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ふいにバスルームのドアがカチャッと開けられる。
そこには、一樹が立っていた。
「おねぇちゃん…。泣いてるの?」
「う…ううん…。何でも………ないっ…よ」
「泣かないでよ。ね…、泣かないで?」
一樹は既にシャツとジーンズを身に着けていた。
だが、濡れるのも構わず、蹲る沙夜を抱きしめる。
「おねぇちゃん…が、イヤなら、もうしないから…だから…泣かないで…」
一樹は、姉が泣いているのは自分のせいだと思っているらしい。
そうじゃないのに。
逆に沙夜の方こそ、一樹に申し訳ないと思っているのに。
沙夜は、一樹にしがみつき、泣きじゃくった。
「一樹…ぃ、一樹…ごめん……ね」
一樹は優しい。
昔っからとても優しい。
いつだって沙夜の事を先に考えてくれる。
そう、アメリカに行く時だって、自分がツライ事よりも、1人ぼっちになる沙夜を案じてくれた。
優しい一樹…、大好き、凄く好き。
私の…自慢の弟。
沙夜は、一樹をぎゅっと抱きしめて唇を重ねた。
これは姉弟のキス。
欲望とも情熱とも違う次元の…。
一度唇を離して、そして、たっぷりと舌を絡め、甘露に酔う。
これは、姉弟のキスじゃない。
恋人同士の、そして、ただの男と女のキス。
「一樹…一樹…。ごめんね……一樹…」
そっと一樹の手を取ると、クチュリと股間に導く。
「おねぇ…ちゃん?」
「ね…もう一度…しよ?」
「………………いいの?」
「いいよ。気持ち…いい事、もっと……いっぱいしよ」
「うん…しよ。沙夜おねぇちゃんが…そうしたいなら…」
そのまま2人は、抱き合ったまま、降り注ぐシャワーの下に倒れ込んでいった。
バスタブに溜まった湯の中で、沙夜はボンヤリと天井を見つめる。
グッショリと濡れた服は、シャワーの下に脱ぎ捨てられたまま。
全裸の一樹の腕に抱かれ、胸にもたれ、深く深く息をつく。
「ね……一樹……………」
「ん…?」
「もう…こういうの…なしじゃ…だめ…かな…?ううん…なんでも…ないよ」
沙夜のうなじに、一樹の唇がそっと触れる。
「沙夜おねぇちゃんが…イヤなら、俺は…いいよ?」
沙夜は一樹にぎゅっと抱きつく。
一樹が弟でなければ、このまま身を任せてしまってもよかったかも知れない。
でも、私が好きなのは…。
私が、本当に欲しいのは…。
「こういうの…ほんとは…ダメなんだよね?俺…ちゃんと知ってるよ?」
「…………一樹…」
「でもね…おねぇちゃんと4年ぶりに会えて…嬉しかったから、おねぇちゃんがしたいって言ったから…俺…」
「…うん…。私も……嬉しかったよ」
「だから、俺…おねぇちゃんなら…いいかなって…」
「…一樹…一樹」
沙夜は一樹の胸に顔を埋めていた。
昔はこの腕の中にいたのに、弟はいつの間にか、沙夜を支えられるくらい逞しくなっていた。
優しさだけは昔のままで、こうして傍にいてくれる。
「沙夜おねぇちゃんがイヤなんだったら…もう…しない。おねぇちゃんがイヤな事はしない。
だから…ね?泣かないで」
「ん……。でも……一樹……、止まらない…の。止まらない…のよ…」
泣きじゃくる沙夜の頬に流れる涙を一樹の舌がペロリと舐めた。
「じゃあ、泣きたいだけ泣いて。おねぇちゃんが泣き止むまで、俺がずっとこうしててあげるから…」
「一樹…。ごめんね…ごめんね…ごめんね…」
「沙夜おねぇちゃん…、大好きだよ」
「一樹………」
お父さんが仕事でいなくて、お母さんも傍にいなくて、本当は寂しかった。
だけど、私が寂しいと言えば、みんなが気にする。
一樹が気にする。
アメリカに行けば、一樹の病気は治るって言われた。
それは一樹のせいじゃないんだもの。
だから、ずっと我慢してた。
でも、寂しかったの。
本当はとても寂しかったの。
「あんなことしなくても…、俺…おねぇちゃんの事…大好きだよ」
「ぐすっ…、一樹ぃ…」
余計に泣き出してしまった沙夜の涙を一樹は何度もキスで拭う。
ずっと頭をなでて、静かに優しく囁き続ける。
昔、沙夜がそうしてくれたように。
「ふっ…。一樹……いつきぃ…っ、もぉ…どこにも…いっちゃイヤ」
「うん…。ここにいるよ。おねぇちゃんと居るよ」
沙夜は一層強く抱きついて、しばらくそのまま泣き続けていた。
バスルームを出て、間に合わせにローブを着ると、2人はリヴィングに戻る。
ソファに腰をおろした一樹は、そのまま沙夜を膝に抱いた。
先日、貴司がしたのと同じ行為に、沙夜はドキリとする。
考えまいとするのに、心を過ぎるのは貴司の姿。
また、頬を水滴が一筋伝った。
心配そうな一樹に、慌ててゴシゴシと涙を拭う。
「え…へへ。ごめんね。いっぱい…泣いたのに…まだ…」
目元の涙をペロッと舐めると、一樹はギュッと沙夜を抱きしめる。
「ふふっ、いいよ。でも…もう平気?」
「うん。もう…平気…だよ」
「泣きたくなったら言ってね?俺いつでもこうしてあげるから」
「うん…ありがと…。でも…私…、一樹に何を返せばいい?」
「え?なぁんにも要らないよ?」
「………どうして?」
「だって…俺のおねぇちゃんだもの」
「………一樹?」
「おねぇちゃんが泣いてるのに側に居てあげられないなんて弟じゃないよ」
また、沙夜の目からポロポロと涙が溢れる。
優しすぎるよ、一樹。
胸が痛い。
「ゴ…ゴメン。俺…なんか悪いこと言った?」
「ううん。そうじゃない。嬉しいの。ありがと…嬉しいよ」
「おねぇちゃん…」
自然と唇が重なる。
でもこれは姉弟のキス。
欲望とも情熱とも違う次元の…。
もしも血縁でなければ、姉弟でさえなければ、このまま恋に落ちていたかも知れない。
こんなに優しくされて、身体を繋いで、何の不満があるというのか。
本当に、姉弟でさえなければ…。
「もう…部活も…やめようかな」
そうすれば、警備員室に近寄る事もなくなる。
学校に居るのは平日の日中だけ。
きっと、あの人とも会わずに済む。
「どうして?」
「ん…。少しでも…、一樹と居たいから」
「おねぇちゃん。これからは、俺が居るからね?もう寂しくないからね?」
「う…うん。うん…、一樹がいてくれるもんね。寂しくなんて…ないよね」
「だって、おねぇちゃん、今まで俺のせいで1人ぼっちだったんだもん」
「馬鹿……。一樹のせいなんかじゃないよ」
一樹の唇がそっと瞼に押し当てられる。
2人の身体を隔てるのは薄いローブのみ。
沙夜は、直接肌を触れあわせる以上にドキドキしていた。
「ごめんね。おかぁさん…一人占めにして…」
「ううん。そんなの平気…。だから…気にしちゃイヤ」
「だからさ…、その分これからは、俺がおねぇちゃんと居るからね」
「…うん…ありがと…。一樹は…優しいね」
「だって…、おねぇちゃん今まで我慢したんだもん。おねぇちゃんはおとうさんやおかぁさんや俺にいっぱい優しくされる権利があるよ」
マジメな顔で沙夜の権利を主張する一樹に思わず笑う。
「我慢なんて…してないよ。んもぉ、気の回し過ぎよ、一樹のお馬鹿」
「馬鹿でいいもぉん、これからいっぱい勉強すんだもん」
「ふふっ…お馬鹿さん」
一樹がアメリカで、通信教育とはいえ、優秀な成績を取っていた事は聞いていた。
昔っから負けず嫌いで、勉強熱心。
そんな一樹が馬鹿だなんて…。
「ふふふ…。一杯勉強しなくちゃね」
「えへっ。うん、頑張るね」
「そしたらきっと…、一樹にも素敵な恋人が…出来るよ」
「え…?ま…まだ早いよ」
「そうかなぁ?だって、一樹ってば、とっても素敵だもの」
何故か、この話題になった途端、一樹の歯切れが悪くなった。
大人になる事を恐れているかのような反応。
怪訝そうな沙夜に、一樹はチラリと視線を送る。
「お…俺よりもおねぇちゃんの方が先じゃない」
「え………?私…?」
「…おねぇちゃん…もうつきあってる人…居るでしょう?」
思わず沙夜は曖昧に笑ってみせた。
あの人とは恋人同士なんかじゃない。
戯れに拾われたペットとご主人様。
そしてその関係は、一方的に閉じられようとしている。
「違う…の…?」
「…………………………さぁ?違う…かもね」
「好きな人…居るんでしょ?」
どうしても、沙夜に恋人が居る事にしたいらしい。
「どうしてそう思うの?そんなに…気になる?」
一樹はちょっと頬を染めて、ボソッと呟く。
「だって…、そしたら…、俺…悪いことしちゃったかなって…」
沙夜は自嘲気味な笑みを浮かべた。
悪いのは自分。
一樹を誘ったのも、私が悪い。
「……一樹はなぁんにも、ワルイ事なんてしてないよ」
「でも…いっぱい…しちゃったし…」
「いいのよ…」
「その………………おねぇちゃん、初めてじゃなかったし…」
胸がズキッと痛む。
沙夜の処女は1年前に、力ずくで奪われた。
そのままペットで居るなら、それはそれでもよかったのに…。
「………そうね…。初めてじゃ…なかった」
「それに…その…変なとこに…ピアスしてる」
ビクッと沙夜の身体が震える。
一樹には身体の隅から隅まで全て見せてしまった。
当然、隷属の証のリングも、彼は目の当たりにしている。
「おねぇちゃん…その人のこと…好き…なんでしょ?」
弾かれたように、沙夜は一樹の膝から飛び降りていた。
「ほ…ほら…もう、着替えよう?風邪…ひくわ」
「あ…うん」
「夏だからって、油断すると風邪引いちゃうんだからね?」
「うん…」
沙夜は、ともすれば一樹の腕にすがりそうになる自分に渇を入れ、部屋へと戻っていった。
ばさっとワンピースを頭からかぶり、普通の下着を取り出して身につける。
このところ、貴司のために刺激的なものばかり身につけていたので、妙な感じだ。
クローゼットの中に隠すように置かれたボンテージにバイブ。
貴司の命令で、何度も身につけ、生活してきた。
そういう格好が平気になっている時点で、自分はどうかしてしまっている。
ふっとため息をついて、ベッドを見つめる。
殆ど一日ここで、一樹と身体を重ねていた。
身体の芯がまたカァッと熱を帯びてくる。
慌てて立ち上がると窓を開けた。
生々しい性交の匂いが残っている気がして…。
「…沙夜おねぇちゃん」
振り返ると、ドアのところに一樹が立っていた。
「え?あ…なぁに?」
「その…………………喧嘩でも…したの?」
「喧嘩…?誰と…?」
「おねぇちゃんが…つきあってる人と…」
沙夜は黙って首を横に振る。
喧嘩というのは、互いの立場が同等な場合に成立するものだ。
あの人と自分とは、住む世界が違う。
ワガママな彼は、王様で支配者で…沙夜には手が届かない人。
「だったら…どうしてそんなに寂しそうにしてるの?」
「……さみし…そう?」
「うん…。おねぇちゃん…、すっごい寂しそうだ…」
しばらく、一樹の言う意味が理解できない
せっかく一樹が帰ってきてくれて、沙夜はとても嬉しいのに。
これからずっと一緒にいられる事が、とても嬉しいのに。
もう1人ぼっちの家に帰って、1人ぼっちで朝を迎えなくてもいいのに。
なのに、一体何が寂しいというのだろう?
一樹の心配性…。
「そんな風に…みえちゃう?」
苦笑を浮かべる沙夜を一樹はじっと見つめていた。
「だって…、前はそんな顔したことなかったよ?」
「そんな…顔?」
一樹は、沙夜の傍までやってくると、そのまま沙夜の顔を覗き込む。
「俺、おねぇちゃんの嬉しい顔も怒った顔も悲しい顔も知ってるけど…、寂しいって顔だけは、見たことなかったもん」
胸の奥にチクリとした痛み。
でも、これは寂しいのとは違う…、違うはず…。
「一樹ったら……気のせいよ」
「そう?」
「そうよ。だって…、こうして一樹が帰ってきてくれたじゃない?もうずっと、一緒に居られるのよね?なのに…なにが…寂しいの?」
一樹の茶色い瞳を見つめていると、ふいに涙が出そうになった。
泣く理由なんてないのに。
「俺が帰ってきたせいで…、その人に会えなくなっちゃったとかじゃ…ないよね?」
ツキンッ。
また胸が痛んだ。
「馬鹿ね…。そんなこと…ないわ」
「おねぇちゃん…、嘘ついちゃダメだからね?」
「え?あ………うん」
嘘なんてついてない。
どうして一樹はそう思うんだろう?
嘘じゃないわ。
一樹のせいでなんて、そんな…。
「おねぇちゃん…嘘ヘタなんだから…」
どうでも一樹は沙夜が嘘をついている事にしたいらしい。
沙夜は思わず苦笑を浮かべる。
「そう?下手かしら?」
「そうだよ。俺…すぐわかっちゃうんだから。前もそうだったでしょ?俺おねぇちゃんの嘘はすぐわかるよ?」
「え…?前?」
「俺がアメリカ行っちゃうより前」
「私…何か嘘ついたっけ?」
仲のよい姉弟だったから、嘘なんて必要なかった。
何かあっただろうかと首をかしげる沙夜に、一樹はとくとくと話して聞かせる。
「おねぇちゃんは意地っぱりだから、嘘つくとすぐ目がウルウルになるんだよ」
「え…?」
慌てて鏡を覗き込む。
そこには、泣いていいやら笑っていいやら、複雑な顔をした自分が映るだけ。
「ネコのチィが死んだ時も…、おねぇちゃんは俺に本当の事言わなかった。でもおねぇちゃんの目がウルウルになってたから、俺すぐ嘘だってわかったもん。おねぇちゃんが俺に心配させないようにって嘘ついても…絶対わかっちゃうんだよ」
あの時一樹は、しゃくりあげながら、何度も沙夜に聞いていた。
『チィはもう痛くない?』
『チィとはもう会えないの?』
チィは沙夜がまだ幼い頃から飼っていた猫。
一樹には不思議とよく懐いた。
年老いたせいか、食が細くなり、部屋の隅でじっとしている事が多くなり、最後の頃には目もよく見えなくなっていた。
病気がちになり、よく苦しそうに声をあげ、一樹を心配させていた。
チィが死んだのは、6年前の秋。
一樹が小学校から帰ってくる前に息を引き取った。
特に可愛がっていた一樹を悲しませたくなくて、沙夜は『チィはどこかへ行ってしまった』と教えたのだ。
そういえば、チィが家を抜け出すと、決まって探しに出かけていった一樹が、その時ばかりは探しに行くとは言わなかった。
沙夜の嘘を彼は見抜いていたのか。
「ね、喧嘩したのなら謝ればいいんだよ?謝っても許して貰えないほど悪い事なんて、おねぇちゃんしてないでしょう?」
「だって…、本当に…喧嘩なんて…してないのよ」
ただ、一方的に切り捨てられただけ。
訳も言わず、他の人に譲られただけ。
それが…一樹だっただけ。
「じゃあ…意地悪された?」
また胸が痛む。
「意地悪?そう…ね…。ちょっと……っ、されたかも…しれない」
ベッドにポフンと腰を下ろし、沙夜は床にのばした足先を見つめる。
あの人に会わなくなれば、もうあんな恥ずかしい事はしなくてよくなるのだ。
痛い思いも、苦しい思いもしなくていい。
だけど…、もう会えないって事が…何だか…とても…。
「おねぇちゃん…その人のこと…好きなんだ…?」
「……どう…なんだろう…?」
曖昧な笑みを浮かべる沙夜に、一樹はグッと身を乗り出す。
「だって、好きな人にされたんじゃなければ…意地悪ぐらい平気でしょ?」
どうでもいい人にされる意地悪なら笑って流せる。
別に、その人に嫌われたって構わないのだから。
確かに、一樹の言う通りだ。
「あ…は…。そう…そうね…」
まったく、一樹ときたら、妙に悟っちゃって。
可笑しくなるほど沙夜より落ち着いている。
何だか、とても甘えたい。
少しくらい…いいよね。
「ね…、一樹、こっちきて」
沙夜に呼ばれるまま、一樹は隣に腰を下ろす。
自分よりグッと高くなった肩。
そこにそっと頭を凭せ掛け、沙夜は安堵のため息をつく。
「一樹ったら…、なんだか凄く大人になったね。 一樹の方がおにぃちゃんみたい…」
「そぉ?ふふ、そうかもね。だって俺、4年も病院のベッドで我慢したんだもん。痛い事や、ヤな事はもうプロだよ」
「んもぉっ…。そぉんなプロになって、ど〜するのよっ?」
2人はくすくすと笑い合う。
一樹の手がサラリと沙夜の前髪をなでる。
「プロになればさ…、人が痛いの…判ってあげられるじゃない?」
「…あぁ…ほんとね。だから、一樹は優しいんだ…」
沙夜は自分のどこが痛いのか解らない。
でも、こうしているととても安心する。
一樹が居てくれるから、もう1人で悩まなくてもいい。
本当に、一樹は凄い…。
「でも…おねぇちゃんは特別だからね?」
「そうなの?」
「だって俺のおねぇちゃんだもん」
「あはっ……一樹ったら…」
「俺とおねぇちゃんの中には、同じ血が流れてるんだから…。だから、他の人よりちょっぴり余計に判ることがあるんだよ」
「ちょっぴり?そうなの?」
「うん…。あのね…、入院してた隣の部屋にね…やっぱり男の子が入院してたんだ。入院してるのはお兄ちゃんの方で、よく弟がお見舞いにきてた」
「うんうん」
「けどね、お兄ちゃんが具合悪くなりかけるとね、弟がすぐにわかっちゃうんだよ」
「へぇ…。凄いのね」
「うん。俺も、不思議だなって思ってたらね、担当の先生がこう言って教えてくれたんだ。『兄弟だから判ることもあるんだよ』って…」
「……そうなんだ」
「だからね…おねぇちゃんが痛いと…俺も痛いんだ」
「……一樹…」
胸がキュッと締め付けられる気がする。
何故かは解らない。
無性に心細くなって、沙夜は一樹の腕に抱きついた。
「さっきから…おねぇちゃんと居るのになんだか寂しい。なんだか痛い。でも俺は何も寂しい事も痛い事もないから…、きっとこれはおねぇちゃんの『痛い事』なんだなって…。おねぇちゃん…今、すっごく痛いんだよ」
ポロリと涙が零れる。
そうか…、私…寂しかったんだ。
貴司さんに捨てられて、どうしようもなく寂しかったんだ。
会えなくなるのが、とても辛くて、傍にいさせて貰えないのが、もの凄く悲しくて…。
「ね…?その人…会えないの?」
「う…ううん…。多分…あえるよ…。会おうと…思えば…」
会いに来るなとは言われなかった。
ただ、『弟に満足できなければ』と…。
貴司は、仕事ならきっと保安室に居るはずだ。
勤務である以上、そこに居ないはずはない。
「じゃあ…会っておいでよ…」
「…今から?」
もうじき日が暮れる。
「そうだよ。それとも、その人の事…もう…嫌いになっちゃった?」
「………わかんない…」
「意地悪されたから…顔も見たくなくなった?」
「………そういう…わけじゃぁ…ない」
「だったら…行っておいでよ」
「でも…一樹…」
「なぁに?俺の事なら心配しないで?留守番くらいできるから」
ニッコリ笑って片目を瞑ってみせる一樹がとても頼もしい。
本当に…大きくなったね、一樹。
「うん…ありがと…ね…一樹」
「頑張ってね…沙夜おねぇちゃん」
一樹は沙夜の手に軽くキスをしてくれた。
妙に大人びた仕草。
「一樹ったら…。んもぉ、生意気…」
だからお返しに、沙夜は一樹の唇を吸った。
ゆっくりと舌を絡め、たっぷりと味わう。
でも何故か気持ちは興奮するよりも、落ち着いていた。
「ちゅっ…。ね、もし…捨てられたら…慰めてね?」
「うん。いつでも言って…。だって、俺はずぅ〜〜っとおねぇちゃんの弟なんだからね?」
「ありがと…。じゃあ、行ってくるね。帰ってきたばかりなのに…ごめんね…一樹」
「気にしないの。俺は大丈夫って…言ったでしょ?」
「うん…そうだね…」
「俺…待ってるから…」
沙夜はベッドから降りると、ワンピースの裾を軽くさばいて直す。
「よし。じゃ…いってきます…一樹」
「うん。いってらっしゃい、おねぇちゃん」
一樹に見送られ、沙夜は夕暮れの街に駆けだしていった。
貴司はボンヤリと椅子に座って宙を見つめる。
目の前に置かれたコーヒーはすっかり冷めていた。
何をする気にもなれない。
ただ、無為に時間を過ごしているだけ。
「情けない顔してるわね」
貴司は不機嫌そうに顔を巡らせる。
応接のドアに、美貌の女性が立っていた。
「何の用だ?今日来るとは聞いていなかった…」
「つれないわね。わざわざ婚約者が尋ねて来たっていうのに」
「ふん…」
以前に比べて、随分と余裕がなくなってきた感がある。
そんな貴司の様子に、美咲は苦笑した。
随分と薬が効いたと見える。
あの傍若無人にして、自信家の鼻っ柱がようやく折れたか。
「今日はね…、話があって来たの。いいかしら?」
「勝手にしろ…」
沙夜は大きな門の前で戸惑っていた。
確かに、表札に『MIMA』と書かれた洋風建築の建物は、想像以上に豪奢で、沙夜は気後れしてしまう。
学校に行ってみると、今日も貴司は休みを取っていた。
どこに行けば会えるかと尋ねた所、警備会社の本社屋を教えられる。
そこに行けば、全職員の連絡先が判るからと…。
だが、警備会社の本社屋まで赴いた沙夜に、受付嬢は貴司の住所を教える事を拒んだ。
社の規則で、従業員のプライバシーに関する事は教えられないのだと言う。
今まで、自分から連絡をする事はなかった。
全て貴司の指示のまま、言われるままに過ごしていたのだ。
学校のOBで、スポーツクラブのオーナーの息子で、将来はその跡を継ぐという事は噂には聞いていた。
元テニスの選手であり、スポーツも学業も優秀…、という事も噂で聞いただけ。
改めて、自分が貴司の事について何も知らない事に気づかされる。
貴司自身が知らせないようにしていた事もあるだろう。
だが、それ以上に、沙夜が恋人ではなく、ペットに過ぎないという証明をされたようで、無性につらい。
それでも、これが最後だと言うのなら、せめて理由を知りたい。
邪魔だと言われるのなら、身を引く覚悟はできている。
貴司の口から、自分が彼にふさわしいペットではないと言い渡されたかった。
顔も見たくないと言われるのなら、最後に一目でいいから会いたかった。
そうでなければ、背中を押してくれた一樹に申し訳が立たない。
でも…。
会えなければどうする事もできない。
途方に暮れた沙夜は、泣きながら家に帰る。
だが一樹は、沙夜に少し待っているように言い聞かせ、あちこちに電話をかけ始めた。
そして、待つ事1時間。
とうとう、一樹は貴司の住所を調べ上げた。
一樹に教えられるまま、沙夜が訪れたのは山の手の一画。
そして、やっと貴司の家にたどり着いたのだが…。
呼び鈴を押し、名前を告げる。
応対したのは若い女性だった。
彼女は、沙夜の名を聞くと、意外にもあっさりと家に入る事を許した。
貴司にお伺いを立てた様子もない。
だが、開かれた門を沙夜は恐る恐るくぐる。
もう、前に進む以外、選べる道はなかったから。
やや控えめなノックに貴司は不機嫌そうに声をあげた。
「開いてる…。何の用だ?」
だが、聞こえてきたのは怯えたような、震える声。
「あの………お邪魔…します…。あの…貴司…さん…?」
ガタンと音をて、貴司はソファから立ち上がる。
まさか彼女がここまでやってくるとは思ってもみなかったから。
「さ…沙夜…!?」
沙夜の後ろに貴司は美咲の姿を見る。
思わず眉間に皺が寄った。
「美咲っ!?お前が連れて来たのかっ!?」
「知らないわよ。貴方に会いたいって尋ねて来たから入れてあげただけ。アタシがそんな親切な女に見えて?」
「くっ…」
美咲は軽く沙夜の肩を叩いて部屋に押し込むと、そのままスタスタといなくなってしまった。
沈黙が2人の間に流れる。
「あ…あの……、勝手に…尋ねてきて…ごめんなさい…」
凍り付きそうになる唇を必死に動かし、言葉を選ぶ。
ご主人様の命じた以外の事をしたのだ。
叱られても当然。
身を竦ませる沙夜を横目に、貴司は再びソファに腰を下ろした。
「夕べは…楽しめたか?」
「……貴司さん…」
「弟と寝たんだろう?」
「…っ!」
沙夜は思わず唇を噛みしめる。
それはあの衝動の全てが、貴司の仕組んだ事だという証拠。
やはり、貴司は自分が要らなくなったのか。
だから一樹に押しつけたのか。
ジワリと涙がにじむ。
「4年分の鬱憤くらいは…晴らせたろう」
「……それ…どういう…事?」
「何がだ?」
「…もう…私は……いらないの?」
「何だと?」
いつ怒鳴られるか、いつ殴られるか。
貴司の逆鱗に触れるのは怖い。
だけど、これが最後かも知れないと思うと、辛うじて声が出た。
「最後…だから…あんなに…やさしく…っ…してくれたの?」
貴司の口元に皮肉な笑みが浮かぶ。
「お前が…俺より弟の方がいいっていうなら…あれが最後でもいいぞ」
「…っ。貴方…は、それを…それが…貴方の…望みなの?」
「お前次第だ。選ばせてやると言ってる」
そんなのずるい。
自分がそうさせたくせに。
私はそんな事望んでいないのに。
涙が溢れて停まらなかった。
「何故…泣く?」
「貴司さん……」
「何だ?」
不機嫌そうな貴司に、また言葉が詰まる。
どうしよう。
もう来るなと、もう終わりだと言われるのが怖い。
「…う…ううん…なんでも…ない…です…」
手にしたバッグを抱きしめるようにして、沙夜は俯く。
その様子が、よけいに貴司の気に障ったらしい。
「お前は…。ったく、言いたいことがあるならはっきり言え!」
沙夜は頭の中で、必死に一樹の名を呼んでいた。
お願い、おねぇちゃんに勇気をちょうだい。
泣き顔で貴方の所へ帰らなくていいように…。
貴方に、これ以上心配かけなくてもいいように…。
「私…私…、ペットはもういや…。でも、私…貴方が…、貴司さんが…好き…!」
「…………………沙夜…」
「好き……なのっ…!」
血を吐くようにして告げる沙夜に、貴司は戸惑いの表情を見せる。
あり得ない事だとでも言うように…。
「お前は…………俺に抱かれるのが…好きなんだろうが…」
「……うん」
「なら…相手は俺じゃなくてもいいはずだ」
「どぉ…して?」
「今のお前なら…、どんな男を相手にしたって満足できる。街を歩けば、男どもが放っておくまい」
「い…やよ。それは…貴司さんだから…いいの。他の人とは…いや…」
「弟では…ダメか?」
「…当たり前じゃない…」
沙夜はギュッと唇を噛んだ。
貴司に与えられた薬で狂ったように身体を重ねた昨日。
確かに、愉悦を感じ、何度も何度も身体を繋いだ。
だが、一樹とはそんな事をしなくても解り合える。
だって、姉弟なんだもの。
だって、一樹なんだもの。
「………………………そうか」
貴司の手がすっと差し出された。
指先はまっすぐ沙夜に向けられている。
「来い…」
「え…?」
「こっちに来い」
ゴクリと喉が鳴る。
恐る恐る足を踏み出し、貴司の手にそっと触れる。
その瞬間、グイッと手を掴まれ、貴司の腕に抱きすくめられた。
「……っ!?」
唇が重ねられ、強烈なキスが降ってくる。
かみつくような、貪るようなキス。
「んっ…………!くぅっ……ふっ…ん!!」
そのまま沙夜の身体は抱きあげられ、ソファの上に押し倒される。
「た……貴司…さんっ!?ひゃうっ!?」
ワンピースの裾がたくしあげられ、引きちぎるかのように下着がずりおろされた。
呆然とする沙夜の身体に、すっかり慣らされた瞬間が訪れる。
「あ…あぁっ!!貴司…、貴司さぁんっ!!」
沙夜は無理矢理貴司に身体を繋がれていた。
グシュグシュと音がして、乱暴に膣壁が擦られる。
これまでのどんな時よりも余裕のないSEXだった。
両腕を掴まれ、沙夜は自分で身体を支える事ができない。
「んっ…はっ…あふぅっ!!やっ…、あぁぁぁぁぁっ!!」
グシュッ、リン、ジュクッ、チリン。
律動が激しくなり、リングの音が劣情を刺激する。
「あ…あぁっ!!ふぁぁっ!!んっ…、くはっ!!貴司…さっ…んっ!!」
沙夜は、ここが応接である事も、誰かが来るかも知れないという事も忘れていた。
ただひたすらに切ない喘ぎをあげ続ける。
これが最後のSEXなのか、それとも、また元の関係に戻ると言うだけなのか。
何も判らぬまま、貴司の熱に乱れていく。
もう、何もかも振り捨ててもいい。
貴司の傍に居たい。
私の望みは、それだけだから…。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
沙夜が我に返ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。
あまりの激しさに、まだ動く事もできない。
身体のあちこちに情欲の痕があった。
一度沙夜の中で達した後、貴司は沙夜を抱き上げると、彼女を隣室に移した。
そこは、客用の寝室らしく、あまり生活感はない。
貴司は沙夜をベッドに降ろし、また強引に身体を繋いできた。
ほんの数時間前まで、沙夜は一樹と身体を繋いでいた。
それを払拭するかのような濃厚なSEX。
沙夜が気を失うまで、何度も何度も…。
ふと隣に目をやると、貴司が服を身に着けているところだった。
やはり、もうこれきりなのだろうか?
最後に沙夜の身体を征服したかったのだろうか?
「…………………婚約者の所へ…戻るの?」
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