第三に、長い戦闘によって日本軍の軍人精神が低下していた。現実的にしっかりした精神教育に当たる憲兵の数が絶対的に不足しており、100人足らずの憲兵たちでおよそ20万人の兵士を統制するには事実上力不足だった。これらの理由の他にも、日本人による中国人に対する人種的蔑視は、中国人の人権無視と大虐殺につながったと見ることができる。南京における中国人犠牲者の数については、いくつかの主張が錯綜している。中国側では、大概30万人説を主張しているのに対し、日本の一部保守派の有識者たちは、虐殺そのものを否定することもある。日本の戦争犯罪者を処罰した「極東国際軍事裁判(1946-8)」では、中国人犠牲者の数を20万人と集計しているが、一部の進歩的な学者たちの間では、犠牲者の数をめぐって議論すること自体に大きな意味がないと考える傾向もある。彼らは、仮に日本軍の残虐行為によって中国人犠牲者が一人しか出なかったとしても、日本は批判されて当然だという非常に意味ある主張を展開している。 一方、日本軍の中国女性に対する強姦が当時南京に滞在していた西洋人たちを通して世界に伝わったため日本への批判が強くなり、中国駐留日本軍司令官らは、軍慰安所を組織的に設置するようになった。
公娼制度
指定された場所で、成人が自由意志で買春行為をすることについては処罰しない制度であり、フランスで初めて実施されて以来、欧州諸国へ拡大し、日本に導入されたのは19世紀半ばのことである。

朝鮮には、本来「官妓制度」以外に公娼制度というものはなかったが、日韓併合後、日本人が持ち込んだ徳川時代の遊郭制度を1916年3月に寺内総督が公娼制度として公布した。その一環として、キーセン(妓生)も許可制に変わり、「券番(キーセンの組合)」に妓籍を置いて税金を払うようにした。券番は童妓に歌と踊りを教えキーセンを育成する一方、彼女たちの料亭通いを指導し、花代を受け取る仲介役を担った。ソウルには漢城券番・大東券番・漢南券番・朝鮮券番が、平壌には、箕城券番などがあり、他にも、釜山・大邱•咸興・晋州などにそれぞれ券番があった。券番の必須科目には、朝鮮音楽ㆍ舞道ㆍ朝鮮の礼儀作法の他に、日本語も含まれていた。

券番は、解放後の1947年10月14日付「過度政府法律第7号」により公娼制度が廃止されたため撤廃された。

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