再生蟲


 

 泣いちゃダメなんだ……

 わたしが勇気を出せば、竹生(たけお)も、ママもパパも助かるんだから……

 桜子(さくらこ)は鏡の中の自分に言い聞かせて、にっこりと笑顔を作る。

 中学校で三年間、演劇部に所属してきた桜子は、毎朝、鏡の前で笑顔の練習をするのが日課だった。

 おかげで、どんなときでも笑えるようになった。笑って暗い気持ちを吹き飛ばすのだ。

 それも、きょうで最後になるのだけど……

 ……なんて、ダメダメ。

 再び浮かんだ暗い考えを振り払うように首を振り、もう一度、笑顔。

 眼に溜まりそうになった涙は引っ込んだ。よし。

 桜子は洗面台の前を離れ、トイレを出た。

 麗香(れいか)という名前だと聞かされた白衣姿の女医が廊下で待っていた。

「……すっきりした、身も心も?」

「はい」

 桜子は笑顔のまま頷く。

 麗香も微かに口元を緩めて「そう」と頷き、先に立って歩き出した。桜子は後に従った。

 長い廊下だった。左右にいくつも扉が並んでいる。窓がないのは、ここが地下だから。

 桜子は病院の検査着らしい水色のガウンを着せられていた。足元は素脚にスリッパ。

 ガウンの下は裸だった。もうじきそれも脱がされて、あとは……

 首を振って嫌な考えを追い払い、笑顔。誰が見ているわけでもないけど。

 麗香は黙って前を歩いていた。

 すらりと背が高く、髪を栗色に染めて一見、派手な印象だが、意外に落ち着いた性格らしい。

 余計な言葉をかけて来ないのが、ありがたい。

 桜子は本来なら、きょう卒業式を迎えている筈だった。

 四月から通う高校も決まっていた。公立だが地元では屈指の進学校だ。

 大学は医学部に進みたいと希望していた。桜子の将来の目標は医者になることだった。

 生まれつき病弱な弟の竹生や、竹生と同じように苦しむ人たちを助けたくて――

 だが、もうその夢は叶わない。

 しかし希望が残らないわけでもない。

 桜子がその身を文字通り「犠牲」にすることで、竹生やほかの重病人、重傷患者が将来にわたり救われよう。

 麗香が足を止めた。

「ここよ。きょうからあなたの棲む場所」

 言いながら、扉の一つを開ける。

 その脇のプレートに『17』というナンバーと、きょうの日付が英語で記されている。

 さらに桜子の生年月日と『Age』つまり年齢の記載もあった。彼女は十五歳だ。

 桜子自身の名前は書かれていない。ここでは名前も奪われてしまうということか。

「足元、段差あるから気をつけて」

 麗香が扉をくぐり、桜子はそれに続く。

 学校の教室の半分ほどの広さの部屋だった。室内の床は廊下より一段低くなっている。

 その床と壁面はピンク色のタイル張りで、シャワー室かトイレのような印象だ。

 中央に白いシーツを敷いたベッドが置かれていた。キャスター付きで折り畳みできる簡易式だ。

 布団がないのは……これからの桜子には「必要ない」からだろう。

 ベッドの横には、やはりキャスターつきのワゴンがあった。その上にはクーラーボックスが載せてある。

「髪、まとめてあげる」

 後ろに回った麗香が、白衣のポケットから出したゴムで桜子の髪をポニーテールに結んだ。

 艶やかな長い黒髪は桜子の密かな自慢だった。

 事前に麗香からは切ってしまうことを勧められていたが、それは許してほしいと桜子は懇願した。

 ぎりぎりまで自分は自分のままでいたかったからだ。

「手櫛でごめんね」

 麗香が髪を撫で梳き、整えてくれる。

「鏡も用意してないけど……うん、ちゃんとできたと思う」

「信用します」

 桜子は、くすっと笑って言う。

 麗香も微かに笑ったようだが、すぐに感情の窺えない口調に戻り、言った。

「じゃあ、ガウンを脱いで、ベッドの上で四つんばいになって」

「……はい」

 桜子の顔から笑みが消える。ついに、そのときがきた。

 ガウンを脱いで麗香に渡した。

 瑞々しく――しかし幼さも残した裸身が露わになった。

 細身だが華奢にすぎるわけではない。演劇部では腹筋やランニングのトレーニングもしていた。

 色白できめ細やかな美しい肌と、手足の長い均整のとれた身体つきは生まれついてのものだ。

 乳房は丸くかたちよく膨らみつつある。八〇のBのブラをそろそろ窮屈に感じ始めていた。

 小ぶりな乳暈と乳頭は桜の花のように淡いピンクだった。

 その可憐な肢体を――桜子は、これから喪おうとしている。

 麗香は受けとったガウンを丸め、ワゴンの三段ある棚の一番下に投げ入れた。

 それから、二段目の棚に用意していたトレーから手術用の極薄の手袋をとって、はめる。

 桜子はベッドに上がり、指示された通り四つんばいになった。

 この場には自分のほかに同性の麗香しかいないが、それでも恥ずかしくてたまらない。

 何しろ裸で四つんばいだ。まるで動物みたい。

 いや……本当に自分は人間ではなく動物、それも下等な《蟲》になってしまうのだが。

 ……やめよう、こんなこと考えるの。余計みじめになるだけだ。

 麗香が小さなボトルから透明なゼリーのようなものを掬い取り、手袋をはめた手に塗る。

 クーラーボックスの蓋は、すでに開けられていた。

 中身は桜子には見えないが、それが何かは事前に教えられていた。

《蟲》の――《再生蟲》と呼ばれる寄生生物の「卵」だ。

 一つで億単位の価値があるという貴重なものだ。

 それを桜子は身体に植えつけられて《蟲》の苗床になる。

 より正確にいえば、桜子は《蟲》と同化させられる。そして新しい「卵」を産ませられるのだ。

 疵(きず)一つない白磁のような少女の背中を、麗香は見下ろした。

 小さな肩、それよりも細く締まったウエストに、桃のように丸いヒップ。

 ヴィオラのような美しい曲線だった。だが麗香に感傷はない。

「ほぐすわね。おなかの力を抜いて」

 麗香の指が、桜子の尻の穴に触れた。

「あっ……」

 桜子は、ぎゅっと眼をつむる。耳と頬が、かーっと熱くなる。

 ぬるりと、ゼリーの塗られた指が桜子のアヌスに沈んだ。抵抗のいとまもなかった。

 痛みはない。ただ違和感だけ。だが、それも麗香が、くりくりと指を回し始めるまでだ。

「あっ、あっ……、やっ……!」

 尻の穴から背骨を貫き頭の芯まで、ぞくぞくと寒気が走った。

 麗香が命じる。

「力を入れちゃダメ。口から息を吐いて、ゆっくりと」

「……はぁっ……」

 桜子は言われた通りにした。つまり、口から息を吐くことに意識を向けた。

 尻が少しは楽になった。指の動きは続いているが。

「鼻から息を吸って、口から吐くの。ゆっくり、ゆっくりでいいわ」

 麗香は指示を出しながら、桜子のアヌスを指でほぐし続ける。

 これから《蟲》の「卵」を挿入するのだ。それはニワトリのタマゴほどの大きさもある。

 ただしニワトリのものより弾力性があり、押し潰せば直径でピンポン玉より小さくなるだろう。

 それでも十五歳の少女のアヌスに挿入するには大きすぎる異物だが。

「……はぁっ……、……はぁっ……」

 桜子は命じられた通り、鼻と口で呼吸を続ける。

 尻の悪寒が和らぎ、こそばゆい程度に感じられるようになった。

 慣れてしまえば、それほど酷い感覚ではない。

「ゆっくり、ゆっくりね。おなかに力は入れないで」

 麗香の指示通りに呼吸を続けて気分が落ち着くと、少し強引なだけのマッサージみたいに思えてきた。

 ……ちょっぴり気持ちいいかも……

「……はぁっ……、……あ……」

 熱いものが、つーっと両脚の間に流れるのを感じた。

 やだ……わたし、変な気分になってる……

 年頃の少女である。自分の身体を慰めた経験がないわけではない。

 つまり性的な快感を桜子は知っていた。それがこみ上げてきたときと同じ感覚が、脚の間に走ったのだ。

 お尻を弄られてるのに……ヘンタイみたい……麗香先生に気づかれちゃう……

「楽な気持ちでいていいのよ。恥ずかしいことないわ」

 麗香の言葉に、桜子は泣きたくなった。

 ああっ、やっぱり気づかれちゃった……

 だが、アヌスに挿し入れられた指の動きは続く。

「今度は二本ね」

「……あ、待っ……」

 止める隙もなく二本目の指が桜子のアヌスに侵入した。回す動きから、抜き挿しする動きに変わった。

「……やっ、ああっ……」

 ぎゅっとつむった瞼に、涙がにじんでしまう。

「楽にしていて。呼吸は乱れても仕方ないわ。できれば続けてほしいけど、指を四本まで挿れるから」

「ええっ……」

 桜子は泣きそうな顔で、麗香を振り仰ぐ。麗香は肩をすくめて、

「大丈夫よ、指の四本くらい。苦しいことないわ。そのために、ほぐしてあげてるのよ」

「……はい……」

 こくりと頷き、桜子は顔を伏せた。

 呼吸に意識を集中しようと思った。いまさら逃げ出せないのだ。

 やがて三本目の指が入った。尻の違和感が大きくなったが、呼吸を整えることに意識を向けて耐えた。

 尻よりは両脚の間のほうが、ざわついて鳥肌が立ってきた。

 自然に脚が閉じてしまい、膝をすり合わせていたら麗香に叱られた。

「脚を閉じるとお尻に力が入っちゃうわ。素直に楽にしてなさい。声が出ちゃってもいいから」

「……はい……あっ、あっ……」

 拷問みたいに思えてきた。いつまでもお尻の穴だけを弄ばれているのだ。

 それで喘ぎ声を上げている自分が情けなかった。

 素直に楽になれというのなら、全身をマッサージしてほしいと思うのは贅沢だろうか。

 べつにエッチな目的じゃなく……そのほうがリラックスできて、お尻もほぐれるんじゃないかなあ?

 三本の指が抜かれ、すぐに今度は四本分の指がアヌスに突き当てられた。

 ぬぷりと突き入れられ、

「……ああっ……!」

 思わず声を上げたが、痛みや不快感はない。指を四本といえば、かなりの太さの筈だが。

「このゼリー、筋肉を弛緩させる効果があるの。つまりお尻の穴が緩むのよ」

 ゆっくりと指を動かし始めた麗香が言った。

「これだけほぐすと普通は一日か二日、緩みっぱなしで垂れ流しになるけど、あなたには関係ないものね」

「そんな……、ああっ……」

 残酷な事実を思い出させられて、桜子の眼から、とうとう涙がこぼれた。

 だが、すぐに片手で拭い、あとはぎゅっと眼をつむる。

 泣かないと決めたのだ。泣いたところで自分には救いなど訪れないのだから。

「……んっ、はぁっ……」

 尻は、ほぐされ続けている。やがて指が抜かれた。

「もういいわね。さあ、『卵』を植えつけてあげる」

 ゼリーまみれの手袋をはめたままの手で、麗香がクーラーボックスから「それ」を取り出した。

 顔を上げた桜子の表情がこわばる。

「……そんなに大きいんですか……?」

「でもゴムみたいに軟らかいのよ、ほら」

 大きさも形状もニワトリのタマゴに似たそれを、麗香は手の中で揉んでみせた。

 白と茶色が斑(まだら)に混じった色調はウズラのタマゴにそっくりだ。

 だが、それこそが《再生蟲》の「卵」なのであった。

「挿れるわね……さっきみたいに口から息を吐いて、楽にして……」

 アヌスに「卵」を押し当てられ、桜子は、大きく息を吐いた。

「……はぁぁぁぁぁっ…………んんっ!?」

 麗香が手で握って潰した「卵」を、桜子の尻の穴にねじ込んでいく。

「ああっ……!」

 それを挿れられたら、もう自分は自分でなくなってしまう。人間でなくなってしまう。

 その意識で、自然と身体に力が入ってしまうのか。

「もっと力を抜いて! 弟さんのためでしょう?」

 麗香に叱りつけられた桜子は、こくこくと眼をつむったまま頷く。

 抵抗しちゃ、ダメなんだ……!

「……あぁぁぁっ……」

 ぬぷりと、桜子のアヌスが《再生蟲》の「卵」を完全に呑み込んだ。

 がっくりと四肢の力が抜け、桜子は尻だけを突き上げた格好でベッドに倒れ伏す。

「……はぁっ、あぁっ、……うくっ……」

 涙がこみ上げる。もう自分は人間に戻れない……

「よく頑張ったわ」

 麗香が桜子の尻を軽く叩いた。

「お尻、下ろしていいわよ。じきに身体が麻痺しちゃうから、うつ伏せで楽にしてなさい」

「……はい……」

 言われた通り、桜子はベッドの上で、うつ伏せで身体を伸ばした。

 あと何分、自分は自分でいられるのだろうか……?

「……先生、わたしの産む最初の『卵』は……」

「ええ。約束通り、弟さんのために使うわ」

 麗香は手袋を外した手で、桜子の頭を撫でる。

「それで弟さんは助かるだろうし、ほかの難病や大怪我の患者さんたちも助かる。あなたがみんなを救うのよ」

「……はい……」

 桜子の眼から、涙がこぼれ落ちる。

 

 

 弟の竹生は、生まれてからこれまで何度も大病を患っていたが、そのたびに病気を克服してきた。

 本人の生命力、家族の愛情、医師や看護士そのほか周囲の人々の協力で。

 しかし、一週間前に起きた火事が、桜子たち家族を絶望の淵に突き落とした。

 両親が自宅で営んでいたベーカリーショップの火の不始末――

 その日、桜子は仲のいい友達三人と泊まりがけでスキーに出かけていた。

 友達のうち一人の親戚がロッジを経営しており、卒業祝いとして招待されたのだ。

 両親は快く送り出してくれた。

 入退院を繰り返してきた竹生の看病疲れと心労の積み重ねで、両親とも健康は万全ではなかった。

 だが、息子の治療費のために作った借金を返済しようと、二人とも頑張って働いていた。

 幸いにしてベーカリーショップは近所で評判がよく売上げは好調だったが、その分だけ忙しくもあった。

 だから桜子も高校受験が済んだあとは毎日、店を手伝っていたのだ。

「二泊三日だろ? いいよ、行っといで。桜子の受験の間も母さんと二人で頑張ったんだ、もう少しくらい」

 そう言ってくれた父親、隣で笑って頷く母親。桜子は両親に深く頭を下げた。

 けれども――やはり無理をしていたのだろう。

 スキー旅行、二晩目の真夜中。友達の親がロッジに電話をかけて来た。

 桜子の家が火事に遭ったと――

 父親が翌日の仕込みのために火を使いながら、疲れて眠り込んだらしい。

 気がついたときには店から自宅部分へ火が移り始めていた。

 父親は一階で寝ていた母親をすぐに起こして逃がしたが、二階の竹生を助けるには火の回りが早すぎた。

 近所の人の通報で駆けつけた消防隊により竹生は救出されたものの、全身に重度の熱傷で危篤状態――

 桜子は始発電車でスキー場から帰り、病院に直行した。

 母親は泣いていた。父親は医師に何度も何度も頭を下げていた。どうか息子を救ってほしいと。

 誰を責めるわけにもいかなかった。いや、責められるべきは桜子自身だった。

 卒業旅行に行きたいなんて我がままを言わなければ。友達から招待されたことを両親に黙っていれば。

 父親に無理をさせずに済んだのだ……

 竹生は全身の皮膚はもちろん両手足も壊死しかけているというのが医師の診断だった。

 人造皮膚を移植する緊急手術が行なわれ、ひとまずの危機は脱した。

 だが、生命はとりとめたとしても四肢切断は免れないだろう――

「だけど最新の医療技術で、なくなった手足を再生する方法もあるってテレビで見ました!」

 父親は医師にすがりついた。

「まだ十三歳で、ようやく病気も落ち着いて……それなのに手足を切るなんて! どうかお願いします先生!」

「四肢の再生は研究段階の技術です。マスコミでは話題先行で騒がれてますが成功の可能性は低いんです」

 そもそも両手足を再生できるだけの「SES(スーパーES)細胞」の用意が無理なのだと医師は説明した。

 欠損した肉体の部位を再生する場合、最も困難なのが神経系統の再生だ。

 SES細胞から作り出された「人造神経芽」の移植により、それが可能となるのだが――

「SES細胞は《再生蟲》の『卵』から作り出されるのです」

「ええ、テレビで見ました。《再生蟲》って南米で発見された、蛭(ヒル)の化け物みたいなヤツでしょう?」

「正確に言えばプラナリアの突然変異種です。人体に寄生することもある、まさしく怪物ですが……」

《再生蟲》自体は身体を細切れにすればいくらでも増殖する。

 切断された部位から全身が再生するのである。

 あるいは野生の状態でも身体を分裂させて増殖できる。すなわち無性生殖である。

 しかし、SES細胞の材料となるのは《再生蟲》が有性生殖で産んだ「卵」であった。

 そして《再生蟲》が有性生殖を行なうのは極めて限定的な環境下においてなのだ。

「つまり人体に寄生している間のみ、彼らは有性生殖を行なうのです」

 プラナリアは雌雄同体だが、一般的に自家受精は行なわない。

 その点、《再生蟲》は有性生殖時は自家受精が当たり前という特異な生態だ。

 従って人体に寄生している《再生蟲》、あるいは《再生蟲》に寄生された人間を見つければ。

 その「卵」の入手は可能だが……

「人間に意図的に《再生蟲》を寄生させるなど人道的に許されないことですからね」

 医師の言葉には皮肉めいた響きがあった。

 桜子は、あとで知ったことだが、マスコミで報道されたSES細胞の研究には人体実験の疑惑があった。

 欧州某国の企業に籍を置く研究グループは、南米の《再生蟲》寄生患者から「卵」を入手したと説明した。

 だが、本当は意図的に人間に寄生させた《再生蟲》に「卵」を産ませたのではないか?

 そうでなければ研究に充分な量の「卵」は手に入らないだろうと。

「『卵』からSES細胞を作り出す技術も研究段階で、成功率は低いですから――」

 竹生の治療のために南米から《再生蟲》の「卵」を取り寄せることは現実的に不可能だった。

 それは世界中の医師や学者グループが大金を積んででも手に入れようとしている「金の卵」なのだ。

 だが――それだからこそ。

 人倫に背いてでも《再生蟲》の「卵」を入手しようと考える者が現れるのは当然の帰結だった。

 桜子の家族を襲った不幸な出来事は新聞やテレビで報道された。

 大病を克服したばかりの少年が火事で四肢切断の危機に瀕している――

 誰かが呼びかけたわけではないが、治療費を援助したいと寄付が全国から届いた。

 それは数百万円に達したものの、《再生蟲》の「卵」を手に入れるには全く足りなかった。

 ベーカリーショップの火事は近所の家を数軒巻き込んでおり、その補償もしなければならなかった。

 店の再建資金も。いままでの竹生の治療費の返済も――

《再生蟲》の「卵」が必要だった。さらに金が必要だった。

 だから――その「グループ」からの申し出に、桜子たち家族は乗ったのだ。

 桜子の「身」と引き換えに、《再生蟲》の「卵」も現金も用立てようという――

 彼らは東南アジアの某国に拠点を置く研究グループだった。

 とはいえメンバーは欧米人中心で、麗香のような日本人も数名、含まれていた。

 名前は明かせないが複数の世界的な企業がスポンサーについているという。

《再生蟲》に産卵させるための「苗床」――宿主となる人間は、誰でもいいわけではないらしい。

 日本人のような黄色人種に移植するSES細胞を手に入れるには同じ黄色人種の苗床から生まれた「卵」が。

 同様に白人用のSES細胞には白人の苗床からの「卵」が、黒人には黒人の苗床の「卵」が最も相性がいい。

 それが「グループ」による研究で判明したことだった。人種が同じであれば再生の成功率が高まるという。

 だから桜子のような日本人の苗床も必要となるわけだった。

 そうでなければ――誘拐や人身売買が日常茶飯事な政情不安の国から苗床をまとめて連れて来ればいい。

 そのほうがコストもかからないだろう「グループ」にとっても――

 

 

「……桜子ちゃん」

 麗香が呼びかけてきた。頭を撫でてくれる手が心地よい。

「《再生蟲》は人類の希望よ。あなたがこれから産む『卵』で、多くの人たちが助かるわ」

「……はい」

 桜子は頷く。

 初めのうちは、桜子が産む「卵」を使った治療を受けられるのは金持ちばかりだろう。

 それもアンダーグラウンドな手段で「卵」を入手することを厭わない犯罪者すれすれの者たちだ。

 だが、桜子が頑張って「卵」を産み続ければ、それだけ「市場価格」は下がるだろう。

 さらに「卵」自体の研究も麗香たちのグループは進めているという話だった。

《再生蟲》は成虫になっても驚異的な再生能力を有する。

 ならば「卵」の組織と成虫の体細胞を比較研究して、成虫からSES細胞を得る方法は見出せないか?

 それが可能となれば、桜子のように苗床となる犠牲者も必要なくなるのだ。

 そのときは、いよいよ《再生蟲》由来のSES細胞による再生治療が広く普及するだろう――

「……あ……」

 桜子は小さく声を上げた。正月にお屠蘇を飲んだときみたいに頬が熱くなってきた。

 眼も熱い。涙がこみ上げたわけではなく、頬と同様、お酒に酔ったみたいに。

 頭の芯が、じんと痺れてきた。不快感はない。

 ただ夢の中にいるような、ふわふわした感覚。

 とうとう、自分が自分でなくなってしまう……

 いまさら抗うつもりはないが、試しに手足を動かそうとしてみた。

 ぴくりと震えて、それきりだった。もう麻痺している。

 このまま――ベッドの上に身を投げ出したまま、自分は《蟲》と同化してしまうのだろう。

「……ぁは……」

 でも、痺れが心地よかった。そう感じている自分は、意識から変化し始めているのだろうか。

 あ……脚の間が、なんだか温かい……

「失禁しちゃった? でも仕方ないわ。孵化が始まれば、そうなっちゃうの」

 麗香は苦笑いしながら、桜子の頭を撫で続ける。

「《再生蟲》は麻薬みたいな物質を分泌して、宿主を半永久的に夢見心地にさせてくれるのよ」

 自分が自分でなくなるというのは、つまりそういう意味だ。

 でも、気持ちよかった。撫でられていることも。漏らしてしまったことも。

「……ぁふ……はぁ……」

 尻の穴をほぐされているときよりも素直にそう思えた。どうして、あのときは素直になれなかったのか?

 どうせ《蟲》になってしまうのだもの。気持ちよさに素直に身を委ねればよかったのに。

「……あぁ……くぁ……!?」

 おなかがちょっぴり痛くなった。でも、すぐに治まった。

 じんわりと温かいものが、おなかから全身に広まっていく感じ。

 腹の中の《再生蟲》が成長しているのか。

「孵化がどんどん進んでる。お尻から尻尾が出てきたわ」

 麗香が《再生蟲》が突き出した桜子の肛門をなぞるように指を動かす。

「穴が緩んでるから、わからないかな? こんなに太いのよ、四センチか五センチあるかしら」

 括約筋が弛緩したままだからだろう、それほど太いものを肛門に咥え込んでいる自覚は桜子にはない。

 彼女自身には見えていないが、《再生蟲》の身体は人間の舌に似たピンク色をしていた。

 麗香から見れば、肛門から腸がはみ出したような眺めである。

「これがもっと成長して、お尻の穴も広がっていくわ。股関節が自然に外れて、人の頭が入るくらいに」

「……あふぁぁぁ……!?」

 自分の身体は、いったいどんなことになるのだろう??

「でも最後は《再生蟲》が癒着してお尻の穴は塞がるの。尻尾だけが生えてるみたいになるわね」

「……おぃえぁ……?」

 トイレはどうすればいいの?

 桜子の疑問に答えるように、麗香が説明した。

「胃とか腸の消化器系も《再生蟲》と同化して、桜子ちゃん自身が排泄することはなくなるわ」

「……あふぅぅ……」

 つまり、自分の身体は《再生蟲》にほとんど乗っ取られてしまうのだ。

 単に寄生ではなく「同化」と呼ばれるのは、そういう意味か。

「……おぇ……?」

 少しばかり吐き気がこみ上げた。何かが喉からせり上がってくる。

「……おぇぇぇぇ……」

 口から突き出したのは、舌だった。いや、自分の舌は、こんなに長くも太くもない。

「成長が早いわね。宿主が若くて健康だからかしら。《再生蟲》の頭が出て来たのよ」

 口から《再生蟲》の頭が、お尻からは尻尾が出て来たということは。

 自分の食道にも胃にも腸にも、完全に《再生蟲》が詰まっているということ?

「ほら、言ってる間に尻尾も成長して、桜子ちゃんの腕くらいに育ってる。もっと太くなるわよ」

 脚をつかまれて、左右に広げさせられた。《再生蟲》の成長を妨げないようにか。

「頭のほうも大きくなって、じきに顎が外れてしまうわ。大丈夫、痛みはないから」

 でも、そんなことになったら、もう喋れない……

 いや――とっくに麻痺が進んで口は利けなくなっていたけど。

「……おぇぁ……ぇ……」

 口から突き出したピンク色の《再生蟲》が、風船みたいに太く膨らんでいく。

 かくんと、顎に軽い衝撃があった。本当に外れてしまったのだろう。

 言葉も喋れず、身体も麻痺して動かず、口と尻からは《再生蟲》が生えて――

 自分は、もう人間とは呼べない存在になってしまった。

 だが、出てくる涙は哀しみによるものではない。

 随喜だ。全身の痺れの心地よさへの。

「桜子ちゃんの肌から、《再生蟲》の体液も滲み出し始めた。同化が進んでるわね」

 汗のようなもので濡れた桜子の背を指でなぞり、その匂いを麗香は嗅いで、

「甘くていい匂いよ。ほら」

 桜子の顔の前に、濡れた指が突き出される。

 確かに果物みたいな甘い香りだった。舐めて味わえないのが残念だ。口が《再生蟲》で塞がれてるから。

「そろそろいいかしら。初めてのエサの時間」

 麗香が白衣のポケットからPHSを出し、短縮番号を押した。

「――私よ。十七号にエサを用意して」

 通話を切ってPHSをポケットに戻し、桜子に微笑みかけ、

「《再生蟲》は雑食性だけど、ここでは果物を与えているわ。宿主たちも安心できるでしょう?」

「……あふぁぁぁ……」

 頭を撫でられて、桜子は眼を細める。気持ちいい。

 麗香は「ふふっ」と微笑み、

「尻尾を振ってるわ。感覚の同化も始まったのね。でも宿主が意識を完全に喪うわけじゃないから」

 頭を撫で続ける。優しく慈しむように。

「ここでは、できるだけ愛情をかけて飼育しているの。健康な『卵』を産んでもらうために」

 うん……わかるよ……

 やさしくされてるの……

 ――こんこん。

 ドアがノックされた。

 だが開かれることはなく、ドアの下側の小窓だけが開いて、果物を盛りつけたトレーが差し入れられた。

 適当な大きさにカットされたメロン、パイナップル、オレンジ、リンゴなどだ。

「……ふぁぁぁぁぁ……」

 桜子自身は何も意識していないのに、ずるりと、身体が動いた。

 口と尻から突き出している《再生蟲》が蠢き出したのだ。恐らくは、エサの匂いに反応して。

 ずるり……ずるずる……、べたり。

 桜子の身体が、ベッドから床にずり落ちた。痛みはない。

 湿った音がしたのは、身体中、汗をかいたように体液が滲んでいるせいだ。

 力の抜けた手足を引きずりながら、胴体をくねらせ、桜子は床を這っていく。

 実際には《再生蟲》が身体の中から、桜子の身をくねらせているのだが。

 だが、もう、どちらでもよかった。桜子には。

 美味しそうなエサを早く食べたい。

《再生蟲》がそれを味わえば、感覚が同化している桜子が自分で味わうのと同じことだ。

 もはや自分は《蟲》と一心同体なのだと理解した。

 そうなってしまえば、手足は邪魔なだけだった。きっと自然に退化してしまうだろうと本能的に感じた。

 自分は人間の「皮」をかぶった《蟲》になるのだ。

 顔や胴体に人間の面影が残るのは、《蟲》の防衛本能。

《再生蟲》にとっての天敵は人間だ。身体を細切れにされても死なない《再生蟲》だが、火には弱い。

 火を道具として扱える生き物は人間だけだ。

 だから人間に寄生して同化することで、ほかの人間たちに殺される危険性を減らすのだ。

 エサの前まで這って来た《再生蟲》の頭に、ぱっくりと大きな口が開いた。

 それが、カットされたメロンを包み込み、丸呑みする。

 ごくり。

《再生蟲》自身に舌はない。しかし消化管全体に味覚があるようだ。

 桜子は、ちゃんとメロンの味を感じた。おいしい。

 パイナップル、リンゴ、オレンジ――《再生蟲》は次々とエサを呑み込んでいく。

 ああ……おいしい……

 ここは、もりのなかより、いごこちがいいよ……

 にんげんも、やさしくしてくれるし……

「美味しい、桜子ちゃん?」

 麗香が近づいて来て、桜子の頭を撫でた。

「いっぱい食べて、いっぱい『卵』を産んでね」

 うん……たまご、うむよ……

 やどぬしの、さくらこちゃんはね……

 つまり、わたしのことだけど……いまのままでも、きもちよくなってるけど……

 たまごをうめるように、ひとりえっちしたらね、もっともっときもちよくて、しあわせになるの……

 そうしたら、ますます《むし》のわたしと、いっしんどうたいになって……

 わたしも、きもちよくなるの……

 たまごをうんだら、にんげんもよろこんでくれて、やさしくしてくれて……

 みんなみんな、しあわせになるんだよ……

 まま……ぱぱ……

 たけお……

 さくらこは……しあわせだよ……

 

 

 十五年後――

 そこは外国映画に出て来るような大邸宅だった。

 円柱の建ち並ぶ回廊があり、プールつきの庭がある。応接間には絵画や彫刻、年代物の陶磁器などが並ぶ。

 実際、ここは外国だった。東南アジア某国、首都近郊の高級住宅街。

 日本人の青年が一人、来客用のソファに腰掛けている。

「……お待たせしたわね」

 女が応接間に入って来た。

 部屋着であろうが仕立てのいいワンピース姿、シンプルだが上品なアクセサリー。この屋敷の女主人だ。

 青年はソファから立ち上がり、一礼した。

「ご無沙汰しています、ヴェルナー博士。おととしの学会以来ですね」

「昔の通り、麗香先生でいいわ。ヴェルナーじゃ夫と区別つかないでしょう?」

 くすくす笑って、女――麗香は答える。

「元気そうで何より。最近はスキューバを始めたと噂に聞いたけど?」

「いまさらながら健康のありがたみを噛み締めているところです。研究生時代は勉強で手一杯でしたから」

 青年は微笑む。

「これも姉と……麗香先生のおかげです」

「私は、何も」

「いえ。僕が健康な身体で姉と再会できる機会を得られたのは、姉をここに引き取ってくれた先生のおかげだ」

「…………」

 麗香は微笑みのまま、眼を伏せて小さくため息をついた。

「……私はあなたのお姉さんを実験台として扱ってきた。人間扱いしなかったのよ」

「ですが先生の研究の成果で、SES細胞は容易に手に入るようになった。先生は全人類の恩人です」

「お姉さんを含めた『宿主』たちの犠牲の上でね」

「姉自身が望んだことでしょう? 両親もそれを許したんだ」

 青年は麗香をまっすぐ見詰めた。

「もちろん真実を知らされて最初は先生を怨んだ。恩師として尊敬してきた先生が姉を《蟲》に変えたなんて」

「いつ打ち明けるべきか悩み続けたわ。決意がつくまで、こんなに時間がかかった」

「ですが、もう、わだかまりはありません。僕が先生を怨み続けるならば、両親までも怨まなければならない」

「そう言ってもらえると、少しは気が楽になるけど……」

 麗香は、いまいる応接間を、そして窓から見える庭を見渡した。

「研究の成功で、私は巨万の富を手に入れた。でもそれは私ひとりのためではないわ。言いわけになるけど」

「わかってます。例の研究グループが解散したあと、秘密裏に『処分』される筈だった姉たちを救うため」

「不幸にも研究中に亡くなった数名を除く全員を、この屋敷に引き取ってね。せめてもの罪滅ぼし」

「グループの中で先生だけでしょう、そこまでしてくれたのは?」

「私とヨハン――主人ね。彼は実の妹を『苗床』にしていたという事情もあるけど」

「その妹さんも、ここに?」

「彼女は研究中に亡くなっているわ。その罪滅ぼしみたい、ヨハンが私に協力してくれたのは」

「僕は……可能なら姉を引き取りたいと思っています」

 青年は言った。

「日本に連れ帰ることが不可能なのは承知しています。だから、僕はこの国で仕事を見つけるつもりです」

「それなら私も協力できるわ。優秀な研究者は引く手あまただけど、より条件のいい仕事を見つけたいものね」

 麗香は言って、微笑む。

「じゃあ……お姉さんのところへ行きましょうか?」

 二人は応接間を出て、庭に面した回廊を歩いていく。

 回廊に沿って大きな窓のある部屋が並んでいた。レースのカーテン越しに微かに室内が見える。

 普通の部屋ではない。床も壁もシャワールームのようにタイル張りだ。

「ここよ。お姉さんの部屋」

 部屋の一つのドアを麗香は開けた。

 広く、清潔そうな空間だった。部屋の隅に積まれたフルーツの香りが漂う。

 そして、窓からのレース越しの陽だまりの中に――《再生蟲》と同化した人間の少女が、いた。

「桜子ちゃん、弟さん――竹生君が来たわ」

 少女は顔を上げた。

 青年――竹生の記憶にある姉と、少しも変わっていなかった。

 つやつやの長い髪も、友達に「これが僕のお姉ちゃんだよ」と自慢したくなるほど綺麗な顔も。

 もちろん口からは、舌と思うには太く長すぎる《再生蟲》の頭が突き出し。

 両手足は痕跡もなく喪われ、腰から下は《蟲》と完全に同化した尻尾に変わっていたけれど――

「……ぁぇぉ……」

 少女が微かに言葉を発し、嬉しそうに眼を細めた。

「お姉ちゃん……僕がわかるの? ずっと会えないうちに、こんなに大人になっちゃったけど」

 竹生の問いに、少女は、こくりと頷く。

「……ぅ……」

《再生蟲》と同化した少女――桜子は、十五年間、歳をとっていなかった。

 肉体の損傷は《再生蟲》の能力ですぐに修復できてしまう。それは老化現象についても同じなのだ。

「お姉ちゃん……」

 竹生は桜子のそばでしゃがみ、仰け反るように上体を持ち上げた姉の身体を抱き締めた。

 床を這い回る生活に適応して乳房も痕跡を留めていなかったが、姉が姉であることに変わりはない。

 麗香の世話が行き届いているのだろう。長い髪からはシャンプーのいい匂いがした。

「お姉ちゃん、ごめん……ありがとう……。お姉ちゃんのおかげで、僕は大学にも通えて学者になった」

「……ぅぅ……」

 こくこくと、桜子は頷く。

 しってるよ……れいかせんせいがおしえてくれたもの……

 たけおが《むし》をつかった、いでんしちりょうのけんきゅうしてるって……

 おねえちゃんも《むし》だから、きょうりょくしてあげられたら、うれしいなあ……

「お姉ちゃん、もう少しだけ待っていて。僕がお姉ちゃんを迎えに来るから。二人で一緒に暮らすんだよ」

 たけおとくらすのか……ちょっぴり、はずかしいなあ……

 おねえちゃんときどき、たまごをうみたくなって、ひとりえっちしちゃうから……

「お姉ちゃん……」

 竹生が桜子の顔を覗き込んできた。眼に涙が光っている。しかし笑顔だ。

 桜子も笑顔を返した。弟の記憶にある通り、とびきりの輝くような笑顔だった。

 

《終わり》


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戦略的後退

無条件降伏

 

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