私は以前のブログで『境界例を魔女狩りするのではなく』という記事を記しまして、高名な精神科医である牛島定信先生からコメントをいただいたことがあります。今回からその時の論旨を少しだけ脱構築してみたいと思います。

 このブログの読者の皆様の中には、私がBPDこと「境界性パーソナリティ障害」という言葉を使わずに、「境界例」ことborderline caseという極めて古典的で、ある意味では陳腐ですらある術語を使ったことに違和感を覚える方もいらっしゃるのではないかと思います。

 世間一般に出回っているポップな臨床心理学の本やインターネットの情報ではしばしば「境界例とは境界性パーソナリティ障害のことである」と大見得切って書かれていたりするのですが、私はそうは思わないんですね(-_-;)

 私風情などは一介のユング派心理療法家に過ぎないので、あまり偉そうなことを書けた義理ではないことは重々承知しているのですが、今回からはボーダーラインの汚名の脱構築の名のもとに少々戯言を呟きたいと思うのです。

 いわゆる「境界例」とか、偽神経症性分裂病(これも古い呼称です。今ではschizophreniaは「精神分裂病」ではなくて「統合失調症」と翻訳するのが普通です。ただし、ホックやボラティンの時代にはこのように呼ばれていたので、それをあえてそのまま使いました)と呼ばれていたこの種の症候群は、「精神疾患とは何か」という問いを鋭く臨床心理学者や精神科医に突き付けてくる病態ですので、これをどのように理解し、また精神病理学的に定位するのかという問題課題は、なかなか一筋縄ではいかない大問題なんですよね。

 精神科医や心理療法家を二十世紀末以来最もラディカルに悩ませてきた精神疾患の一つであろう境界例とは本質的に何なのか、そんな大それた話をこのようなブログ記事でお書きしようとは思いません。それだけで本が何冊も書けてしまうことでしょうから。

 しかし、ウィキペディアや精神科医や心理療法家の間でさえ、「境界例=境界性パーソナリティ障害」という図式がみられることや、そのような理解のもとに「ボーダーお断り」と言わんばかりの診療態度を取る精神科クリニックのあまりの多さには些か失望しますし、2ちゃんねるに限らず「ボダ」とかいう差別用語で境界例の方々を侮蔑する傾向が見られることは本当に遺憾に思います。

 境界例の人は確かに周囲の人を振り回すことにかけては天才的ですし、人の痛いところを的確に突いて立腹させる才能(?)を天から賦与されているかの様なところがありますから、境界例の家族なり知人なりに苦しめられている方々にしたら、「本当にもういい加減にしてよ」と叫びたくなったり、あまつさえ患者さんに手をかけたくなったりする誘惑に駆られることが多々あるのも、無理はないかもしれません。

 今日の精神医学において通用している診断基準は、アメリカ精神医学会によるDSM-Ⅳ-TRとWHOによるICD-10ですよね。このどちらにおいても、特にオットー・カーンバーグやガンダーソンやミロンといった精神科医ないしは精神分析医たちによる研究に基づいて、「境界例とはパーソナリティ障害の範疇で捉えるべきものである」との位置づけをポーターライン症候群に与えています。

 しかしながら、それではそもそもパーソナリティ障害とはいったい何なのかという理解が臨床家の間で十分に分かち合われているのかというと、それは疑問ですね。DSMにしても、パーソナリティ障害の診断基準においてすら基本的には人格論がなく、極めて操作的な診断を多軸診断にて行うことになっているわけです。
 
 今回は、境界例とパーソナリティ障害に関する記事ですから、精神病とか神経症とかの本質とは何かといった古典的な命題に深入りすることは――それは極めて重要な話題だとは存じますが――あえてエポケー(棚上げ)させてくださいね。

 私の理解するところでは、境界例とは大雑把に言えば次のような方々のことです。
「理想化とこき下ろしの間を揺れ動く極端に不安定な対人関係様式やトラブルメーカー的な情緒不安定性が『安定して』存在し、自己破壊的ないしは家族や子どもや友人に対する他者破壊的な暴言などの言動が近しい人々を悩ませたり立腹させたりし、反社会的な思いや言動に囚われていて、なおかつ一人でいることに耐えられないで周りの人々を振り回したり操作したりする人々の総称であり、欲求不満に対する耐性が脆弱な方々であり、多くは思春期に安定した友人関係を築けないでいる共通項を持つ。」

 臨床現場での実感としては、境界例は単に境界性パーソナリティ障害だけではないように思います。境界例はもともと精神病とも神経症とも白黒付け難い境界領域に漂泊する流浪の民を総称して言うのですから、今日DSMなどを使って行われているような◎×型パーソナリティ障害としての細分化された診断基準にどこまでの意義があるのか、私は疑問に感じているのですが……。

 ある境界例の患者さんに付けられた診断名がたとえば「境界性パーソナリティ障害」かつ「演技性パーソナリティ障害」かつ「自己愛性パーソナリティ障害」なんて錯綜した状況になることも稀ではないのですからね。それでも綿密な見立てが不可能とくれば「特定不能のパーソナリティ障害」なんて診断名が第二軸に記載されたりするのですから。そうした細分化にどこまでの意味があるのか、私には疑問です。

 さて、高名な精神科医の牛島定信先生は、境界性パーソナリティ障害を所謂精神障害としてではなくて、思春期挫折症候群(これはもともと精神科医の稲村博先生が仰った概念でしたね)の延長線上にあるものとして捉えています。

 確かに、一見手のかからないいい子に見えた児童(そういう子はとても我慢して生きているので、かえって危ないのですが)が、突然極めて不安定な対人関係や情緒不安定性に陥るのは思春期に入って、第二の分離個体化期を迎えてからのことが多く、また思春期にはいじめや性の目覚めなどの多彩で暴力的な変容体験が子どもたちに有無を言わさずに襲い掛かりますね。

 その時期の大部分を子どもたちは学校で過ごすのですが、学校の教師にしたらそもそも境界例なんかまずご存じないですし、何かあったら「この問題児が悪い!!あの親だからこんな子になる!!」の一言で片づけるきらいがありますので、熱心な教師の「善意」であれこれと問題児に打って出る手がことごとく裏目に出ているのが現状ではないでしょうか。

 それに、滋賀県大津市で起きたいじめ自殺事件のケースに限ったことではなく、私の知りうる範囲内においても、そもそも「こんな人が教師として子どもたちを教えていいのだろうか」と、教師の資質に疑問を感じることが多々あります。勿論、いじめは難しい問題ですし、学校だけの責任に安直に帰すべき代物ではありませんが、教師として以前に人間として難点がある「先生たち」が増えている気はします……(-_-;)

 閑話休題。
 河合隼雄先生がしばしば指摘しておられたことですが、境界例が先進国で多発している背景には、ヌミノースとしての神が死に果てたかのように宗教が形骸化ないしはカルト化してしまった現代社会において、子どもたちが思春期のイニシエーションを乗り越えて我儘や自己中心性を克服し、自立しかつ自律できる大人となるための「守り」や「holding」が喪失されてしまった事情があるのでしょうね。

 でも、それが大人になるということなのなら、現代の日本には年を重ねても大人になれていない人々が極めてたくさんいるようにも思いますね。一時期アダルト・チルドレンという言葉が喧伝されたことがありましたが、あれはユング心理学的に申し上げるのなら、要するに自己中心性を去勢されていない、イニシエートされていない「永遠の少年少女」ですよね。「永遠の少年少女」は境界例と極めて密接な関連があるものと私は愚考していますが、それについてはまた稿を改めて申し上げたいと思います。

 イニシエーションにおいては、フロイトがエディプス・コンプレックス理論で述べた去勢論に示されているように――この命題についてはジャック・ラカンのファルス理論での方が明快に論ぜられていますが――我儘だった子どもとしての自分が一度象徴的な次元で死に、イニシエーションを司るメタ人格や宗教性による実存的な支えに守られながら、適切な境界線を引いて自己責任を取れる大人のアイデンティティを獲得して、象徴的な次元で生まれ変わることが大切なんですね。これについては河合隼雄先生やジョゼフ・ヘンダーソンの『夢と神話の世界』、また宗教学者ミルチャ・エリアーデの『生と再生』『聖と俗』などの一連の文献に詳しいですね。

 ちなみに、これも河合隼雄先生が指摘していることなのですが、境界例の方というのはイメージや実存的二者関係に耽溺する傾向があるのです。命懸けのイニシエーションに際して私たちが体験するコミュニタスとリミナリティという実存的な、まあ言えば「俺とお前の仲じゃないか」的な甘えた依存関係が許容されるコスモロジーに耽りたいのでしょう。子どもでもなく、かといって大人にも成り切れていない大人子ども、それが境界例のイメージでしょうか。

 ですから、境界例の心理療法ではあまりイメージを動かす技法は取らない方が良いのではないかと私は思うのです。境界例の方は無意識に対して脆弱なところがありますので、心理療法や精神科医による診察が始まりますと、すぐに大量の夢を報告される傾向があります。しかし、それはそれとして、夢を貫いている意味(シニフィアン)さえ理解しておけば、特に夢解釈やら夢分析やらはしない方が治療上賢明でありましょう。箱庭療法やら絵画療法といったイメージ療法も、その導入に際しては、例えば中井久夫先生の考案した「風景構成法」で治療上の適用可否を見てから実施すべきではないかと愚考しています。

 鹿児島の名精神科医である神田橋條治先生が指摘しておられるように、これらの方に対しては、動きすぎる無意識に対して「波静めの技法」を使って穏やかならしめた方が良いのではないかと私も体感しています。

 境界例に対してどのような臨床的アプローチがあり得るのかだけではなく、身近にいるであろうこれらの「少し」困った人々にどのように接していけばいいのかにつきまして、次回から続けてお話しして参りたいと存じます。境界例に適切な「境界線」を引きながら関わることは、この種の臨床の要諦ですから、具体的な関わり方や、逆にしてはいけないことなどについて申し上げていきたいと思います。

 一般的に申し上げて、境界例と関わるということは、少なくとも自分の守備範囲と許容範囲を弁えて相手に対して適切な「境界線」を引くことが大前提となります。日本人は我が身を守るバウンダリーこと「境界線」を引くことに罪悪感を覚える方が多いので、そこは丁寧に私なりの愚案を提示してみたいと思います。

 「境界例を魔女狩りしてはならないけれど<第一回>」の記事の結びに、私は次のことを申し上げておきたいのです。境界例の方々は孤独です。安直なヒューマニズムや浪漫主義ではどうにもならないほどの血みどろの地獄のような孤独の暗闇の世界で、独りで呻吟しておられるのです。誰も好きで境界例になるわけはありません。境界例の方に中途半端に優しくするのは禁忌ですが、少し距離を取りながらでいいですから、その立ち直りを温かく見守ってあげてくださいますようにお願いします。境界例の方はしばしば自傷行為に及びますが、周囲がそれを甘く見ていますと、本当に命を落としてしまうことすらあるのです。身近に境界例と思しき青少年を抱えてお困りの方は、どうか良心的な児童精神科医のもとを一刻も早く受診されることをお勧めします。

 今この瞬間も孤独と絶望に呻いているであろうボーダーラインの方のために、神の平安と癒しを祈ります。

 続きます。

 以上、クリスチャン心理療法家ヨハンズ暁の独り言でした。