日本被団協 山口仙二さんが死去7月6日 18時23分
被爆者の代表として初めて国連で核兵器廃絶を訴え、日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の代表委員を務めた山口仙二さんが長崎県雲仙市の病院で亡くなりました。
82歳でした。
昭和20年8月9日、長崎に原爆が投下されたとき、14歳だった山口さんは、爆心地から1.3キロ離れた軍需工場で被爆して全身に大やけどを負い、顔や首にケロイドが残りました。
その後、入院した病院で、同じ境遇の若者と長崎原爆青年会を結成し、被爆者の援護と核兵器の廃絶を訴え始めました。
山口さんは3年前まで被爆者の全国団体、日本被団協の代表委員を務め、昭和57年にニューヨークで開かれた国連軍縮特別総会で被爆者として初めて国連の演壇に立ち、「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」と核兵器廃絶を訴えました。
核兵器のない世界を目指すと宣言したアメリカのオバマ大統領が平成21年にノーベル平和賞を受賞したときには「核兵器をなくすことは大変なことだが、それをはねのけて、核廃絶のために行動していってほしい」と話していました。
山口さんは、6日午前、入院していた長崎県雲仙市の病院で亡くなりました。
82歳でした。
「遺志を継いで核兵器廃絶訴えていく」
日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の代表委員で、広島で被爆した坪井直さんは、「山口さんは若いときからずっと第一線で被爆者のことを国内外に訴えてきた方でした。仲間うちでは『仙ちゃん』と呼べるような穏やかな人柄でした。本当に惜しい人が亡くなり、残念、無念です。私たちが生きているかぎりは、山口さんの遺志を継いで、核兵器廃絶や平和を世界に訴えていきます」と話していました。
また、日本被団協の田中煕巳事務局長は、「30年にわたって日本被団協の代表委員を務めていただき、私たちの象徴的な存在でした。一緒に参加した昭和57年の国連軍縮総会での演説が大変印象に残っています。小柄な体格でしたが情熱にあふれ、まさに『小さな巨人』でした。大変残念です」と話していました。
「『被爆者を作らないことが使命』と叫び続けた人」
長崎原爆遺族会の顧問を務める、被爆者の下平作江さんは、「びっくりして声が出ません。山口さんは、あの被爆した焼け跡の中から一生懸命にはい上がって、二度と被爆者を作らないことが生き残った者の使命であると叫び続けてきました。これからも被爆国としての使命を果たし続けてほしいと、私たちに伝え続けながら息を引き取っていったのではないかと思います」と話しています。
また、長崎市の田上富久市長は、「ノーモア長崎と国連で力強く訴えたスピーチの様子が、今も強く印象に残っています。山口さんは長い間、長崎の被爆者の代表として、核兵器廃絶や被爆者の援護の充実に向けた活動の先頭に立ってきた方なので、大きな存在を失い、本当に残念です」と話しています。
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