吉田元所長死去:原発立国の光と影を背負い
毎日新聞 2013年07月09日 20時53分(最終更新 07月09日 23時18分)
東京電力福島第1原発事故の収束作業を指揮した吉田昌郎元所長(58)が9日死去した。原子炉への海水注入の中断を求める東電本店の指示を無視し、独断で注入を続けるなど毅然(きぜん)とした態度が評価された一方、震災前に第1原発の津波対策の拡充を見送ったことも明らかになった。原発立国の光と影を背負ったまま、58年の生涯を閉じた。
「事故の記録を書こうと思っているが、なかなか筆が進まないんだ」。吉田さんは昨年、友人の医師にこう打ち明けた。回想録を出版し、印税を被災者への寄付に充てようと考えていた。しかし食道がんの治療で体調が安定せず、執筆は中断しがちだったという。
吉田さんは1979年に東京工業大大学院を修了。旧通産省(現経済産業省)の内定を蹴って東電に入社、一貫して技術畑を歩いた。「親分肌」「面倒見が良い」と現場の信頼を集め、本店とは距離がある協力企業の作業員の人望も厚かったという。第1原発所長には2010年6月に就任し、同原発への勤務は4回目だった。
一方、11年12月に公表された政府の事故調査報告書(中間報告)によると、吉田氏は原子力設備管理部長だった08年、従来の想定を大幅に上回る「最大15・7メートル」の津波が原発に押し寄せるとの試算結果を独自にまとめながら、「最も厳しい仮定を置いた試算に過ぎない」として防潮堤などの津波対策を先送りしたことが明らかにされている。
事故8カ月後の11年11月、原発内で報道陣の取材に応じた際には、事故を謝罪。「想定が甘かった部分がある。これからほかの発電所もそこを踏まえて充実させていく必要がある」と答えていた。
「一番インパクトがあったのは3号機の水素爆発(3月14日)。自分も含めて死んでもおかしくない状態だった。10人ぐらい死んだかもしれないと思った」。吉田さんは公の場で事故について語ることはほとんどなかったが、12年8月、公開のシンポジウムにビデオで出演し、事故を振り返った。
「原子炉を安定化させることが一番重要な責務。まだ十分な体力はないが、戻ったら現場のために力を尽くしたい」。闘病の疲れをにじませながら、あくまで現場復帰に意欲を示した。