認識消滅2
質問にもあったように、通常人間はお金のある人や地位・名声のある人と交わりたいと考える。しかし仮にお金があったとしても、芥川龍之介の「杜子春」のように、お金が無くなれば周囲は通常手の平を返すものである。地位・名声があったとしても同様に、状況が少し変われば周囲は手の平返しをする。これは小生自身、アレフでも身を持って体験したことである。
参議院選が告示になった。オウムとも因縁がある舛添要一参議院議員は、先月この選挙の不出馬・政界引退を決めた。舛添議員は、自民在籍時には、党の看板的存在であり、総理総裁候補にもあがった人物である。しかし自民離党後は鳴かず飛ばずで今回の引退。芸能界を見ても、つい先頃まではテレビのレギュラーだったような人物が、不祥事その他で水に落ちた犬のように叩かれる。
地位名声などというものは、本人の属性と言うより、借り物の張りぼてにすぎない。それにしても昨今の張りぼては、余りにも表面のきらびやかさと裏面のギャップが激しい。小生には、社会が地位・名声・お金を基準にした生き残りゲームでもしているかのように映る。この生き残りゲームは、多数の復活不能な敗者を量産しつづけている。
小生は、そのような一見華やかな張りぼてよりも、復活不能とも思える人生の泥沼に沈んだように見える「駄石」のような存在に関心がある。張りぼてはすぐに化けの皮が剥がれる。しかし「駄石」と思える存在も、しっかりと磨けば宝石のように輝き出す「貴石」があったりする。いや、全ての存在に「仏性」が宿っているという仏教理論から言えば、どのような「駄石」であっても、磨き方次第で「貴石」に変わる筈である。問題は磨き方。
この「駄石」を「貴石」に変えるというのが、小生の「認識の消滅」「認識の変容」である。具体的には、「人生もうダメだ」と思ったような人達と関わり、その人生を再生させるということ。
これはある意味小生にとって、人生の練習問題となる。小生自身が経験していない苦しみの人生を模擬的に経験する。もしその人生を再生させることができれば、将来小生が同じような苦しみに陥ることもない筈である。仮にそうなったとしても、再生は容易な筈である。つまり、生きるということをコントロールする能力。
何にしろ、一見「駄石」に思える自称「人生の敗者」は、毎日大量生産中。やろうと思えばいくらでも仕事はあるし、これぞ世界の成長産業だと思っている。しかもほとんどの人は手を付けない領域なので、市場独占というか。
「人の行く裏に道あり花の山. 人の行く裏に道あり花の山」
とまあ、質問者には以上のような内容を30分位話したように記憶している。質問者は、ある程度仏教理論を知っていたようだったので、上記のような話に至った。質問者の仏教に対する理解を評価すると共に、記事ネタになったので感謝。
普通なら「貧困ビジネスで金儲け」としか見えないかも知れない。勿論、ある程度金が回らなければ、このような小生の活動が回らないのも事実である。小生は、炊き出し等のボランティア団体の人達が、生活困窮者の世話をすることで、ひたすら責任ばかり負うことになり、クビが回らないような事情も垣間見てきた。やっている当人達は、それが目標だし満足しているようなので、それはそれで良いだろう。しかし小生は、支援対象の生活困窮者達をスポイルさせる面について快く思っていない。そこでトータル的に見て、発展的になるような具体的実践を構築しようとしている次第。
ちょっと短いけど今日はこれだけ。
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