豚小屋から産まれた津田大介はゴミ。

Winnyの金子さんが心筋梗塞で亡くなったわけだが、津田はこれに言及してない。津田は視野が広いんで、物事を「広く浅く」見ており、とても平均的に振る舞う。これが日本人的には受け入れられたのだろう。Winnyについては触れない方が平均的な正解ということなのだろう。もしくはフォロワーから「触れないんですか」という意見が多ければ、軽めにツイートして宣伝RTで流すくらいはするかもしれない。ともかく、そういう平均的な落としどころを常に探っているゴミなのである。

発達障害の分野で有名な杉山登志郎医師は、発達障害を発達凸凹と呼ぶことを提案しているが、津田はそういう凸凹がないのである。だから大人気になるのだ。

金子さんの心筋梗塞という死因は何とも言えない。自殺なら心不全と言うことが多いので、たぶん本当の心筋梗塞で倒れたのだろう。最高裁で無罪になったので、第一線に復帰していたから人生への不安などはなかっただろう。くだらない裁判に巻き込まれたことで心労の蓄積はあったかもしれない。

金子さんのような天才肌は日本では生きるのが難しかっただろう。いや、Winny作れるくらいの突出したプログラムスキルがあったから、普通にエリートではあったが、華々しい栄光には遠かった。P2Pは著作権問題に絡むので、アメリカならラリー・ペイジやザッカーバーグのようになっていたなんて軽々しくは言えないが、だがアメリカならアメリカなりのサービスを考えていただろう。ともかく(成功するしないは別として)金子さんはアメリカ型の天才だったと思う。

何にせよ、最高裁で無罪になるまで金子さんは引っ張り回された。はっきり言って見せしめである。ホリエモンや村上ファンドと同じである。ホリエモンは逮捕は当然だが、執行猶予が付いてもよかったという見解もある。警察が逮捕すると決め込んだら、そこで終わりなのだ。金子さんは最高裁で無罪になったが、プログラムは脳の若さが必要なので、失われたものは大きい。普通の人間の時間ではなく、天才の時間が妨害されたのである。

何が言いたいかというと、金子さんは死んでしまうような国だが、津田大介は栄えるばかりということだ。
カチェリーナはお姫様のようなベッドに寝転がりながら、枕元のタブレットを見やった。これでツイッターをやっているうちに15年の人生が終わってしまった。

「暇つぶしとは時間を遠ざけることなのだ。流れている時間に向き合わないことが暇つぶしだ。時間を回避するためにわたしはタブレットに向かいツイートしまくっていたのだ」

カチェリーナはタブレットをつかんで破壊しようと思ったが、益のないことなのでやめた。何をやろうが失われた時間は戻らない。人生はそろそろ終わるのである。自死を試みた農薬で身体が蝕まれ痺れながら、ようやく自分の肉体が置かれている時間性に向き合い、そして寒気がした。

「世界に触れたと思ったら、わたしの人生が終わる。ツイッターで暇つぶしをしていた報いが、この圧倒的な虚無だ」

カチェリーナは人生に向き合った瞬間に死を迎えるのである。それは巨大な亡骸のような不安だった。不安とは現実そのものが立ち現れることなのだ。可能性という曖昧なものが捨象され、他人事ではない自分の人生を引き受けさせられることへの畏れである。漠然と「どうにかなるだろう」と希望的観測を持つ余地がないような、決定的な生々しい現実が、人間を不安にさせるのである。決して変貌しない世界。それは断じて精神的不安などではなかった。一回性の人生と一個の肉体が、抗えない現実に拘束されたということなのである。人生が肉体的な重みをもって迫ってくるのが不安なのである。不安は質量を持ち、肉体に根を張り繁茂する。

「これは死刑判決だ。わたしはこの瞬間から目を背けるために、ツイッターで暇つぶしをしていた」

カチェリーナはよろめきながら起き上がり、鏡に映った自分を見た。金色の長い髪に包まれた白い肌はまだ生気をたたえていて、整った鼻梁がアクセントを与え、可愛らしい唇もつやめいていた。しかし青色の美しい瞳には光が無かった。ウクライナで最高の美少女として生まれたが、その表情が色づくことはなく、肉体に生命が宿ることのないまま死んでいくのである。
美人がブスに罪悪感を持つ
高身長が低身長に罪悪感を持つ
金持ちが貧乏に罪悪感を持つ

こういうのはないわけである。

しかし、高知能は低知能に罪悪感を持たなければならない。知能が低い人間というのは、人道的にデリケートな存在なので、われわれも最大限配慮しなければならないのだ。

わたしが有村悠さんを平気で批判していられるのは、有村さんが高知能・高偏差値だからである。こういう人間の発言を取り上げて馬鹿にするのはまったく良心が咎めない。逆に岩崎夏海のような低知能・低偏差値の発言を馬鹿にするとなると、とても人道に反しており恥ずかしい行為となる。岩崎夏海の発言を見て「こいつ偏差値低そうだな」と思ってしまうと、すごい罪悪感がある。こうやって記述していても、良心が痛むのである。

知能という文脈になると「人間は平等であるべきだ」というヒューマニズムが求められる。他の格差は全面的に肯定され、

不細工は子孫残すな
低身長は子孫残すな
貧乏人は子孫残すな

こういう論理で結婚しない人間も多いわけである。
優性思想が大手を振るっているわけだ。

しかしこれが知能となると話は違うのである。知性とは人間性に反するものらしい。知能が高いというだけで人類愛に参加する資格がないのである。高知能は低知能に最大限配慮し、ヒューマニズムを達成しなければならない。

これをお読みのひとがお子さんをお持ちだとして、子どもを偏差値の低い学校に入れたいという人はいないだろう。偏差値が低いほど猿に近く、人間性も低劣なのである。偏差値が低いと明らかにモラルが低い。そういう実情は誰でも知ってるから、公立中学を避けたりするのだ。

だが、いざとなってヒューマニズムについて語るとなると、低能な猿たちに罪悪感を持つのである。そして東大をバッシングするのである。すべては人類への愛のためである。高知能と低知能が「同じ人間」であるという幻想を守りたいのだ。

これが発達障害となると違うのである。アスペを全力で攻撃するのは許されている。われわれはアスペに対する良心の呵責はないのである。低知能は動物的であり、意外と視野が広いので、発達障害というのが高知能を攻撃する材料だと思われているのだろう。

アダムとイブが楽園を追放されたのは知恵の実を食べたからである。創世記からして、知性は恥の根源であり、原罪なのだ。
https://twitter.com/kaien/status/352791344235823104
charmoe.jpg

海燕と言えば、今やブロマガの人気ライターである。推定月収は30万円だ。これがなければ34歳ニートだったのだから、本人としてはかなりの成功と言えるだろう。ブロマガ以外にも仕事の依頼があったりするようだ。また、ドワンゴに行くとお茶を出されるらしい。最近は友達の家に半月も滞在していた。昨日はイタリアンレストランで食事をしたそうである。現在は新潟でパラサイトしているが、東京で一人暮らしすることを考えている。やはり成功したことで活発になったのだろう。

海燕と同じくブロマガの初期メンバーに選ばれながら結果を出せなかったのが有村悠さんである。「海燕の文章なんざ読む価値無い」とかdisっている間にずいぶん差が付いてしまった。

無論、有村さんがブロマガでろくに更新しなかったのはいろいろな理由があるのだろう。だが海燕は言い訳をせずに更新して成功した。有村さんは言い訳ばかりで更新さぼって現在に至るのである。やはり言い訳が先に出る人は駄目ということだろう。

さて、海燕のこのツイートは興味深い。確かに海燕はキャラ萌えではない。キャラが好きという話は極端に少ないと思われる。有村さんは対照的にキャラの話しか出来ない。海燕のように、物語のポイントを解説してみせることが出来ないのだ。
有村さんは東浩紀と立ち位置が似ているとも言えるだろう。東浩紀はキャラクターを(物語から切り離された)データベースとして消費するのがオタクの本質だと説いた。ある意味、物語のポイントが見えてないから出てきた理論である。実際に東が原作を書いたフラクタルが大きな失敗作となったのはよく知られる。
海燕の周囲の人間関係を見ても、分析屋が多い印象がある。東浩紀や有村さんのようにデータベース消費、つまりオカズとしてオタク作品を求めている人間とはあまり交流していない。
データベース消費のオタクは、まさに消費者であることが望ましいのだろう。有村さんは作り手を目指さずに、普通に東大を卒業して公務員でもやりながらアニメグッズをたくさん買っていればよかった。
もはや人類愛の時代は終わったのである。誰もが手を繋げるという共産主義は破綻した。共産主義の根底にあったのは、高知能と低知能の断絶を埋めることである。高知能が低知能に慈悲を持ち善導するということなのだ。これが破綻したのは言うまでもない。高知能が低知能に人類愛を注ぐというのは、それこそ傲慢なのだ。知性の違いによる断絶は避けられないのだから、埋める必要がないし、断絶したままでいいのである。

世界はグローバル化されており、あらゆる格差が世界に根を張り広がっている。かつて知能指数を問うのはタブーであり、現在でもそれはそうなのだが、そろそろ言うべきなのだろう。知能の格差による断絶というのは覆い隠せない。

「あいつはコミュ力がない」と気軽に言うのが自由なら、知能指数100未満を名指しすることも自由になるべきである。現時点ではそうなっていない。「あいつは知能指数100未満」と指摘しようものなら、重大な人権侵害という扱いになる。知能指数だけタブーだというのでは、低い方低い方へ流れていくだけである。

グローバル化した社会の中で、本当に必要とされているのは知性なのである。そして高い知性を持つ者は、低知能に配慮しないことが必要だ。知能の格差を埋めようという意図はすべて悲惨な結末に終わる。鳩山由紀夫が救いようがないくらいにアホだったのは、人類愛に満ちていたからである。知性の排他性を否定しようとしたから失敗に終わったのである。苛烈なデスゲームが行われ人間が蹂躙され、それがさらに加速するグローバル化の中で、知性でサバイブしようとせず、普遍的な人類愛を説いたから、箍が外れたような馬鹿が出来上がったのである。愛は満遍なく広がりはしない。もはや万人を救う物語はないのである。
最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
Google Adsense
RSSフィード
プロフィール

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katjauk■mail.goo.ne.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング