三たび、「ポストモラトリアム時代の若者たち」より。この本は紹介したい箇所がたくさんです。これまで書いた記事はこちら。
「現代的ないじめ」
「いじめ」という言葉からは、なにかネチネチを攻撃をつづけるようなイメージを抱きますが、本書で指摘されている「いじめ」はまた違った性質を持ちます。
それは特に「無視」「放置」というかたちを取ります。「あいつ無視してやろうぜ!」というタイプのいじめですね。
誰が首謀者であるかはっきりせず、また必ずしも行動が妨害されるわけではないので、明確に「いじめ」といえるのかどうか被害者にも判然としない。
仲間に入れてもらえないのは自己責任とされるが、彼らの発言が誰かに聞き入れられることはなく、また彼らに話しかけてくる者もいない。
脅かされるというよりも、無視され、放置されている。このように現代的ないじめでは目に見えない力で孤立させられていき、やがて「存在しないほうがよいもの」という自己認識にいたるのである。
ブラック企業の問題でも、「一切挨拶を返さないし、仕事も振らない」ことで、働く人を追いつめて退職させるという手法があるそうです。
ソフトな退職強要では、あからさまなハラスメント行為は行われず、ただひたすら会社に「居づらくなる」ような方法をとる。例えば、挨拶に返事をしないというのがその典型だ。
この種の「いじめ」が狡猾なのは、加害者が明白な暴力を振るわない点です。加害者がターゲットを校舎裏に呼び出したり、画鋲を机に入れたりという「わかりやすい暴力」を使わないのです。
彼らが振るう暴力は「無視」「放置」です。この種の暴力は狡猾ゆえ、被害者が「仲間に入れてもらえないのは自己責任とされ」てしまいます。
実際、この種のいじめの被害者は、端から見たら「仲間の輪に入れないコミュ障な人」として映るでしょう。何も知らない人が関与した場合、下手すると被害者に対して「もっとコミュニケーション取れよ」と叱咤激励してしまうこともありそうです。
また、被害者は明白な暴力を振るわれていないため、「自分がいじめられているかどうか」も確信が持てません。単に自分が「おかしい」だけなのではないか、と。
もちろん責められるべきは、排除を試みる社会の側なのですが、当事者が「私は無視されている!それはいじめだ!」と声を挙げるのはかなり困難でしょう。
この種の暴力はあまりに狡猾であるため、安易に判断を下すと、被害者をさらに傷つけてしまう可能性があります。「無視」という手段を用いる「いじめ」が存在すること、そしてその狡猾性をよく認識し、問題に対処する必要があるでしょう。
ひきこもりやニートの当事者と関わった著者たちが記した、これからの社会へのヒント。若者論としても興味深い作品です。おすすめ。